『ライアの祈り』:2015、日本

ベトナム、カットバ島。佐久間五郎は後輩の瀬戸義春と共に6千年前の土器が出たという集落を訪れ、族長に「貴方がリーダーとして大事にしていることは何ですか?」と質問した。すると族長は、「村人たちがいかなる恐れを抱かぬままに、綺麗な空気を吸い、美味しい水を飲み、畑を耕し、狩りをして、家族と共に笑顔で暮らせるようにする。それが族長である私の使命だ」と答えた。さらに五郎は、「もう一つだけ質問させて下さい。人間として、一番大切なことは何ですか?」と尋ねると、族長は穏やかな笑みを浮かべた。
一年前、青森県八戸市。大森桃子は別れた夫である圭祐からの電話で、もうすぐ再婚することを知らされた。平然と対応した桃子だが、出来ちゃった結婚だと聞いて動揺する。桃子と圭祐は離婚したのは、子供が出来なかったことが原因だった。弘前から転勤して来たばかりの桃子は後輩の宮内桜に誘われ、新酒発表パーティーに参加した。桜の友人である小坂あおいや由良京介から話し掛けられ、桃子は戸惑いの表情を浮かべる。そこへ京介に誘われた五郎が来るが、「やはり僕は、こういう場は」と困った様子を見せた。
五郎はフルネームの一部を取って、「クマゴロウ」と周囲の人々から呼ばれていた。桃子は五郎と話し、役所の考古学研究員として発掘調査に携わっていることを知る。専門は縄文時代だと聞き、桃子は「どういう所に惹かれるんですか」と尋ねた。五郎は「まずは一万年以上、続いたことです」と言い、その凄さについて熱く語る。彼が「どうして一万年以上も続いたと思います?」と尋ねると、桜が現れて「みんなが幸せだったからじゃない?」と軽く言う。すると五郎は、「ほとんど正解です」と告げた。すると桃子は、「なんかいいなあ、みんなが一万年も笑っていられるなんて」と呟いた。
次の店で酔い潰れた桃子を下宿まで送り届けた五郎は、住んでいる実家の近所だと知った。翌朝、桃子は店長を務める玉屋眼鏡店へ赴き、仕事を始める。昨夜のことを全く覚えていなかった桃子は、「あんなことになるなんて思ってなかったし」という桜の言葉に反応し、何があったか教えてほしいと頼む。そこへ五郎が現れ、「昨夜のこと、私は全然気にしてませんから。結婚できないのは当然ですから」と言う。泥酔した桃子は、「穴なんか掘って、なんか楽しいわけ?」と五郎に言っていたのだ。
桃子は八戸の案内も要求しており、五郎は彼女を車に乗せた。五郎は陸奥湊市場へ行き、桃子に八戸丼を御馳走した。縄文時代の食生活について五郎から聞かされた桃子は、不思議な感覚に見舞われた。桃子は五郎に、「子供の頃から時々、大昔の森の中を夢に見る」と明かす。彼女は冗談めかして、「あれって、縄文時代の森だったりして」と告げた。さらに彼女は、パーティーで五郎と会った時に、大昔の森の風や空気の匂いを感じたと語る。
すると五郎は「ちょっと確かめてみませんか」と言い、自分の仕事場である是川縄文館へ彼女を連れて行く。彼が八戸から出土した土器を桃子に触らせ、国宝の合掌土偶を見せた。「縄文時代の人たちって、人が生きるために必要な物を全部持ってたんじゃないのかなあ」と桃子が口にすると、五郎は「そうなんです。彼らは生きるために必要な物を過不足なく持っていた。みんなで共有していた。現代人みたいに、要らない物を持ったり、それを奪い合ったりはしなかった」と語る。
五郎が「彼らを知れば知るほど、学ぶべきことが出て来ます」と言うと、桃子は子供の頃の夢を叶えた彼を羨ましいと感じた。桃子は五郎に連れられて居酒屋を訪れると、小説家志望だったことを話した。「クマゴロウさんって、縄文時代の人たちの代弁者なのかも」と彼女が口にすると、五郎は「縄文時代の人たちは現代人と違って、文字を持っていなかった。彼らの代弁者になってみませんか。縄文人の物語を書いてみませんか」と提案した。
次の日、数日後、桃子は五郎に誘われてバーへ行き、改めて小説の執筆を促される。桃子は尻込みするが、五郎は熱い口調で饒舌に語る。夢の景色に桃子が言及すると五郎は「運命的な物を感じます」と告げ、是川一王寺遺跡へ来るよう持ち掛けた。五郎は桃子をボランティアの初枝たちに紹介し、発掘作業を体験させる。説明を受けながら作業をしていた桃子は、縄文土器の欠片を発見した。桃子は他の発掘品も見せてもらい、勾玉の形を「水ギョウザみたい」と言う。五郎が「食べたことが無いです」と告げると、桃子は初枝たちに頼まれたこともあり、彼を下宿に招いて水ギョウザを用意した。
後日、桃子は五郎に連れられ、ブナの原生林や竪穴住居などを訪れた。五郎は案内の途中、「主人公の名前、ライアってどうですか?古い弦楽器で、小さな竪琴みたいな。発掘現場でラジオを聴いていて。それを聴いた時、どうしてか桃子さんの顔が思い浮かんだんです」と語った。桃子は縄文時代の景色を思い浮かべて不思議な感覚に包まれた。下宿に戻った桃子はスケッチブックを開き、夢で見た道具や景色を描き始めた。五郎との交際は続き、やがて1年が経過した。そんな中、五郎が漆器の調査でベトナムを訪れることになり、桃子はお守りとしてミサンガを渡した…。

