『利休』:1989、日本
千利休の茶室に、金色の足袋を履いた豊臣秀吉がやって来た。茶を点てた秀吉は茶碗を眺め、「やはり長寿の赤だな、ワシは黒は好かん」 と言う。利休は秀吉の茶を飲み、「結構でございます」と告げた。「こんな具合で良かったかな」と笑う秀吉に、「はあ、まあ」と曖昧な 返事をした。今度は利休が茶を点てた。それを飲んだ秀吉は、「ワシのは、型が見えすぎか」と呟いた。利休が秀吉の茶頭となってから、 5年の歳月が経過していた。
まだ織田信長が健在だった頃、南蛮人のルイス・フロイスたちを招いて京都妙覚寺で茶会が催された。信長は茶席へ向かう途中、南蛮人の ステハノが持って来た地球儀を見て「大地に果ては無い。一切はただ目の前のものだけぞ」と告げた。今井宗久が「バテレンはあの世の 天国と地獄を説いております」と言うと、信長は「あの世とは何だ」と笑い飛ばした。その茶席には、利休も参加している。信長は茶席へ 向かう途中、まだ木下藤吉郎と名乗っていた頃の秀吉も呼んだ。
本能寺で信長が死んだ後、ステハノが利休の屋敷を訪れた。信長から利休の元へ行くよう指示されたのだという。ステハノは逃げ出す際、 地球儀を持ち出していた。関白太政大臣になった秀吉は、イエズス会の宣教師たちを城に呼び、「やがて日本国は弟の秀長に譲ろう。余は 朝鮮と唐(から)を征服する。そのために船を造る」と語る。宣教師が「朝鮮も唐も戦は望まないでしょう」と言うと、秀吉は「もちろん ワシも望まん。だから使者を送って警告しておる」と述べた。
秀吉は「征服の暁には、彼らにキリシタンになるよう命じるであろう。貴殿らとはこれからも関係を密にしたいと思う。公儀の事は秀長が 承る。内々のことは利休が承る。忌憚なく接するように」と宣教師たちに言い、握手を交わした。秀吉は積み上げた黄金を宣教師たちに 披露すると、利休に「金の茶室じゃ、工夫してみてくれ」と指示した。秀吉は完成した金の茶室に正親町天皇を招き、茶を点てた。「帝が ワシの茶を飲んだ」と浮かれる秀吉に、利休は「殿下のお姿が輝いておりました」と告げた。
ある時、秀吉は利休の前で、彼の弟子である山上宗二が用意した黒茶碗を投げ付けて怒りを示した。「黒茶碗が分からんようでは、わび茶 も分からんと抜かしよった。黒は陰気じゃ。所払いじゃ」と信長は怒鳴った。利休を訪ねた宗二は、「お心を煩わせて申し訳ありません。 私は説を曲げないタチですので。良い機会です、出て行きます」と、平然とした態度で告げた。
宗二が「殿下は金がお好きなのです」と言うと、利休は「しかしな、金の茶室には不思議な美しさがある。あの中にいると、大らかで無限 なのだ」と意見を述べた。宗二は「それはご自分がお作りになったからでしょう。殿下に媚びてらっしゃるのだと思います」と、師匠の 利休に対しても忌憚の無い意見を述べた。彼は、ヒダの多い利休の考え方に、わび茶との矛盾があることを指摘した。
利休は妻・りきに、秀吉の正室である北政所が会いたいと言っていることを告げた。りきに茶の指南を頼みたいのだという。りきは遠慮 するが、利休は女性(にょしょう)の茶に興味があり、やってみるよう勧めた。石田三成は秀吉に、宗二が小田原にいることを報告した。 そして「利休殿が知らないはずは無いと存じますが。あれほどの師弟関係でございますから」と告げた。
秀吉は母・大政所の元を訪れ、「娘に会いに行けない」と泣かれた。彼は北政所を訪ね、そのことを愚痴った。三成と前田玄以は妊娠中の 側室・茶々に会い、北政所がりきから茶の指南を受けていることを告げた。玄以は「女性の分際で茶の指南とはこざかしい」と憤りを示す が、茶々は同調せず、「私も叔父上から茶の手ほどきをされています」と静かに述べた。
