『ファンタスティック・フォー』:2015、アメリカ
2007年、ニューヨークのオイスター・ベイ。小学生のリード・リチャーズは科学オタクで、転送装置の開発に励んでいた。彼は装置が完成間近であることを授業で発表するが、クラスメイトも教師も信じようとしなかった。しかしクラスメイトのベン・グリムだけは、強い興味を抱いた。その夜、コンバーターを手に入れようとしたリードに会ったベンは、ガレージでの実験を見せてもらう。リードはミニカーの転送に成功したものの、停電を引き起こしてしまった。
7年後、高校生に成長したリードとベンは科学フェアに参加し、改良した転送装置のデモンストレーションを実施した。しかしミニカーを忘れてしまい、少年が持っていた飛行機のプラモデルを拝借した。するとサイズが大きかったせいで実験は失敗し、2人は審査員から失格を言い渡された。ところがバクスター財団の科学者であるフランクリン・ストーム博士と養女のスーは関心を示し、彼らに声を掛けた。フランクリンも転送装置を開発したが、実験は失敗していたのだ。
フランクリンはリードとベンに奨学金の提供を持ち掛け、財団のプロジェクトに参加するよう提案した。リードは乗り気だったが、彼に協力しただけのベンは不参加を決めた。フランクリンは開発メンバーとして、プロジェクトの発案者であるヴィクター・フォン・ドゥームを参加させることにした。ヴィクターは問題の多い人物だったが、フランクリンは彼が絶対に必要だと考えていた。フランクリンはリードのことを教えてヴィクターの対抗心を煽り、渋っていた彼の気持ちを変化させた。
フランクリンの実子であるジョニーは公道レースで事故を起こし、軽傷を負った。迎えに来たフランクリンはジョニーを説教して車を没収し、プロジェクトに参加するよう命じた。ジョニーは文句を言うが、結局は作業を手伝った。転送装置が完成したため、猿を使った実験が行われる。猿が転送した惑星から無事に戻って来たので、リードたちは喜び合った。しかし見学していたアレン博士は、NASAと協力してプロジェクトを引き継ぐことをリードたちに告げた。
プロジェクトから外されて憤りを抱いたリードとジョニーとヴィクターは、勝手に転送装置の人体実験を行うことにした。リードはベンに電話を掛けて呼び出し、彼も参加させる。惑星に転送された4人は緑色のエネルギー源を発見し、調査に向かった。しかしエネルギー源の液体が勢いよく地面から噴出したため、リードたちは慌てて逃げ出す。しかしヴィクターは地割れに転落して姿を消し、残った3人は転送装置へ飛び込んだ。
リードたちは研究所のスーに呼び掛け、何とか戻ることが出来た。しかし研究所で大爆発が発生し、スーも巻き込まれて怪我を負った。意識を失ったリードたちの肉体には変化が生じており、軍はエリア57へ運んで拘束する。リードの肉体はゴムのように伸縮するようになり、スーは透明化するようになった。ジョニーは全身が炎に包まれる現象を起こし、ベンは全身が岩石のような状態に変貌した。リードは通風孔から聞こえるベンの声で目を覚まし、拘束を抜け出して彼の元へ向かった。ベンの変貌した姿を見たリードは、激しい動揺を示す。ベンは助けを求めるが、警報が鳴り響いたため、リードは必ず助けると約束してエリア57から脱走した。アレンはベンと会い、治療法を見つける代わりに協力するよう持ち掛けた。
1年後。エリア57に残った3人は、特殊能力を自在に操れるようになっていた。アレンは転送装置で辿り着く惑星を「プラネット・ゼロ」と命名し、そこにあるエネルギー源の利用を目論んでいた。フランクリンはスーたちが軍に利用されることへの懸念を抱き、再び転送装置を作って治療すべきだと考える。彼はスーに自身の考えを語り、リードを見つけ出す必要性を訴えた。スーはリードの逃亡パターンを分析し、現在の居場所を突き止めた。
南アフリカの小屋で装置の開発に励んでいたリードは、自分を見捨てたと思っているベンに襲われて捕まった。エリア57へ連れ戻されたリードは、簡単に転送装置を完成させた。アレンの用意した調査員がプラネット・ゼロに到着すると、リードたちが行った時とは景色が大きく異なっていた。ヴィクターが変貌した姿で生き延びていたので、アレンは彼をエリア57へ転送する。すると強烈な怒りと憎しみを抱くヴィクターはアレンと研究員を次々に殺害し、人類の滅亡を目論む…。監督はジョシュ・トランク、脚本はジェレミー・スレイター&サイモン・キンバーグ&ジョシュ・トランク、製作はサイモン・キンバーグ&マシュー・ヴォーン&ハッチ・パーカー&ロバート・クルツァー&グレゴリー・グッドマン、製作総指揮はスタン・リー、製作協力はクリフ・ラニング、撮影はマシュー・ジェンセン、美術はクリス・シーガーズ、編集はエリオット・グリーンバーグ&スティーヴン・リフキン、衣装はジョージ・L・リトル、視覚効果監修はジェームズ・E・プライス、音楽はマルコ・ベルトラミ&フィリップ・グラス、音楽監修はアンドレア・フォン・フォースター。
