『ラブ・レター』:1998、日本

佐竹興業のチンピラ・高野吾郎は、裏ビデオ屋の店長をしている。ある日、吾郎は組長の佐竹義則から、偽装結婚の話を持ち掛けられた。別れた妻と暮らす娘に会えなかった吾郎は、プロモーターの穴吹から80万の謝礼を受け取り、戸籍を貸すことにした。
入管審査の日、吾郎は偽装結婚の相手である中国人女性・康白蘭(かん・ぱいらん)と会った。2人は入管審査を受け、無事に済ませた。後日、吾郎は偽ダイヤのバイヤーから20万円で指輪を購入し、白蘭が働くクラブに出向いた。
吾郎はクラブのママから、夫がいると分かれば人気が落ちると言われ、2度と来ないでくれと告げられる。吾郎は指輪をママに預けて白蘭に渡してもらい、店を後にした。その直後、店に捜査が入り、白蘭は千葉の千倉にあるスナックへと仕事場を変えた。
時が過ぎて、吾郎は白蘭のことなど完全に忘れていた。娘と会っていた彼は、シャブの売買ルートを探っている刑事によって児童買春の罪を着せられ、留置所に放り込まれた。釈放された吾郎は、白蘭が亡くなったという連絡を受け取った。吾郎は戸籍上では白蘭の夫になるため、彼女の遺体を引き取りに来るよう求められた。
吾郎は釈然としない気持ちを抱えつつ、舎弟の中山サトシを引き連れて千倉へと出向いた。遺体を火葬した後、白蘭が働いていたスナックに足を向けた吾郎は、彼女が自分宛てに書いた手紙を発見した。そこには拙い日本語で、吾郎に対する感謝の言葉と、吾郎の墓に入れてほしいという願いが綴られていた…。

監督は森崎東、原作は浅田次郎、脚本は中島丈博&森崎東、製作は八木ヶ谷昭次&石川富康、プロデューサーは田沢連二&中島芳人、企画は鍋島壽夫、撮影は浜田毅、編集は後藤彦治、録音は原田眞一、照明は長田達也、美術は重田重盛、衣裳は本間邦人&酒井ゆかり、音楽は松村禎三、音楽プロデューサーは小野寺重之。
出演は中井貴一、山本太郎、耿忠(タン・チュウ)、根津甚八、大地康雄、倍賞美津子、名古屋章、佐藤B作、平田満、柄本明、洞口依子、光岡優、内田春菊、大杉漣、笹野高史、でんでん、浦田賢一、六平直政、加藤久詞、加島潤、小森英明、松本幸三、上原由恵、渥美沙織、綾部知子、寺島令子、福島彩乃、李媛、李丹、コグレ・マシタ、真実一路、諏訪太郎、道又隆成、川倉正一、宇野正洋、大川良寛、野口雅弘、江藤亮二、岩田清、森山哲治ら。


浅田次郎の短編小説を映画化した作品。
吾郎を中井貴一、サトシを山本太郎、白蘭を耿忠(タン・チュウ)、佐竹を根津甚八、穴吹を大地康雄、千倉のスナックのママを倍賞美津子、質屋の主人を名古屋章、千倉署の斎藤巡査長を佐藤B作が演じている。

この作品、入り方からして良く分からない。冒頭、画面には難民船が漂う様子が映し出され、ナレーションで「昨年8月にベトナムの難民船が長崎沖で発見された。彼らは40日という長い時間をどのように過ごし、肉親達の絆を確かめあったのか」と語られる。
これは、直後に主人公のアパートで流れているテレビの映像だと分かる。しかし、そういう入り方をするからには、「いかにベトナム難民が肉親達の絆を確かめあったのか」を描くのかと思ってしまう。しかし、そういうことは描かれないのだ。
しかも、登場するのはベトナム難民でさえなく、中国からの不法労働者だ。最初に説明しなくても、アジア各国から日本に不法労働者が入ってきている事実は大半の観客が知っているはず。その導入部分の描写は、完全に外していると思う。

さて、その妙な導入映像に続いて登場するのが、主役を演じる中井貴一。これが見事にミスキャスト。幾らグラサンを掛けてみたところで、チンピラには見えない。まだ知性派幹部の役ならイケたのかもしれないが、ヤクザの三下って、そりゃ無いでしょ。
吾郎という男は、心の奥には優しさや真面目な気質を持ちつつも、ドロップアウトして世を拗ねた生き方をしている男のはずだ。ところが、中井貴一では最初から善人の顔が見えてしまう。「いい人が無理をしてワルを演じている」と見えてしまうのだ。

また、吾郎のキャラクターに「バツイチで娘がいる」という設定を持ち込んだのも失敗だろう。「愛など無い孤独な日々を過ごしていた吾郎が、白蘭によって初めて愛に目覚め、心を洗われる」ということで、大きな感動が生まれるはずだ。吾郎が愛を注ぐ対象としての娘を用意してしまったら、そこがすっかり薄まってしまう。
吾郎が、愛が無い孤独な生活、すさんだ生活をしていることを強調するためには、隣の外国人と仲良くやっている様子なども要らないだろう。もっと荒れた生活をしてくれないと終盤の変化が生きないのに、前半から穏やかさや人の温もりが見えすぎる。
「吾郎が白蘭によって変化する」という所が、この映画の肝であるはずだ。だから、最初の内から吾郎の周囲に人情が見えすぎると、変化の幅が狭くなるのだ。そう考えると、もっと人情のかけらも無いようなヤクザ社会の様子を描いた方が良かったのでは。

その時に感じるか後になって気付くかはともかく、吾郎の前で白蘭が純粋さや素朴さをアピールすることが必要だろう。そうでなければ、白蘭の死に吾郎が涙したり自分の墓に入れてやると決めたのが、単なる哀れみ、同情だけになってしまう。
白蘭が吾郎の前で自身をアピールできる場面は、クラブでは股旅姿で踊るだけなので、入管審査の日だけだ。そうであるならば、入管審査の前に2人が予習をする場面に時間を割いて、そこで白蘭の女性像を示しておくべきだったのではないだろうか。

白蘭は辛いことばかりの生活の中で、自分に優しくしてくれた唯一の男である吾郎を心の拠り所として求め、愛を向ける。一方、吾郎にとっての白蘭は、ただ戸籍を貸した女というだけだ。吾郎の白蘭に対する感情は、終盤に唐突に出てきて違和感を抱かせる。
吾郎が残された手紙を読む場面(耿忠の語りが入る)は、確かに感動的だ。しかし、それは「そこだけ」が感動的なのだ。その前のドラマがあっての感動ではない。だったら長編の意味は無いし、短編映画の方がいいんじゃないかと思ってしまうのだ。

しかも、その映画のハイライトがあった後、吾郎が海辺で股旅姿の白蘭を思い出すとか、雪の中でウェディングドレスを着て横たわっている白蘭の夢を見るとか、ワケの分からない場面を持って来る。
大体、手紙の後が長いよ。サクッとカットして、いきなり墓に遺体を持って行く場面でもいいと思うよ。最後、妙な幻覚で終わらせるぐらいなら。

 

*ポンコツ映画愛護協会