『ポセイドン』:2006、アメリカ
大晦日、豪華客船ポセイドン号は北大西洋を航海していた。クリスチャンは恋人ジェニファーと客室いたが、彼女の父ラムジーが来たため、慌てて離れる。ジェニファーは父の干渉に苛立ち、部屋を出て行く。賭博師ディランは、エレナという女性とぶつかり、調理場の位置を尋ねられる。調理場に行ったエレナは、ウエイターのヴァレンタインに「ずっと部屋にいても退屈」と愚痴をこぼす。ヴァレンティンは、エレナを密航させていた。バレたらクビになるため、ヴァレンタインは焦った。
夜、乗客はダンスホールに集まり、ブラッドフォード船長の挨拶でパーティーが始まる。歌手グロリアがステージに登場し、バンドの演奏で歌い始めた。ラムジーやディラン、ラッキー・ラリーといった面々は、カジノでカードに興じている。ラムジーはディランと1対1の勝負を始めるが、ジェニファーに意地悪で持ち札を言われてしまった。
ジェニファーはクリスチャンと共に、ディスコに向かった。ディランは、シングルマザーのマギーと息子のコナーに出会った。建築家のネルソンは仲間たちに、妻から電話で別れ話を切り出されたことを打ち明けた。新年が訪れ、ダンスホールでは乗客たちが盛り上がる。そんな中、ネルソンは喧騒を離れてデッキに出た。生きる意欲を失った彼は、海に飛び込もうとしていた。
その時、ブリッジでは一等航海士レイノルズが異変を感じ取っていた。異常波浪に気付いた彼は慌てて面舵を切らせるが、既に遅かった。ポセイドン号は激しい揺れに見舞われ、転覆した。ディスコでは火災が発生し、照明が消えた。船は逆さまになり、大勢の犠牲者が出た。衝撃が収まり、船長は「救難信号が出ているので、ここに留まって助けを待っていれば安全だ」と告げた。
ディランの不審な行動に気付いたコナーは、声を掛けた。ディランは船長の言葉に従わず、船底から外に出るつもりだと語った。ラムジーも船長に逆らい、娘を捜すためディスコへ向かうと決めた。ネルソンは建築家の見地から、船長の安全宣言に懐疑的だった。ラムジーはディランに、共に協力し合おうと持ち掛けた。だが、他人のことなどどうでもいいディランは、即座に断った。
ラムジーは近くにいたヴァレンティンを見つけ、「乗務員出口に案内してくれたら報酬を払う」と持ち掛けた。ラムジーはディランに、改めて協力を持ち掛けた。ディランは承諾し、さらにマギー、コナー、ネルソンも彼らに付いていくことにした。ディランたちが出て行った後、船長はダンスホールの防水扉を閉じた。一方、ディスコではクリスチャンが瓦礫に足を挟まれて動けなくなっており、ジェニファーとエレナが救出を試みていた。
ディランたちは業務用エレベーターシャフトを開き、その向こう側にある別の通路に移ろうとする。順番に通路へ渡っていくが、ネルソンとヴァレンティンが宙吊りになってしまう。ネルソンはディランから「振り落とせ、2人とも死ぬぞ」と言われ、足にしがみ付いていたヴァレンティンを蹴り落とした。ディスコではエレナがラッキー・ラリーを発見し、クリスチャン救出に手を借りた。ようやく瓦礫からクリスチャンが脱出したところに、デイランたちがやって来た。
ネルソンはエレナに声を掛け、彼女がニューヨークで入院している弟に会いに行くこと、クラブで出会った親切な人に密航させてもらったことを聞かされた。一行は吹き抜けとなっている場所を渡り、反対側へ移ろうとする。だが、悪態をついていたラッキー・ラリーは、突然の落下物によって死亡した。下へ戻ろうと提案するラムジーに、ジェニファーは「クリスチャンと離れない」と反発し、彼から求婚されたことを明かした。ディランは泳いで反対側へ渡り、臨時のロープウェイを作ってラムジーたちを渡らせた。
