『天国の門』:1980、アメリカ
1870年、ハーバード大学の卒業式。会場に卒業生のジム・エイヴリルやビル・アーヴァインたちが集まる中で、総長が祝辞を語った。卒業生代表として壇上に立ったビルは、ジョークを交えながら堂々とした態度で演説した。20年後、ワイオミング州では東ヨーロッパから多くの移民が押し寄せ、以前から生活しているアングロ・サクソン系の住民たちは不満を抱くようになっていた。移民による家畜泥棒の事件も増加しており、牧場主たちの怒りは高まっていた。
汽車でキャスパーに降り立った保安官のジムは、鉄道員として働く旧友のカリーと再会した。ジムはカリーに、夫と子供を射殺した移民の女を護送してきたことを話す。カリーはジムに移民の牛泥棒が殺されたことを語り、「ここに来る移民は、家族のために盗みを働いては殺されていく」と嘆いた。汽車を降りて来る移民たちを見ながら、カリーは「みんな土地の所有許可を待ってる。どんな目に遭うかも知らないで。飢えで死ぬ者も多いのに」と漏らした。
商店に入ったジムは、家畜業者協会の協会員を名乗るモリソンという男が散弾銃を購入する様子を目にした。店の外で移民の女が殴られている現場を目撃したジムは、助けに入って暴漢の男を追い払った。カリーがジムの元へ来て、モリソンとダドリーという2人組が協会に雇われていること、協会が殺し屋を集めていることを知らせた。そこでジェームズは、協会の様子を見に行ってみることにした。
協会は評議会を開き、牧場主のビルも参加する。リーダーのフランク・カントンは、牛泥棒の移民が裁判では1人しか有罪になっていないこと、しかも軽微な罰で済んでいることを憎々しげに語る。その上でフランクは、牛泥棒を始末するために50人の殺し屋を雇ったことを話し、「まずはジョンソン郡の保安官を追放する。裁判所も我々が乗っ取る。処刑すべき牛泥棒125名の名簿も作った」と語った。
ビルは大量虐殺で世間を敵に回すことを危惧し、彼の提案に反対した。するとフランクは、知事が賛同していること、議会と大統領の支持を約束してくれたことを語る。協会員が次々に賛成を表明していく様子を見て、ビルは会合の場を後にした。ジムと遭遇したビルは、移民を皆殺しにする決議が通ったことを教えた。会合を終えた協会員たちの元へ赴いたジムは、「令状も無しに、ジョンソン郡では名簿の誰一人として手出しはさせない」と通告した。
ジョンソン郡スウィートウォーター。ジムは移民たちが闘鶏で盛り上がっている酒場を訪れ、主人のジョンに協会の計画を教えた。ジムは娼館の女将であるエラの元を訪れ、熱烈なキスを交わした。ジムは彼女の誕生日プレゼントとして、馬車を用意していた。ジムはエラに、「ワイオミングから引っ越そう。この州は戦争になる。ここは危険だ」と持ち掛ける。だが、エラは迷いもせずに「嫌よ」と断り、「危険なのは貴方の方かも」と口にした。
協会に雇われた殺し屋のネイトは、エラに好意を寄せて娼館に通っている。彼はジムとエラの関係についても知っていた。ネイトはエラに頼まれ、泥酔して娼館で眠り込んでいるジムを家まで連れ帰った。ネイトが牛泥棒を働いた移民のコバッチを殺害したことは、広く人々に知れ渡っていた。ネイトに「廃業しろよ。金ならあるんだ」と暗に結婚を持ち掛けられたエラは、ジムから一緒にワイオミングを出ようと誘われたことを明かした。
次の日、ジムは訪ねて来たネイトに、「エラを連れ出したい」と告げる。「彼女は嫌がってる」とネイトが言うと、ジムは「無理にでも連れて行く」と口にする。「我慢にも限度があるぞ」とジムが静かに脅すと、ネイトは「いずれケリを付けてやる」と告げて立ち去った。ジムは商工会議所のエグルストン所長と共に米軍のミナーディー隊長を訪ね、傭兵部隊がジョンソン郡を襲撃する前に非常態勢を敷くよう依頼した。するとミナーディーは、「1週間前から知事の命令が無いと動けなくなった」と告げた。
ジムはミナーディーに頼み、協会の死刑名簿を見せてもらう。そこに書かれていたのは郡に住む移民の大半であり、中にはエラの名前もあった娼館のの代金として盗品の牛も認めていたため、名簿に掲載されたのだ。ジムは娼館へ行き、エラと一緒にいるネイトを殴って名簿のことを追及した。エラに「どういうこと?」と訊かれたネイトは、「何も知らなかった。君には指一本触れさせない」と告げた。