三成は「茶の湯はそもそも、武士のたしなみとしてあったはず。それが町衆の茶が天下に罷り通り、困った風潮でございます」と語った。 玄以は「利休は殿下の御加護をいいことに、長次郎という陶工と結託してガラクタのような茶碗を法外な値段で売り付けている」と利休を 批判した。しかし茶々は彼らの意見には全く賛同を示さず、むしろ利休の手前を見てみたいと言い出した。
京都大徳寺の住持職・古渓和尚が秀長の働きかけで1年ぶりに赦免となり、利休は山門を訪れた。絵師の長谷川等伯が、赦免を祝って襖絵 を描いていた。古渓は利休が寄進してくれた礼として、木像を作ることを告げた。利休は困惑するが、古渓は「山門には寄進者の木像が 決まりです」と言う。既に等伯に下絵を描いてもらい、安慶に彫ってもらう段取りも付けてあるという。
秀吉は宴を催し、能を披露した。以前から具合の悪かった秀長が、観劇中に血を吐いた。利休は秀長を茶室に招き、茶を点てた。秀長が 「このところ、何かと兄上のワガママが目立つ。そなたも気遣いでご苦労だな」と言うので、利休は「てっぺんに登り詰めてお寂しいので ございましょう」と述べた。秀長は「一つ茶碗を世話してくれんか。赤地の華やいだものにしようか」と頼んだ。
雨の夜、利休の元を宗二が訪れた。宗二は「今までの考えに大きな誤りがあったと気付きました。小さなことを気にしすぎていたと 思いました。手前の間、心から離れないような名物はかえって茶の湯には邪魔物と思うようになりました」と語る。利休は「いかなる名物 もあって無いようにするのが、果てしない茶の道かもしれん」と述べた。宗二は茶を点てて、「これで小田原に帰っても思い直すことは ありません」と口にした。彼は北条幻庵と約束があるので、小田原へ帰るのだという。
利休は宗二に、「折を見て、殿下のご機嫌の良い時に一緒にご挨拶に窺おう」と告げる。宗二が面会に行くと、秀吉は小田原を抜け出して きたことを認め、「所払いは許し、五百石で召し使う」と言う。宗二は恐縮しながら「思し召しには沿い難いことでございまして」と言い 、幻庵との約束があることを告げた。秀吉は激怒し、「一旦命じた以上、そなたはワシの茶道だ、とやかく言わさん」と怒鳴る。宗二は 「何としても小田原に戻らなければなりません。お願い致します」と頼むが、耳と鼻を削ぎ落とされ、殺された。
古渓は完成した木像を利休に見せた。利休は「こうしてみると私の方が影法師です」と漏らした。りきの兄・鳥飼彌兵衛が利休を訪ね、唐 を秀吉が征服した時に備えて能の準備をする考えを語った。利休は、唐は明智討ちのようにはいかないだろうという意見を口にした。りき は北政所への指南を終えて帰宅し、バテレン追放が決まったことを利休に話した。りきは「ステハノも居辛くなりましょうねえ」と言う。 ポルトガルへ戻っても茶を続けるつもりだと述べたステハノに、利休は「大地には果てが無いのじゃ」と告げた。
光秀は彌兵衛と会い、利休が「唐は明智討ちのようにはいくまい」と言っていたことを知った。軍議の場で、光秀や玄以は唐出兵に難色を 示す徳川家康を批判し、難事業を課すべきだと主張した。秀長は「天下の統一は力だけでは運ばれぬ。締め上げるだけが能ではない」と 意見するが、体調が悪くて中座した。秀吉から「家康をどう思うか」と問われた利休は、「秀長様の意見が正論だと存じます。殿下の ご方針通りに関八州を治めておられます。野心で動くような人物ではありません」と告げた。
秀吉は利休に、家康を茶会に招いて唐出兵を承服させるよう命じた。すると光秀は、処刑した南蛮人の持っていた粉薬を茶に混ぜれば家康 を毒殺できると言い出した。利休は三成から薬の入ったギヤマンの小瓶を渡され、「御一存で」と告げられた。利休の元に弟子の細川忠興 から手紙が届いた。玄以の命を受けた寺社奉行・村上刑部たちが、大徳寺にやって来たのだという。刑部たちは「利休の木像があるはず じゃ」と言い、臨検と称して寺に乗り込んだ。
