『ジキル&ハイド』:1996、アメリカ
19世紀末のロンドン。メアリー・ライリーは、医師であるジキル博士の屋敷でメイドとして働き始めた。ジキル博士の優しいに、メアリーは好感を抱く。彼女はジキルから腕や首筋の傷について尋ねられ、かつて酒に溺れた父に折檻を受けたことを語った。
ジキル博士は執事のプールやメイド達に、研究が最終段階に来ており、ハイドという助手を雇うことを告げた。そしてジキルは、ハイドに対しても自分と同じように敬意を払って対応するよう指示した。だが、しばらくの間、誰もハイドの顔を見なかった。
メアリーはジキルから、娼館を営むファラデー夫人に手紙を届けるよう頼まれた。ファラデー夫人と会ったメアリーは、ジキルがハイドに娼館を使わせるため、金を払っていることを知る。数日後、メアリーはジキルから、娼館に金を届けるよう頼まれる。メアリーはファラデー夫人から、ハイドの乱行で血だらけになった部屋を見せられる。
ある日、ハイドがメアリーの前に姿を現した。ハイドは、メアリーがジキルにしか話していない父親のことを知っていた。後日、亡くなった母の葬儀の手配に出掛けたメアリーは、警察から逃亡しているハイドと出会う。屋敷に戻ったメアリーは、ハイドがダンヴァース議員を殺害したことを知るが、彼と会ったことを警察には話さなかった…。監督はスティーヴン・フリアーズ、原作はヴァレリー・マーティン、脚本はクリストファー・ハンプトン、製作はネッド・タネン&ナンシー・グラハム・タネン&ノーマ・ヘイマン、共同製作はイェーンIain・スミス、製作総指揮はリン・プレシェット、撮影はフィリップ・ルースロ、編集はレスリー・ウォーカー、美術はスチュアート・クレイグ、衣装はコンソラータ・ボイル、音楽はジョージ・フェントン。
出演はジュリア・ロバーツ、ジョン・マルコヴィッチ、グレン・クローズ、ジョージ・コール、マイケル・ガンボン、キャシー・スタッフ、マイケル・スタッフ、ブロナー・ギャラガー、リンダ・バセット、ヘンリー・グッドマン、シアラン・ハインズ、サーシャ・ハナウ、モヤ・ブレイディー、エマ・グリフィス・マリン、デヴィッド・ロス、ティム・バーロウ、イザベラ・マーシュ、ウェンディ・ノッティンガム他。
スティーヴンソンの小説『ジキル博士とハイド氏』をメイドの視点から描いたヴァレリー・マーティンの小説『メアリー・ライリー』を基にした作品。
メアリーをジュリア・ロバーツ、ジキル&ハイドをジョン・マルコヴィッチ、ファラデーをグレン・クローズ、プールをジョージ・コール、メアリーの父親をマイケル・ガンボンが演じている。そもそも、『ジキル博士とハイド氏』をメイドの視点から描く意味が分からない。
いや、もちろん、何度も映画化された古典に新鮮味を出すという意味はあるんだろう。
しかし、メイドの視点で描いても、そんな新解釈には何の意味も無いと思うのだ。この話で重要なのは、ジキル&ハイドの二重人格であり、それにジキル氏が気付いているということだ。つまり、ジキルがハイドになることへの不安や苦悩を抱えている、それが重要な要素のはずなのだ。
しかし、メアリーの視点で描くことによって、それが全く伝わらない。メアリーの視点で描くことにメリットがあるとすれば、それはジキルとハイドが同一人物だということを、終盤まで隠しておけるということだ。
しかし、これだけ有名な作品なので、観客は最初から2人が同一人物だと知っている。
だから、隠す意味が無い。ジキルの心理ドラマが無い分、メアリーに父との関係を語らせたりして、彼女の心理ドラマで補おうとしているのかもしれない。
しかし、メアリーが父のことで悩もうが、ジキルに父性を感じようが、そんなことはジキル&ハイドには何の影響も与えない。ジキルとハイドは、少なくとも最初の内は、全く別の人格でなければならないはずだ。
しかし、ジキルが登場した時点で、どこか怪しい匂いが漂っている。
その暗さが不気味さに結び付いてしまい、とてもじゃないが、好感の持てる紳士には見えない。
それと、ハイドよりもメアリーの父親の方が不気味に見えるのは、どういうことなのか。「これはジョン・マルコヴィッチの芝居を見る作品だ」という考え方もあるだろう。しかし、彼のショーケースとして考えるにしても、やはりメアリーが主人公である意味が無い。
しかも、せっかくマルコヴィッチがメイクや髪型の違いだけで2人の人物を演じ分けているのに、最後になって特撮を使ってしまい、それまでのことを全て台無しにする始末。
第17回ゴールデン・ラズベリー賞
ノミネート:最低監督賞[スティーヴン・フリアーズ]
ノミネート:最低主演女優賞[ジュリア・ロバーツ]
第19回スティンカーズ最悪映画賞
ノミネート:【最悪の主演女優】部門[ジュリア・ロバーツ]