カリーは時刻表に無い汽車が駅を通過するのを目撃し、危機を察知した。それは協会の雇った殺し屋たちを乗せた汽車だった。カリーはジムに知らせようとするが、殺し屋たちに見つかって始末された。ネイトは仲間のトラッパーやニックたちの元へエラを連れて行っており、その襲撃には加わっていなかった。ジムは移民たちをローラー・スケート場の「天国の門」へ集合させ、協会の計画を知らせた。彼はコバッチの未亡人に求められ、死刑名簿を読み上げた…。監督はマイケル・チミノ、脚本はマイケル・チミノ、製作はジョアン・ケアリ、撮影はヴィルモス・ジグモンド、編集はトム・ロルフ&ウィリアム・レイノルズ&リサ・フラックマン&ジェラルド・グリーンバーグ、美術はタンビ・ラーセン、衣装はアレン・ハイフィル、音楽はデヴィッド・マンスフィールド。
出演はクリス・クリストファーソン、クリストファー・ウォーケン、ジョン・ハート、イザベル・ユペール、ジョセフ・コットン、サム・ウォーターストン、ブラッド・ドゥーリフ、ジェフ・ブリッジス、ジェフリー・ルイス、ポール・コスロ、リチャード・メイサー、ロニー・ホーキンス、ロザンヌ・ヴェラ、メアリー・C・ライト、ニコラス・ウッドソン、ステファン・シュチェルビー、ワルデマール・カリノウスキー、テリー・オクィン、ジョン・コンレイ、マーガレット・ベンツァク、ジェームズ・ノベロッチ他。
『サンダーボルト』『ディア・ハンター』のマイケル・チミノが監督&脚本を務めた作品。
ジェームズをクリス・クリストファーソン、ネイサンをクリストファー・ウォーケン、ビリーをジョン・ハート、エラをイザベル・ユペール、校長をジョセフ・コットン、フランクをサム・ウォーターストン、エグルストンをブラッド・ドゥーリフ、ジョンをジェフ・ブリッジス、トラッパーをジェフリー・ルイス、町長をポール・コスロ、カリーをリチャード・メイサーが演じている。この映画の欠点は、ザックリ言うならば
「バカみたいな大金を使っているのに対費用効果が悪すぎる」
「クソみたいに長いのに人間描写やドラマが薄っぺらすぎる」
という2点である。
そういう欠点が生じている原因を突き詰めると、
「マイケル・チミノが自分のやりたいことだけを好き放題にやってしまったから」
「そんな愚行をユナイテッド・アーティスツ社が許してしまったから」
ということになる。マイケル・チミノがジョンソン郡戦争にした映画の企画を提案した時、彼は750万の予算が掛かるという見積もりを出した。しかしUA社の幹部は絶対に無理だと判断し、約1200万ドルの製作費で製作にゴーサインを出した。
ところがチミノは、のっけからオレ様ぶりを発揮する。彼はモンタナ州での撮影を希望したが、ロケーションであるにも関わらず、そこにある施設を使わずに大規模なセットを組みたいと言い出したのだ。
それは明らかに「無駄な出費」に思えるが、UA社はチミノの希望を受け入れた。
チミノの号令により、モンタナ州には一つの町と鉄道のセットが建設された。しかも彼は出来上がったセットが気に入らず、それを壊して最初から作り直させた。
彼は当時の機関車を見つけ出し(たまたま見つけたわけではなく、そのためにアメリカを捜し回った)、それをセットまで運び込んだ。
機関車が作品で重要な意味を持つとか、多くのシーンで機関車が使われるとか、そういうことなら理解できなくもない。
しかし、劇中で機関車が写るのは数分だけだ。撮影は天候の影響とチミノのこだわりによって予定より大幅に遅れ、なかなか前へ進まなかった。
UA社は予算を1500万ドルまで上積みした。しかしチミノは最初に決められたされた撮影期間や予算のことなど全く考えず、同じシーンを納得できるまで何度も撮り直した。製作したユナイテッド・アーティスツが「当初の予算を超過しても製作費を負担する」という愚かな契約を交わしていたために、マイケル・チミノは好き放題に金を使うことが出来たのだ。
完璧主義者の映像作家に潤沢な資金や制限の無い自由を与えると、ろくなことにならない。
