『セント・エルモス・ファイアー』:1985、アメリカ
カービー、ビリー、ケヴィン、ジュールス、アレック、レスリー、ウェンディの7人は、名門ジョージタウン大学で仲間だった。そんな7人が卒業から4ヶ月後、顔を揃えることになった。ビリーとウェンディが交通事故を起こし、他の5人が病院に駆け付けたのだ。
事故の原因は、ビリーの飲酒運転だった。ビリーは妻フェリシアや子供がいたが、アレックに紹介された仕事は長続きしなかった。そんなビリーを愛するウェンディは、彼に金を与えている。ビリーは7人の学生時代からの溜まり場“セント・エルモス・バー”で、サックスを演奏している。バーでは、弁護士志望のカーボがウエイターをしている。
民主党のラングストン議員の下で働くアレックは、レスリーと同棲生活を送っている。早くレスリーと結婚したいアレックは、共和党のホッジ議員の元に移ることを決めた。銀行で働くジュールスは給料を前借りして散財し、部屋を飾り付ける。
カーボは病院に行った時、憧れていた先輩のデールに再会していた。デールにアタックすると宣言したカーボに、ケヴィンは愛など幻想だと告げる。そのケヴィンはジュールスから、「学生時代に自分を口説かなかったのは貴方だけ」と言われる。ジュールスはケヴィンがゲイだと思い込み、向かいの部屋に住むロンを紹介しようとする。
アレックはジュールスからSOSの電話を受け、深夜にホテルへ向かう。だが、彼女はドラッグを吸ってハイになっているだけだった。ウェンディは金持ちの娘だが、福祉の仕事に就いており、自立したいと考えている。彼女はビリーを自宅に招待するが、まだ処女だということを笑われ、「もう会わない方がいい」と告げる。
セント・エルモス・バーに7人が集まった。ウェンディは、親が結婚相手に勧めるホーウィーを連れて来た。アレックはケヴィンに、浮気相手のランジェリー・ショップの店員から、また連絡が来たことを話した。ジュールスは、銀行の頭取と不倫していることをレスリーに告げた。フェリシアが他の男と現れたため、ビリーは荒れた。
後日、ビリーはフェリシアから、前の恋人に結婚を申し込まれたことを知らされる。ビリーは酒をやめて仕事に就くと言うが、フェリシアから「やり直すなら今の内」と告げられる。カーボはデールに近付くために医者の勉強を始めていたが、彼女をモノにするには金持ちになる必要があると考え直し、大物実業家の下で働き始める。
カーボはデールを呼ぶために盛大なパーティーを開いたが、彼女は来なかった。デールの元に向かったカーボは、彼女が男と一緒にいるのを目撃する。パーティー会場で、アレックは勝手にレスリーとの結婚を発表する。しかしレスリーは、アレックの浮気を指摘する。アレックはケヴィンを殴り付けるが、彼が喋ったわけではなかった。
ケヴィンはレスリーに好きだったことを打ち明け、彼女とベッドを共にした。だが、そこにアレックが現れ、2人の関係を知られてしまう。ケヴィンはレスリーとの同棲を望んだが、レスリーは拒んだ。ジュールスは頭取に捨てられて銀行をクビになり、部屋に鍵を掛けて閉じ篭もってしまった。彼女を心配した6人が、マンションに集まった…。監督はジョエル・シューマッカー、脚本はジョエル・シューマッカー&カール・カーランダー、製作はローレン・シュラー、製作総指揮はネッド・タネン、撮影はスティーヴン・H・ブラム、編集はリチャード・マークス、美術はウィリアム・サンデル、衣装はスーザン・ベッカー、音楽はデヴィッド・フォスター。
出演はエミリオ・エステヴェス、ロブ・ロウ、アンドリュー・マッカーシー、デミ・ムーア、ジャド・ネルソン、アリー・シーディー、メア・ウィニンガム、マーティン・バルサム、アンディ・マクドウェル、ジョイス・ヴァン・パタン、ジェニー・ライト、ブレイク・クラーク、ジョン・カトラー、マシュー・ローレンス、ジーナ・ヘクト、アンナ・マリア・ホースフォード、パトリック・ウィニンガム他。