ダンスホールには大水が流れ込み、残っていた人々は飲み込まれて死亡した。ディランたちのいる場所も浸水が始まっており、彼らはダクトから垂直のシャフトへと進む。何とかシャフトを脱出した一行は、バラストタンクに入った。圧力バルブを抜くには、タンクを水で満たす必要があった。溺れ死ぬ危険もあるが、一行は水を入れる賭けに出た。ディランたちはタンクから脱出するが、泳いで進む途中でエレナが死んだ。犠牲者を出しながらも、一行は船からの脱出を目指して先へと進んでいく…。監督はウォルフガング・ペーターゼン、原作はポール・ギャリコ、脚本はマーク・プロトセヴィッチ、製作はウォルフガング・ペーターゼン&ダンカン・ヘンダーソン&マイク・フレイス&アキヴァ・ゴールズマン、共同製作はトッド・アーノウ&キンバリー・ミラー&クリス・ブリッグス、製作総指揮はケヴィン・バーンズ&ジョン・ジャシュニ&シーラ・アレン&ベンジャミン・ウェイスブレン、撮影はジョン・シール、編集はピーター・ホーネス、美術はウィリアム・サンデル、衣装はエリカ・エデル・フィリップス、視覚効果監修はボイド・シャーミス、音楽はクラウス・バデルト、音楽監修はモーリーン・クロウ。
出演はジョシュ・ルーカス、カート・ラッセル、リチャード・ドレイファス、アンドレ・ブラウアー、エミー・ロッサム、ジャシンダ・バレット、マイク・ヴォーゲル、ミア・マエストロ、ケヴィン・ディロン、フレディー・ロドリゲス、ジミー・ベネット、ステイシー・ファーガソン、カーク・B・R・ウォーラー、ケリー・マクネア、ガブリエル・ジャレット、デヴィッド・レイヴァース、ゴードン・トムソン、ジャン・マンロー、キャロライン・ラガーフェルト、ジェシー・ヘネケ、キンバリー・パターソン他。
1972年の映画『ポセイドン・アドベンチャー』をリメイクした作品。
ただし登場キャラクターは全く別物になっているし、ストーリー展開も大幅に違う。「豪華客船が沈没して逆さまになり、数名が脱出を試みて上へ進んでいく」という大枠だけを踏襲し、前作とは全くの別物として作っている。
その脚本を担当したのは『ザ・セル』のマーク・プロトセヴィッチ。
監督は『U・ボート』『パーフェクト ストーム』のウォルフガング・ペーターゼン。ディランをジョシュ・ルーカス、ラムジーをカート・ラッセル、ネルソンをリチャード・ドレイファス、船長をアンドレ・ブラウアー、ジェニファーをエミー・ロッサム、マギーをジャシンダ・バレット、クリスチャンをマイク・ヴォーゲル、エレナをミア・マエストロ、ラッキー・ラリーをケヴィン・ディロン、ヴァレンタインをフレディー・ロドリゲス、コナーをジミー・ベネット、グロリアをブラック・アイド・ピーズのファーギー(ステイシー・ファーガソン名義)が演じている。
2005年に、テレビ映画で『ポセイドン・アドベンチャー』はリメイクされている(そちらも内容は大幅に異なっている)。
その作品を観賞した時にも感じたことだが、そもそも『ポセイドン・アドベンチャー』のリメイクという時点で、何をやろうとも完全に負け戦だと言っていい。
傑作だったオリジナル版は、古すぎて今になって見ると映像がチープだという印象も無いし、その気になれば簡単に観賞することが出来る。
そんな作品をリメイクする必要性を感じない。
CGは使っているが、それは「代用品」としての価値しか示していない。CGを使ったことで、オリジナル版には無い圧倒的な映像表現が見られるかというと、それほどのモノは感じない。マトモに勝負をしてもオリジナル版には敵わないと思ったのか、製作サイドは思い切った方法に出た。