最終的に製作費は4400万ドルまで膨れ上がり、完成したフィルムは5時間25分もあった。プレミア上映のために3時間39分の編集版が用意されたが、評論家の酷評を浴びた。
チミノは一般公開を延期し、フィルムを149分に再編集した。
しかし興行収入は約350万ドルに留まり、ユナイテッド・アーティスツは倒産の憂き目に遭って、MGMも手中に収めていた悪名高き乗っ取り屋のカーク・カーコリアンに買収された。これは映画史に燦然と輝く(もしくは醜い姿をさらけ出す)大失敗作だが、上には上がいるものだ。
そういう意味では、マイケル・チミノは、レニー・ハーリンやマリオ・カサールに感謝すべきかもしれない。
もしも1995年に『カットスロート・アイランド』が公開されていなかったら、今でもギネスブックには「史上最悪の赤字を出した映画」として『天国の門』が掲載されていたはずなのだから。
フランシス・コッポラは『ワン・フロム・ザ・ハート』の失敗でアメリカン・ゾエトロープ社を破産に追い込んだが、それは彼個人のスタジオを潰しただけに過ぎない。
マイケル・チミノは、雇われた身でありながら、ユナイテッド・アーティスツを身売りに追い込んだ。
数々の作品を手掛けてきた名門であるUA社は、たった1本の映画のせいで壊滅したのである。
そりゃあ、マイケル・チミノがハリウッドから完全に干されるのも当然だ。彼には全く同情しない。映画会社やプロデューサーが勝手な編集で作品をズタズタにしてしまったり、監督に圧力を掛けて意思にそぐわぬ内容に仕上げさせたりすることも、映画の世界では珍しくない。
だから、どんな時でも全面的に映画会社の肩を持ちたいとは思わない。
しかし、身勝手な行為で映画会社を潰すような監督は最低だ。
どんなに才能があろうとも、どんなに芸術的なセンスが優れていようとも、許されざるべきことだ(そういう意味で私は、黒澤明監督もそんなに好きじゃない。潰してはいないが、潰しかねないことをやらかしているので)。ここまでは映画の中身について全く触れていないが、触れるほどの中身が無いというのも事実だ。
マイケル・チミノがバカみたいに固執したせいで、映像的には見るべきモノがあると言えるかもしれない。彼は時代考証に徹底してこだわり、当時の西部の情景をリアルに再現しようとした。
裏を返せば、チミノがこだわったのは映像だけだった。
それは「風景」と言い換えてもいい。
なぜなら、チミノは「人々や物の動き」を描きたかったわけではないからだ。
彼が描きたかったのは、あくまでも「19世紀末の西部の風景」なのだ。この映画で表現されている映像は、「動きのある絵画」でしかない。
いや、それはむしろ絵画に対して失礼かもしれない。
絵画は静止しているが、その向こうにある景色を想像したり、描かれている人物に何があったのかを想像したりすることが出来る。すなわち、ある意味では、そこにドラマがあるのだ。
しかし本作品は、そういった想像の幅を持たせずに目の前で起きている出来事を事細かく描写している一方で、そこから広がるべきドラマが何も無いのだ。私が観賞したのはプレミア上映された3時間39分版だが、その時間に見合うだけの人間ドラマは盛り込まれていない。
なぜなら、マイケル・チミノにとっての3時間39分は、風景を見せるための3時間39分だからだ。
登場人物さえも、彼にしてみれば風景の一部なのだろう。
ただし、ほとんどのキャラクターが生身の人間としての奥行きや幅はほとんど感じさせない一方で、風景としては無駄にゴチャゴチャしているのだが(つまり、風景にも成り切れていない)。冒頭の卒業式のシーンからして、約20分も費やしているが、ドラマとしての意味合いだけを考えれば、そこまで長い時間を割く必要は無い。ジムとビルを紹介すれば、それで用は済むのだ。
それなのに、ビルに長々と演説させて、いきなり退屈を味あわせる。
しかも、その一方で、ジムとビルの丁寧な人物紹介は無いのだ。
ビルは軽いノリで女好きの愉快な奴らしいってことが演説シーンで何となく分かるが、ジムに関しては中身がサッパリ見えない。
