『RED SHADOW 赤影』:2001、日本
ある街道で、浪人の風祭竜之介が侍の集団に絡まれた。「この道は我らのもの、道を譲れ」という連中に、風祭は「なぜ退かねばならぬ」 と言い返し、押し問答になる。風祭は刀を抜くと刃を返し、次々に峰打ちで倒して行く。最後に残ったのは少年だったが、怯えながらも 立ち向かおうとする。その様子を目撃した若い浪人・三四郎は、慌てて駆け付け、子供を突き飛ばした。
三四郎は子供に「行け」と言い、刀を抜いて風祭と対峙した。互いに踏み込むタイミングを窺う中、風祭の眉間に蜂が止まった。それを チャンスと見た三四郎が動き、風祭の刀を払い落とした。だが、すかさず風祭は小刀を抜いて構えた。風祭は「邪魔が入った。また会おう」 と余裕の態度で告げると、刀を収めて立ち去った。三四郎は「危ない、危ない、世の中にはとんでもない奴がいるもんだ」と心で呟き、 「命は大切にしなきゃね」と自分に言い聞かせた。
三四郎は浪人の姿をしていたが、実は影一族の忍者・赤影だった。AD535年、地球に隕石が落下した。隕石には地球外金属が含まれて いた。そこからは、この世のどんな物よりも強い剣が作られた。剣を作った部族の長老は、「天から授かったこの力は、争いを鎮めるため に使うのだ」と告げた。時が経ち、無敵の鋼も、わずかに残るのみとなった。影一族の老師は、まだ子供だった赤影、飛鳥、青影に、 「光の世界で影として生きるのが影一族だ」と説いた。
赤影、飛鳥、青影は、忍者の修行を積んで成長した。彼らは老師と頭領の白影に呼ばれ、無敵の鋼で作った甲冑を与えられた。最初の任務 として、3人は戦国大名・六角直正の彦山攻めを食い止めろと命じられた。城に潜入した3人は、天井裏に潜む六角の忍者・半月や三日月 と遭遇するが、全員を眠らせた。3人は六角を脅し、「兵を戻す」と約束する書状に署名をさせた。影一族は、戦国大名・東郷秀信に 仕えていた。白影から任務成功の報告を受けた東郷は、「次は京極を取る」と口にした。
赤影と飛鳥が惚れ合っていると気付いた白影は、「夫婦の情は、必ずお役目の妨げになる」と忠告した。飛鳥は赤影と2人きりになり、 「もし私がお役目で命を落としたら?」と尋ねた。赤影が「俺が絶対に飛鳥を守ってやる」と誓うと、飛鳥は「私が赤影を守る。絶対に 死なせない」と告げた。2人は強く抱き締め合った。白影は青影に、「忍者にとって究極の術は、逃げることだ。我らは侍ではない。 逃げ延びてナンボじゃ」と告げた。
影一族に新たな役目が下った。京極城に新式の兵器が運び込まれたという噂が流れており、それを探ってくるという任務だ。城に潜入した 赤影たちは、罠に掛かってしまった。根来弦斎、乱丸、力丸、不動、金剛という根来忍軍に追い込まれた3人は、外へ逃げ出して戦う。 だが、赤影が弦斎と乱丸に捕まってしまう。赤影を救おうとした飛鳥は、弦斎に斬られて命を落とした。
赤影は青影に救われ、城から脱出した。青影は「斬った男が俺に似ていた」と言うので、赤影は「東郷、京極、六角は忍びの生まれた土地 だ。先祖が同じなら、似た者がいても不思議は無い」と説明した。青影は「飛鳥は殺され、俺は同じ血を引く者を殺した」と感情的になり、 「俺は人を殺しちまったんだよ」と喚いた。彼は「俺は抜ける。好きに生きる」と告げて立ち去った。
病床にあった戦国大名・京極兼光が死去した。弦斎は京極家の家老の竹之内基章に呼ばれ、「姫は、忍びは無用と申しておる。ワシに 仕えよ。お前達の生き残る道はそれしかない」と告げた。京極兼光の葬儀には、東郷も参列した。竹之内は葬儀から帰る東郷に兵を向けて 首を取ろうと考えるが、侍大将の上条高虎は「無謀でござる」と反対した。重臣・凡野兵衛が必死に仲裁する中、髪を短く切った兼光の 孫娘・琴姫が現れた。琴姫は「今日より男子として、この国の主となる」と口にした。
