『キャッツ』:2019、イギリス&アメリカ

ある夜、車に乗った男が路地裏に現れ、白い袋に入れた白猫のヴィクトリアを捨てて去った。ジェリクルキャッツを称する路地裏の猫たちはヴィクトリアに近付くが、急に逃げ出した。そこへマキャヴィティーが現れ、「舞踏会に行くのは危険だ。マキャヴィティーが勝つという噂だ。彼ほど凄い奴はいない。魔術師だが、邪悪なモンスターだ」と不気味に笑って姿を消した。様子を見ていたマンカストラップは、急いでヴィクトリアを連れ出した。
マンカストラップとミスター・ミストフェリーズは、年に一度のジェリクル・ボウルが開かれることをヴィクトリアに教えた。夜明け前に、長老のオールド・デュトロノミーが生まれ変われる猫を発表する。一匹の猫だけが、天上に昇って新たな命を生きるのだ。選ばれるには、歌で競う必要がある。マンカストラップはヴィクトリアに、競い合う猫を紹介すると告げた。一匹目は自堕落に暮らすジェニエニドッツで、小太りな体型になっている。あまのじゃくなラム・タム・タガーは、ワガママを自覚していた。
かつてマキャヴィティーと組んで劇場のスターだったグリザベラは、今では薄汚れて荒野に住んでいた。ジェニエニドッツは他の仲間と離れた時、マキャヴィティーに消された。バストファー・ジョーンズは複数のクラブに通い、食べたり飲んだりしているせいで太っている。マキャヴィティーが来ると猫たちは逃走し、バストファーは姿を消された。ヴィクトリアは泥棒猫のマンゴジェリーとランペルティーザに出会い、一緒に民家へ忍び込む。犬が来たのでマンゴジェリーとランペルティーザは脱出するが、ヴィクトリアは逃げ遅れた。そこへミストフェリーズが駆け付け、ヴィクトリアを助けた。
ヴィクトリアはミストフェリーズから、もうすぐデュトロノミーがやって来ることを知らされた。マキャヴィティーはジェニエニドッツとバストファーをテムズ川の船で拘束し、海賊のグロールタイガーに見張りを命じた。デュトロノミーが路地裏に到着して猫たちが集まり、ジェリクル・ボウルが始まった。ヴィクトリアは1人で寂しく歌うグリザベラを目撃し、声を掛けた。デュトロノミーはヴィクトリアに気付き、選択に同席するよう誘われた。
劇場猫のガスはミストフェリーズに励まされ、ステージに上がった。デュトロノミーの前で朗々と歌い上げた彼は、まだ自分も出来るのだと自信を持った。彼がステージ袖に戻ると、待ち受けていたマキャヴィティーが拉致した。続いて鉄道猫のスキンブルシャンクスがタップを披露するが、やはりマキャヴィティーに連れ去られた。マキャヴィティーは手下のボンバルリーナやグリドルボーンたち命じ、他の猫にマタタビを嗅がせて動けなくする。マキャヴィティーはデュトロノミーに選択を要求し、拒否されると船に連行した…。

監督はトム・フーパー、原作はアンドリュー・ロイド・ウェバー&T・S・エリオット、脚本はリー・ホール&トム・フーパー、製作はデブラ・ヘイワード&ティム・ビーヴァン&エリック・フェルナー&トム・フーパー、共同製作はベン・ハワース&サラ=ジェーン・ロビンソン、製作総指揮はアンドリュー・ロイド・ウェバー&アンジェラ・モリソン&ライザ・チェイシン&ジョー・バーン、撮影はクリストファー・ロス、美術はイヴ・スチュワート、編集はメラニー・アン・オリヴァー、衣装はパコ・デルガド、振付はアンディー・ブランケンビューラー、視覚効果監修はジェイソン・ビリングストン&フィル・ブレナン&カースティン・ホール&マット・ジェイコブズ&ジェシカ・ノーマン、音楽はアンドリュー・ロイド・ウェバー、音楽製作総指揮はアンドリュー・ロイド・ウェバー&グレッグ・ウェルズ&マリウス・デ・フリース、音楽監修はベッキー・ベンサム。
出演はジェームズ・コーデン、ジュディー・デンチ、ジェイソン・デルーロ、フランチェスカ・ヘイワード、イドリス・エルバ、ジェニファー・ハドソン、イアン・マッケラン、テイラー・スウィフト、レベル・ウィルソン、レイ・ウィンストン、ラリー・ブルジョア、ロラン・ブルジョア、ローリー・デヴィッドソン、ロビー・フェアチャイルド、ダニー・コリンズ、ナオイム・モーガン、スティーヴン・マクレー、メット・トーレイ他。