利休はりきの前で、「殿下のお気持ちは、もうワシの手からは遠く離れたようじゃ」と漏らした。りきは「家康様は何もかもお見通しの方 と存じます。明日の茶会で何もかも打ち明ければお力を貸してくださるのではないでしょうか」と告げた。翌日、利休は茶室に家康を招き 、「いつも最後と思って作る茶室ですが、無駄ばかりが目に付きます」と語る。家康は「物事に最後は無いでしょう。終わりは新しいこと の始まりではありませんか」と述べた。利休は薬を使わず、家康は三河へ戻っていった。
三成は秀吉に、鳥飼から聞いた唐出兵に関する利休の発言を報告した。そして「明智討ちをたわいもないことであったかのような」と、 秀吉が利休に対して反感を持つように煽った。秀長が死亡した後、秀吉は利休の茶室を訪れた。利休は秀吉の唐出兵に対し、明確に反対の 意志を示した。秀吉は腹を立て、堺での閉居を命じた。北政所は秀吉をなだめ、りきに手紙を送って、利休からの詫びがあれば許すよう 頼んだ。しかし利休はりきに、「今までのことを詫びる必要など無い」と言い切った…。監督は勅使河原宏、原作は野上彌生子、脚本は赤瀬川原平&勅使河原宏、企画は勅使河原宏、製作は山内静夫&峰村永夫&渡邊一夫、 プロデューサーは野村紀子&上村力、製作総指揮は奥山融、撮影は森田富士郎、編集は谷口登司夫、録音は西崎英雄、照明は中岡源権、 美術は西岡善信&重田重盛、衣装はワダエミ、音楽は武満徹。
出演は三國連太郎、山崎努、三田佳子、松本幸四郎(九代目)、中村吉右衛門(二代目)、田村亮、坂東八十助(五代目。現・十代目 坂東三津五郎)、岸田今日子、北林谷栄、山口小夜子、井川比佐志、藤田芳子、嵐圭史、中村橋之助(三代目)、財津一郎、観世栄夫、 江波杏子、瀬間千恵、秋乃桜子、杣山久美、千田真弓、元永定正、飯田善國、堂本尚郎、熊倉功夫、中村獅童(二代目)、ルイ・マルケス、 丹野由之、青山裕一、織本順吉、今福将雄、矢野宣、栗崎昇、久保晶、森山潤久、徳田興人、伊藤友乃ら。
野上彌生子の小説『秀吉と利休』を基にした松竹映画。
同年に井上靖の小説を基にした『千利休 本覺坊遺文』を熊井啓が撮っており(東宝配給、製作は西友)、利休を題材とした作品の競作と なった。
利休を三國連太郎、秀吉を山崎努、りきを三田佳子、信長を 松本幸四郎(九代目)、家康を中村吉右衛門(二代目)、秀長を田村亮、三成を坂東八十助(五代目。現・十代目坂東三津五郎)、北政所 を岸田今日子、大政所を北林谷栄、茶々を山口小夜子、宗二を井川比佐志が演じている。冒頭、茶を点てて「こんな具合で良かったかな」と笑う秀吉に、利休は「はあ、まあ」と、ためらいがちに言う。どうやら、あまり納得 できる手前ではなかったようだ。
でも、何がどう利休にとっては納得いかないのか、見ているだけでは全く分からないんだよね。茶道に詳しい人なら一目瞭然なのかも しれんけど。
その後、利休が点てた茶を飲んだ秀吉が「ワシのは、型が見えすぎか」と呟くので、どうやらそういう違いがあるらしい。
いや、分かんねえよ。
っていうか、利休がなんでそんなに冷たい態度なのかも良く分からん。とにかく経緯を省略しまくる。
信長が登場したと思ったら、次のシーンではもう死んだ後だ。それが終わったら、もう秀吉が光秀を討った後で、茶室を作れと言われた次 のシーンでは、もう茶室が出来ている。
そりゃあ省略技法は効果的なケースもあるし、この映画でも、ある程度はOKだ。別に経緯を全て描けとは言わない。例えば茶室が完成 するまでの様子を丁寧に描くことなど求めない。
ただし問題は、そこにあるべきドラマも省略されているってことだ。
そこにドラマが無くて、ただ事象を並べているだけになっている。もう一つ、利休がその時、どう思ったのか、何を考えているかのも、まるで伝わってこない。
例えば信長の茶頭として茶会に参加した時、信長に対して、あるいは秀吉に対して、どういう印象を持っていたのか。