琴姫は東郷と面会し、「この京極が欲しいであろうな」と言った。「いかにも」と認める東郷に、琴姫は兼光が南蛮より取り寄せた戦車を 見せる。琴姫は「私の言うことだけを聞く」と言い、横笛を吹いた。すると、戦車が動き出し、大砲を撃った。それは中に入っている複数 の者が動かしているのだが、琴姫は自分の笛で操っているように見せ掛けたのだ。
凡野を引き連れて森へ出掛けた琴姫は、野武士の集団に包囲された。そこへ三四郎の姿となった赤影が現れ、一味を蹴散らした。琴姫は 赤影の正体を知らぬまま、「私に仕えよ」と命じた。一方、青影は按摩師・善さんの按摩を受けた後、遊女・おりんと関係を持った。彼女 に「お城の中には南蛮からの宝物が溢れているんだって」と言われ、青影は盗み出そうと考えた。
赤影は琴姫に頼まれ、格闘術を教えた。琴姫は「男に生まれたかった。領民のために、この京極を豊かで平和な国にしたい」と口にした。 深夜、赤影は城に潜入し、戦車が張り子だと知った。赤影は乱丸と力丸に見つかり、窮地に陥った。そこに、泥棒目的で潜入していた サーカスの少女・オリガが現れた。そこへ青影も姿を現し、赤影を救って城の外へと脱出した。
白影から戦車が張り子だったと報告を受けた東郷は、「琴姫を殺せ」と命令を出した。一方、竹之内も弦斎に、琴姫の抹殺指令を出した。 弦斎は乱丸たちに、「なぜ技を極めた俺たちが、いつまでも闇に生きて、闇の中で死んでいかねばならんのか。それが定めというなら、 俺たちが断ち切ってやる」と告げた。白影から琴姫の殺害指令を聞かされた赤影は、「平和のために人を殺すということが、本当に 正しいのですか」と疑問を口にした。
京極城に潜入した赤影は、琴姫が乱丸に襲われる現場を目撃し、助けに入った。赤影は琴姫に顔をさらし、馬に乗せて城から連れ出した。 竹之内は敵の仕業に見せ掛けて凡野を斬り、上条に「姫を奪ったのは東郷の忍び、ただちに国境を固められい」と告げた。赤影は湖畔の 小屋に琴姫を運び、「姫を襲ったのは京極の忍びです。自分は京極の安泰を願う者から、姫の警護を命じられました」と語った。琴姫は、 兼光も自分の命を狙っていたことを打ち明けた。
琴姫が「城に戻るぞ」と言い出したため、赤影は「殺されます。殺そうとしているのは、あの者たちだけではございません」と告げた。 そして彼は、自分も琴姫殺害の任務を受けていることを明かした。「なぜじゃ」と問われ、赤影は答えられなかった。彼は「里でお召し物 を手に入れてきます」と告げ、小屋を去った。赤影が小屋に戻ると、弦斎たちが待ち受けていた。赤影は弦斎に首を絞められ、仲間に ならないかと持ち掛けられた。そこに青影が駆け付けるが、弦斎たちは琴姫を拉致して逃走した…。監督は中野裕之、原作は横山光輝、脚本は斉藤ひろし&木村雅俊、製作は佐藤雅夫&阿部忠道&芳賀吉孝&KIM SEUNGBUM、プロデューサー は中山正久&赤井淳司&菅野賢司&YANG SHION&兵頭秀樹、企画は遠藤茂行&厨子稔雄&大川裕&遠谷信幸、撮影は山本英夫、編集は 中野裕之&米田武朗、録音は立石良二、照明は横山秀樹、美術は内藤昭&内田欣哉、擬斗は菅原俊夫&諸鍛冶裕太、音楽は岸利至、 音楽プロデューサーは北神行雄&津島玄一。