出演はマイルズ・テラー、マイケル・B・ジョーダン、ケイト・マーラ、ジェイミー・ベル、トビー・ケベル、レグ・E・キャシー、ティム・ブレイク・ネルソン、ティム・ハイデッカー、ジョシュア・モンテス、ダン・カステラネタ、オーウェン・ジャッジ、カイレン・デイヴィス、エヴァン・ハンネマン、チェット・ハンクス、メアリー=パット・グリーン、メアリー・レイチェル・ダドリー、ウェイン・ペレ、ロンダ・ジョンソン・デンツ、バーニー・ラニング、デニス・トーマス四世、アブヒ・トリヴェディー他。
マーベル・コミックスの同名スーパーヒーローを題材にした映画。
20世紀フォックスは2005年に『ファンタスティック・フォー[超能力ユニット]』、2007年に続編『ファンタスティック・フォー:銀河の危機』を公開しているが、その続きではなくリブート版。
監督にはデビュー作『クロニクル』で注目を集めたジョシュ・トランクが抜擢された。
脚本は『ラザロ・エフェクト』のジェレミー・スレイター、『ジャンパー』『X-MEN:フューチャー&パスト』のサイモン・キンバーグ、ジョシュ・トランクの共同。
リードをマイルズ・テラー、ジョニーをマイケル・B・ジョーダン、スーをケイト・マーラ、ベンをジェイミー・ベル、ヴィクターをトビー・ケベル、フランクリンをレグ・E・キャシー、アレンをティム・ブレイク・ネルソンが演じている。20世紀フォックスとしては、どうしても『ファンタスティック・フォー』のリブートやリメイク、もしくは2005年から続くシリーズ第3作を製作したい理由があった。
映画を作らない限り、マーベル・スタジオズに権利を返却しなければいけなくなってしまう状況だったのだ。
もしもマーベル・スタジオズが権利を持ったら、『アイアンマン』から続くマーベル・シネマティック・ユニバースにファンタスティックスのキャラクターを登場させることが出来る。そうなれば、絶好調のマーベル・シネマティック・ユニバースは、ますます使える武器を手にいれることになる。
マーベル・スタジオズの一人勝ち状態を増長させることは、20世紀フォックスとしても望ましくない。マーベル・シネマティック・ユニバースが好調なのだから、アメコミ映画の人気に20世紀フォックスが便乗したいと思うのも当然だろう。
20世紀フォックスとしては、『X-MEN』シリーズの観客動員は好調で、スピン・オフ作品も製作しているが、他にも使える武器があるなら使わない手は無い。
かつて20世紀フォックスは前述した『ファンタスティック・フォー』の2本と『デアデビル』を映画化したが、どちらも芳しい結果は出なかった。
マーベル・シネマティック・ユニバースが引っ張っている状況の中で、何とか他のアメコミ映画もヒットさせて、出来ることなら『X-MEN』シリーズとリンクさせたいと考えても不思議はない。そんなわけで20世紀フォックスは三度目の正直を狙い、『ファンタスティック・フォー』のリブートを決定した。
ちなみに『デアデビル』の方は「成功する可能性が低い」と判断したのか、その権利をマーベル・スタジオズに返却した。マーベルは『デアデビル』を映画ではなくTVシリーズとして映像化し、好評を得た。
ただ、だからと言って、20世紀フォックスの判断が間違いだったとは言えない。もしも20世紀フォックスが『デアデビル』のリブート映画を作ったとして、それがヒットするとは限らないからだ。
っていうか、たぶん失敗に終わっていたんじゃないかと思われ。20世紀フォックスは『ファンタスティック・フォー』をリブートするに当たり、「2005年&2007年版とは全く違う映画にしよう」という意識を強く持っていたようだ。
2005年&2007年版は、とても明るく楽しいテイストだった。もっと言っちゃうと、お気楽でアッパラパーな作品だった。