監督は黒川浩行、原作は森沢明夫「ライアの祈り」(小学館 刊)、脚本は寺田敏雄、製作総指揮は川阪実由貴、プロデューサーは林哲次、撮影は渡部健、照明は木川豊、美術は大町力、録音は西岡正己、編集は斎藤竜、アソシエイトプロデューサーは金澤秀一&岡博之、音楽は加羽沢美濃。
エンディングテーマ「Beloved」WEAVER 作詞:河邉徹、作曲:杉本雄治。
出演は鈴木杏樹、宇梶剛士、武田梨奈、藤田弓子、秋野太作、宅間孝行、水嶋仁美、鈴林みてき、村田雄浩、大島蓉子、前田倫良、岩本多代、中本賢、河相我聞、伊藤晃一、黒島蓮、嘉藤弘恭、神谷昇、望美、百香、瑞木るう、MiNo、川村春霞、美穂、コア寺松、高見菜穂美、あどばるーん、利咲、沼山華子、伊藤寛子、正宗、モモ、松坂和治、松坂七海、駒井秀介、田頭初美、長谷川武夫、ジョー、仲島みちる、福田裕、瀬七、水野瑛大ら。


森沢明夫による“青森三部作”の、完結編となる同名小説を基にした作品。
監督は『殺人者 KILLER OF PARAISO』の黒川浩行。
脚本は『天使の牙 B.T.A.』『交渉人 THE MOVIE タイムリミット 高度10,000mの頭脳戦』の寺田敏雄。
桃子を鈴木杏樹、五郎を宇梶剛士、桜を武田梨奈、桃子の母・静子を藤田弓子、桃子の父・正雄を秋野太作、圭祐を宅間孝行、ライアを水嶋仁美、あおいを鈴林みてき、バーテンを村田雄浩、初枝を大島蓉子、義春を前田倫良、五郎の母を岩本多代、居酒屋の店主を中本賢、船頭を河相我聞が演じている。

この映画で真っ先に特筆すべきは、エンドロールで表記される「支援メンバー」の顔触れだ。
生方幸夫、大島理森、太田昭宏、海江田万里、鴨下一郎、小林興起、前田武志、松浪健太、山谷えり子など、多くの政治家が名前を連ねている。他にも、荒瀬潔(デーリー東北新聞社取締役社長)、内村泰(東京農業大学理事長)、渡邊美佐(渡辺プロダクショングループ会長)など、それぞれの分野で地位のある面々が支援している。
安倍晋三センセーの母である安倍洋子氏は支援メンバーに加わるだけでなく、題字も担当している(彼女は書家としても活動している)。さらに「後援」としては、知的財産戦略本部や経済産業省、農林水産省、観光庁、青森県、駐日ベトナム社会主義共和国大使館など、他にも数多くの団体と教育委員会が表記されている。
それだけ充実したサポート体制を整えられたのは、製作総指揮を担当した川阪実由貴の力によるものである。
株式会社「エム・ケイ・ツー」の代表である川阪実由貴は、とにかく顔が広い人物なのだ(ちなみにライアを演じた水嶋仁美はエム・ケイ・ツーの所属タレントで、これが女優デビュー作)。