出演は安藤政信、奥菜恵、麻生久美子、村上淳、陣内孝則、根津甚八、津川雅彦、竹中直人、布袋寅泰、風間杜夫、吹越満、椎名桔平、 藤井フミヤ、舞の海秀平、谷啓、篠原涼子、きたろう、でんでん、神山繁、アリーナ・カバエワ、中田大輔、福本清三、田中要次、 矢沢幸治、高岡蒼甫、照英、真山章志、ロバート・スコット、松重豊、越前屋俵太、ピエール瀧、スティーヴ・エトウ、 北見唯一、白井滋郎、中村健人、細川純一、夏山剛一、辻本一樹、高橋祐次、本山力、松永吉訓、岡田友孝、國本鐘建、空田浩志、 菱谷昌功、平井三智栄、上田こずえ、青井敏之、石野理央、水貴俊、中村明子、森脇友美、長谷川憲、朴原美智代、小野賢章、豊田眞唯、 堅山隼太、小笠原ひかる、小国和樹、小国友紀美、羽根田量太、中矢伸志ら。
ミュージック・クリップの世界で活躍し、『SF サムライ・フィクション』で映画監督デビューした中野裕之監督の第3作。
赤影を 安藤政信、琴姫を奥菜恵、飛鳥を麻生久美子、青影を村上淳、竹之内を陣内孝則、根来を根津甚八、東郷を津川雅彦、白影を竹中直人、 風祭を布袋寅泰、六角を風間杜夫、半月を吹越満、善さんを椎名桔平、乱丸を藤井フミヤが演じている。『仮面の忍者 赤影』は横山光輝の忍者漫画の題名だが、たぶん同名の特撮テレビ番組の方が有名だろう。忍者モノのTVシリーズを企画 した東映が横山光輝に原作を依頼し、連載が開始されたのが『飛騨の赤影』で、テレビの放送開始に合わせて原作も題名が変更された。
TVシリーズは、豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃という時代設定だが、巨大なロボットや怪獣が登場するなど、アバンギャルドな作風 で子供たちの人気を集めた。
さて、このフィルムは原作として横山光輝の名前が表記されているが、漫画ともTVシリーズとも全く関係が無い。
赤影、青影、白影という名の忍者が登場するというだけで、設定も内容も全くのオリジナルだ。
簡単に言えば、漫画やTVシリーズを無視しているってことだ。
そうやって完成した作品は、どこを直せばいいというレベルではなく、無かったことにしたいぐらいヒドい。冒頭、風祭が武士たちを倒し、赤影が対峙するシーンになる。
だが、風祭が登場するのは、その冒頭シーンだけ。その後は二度と登場しない。
じゃあ何だったんだよ、そいつの存在も、そのシーンの意味もだ。
で、照明の色が変わってスローになり、ハチが飛ぶ視点で見せて、それが風祭の眉間に止まる。そこから細かくカットを割っており、 どうやら刀の切っ先が落ちて、そこの隙を見て三四郎が刀を振っているようだが、何がどう動いているのか、良く分からない。
そのアクションシーンは一発目だから客を掴む魅力が欲しいところだが、スピード感は無いし、迫力も無い。とにかく軽い。何より、赤影が全く強そうではない。
赤影なのに。
「危ない、危ない、世の中にはとんでもない奴がいるもんだ」という呟きも、すげえ軽いノリだ。
とてもじゃないが、「時代劇の主人公」「影に生きる忍者」としての台詞回しとは思えない。
「本当の名は赤影。実は、影一族の忍者だ」と言われても、「嘘だと言ってくれ」と、信じたくない気分にさせられる。あと、「余計なお節介をして、危うく命を落とすところだった」とか言うけど、そのモノローグ自体が余計なことだろうに。
「危なかった」という表情だけで、そういうことは伝わるんだよ。
「命は大切にしなきゃね」とか、軽いノリで言ってるんじゃねえよ。
この冒頭シーンだけで、この映画がクソだと断定できてしまう。それぐらいのパンチ力がある。で、その流れのままで、「俺の名は、亀岡三四郎」と語り出す。
いや、モノローグがダメだとは言わないが、その「カメラの前の観客に 向かって喋る」という表現はやめてくれ。そういうのは、現代劇の青春ドラマか何かでやるようなことだ。時代劇映画でやるなよ。