ちなみに20年後になるとビルは全く別人のような性格になっており、「昔とはすっかり変わった」という風に見せたいんだろうけど、それも成功していない。最初にジェームズが2階席にいる女性と目を合わせ、ビルも彼女を気にして、演説の最中も何度も視線を送る。
そういう描写を入れるからには、その女性がヒロインなのかというと、そうじゃないのだ。この女、終盤のシーンまでは二度と登場しない。
最後にジェームズの結婚相手として再登場するのだが、そのためだけに配置するぐらいなら要らない。それは伏線を巧みに回収しているとは言い難いし、ちっとも効果的ではない。
式の後、卒業生が庭に出て踊ったり歌ったりするシーンにも時間を使うが、そんなのも全く要らない。そもそも、ジムとビルが大学の同窓生だという設定さえ、その必要性を感じない。
そこから始めるぐらいだから、この2人の関係を軸に据えた物語が展開していくのかと思いきや、20年後に移るとビルは完全に脇へと追いやられてしまうのだ。
そして、ジムとエラ、ネイトの三角関係が真ん中に配置される。ジムは20年後に評議会でビルと会うだけで、それ以降は全く絡まない。酒浸りのビルが生き方を変えるとか、情熱を取り戻すとか、そんなことも無くて、ジムと再会した後は脇の脇へと追いやられている。
だったら、もはや卒業式のシーンそのものの必要性が無いんじゃないかとさえ思ってしまう。
その一方で、ジムとビルの関係を描く代わりに中心に据えた三角関係のドラマが面白いのかというと、それも惹き付ける力が著しく弱い。始まって1時間が経過した段階で、大雑把に言えば「大学を卒業して20年後、保安官のジムは牧場主になった旧友のビルと再会し、協会が移民の皆殺しを企んでいることを聞かされる」という辺りまでしか物語が進んでいない。
90分や100分の映画だったら、もう物語が佳境に入っていてもいいぐらいの時間帯なのに。
で、そこまで長い時間を費やしても未だに序盤なのだが、それが必要な尺なのかというと、そんなことはない。
せいぜい20分ぐらいで、充分に消化できる内容だ。一事が万事、そんな調子である。
「それ、ホントに必要なのか」と思うような描写が次から次へと出てくる。
酒場の移民たちが闘鶏で盛り上がっているシーンとか、エラが馬車を猛スピードで走らせるシーンとか、ジム&エラと町の人々が楽隊の演奏に合わせて踊るシーンとか。
そりゃあ少しなら描写があってもいいとは思うけど、そこまで長く時間を割く必要は無いんじゃないか、っていうか無いぞ、と感じる。
そこで伝えたいことは何なのかと考えた時に、ほとんど中身が無い日常風景の描写でしかないんだから。この映画は1892年4月に起きたジョンソン郡戦争をモチーフにしているが、史実とは内容が大きく異なっている。
「戦争」とは言われているが、実際は2人の移民が殺されただけで、戦争が起きる前に大統領の差し向けた騎兵隊が武力制圧している。
史実と全く違うということも、公開当時は批判の対象となった。
しかしノンフィクションを謳って公開された作品ではないので、史実と異なっているというだけで批判しようとは思わない。
そこを変えてでも派手な戦闘を描いて盛り上げたいということであれば、分からんでもない。ただし、史実を曲げてまで持ち込んだ戦闘シーンが、全く盛り上がらないってのはダメだろ。
全面戦争の前にネイトは殺されているし、ジムはエラと決裂したショックで酒に溺れてしまう。移民たちは勝手に戦争を始めてしまい、その途中で大統領命令を受けた米軍が鎮圧に来る。
高揚感もカタルシスも皆無(悲劇のカタルシスも無い)で、戦いは終結する。
ダラダラと長いだけの話に耐え忍び、ようやく遅れ馳せながら話が盛り上がるのかと思ったら、その仕打ちだ。
見ている側からすると拷問に近く、「天国の門」じゃなくて「地獄の門」の方が映画には合っている(それだとルチオ・フルチ作品になっちゃうけど)。(観賞日:2014年5月26日)
第2回ゴールデン・ラズベリー賞(1981年)
受賞:最低監督賞[マイケル・チミノ]
ノミネート:最低作品賞
ノミネート:最低脚本賞
ノミネート:最低主演男優賞[クリス・クリストファーソン]
<*『天国の門』『華麗なる陰謀』の2作でのノミネート>
ノミネート:最低音楽賞
第4回スティンカーズ最悪映画賞(1981年)
ノミネート:作品賞