『ノートルダムの鐘』:1996、アメリカ

15世紀末のパリ。判事フロローはジプシー達を追い出そうと兵を動員し、女を死に追いやった。彼女が抱いていた赤ん坊を殺そうとしたフロローは司祭に諌められ、ノートルダム寺院の鐘楼に閉じ込めて育てることにした。
時が過ぎ、その赤ん坊カジモドは青年へと成長し、醜い容姿と優しい心を持った鐘つき男となった。道化の祭りの日、カジモドはフロローの言い付けを破って町へ出た。彼はジプシーの踊り子エスメラルダに出会い、彼女に惹かれる。
民衆の迫害を受けたカジモドはエスメラルダに助けられるが、フロローは警備隊長のフィーバス大尉に彼女の逮捕を命じる。エスメラルダに惹かれたフィーバスは横暴なフロローに逆らうが、命を狙われて重傷を負ってしまう。
エスメラルダに助けられたフィーバスを、カジモドは彼女の頼みで鐘楼に匿うことにした。しかしフロローの罠により、フィーバスとエスメラルダは捕まってしまう。鐘楼に監禁されたカジモドの眼下で、エスメラルダは処刑されることになった…。

監督はゲイリー・トゥルースデイル&カーク・ワイズ、原作はヴィクトル・ユーゴー、映画原案はタブ・マーフィー、脚本はタブ・マーフィー&アイリーン・メッキ&ジョナサン・ロバーツ&ボブ・ツディッカー&ノニ・ホワイト、製作はドン・ハーン、編集はエレン・ケネシア、美術監督はデヴィッド・ゲーツ、作詞はスティーヴン・シュワルツ、作曲&指揮はアラン・メンケン。
声の出演はトム・ハルス、デミ・ムーア、トニー・ジェイ、ケヴィン・クライン、ポール・キャンデル、ジェイソン・アレキサンダー、チャールズ・キンブロー、メアリー・ウィックス、デヴィッド・オグデン・ステアーズ、ヘイディ・モーレンハウアー他。


ヴィクトル・ユーゴーの小説を基にしたディズニーのアニメ映画。
原題を訳すと『ノートルダムのせむし男』になるのだが、「せむし男」が問題になると考えたのか、邦題は『ノートルダムの鐘』になった。
その時点で違うような気もするが、それはディズニーの責任ではない。

ディズニーアニメといえば、「子供にも楽しめる」「夢のある」作品ばかりが揃っている。
それこそが、ディズニーアニメがディズニーアニメたる証しとも言えるだろう。
しかし、この作品はあえてその証しに挑戦し、ジレンマを抱えることになった。

この作品は、扱いの難しいデリケートな問題を含んでいる。
「身体障害を持つ男が主人公」という問題だ。
しかしながらディズニーは、その部分はそれほど深く追及しようとせず、純粋なエンターテインメント映画として作り上げようとしている。
だが、「ならば何故この作品を選んだのか」という疑問は残る。

ただ単純にカジモドを孤独な男にすると、あまりに悲しすぎる。
それに対する配慮として、3体の石像を友人として与えている。
しかし、どれだけ明るく陽気に振る舞おうとも、所詮は石像だ。
そして石像が喋ったり動いたりするのは、カジモドの前でだけだ。
やはり、カジモドは孤独なのである。

基本的に、これは暗く悲しい物語だ。
しかし暗すぎると「夢のある」作品にならないので、どうにか明るさを持ち込もうとしている。しかし、そのことが作品の本質を見失う結果になっている。
本質とは、この作品が悲劇であるということだ。

だが、悲劇はディズニーアニメにふさわしくないと製作サイドは考えたのだろう。
だから、基本のストーリー展開だけは借りて来ても、悲劇として描くことは出来ない。
そのため、本質的には暗く沈んだ物語であるにも関わらず、しかしながら悲劇ではないという、困った状態に陥ってしまった。

普通に考えれば主人公とヒロインが結ばれるのがパターンであり、この作品であればカジモドとエスメラルダが最後に結ばれてハッピーエンドということになる。
しかし、実際にはエスメラルダはフィーバスと互いに惹かれ合い、結ばれる。
最初から、カジモドの恋愛が成就する可能性はゼロなのだ。

エスメラルダがカジモドに抱く感情は、同情とか、慈善の心とか、そういったものだ。
彼女の恋愛感情はずっとフィーバスに向けられており、それは揺れ動くことが無い。
カジモドとフィーバスと比較した時に、カジモドが勝てる要素はパワーぐらいしかない。
フィーバスは容姿も整っているし、性格も悪くない。
カジモドがエスメラルダと結ばれないのは、当然のことだろう。
しかし、そこには夢が無いことも確かだ。

考えてみれば、美男美女が結び付くというのはディズニーアニメのパターンだ。
いくら醜い男を主人公にしても、そのパターンだけは崩せなかったらしい。
そのことよって、カジモドは本当に主役なのかという問題も起きてくる。

カジモドは初めて惹かれた女性の愛を得ることが出来ない。
となれば、エスメラルダを助けるためにカジモドが命を落として物語を締めくくった方が、作品としての収まりは良くなるだろう。
だが、惨めな男を惨めなままにしておくと、「夢のあるディズニー」の作品にならない。

そこで物語は、「民衆には受け入れられました」というオチを用意する。
そうすることで、カジモドにもハッピーを与えようとする。
だが、それは物語の本筋から生まれた結果ではない。
悲劇を悲劇として描けないという、ディズニーアニメのジレンマがそこにある。

難しいテーマに挑むという意気込みは、素晴らしいかもしれない。
頑張ったという過程も、素晴らしいかもしれない。
しかし何より映画にとって大切なのは、結果である。
結果として試みが失敗していれば、挑戦する精神にも過程にも、何の意味も無い。


第17回ゴールデン・ラズベリー賞

ノミネート:ジョー・エスターハス最低脚本賞

 

*ポンコツ映画愛護協会