『グリンチ』:2000、アメリカ

“フー”と呼ばれる人々が暮らす街フーヴィル。この街の人々は、世界で最もクリスマスを愛している。今年もクリスマスの季節が近付き、人々は準備に忙しい。少女シンディー・ルー・フーは、郵便局長の父ルーと共にプレゼントを選んでいる。しかしシンディーは、どうして人々がこれほどまでにクリスマスに夢中になるのかと不思議に思っている。
同じ頃、シンディーの2人の兄ドリューとスチュは、ガールフレンドと共にクランビット山に登っていた。クランビット山には、全身を緑色の毛で覆われたグリンチが暮らしている。ドリューとスチュは肝試し感覚で、グリンチの家のドアをノックする。次の瞬間、2人はグリンチが用意した仕掛けに襲われ、慌てて逃げ出した。
街に戻ったドリュー達はルーとシンディーの前に現れ、「グリンチにやられた」と大声で叫ぶ。その声を耳にしたメイフー市長は、「今年は街の千年記念の大切なクリスマスだ。グリンチを刺激するな」とルーに注意する。シンディーは、なぜグリンチの話をしないのかと父に尋ねた。しかしルーは「グリンチはクリスマスが嫌いな奴だ」と言うだけで、詳しいことを話そうとしない。
シンディーは父の手伝いで郵便局の奥へ行き、手紙の仕分けをする。だが、そこにはフー達への嫌がらせに精を出すグリンチがいた。グリンチに脅かされたシンディーは、区分けマシンに転落してしまう。立ち去ろうとしたグリンチだが、飼い犬マックスに噛み付かれる。仕方なく、グリンチはシンディーをマシンから救い出した。
シンディーが帰宅すると、母ベティーは躍起になって家の飾り付けをしている。ベティーは隣に住むマーサ・メイへの対抗心を燃やし、今年こそ勝つと意気込んでいる。シンディーはテープ・レコーダーを持ち出し、近所の人々にグリンチについて聞いて回ることにした。シンディーは、グリンチが恐ろしいモンスターではなく、優しい心の持ち主ではないかと考えていた。
シンディーは近所の人々から、グリンチの過去を聞く。クリスマス・イヴに誕生したグリンチは、産まれた直後にサンタクロースの絵皿をボリボリと食べてしまった。小学生になったグリンチは、同級生マーサ・メイを好きになった。マーサ・メイが「クリスマスが大好き」と言うのを聞き、グリンチは初めてクリスマスを祝う気になった。
学校でのプレゼント交換の日、グリンチはマーサへのプレゼントを用意した。だが、身だしなみを整えようとしたグリンチは、髭剃りで顔中を傷だらけにしてしまった。その顔を見たクラスメイトから笑いものにされたグリンチは、「クリスマスは大嫌いだ」と言って大暴れする。それ以来、彼はクランビット山に篭もり、飼い犬マックスと共に暮らしているのだ。
街の広場に人々が集まり、市長はフー祭りに関するスピーチをする。今年は千年記念ということで、フー祭りの王を決定することになっている。シンディーは手を挙げ、大声でグリンチを推薦した。自分が王の座を狙っていた市長は、法典を盾に却下しようとする。だが、逆にシンディーは法典の言葉を利用し、グリンチを推薦する正当性を主張した。集まった人々もシンディーに賛同するが、市長は「グリンチが山を下りるはずがない。祭りに来なければ自分が王になる」と告げる。
シンディーはクランビット山へ行き、グリンチに祭りの招待状を渡した。最初は拒絶したグリンチだが、祭りへ行くことにした。グリンチは人々の歓迎を受け、行事に参加して盛り上がる。しかし市長がプレゼントとして髭剃りを出したため、グリンチの脳裏に嫌な過去が蘇る。さらに市長はグリンチの目の前で、マーサ・メイに高価な宝石と高級車をプレゼントして求婚する。グリンチは市長の髪を剃り上げ、ツリーを燃やし、人々は恐怖で逃げ惑う。
さんざん大暴れしたグリンチは、クランビット山へ戻って人々の様子を観察する。しかし皆が全く沈むことなくクリスマスを祝おうとするので、グリンチは気に食わない。苛立ちを募らせたグリンチは、クリスマスを阻止するための作戦を練った。彼はサンタクロースの格好になって深夜に街へ行き、プレゼントやら御馳走やらツリーやら暖炉の薪やら、手当たり次第に盗んで回る…。

