『サイコ』:1998、アメリカ
1998年12月11日金曜日、アリゾナ州フェニックス。マリオン・クレインはカリフォルニア州で雑貨屋を営むサム・ルーミスと交際している。サムとホテルで関係を持った後、マリオンは勤務する不動産会社に出向いた。キャシディーという客が現れ、社長に40万ドルという大金を渡した。社長はマリオンに、その金を銀行に預けるよう指示した。
マリオンは銀行には行かず、40万ドルを持って車で逃亡した。警官に怪しまれたと感じた彼女は、途中で中古車販売会社で車を買い換えた。大雨が振り出し、マリオンはベイツ・モーテルに辿り着いた。そこの主人はノーマン・ベイツという男で、裏手にある家には彼の母親が暮らしていた。ノーマンによれば、母親は心の病気を患っているらしい。
マリオンはノーマンと応接室で会話を交わした後、次の朝にはフェニックスへ戻ろうと考えた。しかし部屋に戻ったマリオンは、シャワーを浴びている最中に侵入した謎の女性に殺害される。母親の仕業だと確信したノーマンは、殺人の証拠を消し去ろうとする。しかしマリオンを探す私立探偵アーボガストやマリオンの妹ライラ、サム達はベイツ・モーテルに疑惑の目を向け始める…。監督はガス・ヴァン・サント、原作はロバート・ブロック、脚本はジョセフ・ステファノ、製作はブライアン・グレイザー&ガス・ヴァン・サント、製作総指揮はダニー・ウルフ、撮影はクリストファー・ドイル、編集はエイミー・E・ダドルストン、美術はトム・フォーデン、衣装はベアトリクス・アルナ・パスツォール、音楽はバーナード・ハーマン、音楽プロデュース&改作はダニー・エルフマン&スティーヴ・バーテック。
出演はヴィンス・ヴォーン、アン・ヘッシュ、ジュリアン・ムーア、ヴィゴ・モーテンセン、ウィリアム・H・メイシー、チャド・エヴェレット、フィリップ・ベイカー・ホール、アン・ヘイニー、ランス・ハワード、ジェームズ・レグロス、ジェームズ・レマー、リタ・ウィルソン他。
アルフレッド・ヒッチコック監督の同名映画をリメイクした作品。
ノーマンをヴィンス・ヴォーン、マリオンをアン・ヘッシュ、ライラをジュリアン・ムーア、サムをヴィゴ・モーテンセン、アーボガストをウィリアム・H・メイシー、キャシディーをチャド・エヴェレット、保安官アルをフィリップ・ベイカー・ホール、その妻をアン・ヘイニーが演じている。「リメイク」と前述したが、その表現は性格ではない。
この映画の本質を正確に言い表すならば、「複製品」という言葉がピッタリだろう。スタッフとキャストは違っても、モノクロかカラーかという違いはあっても、作り方は全く同じなのだ。テッド・ターナーによる古い白黒映画のカラライゼーションと、基本的な方向性は全く違わない。通常の場合、リメイクというのはオリジナル版に新たな要素を加えたり、違った展開を用意したりするものだ。全く同じことを繰り返すだけならば、作り直す意味が無いと考えるからだ。
この映画の場合は特に、オリジナル版を見た人なら「主人公のはずの女が前半で殺される」「犯人が服装倒錯者である」という重要な仕掛けを知っているわけだから、捻りを加えようとするのが普通だ。
しかし、ガス・ヴァン・サントの考えは違っていた。
彼は「全く同じことをやろう、完全なる焼き直しをやろう」としているのだ。だから脚本家としてクレジットされているのは、オリジナル版のジョセフ・ステファノだけ。オリジナル版を基にして、新たなシナリオを執筆したライターはいないのだ。
セットも、カメラワークも、全てにおいてヒッチコック版を完全コピーしようとしている。音楽はオリジナル版と同じものを使用している。タイトルデザインもオリジナル版をコピーしている。わざわざカメラマンにクリストファー・ドイルを招いておきながら、彼独自のカメラワークは使わせず、オリジナル版と同じことをやらせている。
オリジナル版ではヒッチコックが不動産屋の窓越しに見えるカウボーイ・ハットの男としてカメオ出演していたが、ガス・ヴァン・サント監督も全く同じようにカメオ出演している。オリジナル版には「ノーマンが浴室を掃除する時に壁に付着したはずの血が見えない」というミスがあるのだが、そのミスまでも忠実に再現している。
