『嗤う伊右衛門』:2004、日本

貧乏長屋に暮らす浪人・境野伊右衛門は、隣人の直助から人の殺し方を教えて欲しいと頼まれた。境野は、直助の妹・お袖が相変わらず気の病だと聞かされた。疱瘡を患って顔の一部が崩れた女・お岩は、しかし顔を隠すことも堂々と町を歩いた。小股潜りの又市は、首を吊った引き取り手の無い老婆を棺桶に入れ、按摩の宅悦と共に運んだ。
宅悦は又市に、民谷又左衛門から娘・お岩の仲人口を頼まれたことを語った。かつて又市と宅悦は、薬師問屋・戸倉屋の娘・お梅を手篭めにした御先手組与力・伊東喜兵衛の屋敷に乗り込んだことがあった。又市らはお梅を正式な妻に迎えるよう求めたが、喜兵衛は拒絶した。又市らが窮地に立たされた時、助けに入ったのが又左衛門だった。その又左衛門は、手入れ中の銃の暴発で怪我を負っていた。
長屋ではお袖が首を吊って亡くなり、通夜の席から直助は姿を消した。又市と宅悦は、伊右衛門を民谷家の婿として連れて行った。伊右衛門はお岩の顔を見ても、まるで気にする様子は無かった。又左衛門は伊右衛門に、かねてからお岩に執心している喜兵衛には気を付けるよう忠告した。やがて又左衛門は、あの世へと旅立った。
民谷姓となった伊右衛門は、喜兵衛から屋敷に招かれた。喜兵衛からお岩が噂通りの悪妻かと問われた伊右衛門は、自分が至らぬゆえだと答えた。伊右衛門は喜兵衛から、お梅を紹介された。喜兵衛は伊右衛門に、お梅が又左衛門の養女であり、お岩とは血の繋がらない姉妹だと告げた。又市らが喜兵衛の元に乗り込んだ後、又左衛門がお梅を養女とすることで事を収めていたのだ。
お梅は喜兵衛の屋敷に囲われ、彼の子を妊娠していた。彼女は、伊右衛門に心を惹かれた。喜兵衛はお岩を屋敷に呼び出し、伊右衛門が囲い女の元へ通っていると吹き込んだ。喜兵衛は、これが組頭の耳に入れば民谷家の存亡に関わると告げた。お岩は、伊右衛門が他の女の元に通うのは自分が至らぬゆえだと答えた。そして彼女は伊右衛門を救うため、離別すると喜兵衛に告げた。
半年後、伊右衛門の前に直助が姿を現した。伊右衛門は屋敷に彼を連れて行き、妻のお梅を紹介した。伊右衛門はお岩に去られた後、お梅と結婚し、彼女と喜兵衛の子を育てていた。直助は伊右衛門に、お袖を手篭めにした連中の1人・医者の西田尾扇を殺してきたと告げた。直助は顔の皮の一部を剥ぎ取って名を権兵衛と変え、伊右衛門の屋敷で匿ってもらうことになった。さらに半年後、お岩は又市と宅悦の訪問を受け、伊右衛門が後添えを貰ったことを聞かされた…。

監督は蜷川幸雄、原作は京極夏彦、脚本は筒井ともみ、企画は江川信也、プロデューサーは中川好久&道祖土健&椿宜和&前田茂司、エグゼクティブプロデューサーは角川歴彦、撮影は藤石修、編集は川島章正、録音は中村淳&湯脇房雄、照明は渡辺三雄、美術は中澤克巳、音楽は宇崎竜童。
出演は唐沢寿明、小雪、椎名桔平、香川照之、池内博之、藤村志保、井川比佐志、六平直政、大門伍郎、不破万作、松尾玲央、MAKOTO、妹尾正文、新川将人、月川勇気、清水沙映、冨岡弘、谷口高史、勇家寛子、早乙女未来、濱口和之、山田陽一、大村隆春、榊原大介、梅干一、鎌田颯ら。


泉鏡花賞を受賞した京極夏彦の小説『嗤う伊右衛門』を基にした作品。
監督は、前年『青の炎』で22年ぶりに映画を撮った舞台演出家の蜷川幸雄。ちなみに映画監督デビュー作も四谷怪談をモチーフにした『魔性の夏 四谷怪談より』だった。
伊右衛門を唐沢寿明、お岩を小雪、喜兵衛を椎名桔平、又市を香川照之、直助を池内博之、又左衛門を井川比佐志、宅悦を六平直政、お梅を松尾玲央が演じている。

冒頭、サブタイトルとして「Eternal Love」という文字が表示された時点で、ちょっとゲンナリさせられる。思い切り日本的な作品なのに、なぜ英語のサブタイトルを安易に付けてしまうのかなあ。
原作にあったのならともかく、映画オリジナルのサブタイだし。
もっと「和」の雰囲気を大切にすりゃいいのに。
あと、オープニングでジャズが流れてくるんだが、それも全編に渡ってそのテイストならともかく、最初だけだし。