監督はロン・ハワード、原作はDr.スース、脚本はジェフリー・プライス&ピーター・S・シーマン、製作はブライアン・グレイザー&ロン・ハワード、製作協力はアルドリック・ラオリ・ポーター&ルイーザ・ヴェリス&デヴィッド・ウォマーク、製作総指揮はトッド・ハロウェル、撮影はドン・ピーターマン、編集はダン・ハンリー&マイク・ヒル、美術はマイケル・コレンブリス、衣装はリタ・ライアック、特殊メイクアップ効果はリック・ベイカー、音楽はジェームズ・ホーナー、音楽監修はボニー・グリーンバーグ。
主演はジム・キャリー、共演はテイラー・モムセン、ジェフリー・タンバー、クリスティーン・バランスキー、ビル・アーウィン、モリー・シャノン、クリント・ハワード、ジョシュ・ライアン・エヴァンス、ミンディー・スターリング、レイチェル・ウィンフリー、ランス・ハワード、ジェレミー・ハワード、T・J・サイン、レイシー・コール、ナジャ・ピオニッラ、ジム・メスキメン他。
ナレーションはアンソニー・ホプキンス。


児童文学作家Dr.スースのベストセラー『グリンチはどうやってクリスマスを盗んだか』を基にした作品。
原作は1957年に発表されて以来、アメリカでは長く読み継がれている古典だ。
しかし日本では、ほとんど知られていない。当然の如く、私も読んだことはない。まあ大雑把に言えば妖精版の『クリスマス・キャロル』みたいなモンでしょ、と適当に思っているんだが。

グリンチをジム・キャリー、シンディーをテイラー・モムセン、メイフー市長をジェフリー・タンバー、マーサ・メイをクリスティーン・バランスキー、ルーをビル・アーウィン、ベティー・ルーをモリー・シャノンが演じている。
グリンチのメイクアップを担当しているのは、リック・ベイカーの工房“シノベーション・スタジオ”のチーフ(当時)を務める辻一弘。苗字が違っているが、『妖怪ハンター ヒルコ』や『ゼイラム』などに参加していた佐和一弘と同一人物のはず。

もう監督がロン・ハワードに決定した時点で、ほぼ失敗が約束されていたのではないかと思う。ロン・ハワードには、この題材を扱うのは荷が重過ぎるのではないかと。当初はティム・バートンが監督を務める予定だったらしいんだが、心の底から残念だ。
ようは「度を越えた嫌がらせが好きな偏屈ジジイが心を洗われて改心する」という、やっぱり大雑把に言えば『クリスマス・キャロル』みたいな話なんだが、これって完全に子供向けのハート・ウォーミング全開物語でホントに良かったのかと。
グリンチのキャラやフーヴィルのセットを見る限り、もっとダーク・ファンタジー寄りの内容にした方が面白くなったような気がしてしまうのよね。切なさを排した『シザーハンズ』か、あるいは少し落ち着きを持たせた『ビートルジュース』のような作品になるべきではなかったのかと。
っていうか、だからティム・バートンに監督してほしかったんだよな。

全く毒々しさの無い健全まっしぐらな内容かというと、そういうわけでもない。グリンチが毒の部分を一手に引き受ける。ただ、その毒が浄化される話なので、グリンチ以外の人々は全て善良にしてある。まあ市長だけは悪者になってるが、毒は無い。マーサ・メイもタカビーな設定だが、最終的にはグリンチを選ぶし、毒っぽさは見当たらない。
グリンチの過去が多くの人々によって語られるという場面で、5分ほどの時間を費やしている。わざわざ「語っていることと事実が違う」という仕掛けまで用意しているが、ここは全く必要の無いシーンだ。説明したいのなら、もっと簡潔にやるべきだし、もっと後でいい。なぜ早い段階で、グリンチの同情票を集めるような回想シーンを入れるのかと。
というか、そもそもグリンチの過去に関する説明なんて、全く要らないと思う。「昔はいい奴だった、クリスマスが好きだった」という設定など不要だ。なぜなら、これは「かつての心を取り戻す」という仕掛けの物語ではないからだ。心の捻じ曲がった奴が改心する話なのだから、過去がどうだったかなんて説明するのは余計だ。