大学の同窓生7人の姿を描いた青春群像劇。
カーボをエミリオ・エステヴェス、ビリーをロブ・ロウ、ケヴィンをアンドリュー・マッカーシー、ジュールスをデミ・ムーア、アレックをジャド・ネルソン、レスリーをアリー・シーディー、ウェンディをメア・ウィニンガムが演じている。物語の先行きを見通すのは、それほど難しい作業ではない。例えば、デールに入れ込んで目標をコロコロと変えるカーボが、彼女との恋に破れることは目に見えている。ジュールスが大きなトラブルを抱え込むのも、簡単に予想できる。愛など幻想に過ぎないとクールに語るケヴィンに、中盤以降にロマンスが生じるのも分かりやすい。
ビリーがダメ男になっているのは、たぶん彼なりの理由があるんだろうが、映画を見ている限りは分からない。仕方の無い理由が見当たらないので、全く同情できない単なるダメ男だ。ジュールスにしても、同じことが言える。どうやら家庭に問題があるようなのだが、それについての描写は皆無に等しいので、単なる自業自得としか見えない。
みんな揃って、お世辞にも利口とは言えない。まあ、愚かな奴らである。それはもちろん若さゆえの愚かさなのだが、それを理解し、共感できるかどうかという部分で、この映画を見る人の若さを計る目安になるかもしれない。あるいは若くなくても、この当時(1980年代)に青春を過ごした人なら、当時にタイムスリップして共感しやすいのかもしれない。個人的には、ちょっと理解し難いシーンが色々と目に付く。例えば、ビリーが他の男と一緒にいるフェリシアに怒り、フェリシアもケンカ腰になる。でも、次の瞬間にはキスで決着。そのシーンまでにフェリシアの登場が無いから、この関係がワケ分からん。
一方的に女に惚れて、彼女の家に勝手に押し掛けるというストーカーまがいの行動を取るカーボ。しかし、その後で彼女に強引にキスをして、大喜びで立ち去るカーボの行動を良しとしている描写も、理解し難い(なぜかデールも笑って許してるし)。
アレックとケンカした後で、ケヴィンと寝たレスリーが、同棲を申し込まれて嫌悪感を露骨に示し、「あの頃のように、みんな友達でいたいだけ」と言うのも理解し難い。アレックともケヴィンともセックスしておいて「友達でいたい」と言われても、友達関係を壊しているのは、レスリーだからね。
その辺りは全て、1980年代風味ということなんだろうか。7人それぞれのドラマを描かなきゃいけないのだから、かなり大変だ。何しろ、例えばアレック&ケヴィン&レスリーの関係だけでも、充分に1本の映画が作れるもんね。で、時間が足りないせいなのか、それぞれの苦悩や葛藤する繊細な心理描写まで、手が回らなかったようだ。だから、「愚かな若者達」という表面上のモノしか見えてこない。
どうやら7人は、それぞれに壁にぶち当たり、最後は「それを乗り越えて前を向いて行こう」ということらしい。でもね、彼らの前に立ちはだかる壁の形や大きさ、そこでの若者達の姿が不鮮明なのに「乗り越えられるさ」と言われても、心が動かないのね。フジテレビのTVドラマ『愛という名のもとに』が、この映画を模倣しているのは有名な話だ。連続ドラマで模倣するのは、悪くない考えかもしれない。映画だと、どうしても7人もいる主要人物達の掘り下げが薄くなる。実際、この映画は107分という上映時間だが、隅々まで神経が行き届かず、かなり駆け足で進めているという印象がある。
その点、連続ドラマなら時間に余裕があるので、それぞれの人物のストーリーを丹念に追うことが出来る。7人それぞれのドラマを、もっと充実させることが可能になる。
だから連続ドラマというのは、悪くない選択だ。
それが正式なリメイク版ならね。
第6回ゴールデン・ラズベリー賞
受賞:最低助演男優賞[ロブ・ロウ]