あと、安藤政信って単純に台詞回しが下手だよな。発声に全く安定感が無い。
クライマックスにおける「赤影、参上」というセリフの、なんと弱々しいことよ。登場人物は全員、現代口調で喋っている。 あえて「時代劇に現代劇のエッセンスを取り込む」というやり方も無いわけじゃない。
現代口調で喋っても、現代の言葉が登場しても、 基本の部分がしっかりと時代劇であれば、その上での遊びだから構わない。
だけど、基盤も何も無いから、そういうとこでそういうコトをやると、「ちっとも時代劇に見えない」という状況に陥るのだ。
およそ時代劇に似つかわしくない、まるで安物のスパイ映画か何かのような打ち込み系音楽に乗せて、前蹴りを繰り返す子供時代の飛鳥や、 いちいち「キラーン」と言ってから手裏剣を投げる赤影&青影、バック転する赤影をなぜか指差しす青影、走りながら意味も無くクルリと 横回転する赤影&青影、いちいち「トォー」とか言う赤影&青影の様子が描かれ、脱力感を誘う。子供の赤影&青影が「時よ止まれ」と念じて落ちてくる木の葉に手をかざすが、それは忍術じゃなくて、超能力の世界だろ。
で、成長した青影が「なんでいちいち術を唱えなきゃいけないんだ?」と尋ね、赤影が「それは、昔からの決まりだから」と能天気に 答える。青影が「術を唱えている間に敵が手裏剣を投げてきたらどうするのか」と訊くと、赤影は「早口で唱えればいいだろ」と返答 する。
なんだ、このアホな会話は。
で、大人になっても、相変わらず「時よ止まれ」とやっている。だが、その後、忍術を使う時に、いちいち言葉で唱えることは全く無い。
っていうか、「時よ止まれ」以外に、言葉で唱えるような術は一つも無いのだ。手裏剣を投げる時も、いちいち「キラーン」とか言ったり しないし。
その辺りは、監督はギャグとしてやっているのだろうが、一ミリも笑えない。白影に呼ばれた赤影たちは、いちいち体操選手みたいに回転技を入れてから隠れ家に着地する。
困ったことに、監督は明らかにそれを「カッコイイ」と思ってやっている。
だが、この映画はテレビ版のように「荒唐無稽を真面目にやっている」ということじゃなくて、「生半可な気持ちでふざけている」「忍者 映画をナメている」としか思えないのである。
赤影たちは無敵の鋼を身に付けるが、無敵の鋼という設定の意味が全く無い。そこを特別なものにしている意味は無い。普通の鎖かたびら や普通の剣という設定でも何の支障も無い。AD535年に隕石が地球に落下したとか、部族の長老が「この力は争いを鎮めるために使う のだ」と告げたとか、今は無敵の鋼が少ししか残っていないとか、そういう設定の全てが無意味。ミッション・ワンと英語で表示され、(監督は世界市場を見据えて作っているのだ)、六角の城に潜入するシーンが始まる。 屋根の上を忍び歩きで移動する3人の動きの、なんとモタモタしていることよ。
で、飛鳥が色仕掛けで金玉を蹴って「油断禁物の術、テヘッ」と笑う。
ブルーとレッドは、また回転技で着地し、「10点……?」などと言ったりする。
やっぱ脱力系のコメディーだよな。笑えないだけで。
なぜ別の場所から侵入したのか、いちいちロープを使って必死に壁を登ったのかは不明。
そこから、すぐにジャンプして壁を飛び越えて、すぐに女と合流している。カッコつけたり、ブルーがヘマしたり、能天気な会話が交わされたりというダラダラした会話があり、天井裏は六角の忍者で混雑している。
半月はオカマ口調で「私たちが先よ、帰って」と言う。敵の忍者は手裏剣を投げるが全く刺さらない。赤影は敵をスプレーで眠らせる。
赤影たちは六角を脅し、書状に署名させる。
戦わないのだ。
