『ラブ&ピース』:2015、日本

楽器の部品製造会社「PIECE」に勤務する鈴木良一は、同僚の田中や課長たちから馬鹿にされている。良一は嘲笑されても何も言い返せず、常にビクビクしながら仕事をしている。しかし寺島裕子だけは唯一、鈴木を馬鹿にする仲間に加わらない。鈴木が悪戯の標的にされた時は、それとなく助けてあげる優しさも見せる。腹痛に苦しんでいる鈴木を見た彼女は、胃腸薬を差し出した。そんな裕子に鈴木は好意を寄せているが、もちろん告白する勇気など無い。それどころか、ほとんど会話を交わすことさえ出来ない状態が続いている。
百貨店の屋上で昼食を取っていた鈴木は、200円のミドリガメを気に入って購入した。アパートに戻った鈴木は赤いカツラを被り、派手な衣装に着替えてギターを鳴らす。彼はカメに向かって、「これが僕の本当の姿だよ」とノリノリの態度で語り掛ける。鈴木は21歳でバンドを結成したが、3回のライブに全く客が入らなかったので解散していた。カメの名前を考えていた鈴木は、テレビ番組で「ピカドン」という言葉の意味を問われた若者が「怪獣みたい」と言っている様子に目をやった。そこで鈴木は、カメにピカドンと名付けた。
鈴木は人生ゲームを広げてピカドンを歩かせ、「俺をビッグにしてくれ」と叫ぶ。彼は裕子から貰った胃腸薬を手に取り、「寺島裕子さんが大好きだ。付き合いたい」と叫ぶ。5年後の東京オリンピックに向けて8万人収容の日本スタジアムが建設されることを知った鈴木は、そこでライブを開催する夢を抱いた。彼は「日本スタジアムへの道」と題した手作りのコースを用意し、ピカドンを歩かせた。翌日から彼は、ピカドンをポケットに隠して出勤するようになった。同僚から馬鹿にされると、ピカドンを銃に見立てて撃つ真似をした。
ある日、鈴木は会社で裕子にピカドンを見られてしまう。鈴木は慌てて誤魔化そうとするが、田中にも気付かれてしまう。鈴木は同僚たちの嘲笑を浴びて会社を飛び出し、公衆トイレにピカドンを流してしまう。町を徘徊した彼は、ベンチでギターを弾く内藤に目をやった。ギターのボディーがカメの形になっているのを見た鈴木は、いきなり抱き付こうとする。不気味に思った内藤が立ち去ると、鈴木は四つん這いで後を追った。
ピカドンは下水道を流れ、持ち主に捨てられた玩具やペットが集まる「ガラクタ天国」へ辿り着いた。そこには謎の老人が暮らし、玩具を修理していた。彼は言葉が話せるようになる飴を作り、玩具やペットに与えていた。フランス人形のマリアや猫のヌイグルミであるスネ公、ロボットのPC‐300たちは、飴のおかげで言葉が話せるようになっている。マリアがピカドンと話したいと言うので、老人は飴を与える。ピカドンは何の言葉も発しなかったが、マリアは自分の持ち主だったユリについて話した。
良一はピカドンのことを思いながら夜の町を徘徊し、目に付いた文字を織り込みながら歌い始めた。いつの間にか大きくなって光を放っていたピカドンは、それに同調するようにメロディーを口ずさんだ。目を覚ました老人は、与える飴を間違えたことに気付く。彼がピカドンに与えたのは、願いを叶える飴だった。そんな飴の存在を知ったマリアたちに抗議された老人は、「願い事の数の分だけ身体が大きくなる。地上に戻ったとしても、ご主人から願い事を頼まれたらどうする?人間の願い事は貪欲だぞ」と述べた。彼は玩具たちに「アンタたちの願い事は良く分かってる。それは今年中に叶えてやるから。ここから旅立たせてやる」と約束した。
ピカドンの様子を見た老人は、危険な状態だと感じた。彼はピカドンが捨てた主人を大好きであり、その主人が今後は良いこと尽くめになるだろうと確信した。良一は内藤と彼のバンド「Revolution Q」の面々に捕まり、首輪を装着される。内藤たちは路上ライブの会場へ良一を連行し、観客の前で見世物にする。内藤は良一にフォークギターを渡し、何か歌うよう要求した。良一がピカドンの歌を熱唱すると、バンドのメンバーは伴奏を付けた。