さらには撮影スケジュールまでヒッチコックと同じように進めている。「そこまで忠実に完全なる再現を目指した映画を見るぐらいなら、オリジナル版を見ればいい」と思ってしまうだが、ガス・ヴァン・サント監督の意見は違うようだ。
彼は、「オリジナル版は素晴らしいけれど、古い映画なので最近の若者は見ない。だから今のスタッフやキャストで同じ物を作れば、見てもらえるだろう」という考え方らしい。
つまり、これはオリジナル版を見たことの無い人々に向けて作られた作品なのである。
しかし、もしも貴方がまだ『サイコ』という映画を見たことが無いのであれば、絶対にオリジナル版を見るべきだ。「わざわざ古い映画は見ないだろうから新しいスタッフと俳優で同じモノを作って見てもらおう」なんて考えは、愚の骨頂である。そもそも、『サイコ』をリメイクしようとする段階で間違っていると私は思う。
リメイクというのは、手を加える余地のある作品を対象にすべきであって、名作・傑作はリメイクするのは風車に向かっていくドン・キホーテのようなモノだろう。オリジナル版が傑作であれば、どのようにリメイクしたところで勝てる見込みが無いのだから。何よりも、アンソニー・パーキンス以外の俳優にノーマン・ベイツを演じることなど出来ないだろう。ただし、オリジナル版と大きく違っている部分もある。
それは、カラー映画だということ。そして、あの有名なシャワーシーンにおいて、赤い血にデジタル処理が加えられているということだ。
しかし、オリジナル版の同じシーンは、ナイフがヒロインに刺さるという描写を避け、既にカラー映画の時代でありながらモノクロフィルムを使い、そこで流れる黒い血が衝撃度を大きくしていたのである。そこでデジタル処理を加えた赤い血を流して殺人の生々しさを出したら、ナイフが刺さる描写を避けた意味が無い。もう1つの違いは、時代設定の変更だ。
このリメイク版では、1998年に時代が設定されている。
ところが前述したように、中身は1960年のオリジナル版と同じなのである。だから、そこに古臭さが生まれ、ウソ臭さに繋がってしまう。例えばマリオンの部屋を覗き見る方法にしても、1998年なら壁の穴を使わずに盗撮カメラを仕掛けるんじゃないか。この映画の興味深い点は、忠実にオリジナル版をなぞっているにも関わらず、やはりオリジナル版とは大きく違うということだ。
その大きな要因は、絶望的にミスキャストな俳優陣にある。
オリジナル版は、スターであるはずのジャネット・リーが途中で殺される役、爽やかなイメージだったアンソニー・パーキンスが倒錯者の役というところに意味があった。しかし、アン・ヘッシュはビッグ・スターではないし、ヴィンス・ヴォーンは爽やかな青春俳優ではない。オリジナル版では、「マリオンは結婚を望んでいるのに、恋人サムは別れた妻への離婚手当てや借金を返すことで頭が一杯。マリオンは不幸を強く実感している」という表現がある。だから観客はマリオンに共感し、彼女を主人公として見ることが出来る。また、ノーマンは気が優しくて母親思いの男として描かれている。
だから観客はノーマンに同情し、それを裏切る展開に衝撃を受けるのだ。ところがリメイク版の場合、アン・ヘッシュは不幸で同情すべき女に見えない。ヴィゴ・モーテンセンとの関係も、遊びだと割り切った大人の男女関係に見える。アン・ヘッシュが横領するのは、人生をやり直すための行動ではなく、軽い気持ちで遊ぶ金を欲しがったように見える。逃亡準備も、どことなく楽しそうだ。軽い身勝手女が前半で殺されようとも、それは大きな驚きに繋がらない。
ヴィンス・ボーンは、登場した瞬間から露骨に怪しい奴にしか見えない。最初から、その表情には犯罪者としてのアピールが備わっている。さらに致命的なことには、こいつが母親の存在を信じているように感じられない。マリオンを殺した後の処理にしても、母親を守るためでなく、自分のためにやっているようにしか見えない。ラストシーンのゾクゾクとする怖さも全く無い。
第19回ゴールデン・ラズベリー賞
受賞:最低リメイク・続編賞
受賞:最低監督賞[ガス・ヴァン・サント]ノミネート:最低主演女優賞[アン・ヘッシュ]
第21回スティンカーズ最悪映画賞
ノミネート:【最悪の主演女優、あるいは演技の真似事をする英国の歌手グループ】部門[アン・ヘッシュ]
<*『6デイズ/7ナイツ』『サイコ』の2作でのノミネート>