戦った結果として殺さない、懲らしめるだけにするというのなら分かるが、そもそも戦いを拒否している。
なんだ、こいつらは。実在の武将、実際の歴史を全く絡めないのも愚かだ。
テレビ版は、実際の歴史と荒唐無稽な話を融合させたところに面白さがあった。だが、そういう「テレビ版の良かったところ」まで全て 排除しているんだよな。
いや、まあ排除するも何も、監督は最初からテレビ版なんて全く眼中にも無いわけだが。
全くのオリジナルとして、ゼロから作り上げているんだよな。新式の兵器を探るために京極城に潜入するシーンも、六角の時と同じく溜め息をつきたくなるコメディー演出の連続だから割愛。ただ脱力 させられるだけなんだよなあ。罠に掛かった3人の会話も、まるで緊迫感は無い。アトラクションで遊んでいる感じ。
藤井フミヤが楽しそうに笑いながら手裏剣を投げたりするが、ただの街のチンピラにしか見えない。
赤影たちは根来忍軍と戦っているが、カット割りがやたら細かいけど下手で、何がどうなっているのか良く分からない。
で、そこに来ても、まだ3人に緊迫感は無くて、相変わらずコメディー芝居。ここは長くアクションが続くが、ホントに退屈。
アクションなのに退屈って、よっぽどだぜ。
なぜ退屈かって、スター隠し芸大会よりも低いレベルの、内輪受けの遊びにしか見えないからだよ。
で、敵に捕まった赤影に駆け寄ろうとして、飛鳥が斬られて死ぬ。
そりゃそうだろ。助けるために戦うとかじゃなくて、ただ敵に向かって走っただけだぜ。
アホだろ、その死に方は。青影は「同じ血を引く者を殺した」と喚くが、顔が似ていたからって、同じ血を引くとは限らないだろ。
あと、「人を殺しちまったんだよ」と喚くな。忍者だろ。殺しを避けていたにしても、成り行きによっては殺さなくちゃいけないことも あるだろ。それぐらいで「俺は抜ける」って、フヌケか。そんなことぐらいで我を失う忍者って、なんだよ。ちゃんと修行を積んだの かよ。
っていうか、「俺は好きに生きる」と言うが、そんなに簡単に抜けられるものなのか、忍者って。忍びの世界で、抜け忍は粛正されるのが 普通だと思うが。
まあ、監督は忍者の普通とか、そういう感覚が全く無いから、こういう作品を平気で作れるんだろうけどさ。
ようはオリエンタリズムに憧れるハリウッドのB級監督と同じような感覚なんだよな、この人は。京極は死亡し、葬儀に東郷が参列するが、そういうもんじゃないだろ、一国の主が死んだ時って。
琴姫は髪の毛を切って「今日より男子として、この国の主となる」と言うが、ずっと姫として知られていなかったのならともかく、今まで 姫として暮らしてきたのに急に「男子」と言っても、そりゃ無理だから。
もうメチャクチャだよ。ルール無用だな。
赤影が乱丸と力丸に見つかったところでサーカス少女が現われるが、こいつの登場した意味は全くの不明。弦斎は「なぜ技を極めた俺たちが、いつまでも闇に生きて、闇の中で死んでいかねばならんのか。それが定めというなら、俺たちが 断ち切ってやる」と言い出すが、こっちは赤影と違って忍者のメインストリームであるべきでしょうに、そういうポジションにある奴らが 、忍者の在り方を根底から否定するようなことを言うなよ。
そんで、弦斎は湖畔に現れ、琴姫に「闇にうごめき、闇に死ぬ。それが我らの生き様じゃ」と堂々と言ってるけど、そういうのを やめたかったんだろうに。
どうやら赤影は今まで殺しの仕事をしてこなかったようだが、なぜ今回だけ急に殺しの任務なのか。
で、「平和のために人を殺すということが、本当に正しいのですか」と白影に言うが、そういうのは、今までも何度も殺しをやってきた上 で言うべきだよな。