T・S・エリオットの子供向け詩集から着想を得たミュージカル劇を基にした作品。
監督は『レ・ミゼラブル』『リリーのすべて』のトム・フーパー。
脚本は『戦火の馬』『ヴィクトリア女王 最期の秘密』のリー・ホールとトム・フーパー監督による共同。
バストファーをジェームズ・コーデン、デュトロノミーをジュディー・デンチ、タガーをジェイソン・デルーロ、ヴィクトリアをフランチェスカ・ヘイワード、マキャヴィティーをイドリス・エルバ、グリザベラをジェニファー・ハドソン、ガスをイアン・マッケラン、ボンバルリーナをテイラー・スウィフト、ジェニエニドッツをレベル・ウィルソン、グロールタイガーをレイ・ウィンストンが演じている。

歌手のジェイソン・デルーロ&テイラー・スウィフト&ジェニファー・ハドソン、ダンサーのフランチェスカ・ヘイワード&Les Twins(レ・トゥインズ)&ロビー・フェアチャイルドのように、その分野の専門家を多く起用している。
それによって、ミュージカルとしての質を高めようとしたんだろう。
そんなスペシャリストたちの存在は、トム・フーパーにとっては猫に小判と化している。
ここまで素材の味を殺す調理方法を取れるトム・フーパーは、ある種の天才なのかもしれない。

トム・フーパーからすれば、『レ・ミゼラブル』が大ヒットしたので、『キャッツ』も行けると思ったんだろう。
プロデューサーや出資者からすれば、トム・フーパーは『レ・ミゼラブル』を大ヒットさせているし、『キャッツ』は世界中でロングランヒットしている大人気の舞台劇だし、大ヒットは確実だと踏んだのだろう。
だからこそ、多額の予算を投じた大作ミュージカルとして製作されたはずだ。
しかし、そもそも『キャッツ』を映画化しようという企画の段階で、勝ち目の薄い戦いだったのではないかと思うのだ。

『レ・ミゼラブル』と『キャッツ』は「ミュージカル」というジャンルこそ共通しているものの、細かい部分を見ていくと大きく異なっている。
『レ・ミゼラブル』はキッチリとした物語があって、その中で登場人物を掘り下げたり人間ドラマを描いたりしている。
それに対し、『キャッツ』はストーリーらしいストーリーが乏しい。
ザックリ言うと、次から次に登場する猫たちの歌と踊りで観客を引き付けようとする作品なのだ。

また、これは「言わずもがな」だろうが、『レ・ミゼラブル』は人間たちの物語で、『キャッツ』は猫たちの物語という違いもある。
ここの違いは大きくて、『レ・ミゼラブル』はコスプレで済むが、『キャッツ』は人間が猫の格好をする必要があるわけだ。
舞台の場合は猫の衣装を着用するが、それで「猫です」と主張しても成立する。
舞台劇の場合、プロセニアム・アーチの有無に関わらず、「舞台劇である」という形態そのものが「人間が衣装を着ているだけなのに猫として受け入れる」という作業を可能にしているのだ。

しかし映画の場合、同じ感覚で観賞することは出来ない。
猫の衣装を着た人間が「私は猫です」という立ち振る舞いをしているだけでは、その荒唐無稽を平常心で受け入れることは難しいのだ。
そこでトム・フーパーが採用したのが、「CG加工を施す」という方法だった。出演者はモーション・キャプチャーのスーツを着用して演技し、後からCGによって顔と衣装の装飾が施された。
それが誤った手法だったことは、酷評の嵐だった結果を見れば説明不要だろう。