ただし、幾ら川阪実由貴の顔が利くと言っても、内容に問題があったら、それだけ多くの政治家が支援メンバーに名を連ねることは有り得ないはずだ。その内容によっては、政治生命にも関わって来るからだ。
支援しても問題はないどころか、むしろ「政治家としてプラスになる」と感じたからこそ、支援しようという気になったのだろう。
そんな風に多くの政治家を動かした本作品には分かりやすいメッセージが込められており、それをシンプルに主張している。
そのメッセージとは、「縄文人を見習おう」というものだ。そのメッセージを発信したいという気持ちの強さが、この映画の仕上がりに大きな影響を与えている。
それは残念ながら、良い影響とは言い難い。

この映画、のっけから違和感の強い展開が用意されている。
五郎がベトナムを訪れるのだが、てっきり発見された土器が目当てなのかと思いきや、なぜか族長に「貴方がリーダーとして大事にしていることは何ですか?」と質問するのである。
一応、彼は土器を手にして「素晴らしい」と漏らしている。しかし、すぐに土器への興味を忘れ、前述の質問を投げ掛けるのだ。
何か会話の流れがあって、そういう質問に至ったわけではない。
あまりにも唐突に、そんなことを言い出すのだ。

さらに彼は、「人間として、一番大切なことは何ですか?」とも尋ねる。
1つ目の質問も含めて、「どういう理由で、そんなことを訊こうと思ったのか」と問いたくなる。
脈絡ってモノが無いので、「最初からそれが目的だったのか」と言いたくなる。どうであれ、そんな質問を投げ掛ける理由はサッパリ分からない。
いや、嘘をついてしまった。実のところ、そんな質問をした理由は分かっている。
「その質問に対する答えが映画のテーマに関わる重要な言葉なので、どうしても言わせる必要があった」ってのが答えだ。
つまり、「段取りとして必要だったから、脈絡を無視して五郎に質問させた」ってことだ。

似たような違和感は、桃子と五郎が初めて会うシーンでも抱くことになる。
まず「専門は縄文時代」と聞いた桃子が興味を示している時点で、早くも違和感を覚える。
もちろんヒロインが縄文時代に興味を持ってくれないと話が進まないのだが、例えば「最初は全く興味なんて無かったが、五郎と触れ合う中で次第にハマっていく」という手順を経てもいいはずだ。っていうか、そっちの方が遥かにスムーズだろう。
しかし前述した冒頭シーンと同じで、この映画は「スムーズな進行」など全面的に無視している。
そんなことよりも「とにかく伝えたいメッセージがあるんだ。だから一刻も早くアピールしたい」という気持ちが、ものすごく強いってことだ。

桃子の「縄文時代の、どういう所に惹かれんですか」という質問に対し、五郎は「まずは一万年以上、続いたことです」と答える。それに対して桃子は、「一万年?」と大げさな驚きで返し、「へえ〜」と感心した様子を見せる。
かなり奇妙な反応だ。
五郎が「いかにも一万年が凄いのか」ってことを熱く説明すると、「確かに凄いです」と答える。五郎の熱さに困惑することもなく、辟易することもなく、桃子は興味津々といった様子だ。
ものすごくヘンテコな女にしか見えないが、それは「メッセージを訴えたい」という気持ちが先走った結果として生じた「歪み」なのである。