なぜ初めての殺しを、そういう重要な任務でやらせるのか。誰 でも最初の殺しは緊張するはずだし、もっと簡単なところで経験させておくべきだろうに。
それも一人でやらせるんじゃなくて、複数でやらせるとか。あと、今までおちゃらけたノリで任務をこなしていたので、そこで急にシリアスな感じで「任務を忠実に遂行することが本当に正しいのか」 とか悩まれても、全く話に説得力が無い。
今までは任務を忠実に、そして冷徹に遂行してこそ、そこで初めて心に揺らぎが見えることに、大きな意味や効果が生じるのよ。
それも、同じような任務じゃないとダメだ。つまり、今までも殺しであるべき。
今回だけ殺しだと、初めての殺しにビビっているように見える。っていうか、青影は簡単に忍者を辞めてるよな。
だったら赤影だって、悩む必要は何も無いのよ。さっさと忍者を辞めて、それで姫を守ればいい。それだけのことだ。
簡単に辞められるんだから、忍者の掟なんて厳しくないってことだよ。だから、掟に縛られる必要は全く無い。
実際、縛られている忍者が、劇中に出て来ないもんな。命令に背いて、それでヒドい目に遭う奴もいないし。
で、赤影は任務を遂行しなかったどころか妨害したのに、何の咎めも無く、東郷は笑って済ませている。
アホらしいったらありゃしない。姫を殺せず助けてしまうまでに、赤影が苦悩・葛藤する時間がほとんど無い。命令が下ってすぐに白影に疑問を投げ掛け、すぐに乱丸との 戦いに入ってしまうからね。
あと、幾ら劇中で殺しを避けたいからって、竹之内一派との戦いで琴姫が「上条、殺してはならぬ」と命令するのはムチャだよ。向こうは 殺そうとして襲ってくるのに、そんな状況で敵を殺すなと言われても困るだろ。
で、最後、赤影が竹之内を殺さず、捕まえるだけで済ませるのは、まあ許すとしよう。
ただ、そこのアクションが、てんでダメなのよ。
普通、そこって最大の見せ場になるべきでしょ。ハイライトを作るなら、そこをチョイスするような盛り上がりになるべきトコなのに、 「なんかダラダラとやってるなあ、いつになったらギアチェンジして本格的に激しいチャンバラになるんだろう」と思っていたら、その 低いテンションのままで、あっさりと終わってしまうのだ。最後、琴姫が「この京極の地においては、いかなる争いも許さぬぞ」と姫が宣言し、家来が「おう」と雄叫びを上げて賛同しているが、 争いが無くなるってことは、侍や忍者の存在意義が危うくなるってことなんだよな。
そういう問題を孕んでいるのに、この映画、そこは全く無視している。
登場人物の誰かがそこに言及することも無いし、それへの反対意見を誰かが述べることも無い。とりあえず、中野監督が昔のTV版に何の思い入れも無ければ、何の関心も無いことだけは、腹立たしいほど良く分かる。
荒唐無稽を力一杯にやっていたTV版の面白さは、完全に消え失せている。リスペクトってモノも全く無い。
ただ、原作漫画やTV版に思い入れが無くても、監督の手腕やセンスがあれば、全く別の忍者映画としては面白くなっただろう。
しかし、この人には時代劇や忍者映画のセンスが全く無い。
っていうか、そもそも映画を撮るセンスが全く無い。
このフィルムは、ただの悪ふざけだ。そんな人に赤影を任せたのが間違いで、東映の上層部の罪は重い。
東映創立50周年記念作品を、なぜ彼に委ねようと思ったのだろうか。
みんなドラッグでラリっていたのだろうか。
何かとんでもないことがあって、ヤケクソになっていたのだろうか。
せめて、「赤影」の名前を使わずに作るべきだった。
それが、東映や中野監督が見せることの出来る、最低限の誠意だろう。(観賞日:2009年12月16日)