オリジナル版が高く評価される最大の要因であろう人間ドラマの部分を、このリメイク版ではバッサリと削り落としたのだ。
次から次へとハプニングが登場人物を襲い、それを必死にクリアしていくという、脱出アクションに特化した内容に仕立て上げたのだ。序盤、客船が転覆するまでに、主要キャラクターの紹介をしている。で、それがネタ振りとなって、転覆の後に人間ドラマが展開していくのかと思いきや、それは全く無い。人間ドラマをバッサリとカットしているので、ネタ振りの意味が無い。ラムジーが元市長で投げ出す形で辞職しているとか、クリスチャンとジェニファーの恋愛関係とか、そんなのは全て意味が無いモノと化している。
ウォルフガング・ペーターゼン監督はリメイク版を撮るにあたって、非常事態での恐怖を体験させるようなリアルな映画にしようと考えたらしい。
人間ドラマを排除したのは、「どんな人物であろうと、どのような人間関係があろうと、大きなパニックが発生したら関係ねえ、そんなの全て吹っ飛んでしまうのだ」というリアリズムってことなんだろう。パニック映画の主人公というのは通常、ヒューマニズムに溢れており、人々を助けようとするヒーロー的な存在に設定されている。
だが、今回の主人公ディランは、自分が助かるためだけに行動を開始する。
他の面々も同様で、自分のことしか考えていない。だから、残っている人々に「ここは危険だから脱出を図ろう」と呼び掛けたりはしない。
それもまたリアリズムってことなんだろう。自分が逃げることしか考えていなかったディランだが、エレベーターシャフトのシーンでは、子供と女性を先に行かせるというヒロイズムを発揮する。
だが、その間に、彼の考え方が変化するようなドラマがあったわけではない。しかも、そんなヒロイズムを発揮した直後、今度はネルソンに「助かるためにヴァレンタインを振り落とせ」と非情な指示を出す。
それもまた、「たまに気まぐれでヒーロー的な行動も取るけど、パニック状態だから良く分からなくなっている」というリアリズムなんだろう。ヴァレンタインを蹴落とすよう指示した自分に対して、ディランが苦悩するようなことは無い。人殺しを指示しておいて、平然としている。周囲から、それを非難されるようなことも無い。
ネルソンもネルソンで、そのことで罪悪感を抱き続けたり、後になって今度は自分がエレナのために犠牲になったりするような展開も無い。
基本的に、人が死んでも「ただ死ぬ」というだけで、それ以上の意味は無い。
そこに盛り上がりや悲劇性など何も無いのも、やはり災害におけるリアリズムってことだろう。実際にパニックが起きた時、その人物の中身や人間関係が全て無意味になるかどうかはともかく、人間ドラマを削除するってのは、かなり思い切ったチャレンジと言える。
で、そのチャレンジ精神で作られた映画が面白いかって?
いや、クソほど面白くねえよ。
まあザックリと言うならば、テーマパークのアトラクションだね。
ただし観客は、他人がアトラクションに挑む姿を見せられているだけ。自分が体感できない分、本物のアトラクションほどの面白さは味わえない。
っていうかさ、リアリズムに徹するのかと思ったら、ディランが超人的な動きで活躍するという、リアリズムとは程遠いシーンがあるし。悪態をついた直後にラッキー・ラリーが死亡するとか、信号弾を打ち上げたら数秒後に救助ヘリが駆け付けるとか、変なところで陳腐な娯楽性は残しているし。
まあね、どんなアプローチでリメイクしても失敗したとは思うけど、これはヒドいわ。
第27回ゴールデン・ラズベリー賞
ノミネート:最低リメイク・盗作賞
第29回スティンカーズ最悪映画賞
ノミネート:【最悪のリメイク】部門