なぜか桜が途中で桃子と五郎の会話に参加するのも同様で、「みんなが幸せだったから縄文時代は長く続いた」ってことをアピールしたいがための「歪み」である。
だから役目を終えた桜は、さっさと立ち去ってしまう。
「別の店へ行った桃子が酔い潰れて五郎が背負い、桜が縄文時代の幸せについて尋ねる」というシーンも、同じことだ。
桜が縄文時代に興味を示すのも、五郎が何か言う度に質問するのも、強い違和感が湧く。
だが、そんなリスクを背負ってでも、縄文時代の素晴らしさについて説明したかったのだ。

「目的のためなら登場人物に無理のある台詞を言わせたり、奇妙な行動を取らせたりすることも厭わない」という姿勢は、「縄文時代の素晴らしさをアピールする」という部分に留まらない。
桃子が悪酔いして、「そんなに八戸がいい、弘前よりもいいって言うんだったら、見せてよ。私を納得させて」と五郎に言うシーンがある。
それは「陸奥湊市場や蕪島神社を観客に紹介する」という目的のための手順だ。
この映画は八戸市も後援しており、街の名所をアピールする目的もあるのだ。

ただし、もちろん縄文時代のアピールが一番の目的なので、それは街を巡るシーンでも決して忘れていない。
市場で丼を食べているシーンでは、桃子が唐突に「縄文時代の人たちも、こんな美味しいお魚を食べていたのかなあ」と言い出す手順を用意し、そこから五郎が縄文人の食生活について説明する展開へ繋げている。
もちろん桃子は、その時も驚きのリアクションを見せ、「ものすごく関心がありますよ」ってことをアピールしている。
是川縄文館で発掘品を見せられた時も、興味津々といった態度を見せる。

桃子が縄文時代について語るのは、全て「あたかも最初から全てを理解しているかのよう」に感じられる言葉ばかりである。
それは当然と言えば当然で、なんせ最初から分かっている人が書いた台詞なのだ。
ただし普通であれば、桃子は縄文時代について何も知らない素人なのだから、分かったようなことは言わせないだろう。そして、例えば「素人として何気なく口にしたのに、意外に的を射た意見だった」とか、「最初は無知だったが、やがて興味を抱き、理解した上での言葉を口にする」とか、そういう形を取るだろう。
しかし、そんな手間を掛けることよりも、製作サイドは「真っ直ぐにメッセージを伝える」ということを優先したようだ。
そして桃子の言葉を受けた五郎の口を借りて、縄文時代の素晴らしさをアピールするのだ。

今の時代に「縄文時代は素晴らしいから、みんなで学ぼうよ」と訴えられても、突拍子も無くてバカバカしいメッセージにしか思えないかもしれない。
きっと多くの人がそんな風に感じて相手にしなかったからこそ、酷評を浴びて興行的に惨敗したのだろう。
しかし考えてみれば、どんな時代においても開拓者というのは、馬鹿にされたり冷淡な扱いを受けたりしてきた。
場合によっては粛清されるなど、不遇の人生を歩んできた人もいる。生きている間は誰にも理解してもらえず、死んだ後になって、ようやく「その主張は正しかったのだ」とと認められたり、名誉が回復されたりした人もいる。

だから、この映画の掲げているメッセージだって、いつの日か多くの人々が価値を見直し、広く浸透することになる可能性もある。
それは正しい考え方だと認められ、それに伴って本作品の評価が変化する可能性だって充分に考えられるのだ。
だから、川阪実由貴氏が本気で「縄文人を見習うべきだ」と考え、そのメッセージを伝えるために本作品を製作したのであれば、何も後悔することは無いだろう。
いずれ、この映画の主張は正しかったと認められる日が来るはずだ。

ただし、「桜がレズビアンで桃子に惹かれている」という全く無意味にしか思えない設定があったり、五郎が唐突に2011年3月11日のことを口にしたりする辺りからすると、「縄文人を見習うべきだなんて、製作サイドの誰一人として思っていないんじゃないか」という疑念も沸いてしまう。
しかし、誰も本気で信じていないとしたら、こんな映画を作る意味が無くなってしまうはずで。
ってことは、その理念は正しいと信じているけど、欲張って余計な要素も盛り込んでしまった結果、ますますグダグダな状態に陥ったってことなのかな。
おっと、もう「グダグダ」ってハッキリ書いちゃったね。

(観賞日:2016年11月10日)

 

*ポンコツ映画愛護協会