そういうテイストがダメだから酷評されたわけではなくて、「アクション・コメディー映画としての質が低かった」ってのが一番の問題じゃないかと個人的には思っている。
でも20世紀フォックスは、そんな風には受け止めなかったようだ。そこで今回のリブート版は、かなりシリアスなテイストで作られている。そっちの方が、多くの観客に受けるだろうと考えたんだろう。
もっとハッキリ言っちゃうと、『クロニクル』と似たようなテイストになっている。
まあ監督が同じなんだから当然っちゃあ当然なのだが、雰囲気だけじゃなくて内容としても類似したモノを思わせる。
「突如として超能力を手に入れた若者たち」というファンタスティックスの設定は、まんま『クロニクル』である。本来のファンタスティックスは若者じゃないから、そのままだとジョシュ・トランクの意図する話を描くことが出来ない。
そこで本作品のファンタスティックスは、年齢&職業設定が大幅に変ジョニー更されている。リードは天才科学者じゃなくて学生で、他の面々も全員が学生だ。
それだけでなく、ジョニーは人種まで黒人に変更されている。
そうなると「スーとジョニーは姉弟」という設定が使えなくなるため、スーは養女に変更されている。
ただ、ジョニーを黒人にした意味や、それに伴ってスーを養女にした意味が物語の中に用意されているのかというと、それは何も無い。そもそも、この映画を『クロニクル』のようなテイストで撮ろうとしたこと自体が間違いだと思うのだ。
『ファンタスティック・フォー』というアメコミは、明るく楽しいテイストで撮ることがピッタリと合う作品じゃないか、そっちの方向で徹底する以外に道は無いんじゃないかと思うのだ。
ファンタスティックスのキャラクター設定を考えた時に、ちょっとぐらいシリアスな要素や重厚な要素が入るのはいいとしても、全体を包む空気は「陽」にしておかなきゃ成立しないんじゃないかと。この映画は公開される前から、悪い噂が飛び交った。
「ジョシュ・トランクが精神的に不安定だったので途中で降板させられた」だの、「プロデューサーのマシュー・ボーンが後を引き継ぎ、追加撮影をした」だのと、とにかく観客動員には何のプラスにもならないような噂ばかりが飛び交った。
そんな中、ジョシュ・トランクがツイッターで「1年前はファンタスティックなバージョンがあったのに、それを見せることは出来ないのが残念だ」というコメントを発信してしまった。
たちまち炎上したので削除されたが、そのコメントは皮肉なことに、広まっていた噂が事実であることを裏付ける証拠となった。実際、ジョシュ・トランクは出演者と揉めたり、何度も撮影を延期したりと、あまり褒められた仕事ぶりではなかったらしい。そして製作の20世紀フォックスは彼に編集権を与えず、完成したフィルムを大幅にカットしてマシュー・ボーンに追加撮影を任せた。
そんなゴタゴタがあった映画が、優れた出来栄えになる可能性なんて万に一つも無いだろう。
そして当然の結果として、公開されると酷評を浴びて興行的に惨敗し、続編の企画も無くなった。
ちなみにジョシュ・トランクは、本作品の後に『スター・ウォーズ』シリーズのスピン・オフ作品を手掛ける予定だったが、キャンセルされている。この映画は数多くの欠陥を抱えており、欠陥だけを組み合わせて作ったのかと言いたくなるぐらいの出来栄えだ。
称賛できるポイントが1つも見つからないぐらい酷い仕上がりなので、たぶんジュシュ・トランクが思い通りに作って自ら編集していたとしても、ダメな映画だった可能性が高い。
むしろ、ダメな映画だったからこそ、20世紀フォックスは何とか質を上げようと試みたけど、焼け石に水だったってことなのかもしれない。幾つもダメな箇所はあるのだが、まず序盤の構成からして問題を抱えている。
最初に小学生時代のリードとベンを登場させるが、そこから始める意味が全く無い。
たぶんリードとベンが「幼馴染の君と僕」ってことをアピールしておきたかったんだろうが、「だから何なのか」という描写でしかない。小学生の2人を登場させても、そこに「厚い友情」が見えるわけではないからだ。いきなり高校生の2人を登場させたところで、何の問題も無い。
っていうか、どっちにしろ2人の関係性は弱い。ちっとも友情で結ばれている様子が見えないのだ。
その理由は簡単で、幾ら2人の様子を描いたところで、そこにあるのは「事象」に過ぎず、「感情」が無いからだ。しかも、財団での研究が始まると、ベンは完全に蚊帳の外へ置かれてしまう。なぜなら、彼はプロジェクトに参加しないからだ。