この映画で最も引っ掛かるのは、「グリンチをどういう扱いにしたいのか」ということだ。
話の導入部では、グリンチはフーヴィルの人々から恐れられており、アンタッチャブルな存在のように表現される。だからルーはシンディーに何も語ろうとしない。だが、シンディーが近所に聞き込みに回ると、人々は普通にグリンチのことを話す。そこには、グリンチを恐れている気配は微塵も無い。
シンディーが祭りの王にグリンチを推薦すると、人々は拍手で賛同する。フーヴィルの人々はグリンチの嫌がらせを受けていたはずだし、少なくともルーの子供達は怖がっていたはずだ。そこで人々がグリンチを受け入れるような態度を取ると、最初のドリュー達の態度はフーヴィル市民の意見の代表ではなく例外的なものということになってしまう。それは作りとして、いびつだろう。

そこは「シンディー以外のフーヴィル市民はグリンチを恐れており、王の推薦にも拒否反応を示す。それが次第に、あるいは何か大きな出来事がきっかけでグリンチを受け入れるようになっていく」という作りにすべきではなかったかと。
ただ、いざ祭りにグリンチが来るとフーヴィル市民は怖がっているし、でもすぐに歓迎しているし、だけど事情を知っているはずなのに市長が髭剃りを渡す場面で笑ってるし、よう分からんな、こいつら。

グリンチはシンディーが招待状を持って来る段階で、もう乗り気になっている。一応は断っているが、「スケジュールが一杯」と言いつつ「予定をズラせばいい」と考えるし、「何を着ていけばいいんだ」と迷う。それは、明らかにクリスマスを楽しんでいる態度に見える。そりゃ早すぎるよ。
招待された段階では、行く気になったとしても、それは「嫌がらせを仕掛けてやろう」と企んでのことにしておけよ。クリスマスを楽しんでいる感じが出ているのはマズいだろうに。

いざ祭りに行っても、グリンチはフーヴィルの人々のペースに巻き込まれ、ご馳走を次々に口に放り込まれたり、積極的に競技に参加したりと、やはりノリノリである。ようやく市長が髭剃りを渡す辺りで、その態度が変わる。
だが、小学生の回想シーンでも、市長がグリンチを笑いものにしていた。これだと、グリンチが幼少時にクリスマスを嫌いになったのも、改めてクリスマスを嫌いになったのも、全て市長が原因に見える。そこは原因を個人に押し付ける形にするのは違うんじゃねえの。

たぶん、最初から「グリンチがサンタの格好で一切合財を盗んで回る」という絵だけは浮かんでいて、どうやってそこへ繋いでいくかという計算をしたんじゃないかと推測できる。サンタの格好になる必然性がゼロだという問題はさておき、そこまでの話はジム・キャリーの力技に頼りまくりだし、盗んで回る場面も特に何があるわけでもなく、やはりジム・キャリーに頼りまくり。
結局、「クリスマスはご馳走やプレゼントが無くても素晴らしいものだと皆に伝えるため、シンディーがグリンチを利用した」という風な解釈になっているんだが(シンディーに自覚は無い)、そこへ持って行くなら、それまでに「フーヴィル市民が物品を重要視している」と強く意識付けておく必要があったはず。その意識付けは、そんなに強くないぞ。

あと、改心したグリンチが盗んだ物を持って来るんだが、「やっぱプレゼントも御馳走もあった方がいいね」という結論になっちゃったら、なんか違うんじゃねえか。
っていうか、シンディーやフーヴィルの人々と触れ合うことによって、グリンチが改心したという風に見えないんだよな。フーヴィルの人々は普通に行動していて、それを見ていたグリンチが自発的に改心したという風に見える。
結局はグリンチだけが頑張っていて、シンディーとの関係性が薄いんだよなあ。ここの交流は、もっと充実していなきゃマズかったんじゃないの。


第21回ゴールデン・ラズベリー賞

ノミネート:最低最低リメイク・続編
ノミネート:最低脚本賞


第20回スティンカーズ最悪映画賞

ノミネート:【最悪の助演女優】部門[テイラー・モムセン]
ノミネート:【最悪のヘアスタイル】部門[テイラー・モムセン]
ノミネート:【最悪の歌曲・歌唱】部門
「Christmas, Why Can't I Find You?」(テイラー・モムセン)

 

*ポンコツ映画愛護協会