信長が討たれた時、秀吉が関白になった時、それに対してどう感じたのか。
黄金の茶室を作る命令に、どういう感想を持ったのか。
そういう心情が、まるで分からないのだ。利休は黒茶碗のような侘びの世界を志向しているのに、秀吉の派手好きな志向も批判せずに受け入れる。それは寛容なのではなく、たぶん 秀吉に媚びている、政治におもねっているということなんだろう。
それは30分ぐらい過ぎた辺りから分かってきた。
ただ、心情が分からんことは変わらない。
そもそも利休がどういう人なのかという知識が事前に無いと、「侘び寂びの世界の人でありながら、秀吉の派手好きも容認している」と いう解釈が出来ないよな。最初から派手好きなタイプだと誤解してしまうかもしれない。だから、まず「利休についてそれなりの知識がある人」というハードルを越える必要がある。
それだけでなく、周囲の面々や時代背景についても知識が必要だ。
詳しいキャラ紹介や人間関係の説明は無いので、名前だけセリフで言われても「そいつは誰で、どういう人か」は、事前に知識が無いと 分からないんだよね。
つまり教養の高い人だけがターゲットってことだろう。
誰でも簡単に入れるわけじゃないっていう、高級料亭とか予約制のクラブみたいな映画だね。利休と秀吉の関係が少しずつ破綻していく様子、反目していくドラマ、互いの感情の高まりは、まるで感じられない。
三成が最初に反目を煽るようなことを言った後、そこの話が全く膨らまず、一向に進行しないんだよね。
どこに主軸があるのか、何をどう描きたいのかがボンヤリしたまま、淡々とエピソードが羅列されていくばかり。
利休の心が見えないだけでなく、秀吉の利休に対する反感が湧き立って行く描写も見られない。
「殿下のお気持ちは、もうワシの手からは遠く離れたようじゃ」とりきの前で利休は漏らすが、そもそも近かった頃の表現が不足している し、それが少しずつ離れていく様子も感じられないし。それまで秀吉の厚い信任を受けていた利休が詰め腹を斬らされた理由は明らかになっておらず、複数の説がある。
その内、この映画は「利休が政事に深く関わっており、それを快く思わぬ三成たちの策略によって失脚させられた」という説を取って いる。
ただ、それなら、もっと利休が政事に深く関与している描写が必要なのに、そういうシーンがほとんど見られない。
だから、なぜ三成たちが利休をそこまでして排除したがるのか、その理由がサッパリ分からない。秀吉の利休に対する嫉妬、憎悪、そういった感情が出てくるのは、残り30分ぐらいになってからなんだよね。
それまではほとんど描写が無くて、だから「少しずつ溜まって行く」というのが無い。
それと、最初の頃は明らかに秀吉に対して媚びていた利休が、終盤になって意見し、反発するのも、どういう心情の変化があったのか 良く分からない。
しかも、それが茶の湯に関することではなく、政治に対しての意見なんだよね。
そこに来て、急に政治に口出ししているという印象を受ける。あと、「わび茶」の概念もほとんど説明されないため、利休の茶の湯に対する考え方も伝わらない。
「わび茶とはなんぞや」「それまでの茶の湯といかに違うのか」という描写は省略されている。
『山上宗二記』によれば、利休は本能寺の変が起きた年までは先人の茶を踏襲していたらしい。だが、わび茶に目覚め、それを追及して いこうとする姿が描かれることも無い。最初から、利休はその道にあったようにも思える。
いや、「思える」っていうか、何も思えないぐらい説明が無いんだけど。
利休は新しい試みを色々と茶道に持ち込んだ人だけど、そういうことが茶道や利休に詳しくない人にも分かるような描写は無い。
それも「既に分かっている人だけがターゲット」ということなのだろう。(観賞日:2010年4月19日)