そのままだと彼がファンタスティックスになることは不可能なので、「リードが転送装置で惑星へ行く時にベンを呼び出す」という手順を用意している。しかし、誰がどう考えても強引過ぎる展開だ。
ベンはプロジェクトに携わっていないのだから、リードが呼び出す理由は乏しい。「リードが酔っ払った勢いで」という理由は付けているが、その程度で強引さは消せない。
ベンとプロジェクトの距離感を間違えた設定にしたせいで、彼は実質的に「要らない子」「無理に持ち込まれたキャラ」と化しているのだ。財団本部を訪れたリードがスーに話し掛けるのは、「リードがスーに好意を寄せている」ってことを示したいために用意されたシーンだ。
それは段取りとしては、よっぽどのバカじゃない限り理解できるだろう。
しかし、そこから始まる恋愛ドラマが充分に描かれているのかというと、答えはノーだ。
リードとスーが同じ画面に登場したり、会話を交わしたりする様子を、ただ無造作に用意すれば恋愛ドラマが充実するわけではない。
ここも前述したリードとベンの関係性と同様、「事象」だけを見せても足りないのだ。リードとスーが会話を交わすとか、2人の親密そうな様子にヴィクターが不快感を示すとか、ジョニーがスーへのコンプレックスを抱いているとか、そういった人間関係を描くためだけに、「装置の開発期間」が使われている。
そのため、装置が完成に至るまでの具体的な経緯は、まるで分からない。「何だかサッパリ分からないけど、いつの間にか完成していた」という印象だ。
どうせ何の説明も無く、何の苦労も無いのなら、いっそのこと完成までの手順をバッサリと省略してもいいぐらいだ。何しろ、何の中身も無いんだから。
「人間ドラマはあるでしょ」と思うかもしれないが、そんなモノは皆無に等しい。ただ雑にキャラを動かしているだけだ。
それに、後のストーリー展開には全く連動しないんだから、無意味なだけになっている。リードたちが勝手に転送装置を使う時、そこにスーは参加していない。それなのに、彼女の肉体まで変化する。「転送した時の爆発により、エネルギー源の影響を受けた」ってことかもしれないが、かなりの無理を感じる。
っていうか、それでスーの肉体が変化するのなら、無理を通して「ベンも転送実験に参加する」という展開を用意した意味が無くなる。彼は転送装置が使われた時、研究所に存在していれば、それでスーと同じ状況は作れるわけで。
つまり、「リードの様子を見に来た」とか、その程度でも良かったのだ。
ただ、どっちにしろベンのポジショニングに失敗していることは修正不可能だが。転送実験で起きた事故により、ベンは岩石の体になってしまう。他の3名は人間の姿に戻ることが出来るが、ベンだけは岩石人間のままで生き続けることを余儀なくされる。
それは強烈なショックを与える変化だし、そう簡単に吹っ切ることが出来ることではないはずだ。だが、そこにベンの悲哀や苦悩は見られない。
リードが逃げたことで「見捨てられた」と思った彼は怒りを覚えたようだが、それも簡単に解消されている。どういう気持ちの変化があったのかはサッパリ不明だが、和解のドラマなど無いのに、いつの間にかリードを許している。
なんて物分かりのいい奴なんだ。物分かりがいいのは、ベンだけではない。他の面々も同様だ。
幾ら「普段は人間の姿になれる」と言っても、特殊な人間へと急に変貌したわけだから、そのショックは相当なモノだったはずだ。ところが、ベン以外の面々にも、その動揺や焦り、苛立ちや苦悩、悲哀といった感情は見られない。
それらに限らず、とにかく「変貌してしまったことに対する感情」ってのが何も見えない。そして、それを描かないままリードがエリア57を脱走し、すぐに1年後へ飛んでしまうのだ。
どこを省略するのかという判断を、完全に間違えている。そして1年後のシーンが描かれると、もうジョニーとスーは肉体の変化を受け入れて順応している。
「能力を上手くコントロールできずにトラブルを起こすが、次第に制御できるように」という経緯は、バッサリと省略されているのだ。
それだけでなく、「彼らが自分たちを拘束した政府や軍に協力するようになる経緯」もバッサリとカットされている。
百歩譲って、そこを完全に省略するのは受け入れるとしよう。ただ、それにしても、感情の変化まで排除しちゃダメでしょ。そこを何も描かないのなら、もう最初からリードたちをファンタスティックスとして登場させればいいのだ。その方が、よっぽどスッキリした内容になる。