たまたま路上ライブを見ていたレコード会社プロデューサーの松井は、良一の歌に心を掴まれた。彼女はマネージャーの稲川に、良一を確保するよう命じた。しかし良一は歌い終わった途端、その場から必死で逃走した。翌日、松井は良一の会社へ押し掛け、外へ連れ出した。彼女は良一の歌を反戦歌だと誤解したまま、「スターになれる素質がある」と絶賛する。良一をレコード会社へ案内した松井は、バンドのメンバーを紹介する。松井は良一に「ワイルド・リョウ」というメンバー名を用意し、契約書にサインさせた。
稲川は会社を辞めるよう良一に告げ、ピカドンという歌詞には問題があるので「ラブ&ピース」に変更するよう指示した。彼は良一と2人になると、「今年中にバンドを解散し、その名声を君が一手に引き受けるんだ」と促した。稲川は良一のために、新しい住まいを用意していた。翌朝、その部屋からの景色を見た良一は裕子や同僚たちの元へ行き、「ワイルド・リョウ」としてライブのチケットを渡した。彼はバンドを率いてライブハウスで熱唱し、集まった客を興奮させた。
ライブを終えた良一は、会場へ来ていた裕子を見つけて声を掛けた。彼は新しいマンションへ裕子を連れ帰り、シャンパンで乾杯する。一方、ガラクタ天国ではPC‐300の内臓ラジオから良一の歌が流れていた。その歌を聴いた老人は、またピカドンが大きくなっていることに気付いた。自身の境遇に落ち込んでいた玩具とペットたちは、その歌を合唱した。その夜遅く、みんなが寝静まった後でピカドンは地下を抜け出した。彼は曲作りに悩む良一の部屋を訪れ、再会を果たした。良一はピカドンを見て喜び、捨てたことを詫びた。
ピカドンはメロディーを口ずさんで歌詞のヒントを与え、良一は新曲を書く。裕子がマンションへ来たので、良一はピカドンを隠そうとする。裕子はピカドンを発見し、かつて良一が会社へ持って来たカメだと気付く。しかし良一は「知らない」と嘘をつき、荒っぽい態度で裕子を追い払った。彼が部屋に戻ると、ピカドンは姿を消していた。良一は次のライブで勝手に新曲を発表し、何も知らなかったバンドのメンバーは腹を立てる。すると良一はメンバーを罵り、自分のおかげでバンドが売れたのだと高慢な態度で言い放った。
良一の人気は上昇を続け、マンションに大勢を集めてパーティーを開く。裕子が訪ねて来ても、彼は会おうとしなかった。クリスマスのシーズンが到来すると、老人は地上へ出て悪酔いした。彼は路上バーゲンセールのワゴンに近付き、トナカイ人形に話し掛けて商売の邪魔をした。ガラクタ天国に戻った老人は、玩具とペットたちを世間の冷たさに触れさせないよう下水道を柵で封鎖した。良一は巨大なカメが出没しているというテレビのニュースを見て、ピカドンだと察知した。
良一が大きなホールでライブを開催する日、マリアとスネ公は老人に酒を飲ませて眠らせる。マリアとスネ公、PC‐300はピカドンの背中に乗り、地上へ出た。一行は段ボール箱に身を隠し、良一のライブ会場を目指す。しかし途中でマリアとPC‐300は離脱し、ピカドンとスネ公だけで向かうことになった。一方、良一はバンドの解散を発表し、驚くメンバーを無視してライブを終えた。良一はメンバーの怒りを買っても冷徹に突き放し、記者会見の場へ向かった。
良一が得意げな態度で会見に応じていると、ピカドンが現れた。動揺する記者団を前にした良一は、自分が超能力で呼んだのだと吹聴する。次の曲で自然保護のスローガンを歌いたかったのだと彼は説明し、カメに歌わせると宣言した。良一がテレパシーを送るフリをすると、ピカドンがメロディーを口ずさんだ。良一はピカドンに歩み寄り、「これが新曲です。バンドを解散したのも、もっとメッセージしたいからです。願いはラブ&ピース。今日から、このカメがラブで、俺がピースです」と語る…。