四谷怪談をモチーフにしているが、内容は大きく異なっている。お岩は最初から顔が崩れているし、恨みを買って毒を飲まされたわけでもない。伊右衛門は美しい顔のお岩と結婚するのではなく、顔が崩れた彼女と結婚する。お岩が化けて出てくることは無い。
自分勝手な男に殺された恨みを晴らすために女が化けて出る怪談ではなく、恋愛劇として描かれているようだ。
ただし、それほど恋愛劇の描写があったようには感じない。伊右衛門とお岩が互いに「自分が至らぬゆえ」と述べているのも、表面的に夫婦としての関係を取り繕っているかのように見える。その心の中にある熱情が、あまり伝わってこない。
ずっと冷え冷えとした空気で進めて、終盤で一気に爆発させるのかと思ったら、不発のままで終わっているし。

顔が崩れた醜い女という設定のはずのお岩が、それほど醜いメイクになっていないというのはイカンだろう。顔の右側、右目に被さらない程度に特殊メイクを施している。
顔の半分ほどはケロイド状態にして、目ン玉もボコッと膨らんでいるぐらいの醜さにしてもいいのに、何の遠慮をしているのか、とにかくお岩の特殊メイクがヌルい。
池内博之のセリフ回しと同じぐらいヌルい。

「なぜ?」「何が?」「どういうこと?」と、ハテナが幾つも浮かび、それが解消されないままに時間は過ぎていく。ミステリー映画として終盤に全ての謎解きがあるわけではなく、最初から説明する気が無い。
説明しないことで観客の想像力を喚起するとか、包み隠すことでミステリアスな雰囲気を作り出すとか、そういうのは映画の手法としては存在する。
しかし、ここにあるのは、そういう類の物ではない。ただ単純に分かりにくいだけだ。
例えば又左衛門が娘を誰にも渡したくないので戸倉屋の薬を持ったこと、かねてから岩に執着していた喜兵衛がそれを知って戸倉屋の娘・お梅を手篭めにしたこと、喜兵衛はお梅のことで直助に乗り込まれたので彼の妹・お袖を手篭めにしたことなど、とにかく分からないことが多すぎる(ただし、どうやら原作でも時系列がグチャグチャに綴られているらしいが)。

原作を読んでいれば理解できるのかもしれないが、そもそも何の関係も無い又市らがお梅のことで喜兵衛の元へ乗り込む意味もサッパリ分からない。あと、娘を誰にも奪われたくなかった又左衛門が、宅悦に縁談の仲介を依頼する理由も分からない。
原作を読まず、初見で今作品の内容をキッチリと把握できる人が、どれほどいるのだろうか。
もしかすると、監督や脚本家は説明した気になってているのか。
あるいは説明しなくても観客は分かるだろうとタカを括っているのか。

この映画を見て、すぐにウォン・カーワァイ監督の『楽園の瑕』を連想した。
物語を思い切り解体してしまい、映像美にこだわった芸術作品に仕立て上げる。
それによって、一般客は取っ付き難いが、高尚を気取る批評家には絶賛されるモノになる。
しかしハッキリと言ってしまえば、商業映画としては方向性を完全に間違えているということだ。

ドラマツルギーやダイナミズムをズタズタにブチ壊し、物語進行やキャラクター設定、人間同士の相関関係などを全て分かりにくくしている。
格調は高いが、娯楽性は著しく低い。
原作が時系列グチャグチャの記述だからって、そのまま持ち込むこたあ無いだろう。時系列が分かりやすいように組み換えたっていいはずだ。
というか、組み換えろよ。

見終わって思ったのだが、この内容だと、お岩の顔が崩れていることの意味があんまり無いんじゃないか。
誰かが彼女を邪魔者扱いして毒を持ったわけでもない。伊右衛門は彼女が醜くなったので避けようとすることもなく(というか醜いと分かって結婚するので)、平然と接している。お岩自身も、その顔を気にしてどうにかなるってわけではない。
たとえ恨みによって化けて出るのではなくとも、恋愛劇であっても、最終的にお岩は狂乱の女になってくれなければ困る。そこには、ゾッとするような狂気が見えなければ困る。
ところが小雪の芝居は、ただ表面的に騒いでいるだけにしか見えない。
奥深い狂気が無いのだ。
その狂う場面だけ、荻野目慶子にでも替わってもらうべきだったか。

途中で「半年後」「その半年後」などと時間のワープが3度も出てくるのだが、構成として欠陥があるとしか思えない。
最後にカメラが引いていくと現在の東京の様子の空撮になるのだが、何の意図がある演出なのかワケが分からない。
なんなら物語よりも、そこが最も意味不明だ。
ひょっとして、川島雄三監督にでもなりたかったのか。

 

*ポンコツ映画愛護協会