リードたちを最初からファンタスティックスとして登場させれば、「4人が特殊能力を得るまでの過程」で無駄な時間を割く必要もゼロに出来るという利点がある。
「無駄な時間」と書いたけど、ホントは「無駄」になっちゃダメなのよ。
でも、この映画だと「無駄な時間」になっているのだ。なぜ無駄な時間になっているのかというと、それが「ファンタスティックスの活躍」を盛り上げるための道筋として機能していないからだ。それどころか、邪魔をしていると言ってもいい。
何しろ、この映画ではファンタスティックスが活躍するのは、終盤の10分程度。それは誰がどう考えても、時間配分を間違えている。
そもそもリードたちの肉体が変貌するまでに50分も費やしているので、その段階で計算ミスを犯している。
前述した「特殊な人間になった悲哀や苦悩」をバッサリとカットしているのだから、すぐさまファンタスティックスとして活躍させることも出来そうなモノだが、そこからもダラダラと時間を浪費しているのである。ファンタスティックスを活躍させるためには、ヴィランを登場させる必要がある。しかしヴィクターがヴィランとして再登場するのは、映画開始から1時間15分ほど経過した頃。
この作品の上映時間が3時間ほど確保されているなら、それでもいいだろう。しかし実際には100分で、本編だけなら90分強といったところだ。なので、ヴィランを登場させるタイミングも遅すぎる。
その結果として、「ヴィランが何に怒っているのかサッパリ分からん」という問題が起きている。
彼は地球へ帰還した途端、「人類を滅亡させてやる」と怒りを燃やしているが、どういう経緯でそういう感情に至ったのかが全く分からない。転送装置を勝手に使おうと言い出したのはヴィクターだし、地割れに転落した事故だって誰のせいでもない。
それが仮に「八つ当たり」や「キチガイの思想」であっても、まだ「そこに至る経緯」があれば腑に落ちたかもしれない。
しかし、再登場した途端に「人類を滅亡させてやる」と言い出すので、まるで付いていけないのだ。「ファンタスティックスが活躍するのは、終盤の10分程度」と前述したが、厳密に言うと違う。
彼らは順番にヴィクターと戦うが、まるで歯が立たない。そこで「じゃあ全員で戦おう」とリードが提案し、ヴィクターと戦って退治する。
その「全員が協力してヴィクターを退治する」という手順に使われるのは、2分にも満たない。
しかも、「個人戦だと歯が立たない」という手順の直後に「協力して戦う」という展開へ移るので、ファンタスティックスの成長や変化も描かれない。
中盤辺りで「バラバラで戦ったら歯が立たない」ってのを描いて、クライマックスで「チームとして団結する」という展開にすれば、成長のドラマが見えただろう。本来なら、この映画は随分とスケールの大きな世界観で構築されているはずだ。何しろ転送装置を使わなきゃいけないような惑星が設定されているし、そこと地球を往復してストーリーが展開されるのだ。
しかし実際に見た印象は、「すんげえ小ぢんまりとした話」ってことになっている。
その理由は、ほぼ「財団本部」「エリア57」「惑星ゼロ」に舞台が限定されているからだ。大都市が破壊されるとか、人々が逃げ惑うとか、そういった「外部の人々や景色」が出て来ない。
なので、「ただの内輪揉め」を見せられている感じなのよね。ファンタステイックスはマーベル・コミックスのヒーローとしては珍しく、本名や素性が人々に知られている面々だ。
だから、「最初は人々から嫌悪される」とか、「人々に受け入れられ、応援される」とか、とにかく「人類」との関係性を描くことで、ヒーローとしての立ち位置を示すことが出来る。
しかし本作品では、そういう作業を全面的に放棄している。
それもあって(それだけが理由ではないが)、この映画のファンタスティックスは最後まで「ヒーロー」に成り切れずに終わっている。
シリーズ化を想定し、これを「誕生篇」と位置付けていたとしても、それが何の言い訳にもならないぐらいポンコツな作品である。(観賞日:2017年2月6日)
第36回ゴールデン・ラズベリー賞(2015年)
受賞:最低作品賞
受賞:最低監督賞[ジョシュ・トランク]
受賞:最低リメイク&盗作&続編賞ノミネート:最低スクリーン・コンボ賞[ファンタスティックス]
ノミネート:最低脚本賞
2015年度 HIHOはくさいアワード:第6位