『ザ・ウォッチャー』:2000、アメリカ

FBI捜査官のジョエル・キャンベルは、ロサンゼルスの街で連続殺人鬼デヴィッド・アレン・グリフィンを追っていた。グリフィンにとって殺人は、キャンベルを自分に振り向かせるための行為だった。やがてグリフィンは、キャンベルが交際していた人妻リサを殺害した。キャンベルは事件の捜査から手を引き、シカゴへ転任した。
キャンベルはグリフィンに苦しめられた過去から解放されるため、精神分析医ポリーの元へ通った。しかし、グリフィンはシカゴにまでキャンベルを追い掛けて来た。彼はキャンベルと同じアパートに住む女性を殺害した。その3日前に、グリフィンは被害者の写真をキャンベルに送り付けていた。警察のホリス達は、捜査を開始する。
キャンベルは上司のイビーから、警察との共同捜査で指揮を執るよう依頼されるが、断った。そんな彼の元に、グリフィンから電話が掛かって来た。グリフィンはキャンベルに、「次の獲物の写真を送る。その女性を見つけるまでに一日の猶予を与えよう」と語る。キャンベルはイビーの元へ行き、捜査の指揮を引き受けることと告げる。
キャンベルの元に、1人の女性の写真が送られてきた。キャンベルは捜査チームのホリスやミッチ、ダイアナに指示を出す。彼らはマスコミの協力も得て、女性の身元確認と居場所の特定に全力を挙げる。しかし有力な情報は集まらず、時間ばかりが過ぎていく。ようやくキャンベル達は女性がフォトショップで働くエリーだと突き止めるが、彼女はグリフィンに殺されてしまう…。

監督はジョー・チャーバニック、原案はダーシー・メイヤーズ&デヴィッド・エリオット、脚本はデヴィッド・エリオット&クレイ・ エアーズ、製作はクリストファー・エバーツ&エリオット・ルウィット&ジェフ・ライス&ナイル・ニアミ、共同製作はスティーヴン・T ・プーリ&クラーク・ピーターソン&ジェレミー・ラッペン&デヴィッド・エリオット、製作総指揮はパトリック・チョイ&ポール・ ポンピアン、共同製作総指揮はジョー・D・クレデディオ、撮影はマイケル・チャップマン、編集はリチャード・ノード、美術は ブライアン・イーストウェル&マリア・カソ、衣装はジェイ・ハーレイ、音楽はマルコ・ベルトラミ。
出演はジェームズ・スペイダー、キアヌ・リーヴス、マリサ・トメイ、アーニー・ハドソン、クリス・エリス、ロバート・チッチーニ、 イヴォンヌ・ニアミ、ジェニファー・マクシェーン、ジーナ・アレキサンダー、レベッカ・ルイーズ・スミス、ジョー・シコラ、ジリアン ・ピーターソン、ミッシェル・ディマソ、アンドリュー・ローゼンバーグ、デヴィッド・パスケシ、デイナ・コズロフ、ブッチ・ ジェリニック、マリリン・ドッズ・フランク、レベッカ・アーサー他。


MTVの世界で活躍していたジョー・チャーバニックが、初めて監督を務めた映画。
キャンベルをジェームズ・スペイダー、グリフィンをキアヌ・リーヴス、ポリーをマリサ・トメイ、イビーをアーニー・ハドソン、ホリスをクリス・エリス、ミッチをロバート・チッチーニ、リサをイヴォンヌ・ニアミ、ダイアナをジェニファー・マクシェーンが演じている。
ジョー・チャーバニックは、かつてキアヌ・リーヴスが所属するロックバンド“ドッグスター”のMTVも手掛けていた。そこで繋がりを持ったキアヌは、チャーバニックが映画を撮る予定だと知った時、「じゃあゲスト出演してもいいよ」と軽く口約束をした。
その時点では、キアヌは短い出番のカメオ出演という心積もりだった。

ところがチャーバニック初監督作品の企画は、いつの間にかビッグ・バジェットに膨れ上がっていた。当初はチョイ役だったはずのキアヌの役割は、かなり大きな扱いへと変更されていた。
キアヌは降板したかったが(安いギャラで出演する約束だったので)、簡単に降りられない理由があった。それは、「チャーバニックの映画に出演する」という口約束の存在だ。
たかが口約束なのだから、それを破っても大して問題は無いと考えるかもしれない。しかし、ひょっとすると裁判沙汰になって、大金を支払うハメになるという危険性もあった。実際、キム・ベイシンガーが『ボクシング・ヘレナ』への出演約束を御破算にしたことで訴えられ、金を支払うよう命じる判決が出ているのだ。

そこでキアヌは自分の名前を宣伝で大きく扱わず、自分はプロモーション活動には協力しないという条件付きで、出演を承諾した。
そのように渋々ながらの出演なので、やる気が無いのは当然だ。
そう、この映画のキアヌは、完全に手抜きである。見た目からしてモッサリしていて全く冴えないが、それは「ホントは出たくなかったんだよ」という抵抗の姿勢である。
「嫌な仕事であろうと、承諾したからには一生懸命にやるべきだ」とキアヌを批判したくなる人もいるかもしれない。
しかし映画の出来映えを見ると、やる気を見せる方がバカバカしいんじゃないかと感じてしまう。何しろキアヌ、いきなりマヌケなダンスを踊らされるのだから、そりゃあ気持ちが乗っていけないのも理解できる。

最初から犯人の正体を明かしているので、ミステリーとしての面白さは無い。後は、犯罪者のキャラクターであったり、主人公が追い詰められていくサスペンスの妙であったり、そういう部分でアピールしていくしかない。
ところが、キアヌが手抜きをしているという以前の問題として、グリフィンという男がサイコ・キラーとして魅力を持っていない。
グリフィンの目的はキャンベルを振り向かせることであって、殺人そのものに快楽を覚えているわけではない。そうであるならば、女を捕まえた後に曲を掛けて踊ったり、気絶した相手を何度も蘇生させたりするのは意味が無い行為だろう。そんなことをしても、キャンベルが現場を見ているわけではないのだし。
設定と行動が一致していないんじゃないか。

グリフィンは、これまでの殺人で何の証拠も残していないのだから、かなり知的な男のはず。
ところが、映画が始まって以降の彼を見ている限り、行き当たりばったりで雑な行動が目立つ。殺人美学も感じないし、女性を手口も「留守を狙って部屋に潜入」という凡庸な方法。キアヌの投げやり芝居以前の問題として、冴えない奴なのだ。
キャンベルへの固執も「だから何がしたいの?」と思ってしまうし。

主人公にジェームズ・スペイダーを配しているのが、どうにも解せない。
グリフィンがキャンベルを追い求めているというのは、ホモセクシャルな匂いを感じさせる設定だ。ならばキアヌとの対比を考えて、線が細くてナヨッとしたスペイダーよりも、いかにもマッチョでタフガイな男優を配した方がいいんじゃないだろうか。
本来ならば、これはグリフィンとキャンベルの心理戦で引っ張っていくべき内容の作品だろう。ところが製作サイドも、それだけで引っ張るのは無理だと諦めていたのか、あるいは何も考えていなかっただけなのか、途中で雑なカーチェイスや爆発といった、アクションを持ち込んでいる。
それは完全に、「逃げ」の行為である。


第21回ゴールデン・ラズベリー賞

ノミネート:最低助演男優賞[キアヌ・リーヴス]

 

*ポンコツ映画愛護協会