監督・脚本は園子温、製作は重村博文&長澤修一&山本英俊&宮本直人、プロデューサーは森山敦&豊島雅郎&鎌形英一&柳村努、制作プロデューサーは鈴木剛司、ラインプロデューサーは佐藤圭一朗、撮影は木村信也、照明は尾下栄治、美術デザイナーは清水剛、録音は小宮元、編集は伊藤潤一、特殊造形制作・操演は上松盛明、特技監督は田口清隆、音楽は福田裕彦。
出演は長谷川博己、麻生久美子、西田敏行、松田美由紀、真野恵里菜、神楽坂恵、菅原大吉、波岡一喜、渋川清彦、奥野瑛太、マキタスポーツ、深水元基、手塚とおる、小倉一郎、長谷川大、谷本幸優、IZUMI、田原総一郎、水道橋博士、宮台真司、茂木健一郎、津田大介、横尾和則、川屋せっちん、斎藤嘉樹、吉村卓也、長友郁真、馬庭良介、大沢まりを、奥津菜々子、広野未奈、松永渚、平子哲充、金丸慎太郎、薄井伸一、石坂晋輔ら。
声の出演は星野源、中川翔子、犬山イヌコ、大谷育江。


『TOKYO TRIBE』『新宿スワン』の園子温が監督&脚本を務めた作品。
良一を長谷川博己、裕子を麻生久美子、地下の老人を西田敏行、松井を松田美由紀、稲川を渋川清彦、内藤を奥野瑛太、課長をマキタスポーツ、田中を深水元基、科学者を手塚とおるが演じている。通勤電車の女子高生役で真野恵里菜、ユリの母親役で神楽坂恵、記者役で菅原大吉、アパートの住人役で波岡一喜が出演している。
PC‐300の声を星野源、マリアの声を中川翔子、スネ公の声を犬山イヌコ、ピカドンの声を大谷育江が担当している。

この映画、もしも無名の若手監督が自主制作として撮っていたら、特撮の技術が稚拙であろうと、色んな箇所で粗さが見えようと、「強烈なパワー&エナジーを感じる映画」として高く評価されていたかもしれない。
だが、もはや有名監督になってしまった園子温が、田口清隆を始めとする優秀な特撮スタッフを招聘して手掛けた全国公開の商業作品としては、完全に「ダメな映画」である。
この作品の脚本を彼は25年前に書き上げていたそうだが、その時点で撮るべきだったのだ。

脚本が25年前の物だからなのか、感覚が古臭いという印象を受ける。
今回の映画化に際して手を加えたのかもしれないが、だとしたら改変が足りなかったってことなんだろう。
多くの怪獣映画が公開されていた1960年代や1970年代を感じさせるモノであれば、あえて狙ったとも受け取れるだろう。しかし、そうではなく中途半端に古臭いのだ。
冒頭に『朝まで生テレビ』的なテレビ番組のシーンを用意していることからして、もう古臭い。もはや『朝まで生テレビ』なんて、すっかりパワーが無くなっちゃってるわけで。

「これ以上の東京一極集中が進んでいいのかという批判がある」とか、「原爆投下から70年」とか、何となく政治的な匂い(しかも左寄りの匂い)が漂う要素が幾つか盛り込まれているのは、悪い意味で引っ掛かる。
かつて園子温は、路上パフォーマンス集団「東京ガガガ」を主宰していた人だ。
だが、少なくとも映画監督としては、左翼っぽいメッセージを発信するようなことは今までやっていなかったはず。
そこは25年前に完成させた脚本から何も変更しなかったのかもしれないが、そういう要素も、古臭さから来る陳腐な印象に直結している。

良一はカメを飼ってアパートへ持ち帰った途端、急に元気一杯でノリノリな奴に変貌している。その急変ぶりは、違和感しか無い。
これが「冴えないダメ人間がカメに癒やされる」ってことなら分かるのよ。でも良一の場合、癒やされるというレベルを遥かに超越し、別人のように変貌しちゃってるからね。
どうしてカメ一匹でそこまで変われるのかと。
少しずつ変化していくならともかく、一瞬にしての変貌なので、「そのカメからヤバい薬でも放出されているのか」と思っちゃうぞ。

良一は派手な格好に着替えてノリノリの態度を取る時、「これが普段の姿」と言っている。
だけど、冒頭シーンでアパートにいた彼は、ただの冴えないダメ人間でしかなかったでしょ。
そんなに元気一杯でもなければ、ギターも弾いていなかったでしょ。明らかに、カメを飼ったことで大きく変化しているでしょ。
そんなノリノリの様子が「普段の良一」という設定にするのであれば、冒頭シーンはアパートじゃなくて通勤電車や会社にいる彼を見せるべきでしょ。

あと、なぜ良一が周囲の面々から馬鹿にされ、嘲笑されるのかがイマイチ分からない。
長谷川博己は「いかにもダメ人間です」という芝居を大げさに演じているし、周囲の人間が馬鹿にする様子は描かれている。しかし、「すぐに腹痛で苦しむ」という様子以外に、良一の何がどうダメでバカな奴なのかを表現するための描写が見当たらない。
むしろ、カメを会社へ連れて行き、密かに話し掛けたり同僚を撃つ真似をしたりするようになってからの方が、「そりゃあイジメを受けるだろうな」と思わせる。
ただ、良一は同僚から馬鹿にされ、イジメの対象になっているが、全く同情心が湧かない。そして主人公としての魅力も、これっぽっちも感じない。ものすごく可哀想な男のはずだが、かなり不快指数が高いのである。