CGの質が低いということではない。封切直後に視覚効果の不備が判明して修正が入ったが、そもそもCGで見た目を猫に近付けようという考え方が間違いなのだ。
どうやっても見た目は二足歩行の人間なんだから、猫に近付けようとしても不気味になるだけだ。
しかもCG加工を施したせいで、高い能力を持ったダンサーたちが息の合った踊りを見せてくれても、その凄さが全く伝わらない状態に陥っている。
周囲をCGで飾り付けたせいで、ダンサーの生身による優れた動き、リアルな凄さまでもが、嘘に見えてしまうのだ。

私はトム・フーパー監督の『レ・ミゼラブル』を全く評価していないが、世界的な大ヒットを記録したので、もちろん本人は同じ方法で本作品も演出している。
細かくカットを割って絵を忙しく動かしまくるので、ちっとも目に優しくないし、踊りを堪能させてくれない。
話の進め方も、ちっとも優しくない。映画が始まった時から、ずっと落ち着きが無いまま、とりとめが無いままの状況が持続する。
観客を置いてけぼりにして、勝手に段取りを進めているような感じだ。

舞台劇と違って映画の場合、歌と踊りを披露する場所は自由に切り替えることが可能だ。その強みを最大限に活用しようという意図なのか、現実を超越した描写が何度も入る。
例えばスキンブルシャンクスがタップを踏むシーンでは、途中で劇場を飛び出して線路の上を歩く。ボンバルリーナたちがパフォーマンスするシーンでは、劇場の中に突如として華やかな装置が出現する。
しかし、そういった趣向も映画を盛り上げる効果を全く持ち合わせていない。細かいカット割りが、ひたすら疎ましいと感じるだけだ。
スキンブルシャンクスのタップとか(もちろん他のミュージカルシーンも同様だが)、絶対に1カットを長く回して見せるべきでしょうに。

『キャッツ』には舞台劇を見ていなくても分かるぐらい有名な、『メモリー』という名曲がある。しかし、それほどの名曲でさえ映画の救いにならず、虚しく響くだけだ。
テイラー・スウィフトのために新たに書き下ろされた『ビューティフル・ゴースト』も、当然の如く何の助けにもなっていない。
幾ら有名な歌手が自慢の喉を披露しようと、1ミリも心に響かないぐらい負のパワーが充満している。
また、何をトチ狂ったのか、猫だけでなくネズミやゴキブリまで人間に演じさせている。そんな妙な方向で欲張る意味が、どこにあるのか。

映像演出やカット割りを使い、アクションを細工している箇所も幾つかある。しかし平気で映像の加工を繰り返しているから、出演者が見事な動きを見せるシーンまで全て絵空事に染まってしまう。
もうね、トム・フーパーにはジーン・ケリーやボブ・フォッシーの爪の垢を煎じて飲ませたい気分になるわ。
まだ先は長いが、21世紀で最悪の映画になるかもしれないと感じるぐらい、負のポテンシャルは持っている。
だから駄作好きの人は必見の映画だ。これを見ずしてポンコツ映画は語れない。

出演者にとって不幸中の幸いだったのは、1人が主役として目立つのではなく、大勢のアンサンブルになっていること。そして1人ではなく、全員が猫モドキに変身させられていることだ。
そのおかげで「全員が酷い」ということになり、誰か1人だけがスケープゴートとして酷評される事態だけは免れた。
それと、映画にとって不幸中の幸いだったのは、ただ退屈でつまらないだけの作品ではないってことだ。
ツッコミ所は山ほどあるので、いずれはバカ映画という形で人気になる可能性は残されている。

(観賞日:2022年10月11日)


第40回ゴールデン・ラズベリー賞(2019年)

受賞:最低作品賞
受賞:最低助演男優賞[ジェームズ・コーデン]
受賞:最低主演男優賞[レベル・ウィルソン]
受賞:スクリーン・コンボ賞[任意の半猫半人の毛玉どもの組み合わせ]
受賞:最低脚本賞

ノミネート:最低主演女優賞[フランチェスカ・ヘイワード]
ノミネート:最低監督賞[トム・フーパー]


2020年度 HIHOはくさいアワード:第1位

 

*ポンコツ映画愛護協会