良一が初めてピカドンを会社へ連れて行くシーンの後、「そこから何日も経過して」ってことを示すための描写が入る。それは、良一とピカドンが長く一緒に暮らすことで、絆が深くなったことをアピールしておくための手順だ。
ただ、序盤からダイジェスト処理を挿入することによって、構成として不細工になっている。
これを避ける方法は簡単で、最初から良一がピカドンを飼っている設定にすればいいのだ。「何らかの事情でピカドンを会社へ持って行かざるを得なくなった」ってことにすれば、同僚に見つかる手順は消化できる。
っていうか、嘲笑されたにしても、自らの意志でピカドンを捨てるのは酷い行為なので、そこは「誤ってトイレに流してしまう」という形でもいいんじゃないかと。そうすれば、ピカドンを会社へ連れて行く手順は使わずに済むし。

ピカドンがガラクタ天国に辿り着くと、急にファンタジーの世界へ突入する。
かなりチープな印象は否めないし、テンポがマッタリしているし、「願いが叶う飴」とか「その飴で願い事が叶う度に体が大きくなる」という設定は都合が良すぎるし、色々と引っ掛かる点はある。
ただ、これが子供向け映画だとすれば、アプローチとしては分からなくもないし、少なくとも良一の物語を追い続けるよりは面白くなる可能性を感じる。
しかし残念ながら、これは子供向け映画じゃないし、その後も良一の物語を追い続けるのである。

内藤はロックバンドのギタリストなのに、良一が初めて遭遇する時だけは、なぜか一人で演奏している。バンドのライブ会場にはファンが集まっているが、内藤が一人で演奏している時は誰もいない。
その辺りは、かなり不自然だ。
内藤たちが良一を見つけて拉致するのも、ファークギターを渡して歌うよう要求するのも、これまた不自然極まりない。
この映画、基本的に「スムーズな進行」ってのは無視している。良く言えば荒削り、悪く言えばデタラメだ。
っていうか、もはや「荒削り」ってのも良く言っている表現ではないよな。駆け出しの新人監督じゃないんだから。

「良一が熱唱するピカドンの歌は人々に感動を与えて絶賛される」という展開は、見ているこっちが恥ずかしくなってしまう。
「反戦歌と誤解される」というネタが用意されていることを鑑みても、やっぱり恥ずかしい。
そもそも、そのネタが笑いとして機能していない。そこをネタとして使うにしては、歌詞も曲調も中途半端。
っていうか、園子温監督が本気で感動させようとしている匂いが感じられる。
本気で感動できるような楽曲ならともかく、そうじゃないので、中途半端になっちゃってるわけだ。

大きくなったピカドンを裕子に発見された時、なぜ良一が「こんな奴は知らない」と言い、荒っぽい態度で追い払うのか良く分からない。
他の連中ならともかく、裕子に対してシラを切る理由が見当たらない。
「以前の自分とは違うから、カメを可愛がっているような姿を彼女に知られたくない」ってことなのかもしれないけど、だとしても説明不足が甚だしくて全く伝わらない。
その後、裕子が尋ねて来ても全く会おうとしないのだが、これまた理解に苦しむ。

良一は新曲を書きあげると、バンドメンバーに知らせず勝手に発表する。怒りを買っても全く謝罪せず、偉そうな態度で突き放す。
「良一がスターになって人が変わってしまう」ってのを見せたいのは分かる。でも、変化の経緯を幾つもスッ飛ばしているもんだから、段取りに合わせて主人公を強引に動かしているという印象しか受けない。
裕子からの電話に対する喋り方まで変化するのも、これまた不自然極まりない。
伝えたいのであろうストーリーに対して映画の中身が追い付いていないから、こっちは全く乗れないのだ。

記者会見場にピカドンが出現した時に良一が「超能力で呼んだ」だの「テレパシーを送って歌わせる」だのと適当な嘘を並べる対応も、それに対する周囲の面々の反応も、全てが三文芝居にしか見えない。
それをコメディーとしてではなく、どうやらマジな意識でやっているってのが、なおさら厳しい。
まあコメディーだとしても、相当にキツいんだけどね。
っていうか、ここだけが三文芝居ってわけじゃなくて、それ以前から三文芝居っちゃあ三文芝居なんだけどね。

捨てられた玩具やペットの悲哀を描こうとするシーンが何度かあるのだが、これが良一のストーリーと全く融合していない。
終盤に入ると「実は老人の正体がサンタクロースだった」ってことが明らかにされるが、それも含めて良一のストーリーには何の影響も与えていない。
っていうか、伏線が何も用意されていなかったわけではないが、「実は老人がサンタクロース」という仕掛けには「なんじゃ、そりゃ」という感想しか浮かばないわ。

(観賞日:2016年12月29日)

 

*ポンコツ映画愛護協会