『ローレライ』:2005、日本

第二次世界大戦末期、1945年7月18日、西太平洋・日本列島近海。潜航中の米国海軍潜水艦潜水艦ボーンフィッシュは、前方の敵潜水艦 から聞こえる女性の歌声をキャッチした。その直後、なぜか敵艦は正確にボーンフィッシュの位置を掴み、魚雷によって撃沈した。歌声を 残す正体不明の潜水艦を、米国海軍の兵士達は「鋼鉄の魔女」と呼んで恐れた。
8月6日、米軍は原子爆弾を広島に投下し、大打撃を与えた。特攻に反対して3年前に船を降りた絹見真一少佐は、海軍軍令部第一部 第一課長・浅倉良橘大佐に呼び出された。浅倉は絹見に、軍属技師・高須成美がドイツから接収した実験潜水艦伊507を見せ、その艦長に 抜擢した。浅倉が伊507に与えた命令は、新たな原爆投下の阻止だ。
伊507に乗船した絹見は、旧友である先任将校の木崎茂房大尉と再会した。高須の他、軍医長の時岡纏、掌砲長の田口徳太郎、機関長の岩村 七五郎ら70名の乗組員も乗船した。その中には、特殊潜航艇“N式”の正操舵手・折笠征人と副操舵手・清永喜久雄もいる。N式について 詳しく知っているのは高須だけだ。高須は絹見らに対し、N式が人間魚雷“回天”のような特攻兵器ではなく、高感度のソナーである “ローレライ・システム”を搭載した潜航艇だと説明する。
折笠と清永は、N式の中から女性の歌声がするのを耳にした。折笠が密かに内部を調べると、そこには1人の少女の姿があった。その直後、 米国の駆逐艦隊が接近し、折笠はN式での出撃を命じられた。ローレライ・システムは、敵の距離も包囲も正確に捉え、それを立体的に 視覚化した。艦隊の一隻を撃沈し、伊507は離脱する。
ジェイコブズ艦長やマイノット中尉らを乗せた米国海軍駆逐艦フライシャーには、伊507への攻撃を控えて拿捕せよとの命令が通達された。 高須は絹見らに問い詰められ、ローレライ・システムの秘密を明かした。システムの中枢は、折笠が発見した日系ドイツ人少女、パウラ・ A・エブナーだった。彼女の特殊な能力により、敵の位置を視覚化していたのだ。
海軍軍令部第三部諜報主任・大湊三吉大佐は行方をくらました浅倉を捜すため、彼の恩師である元駐米大使・西宮貞元の元を訪れた。浅倉 が西宮に送った手紙の中には、「国家としての切腹を断行す」という文言があった。折笠は絹見に特攻を願い出るが却下され、傷付いた パウラの世話をするよう命じられた。米国は、2発目の原爆を長崎に投下した。
伊507に敵艦が接近する中、高須や田口が銃を構えて艦を占拠した。それは、浅倉の指示によるものだった。その浅倉は部下の土谷祐少尉 を伴い、海軍の軍令部総長・楢崎英太郎大将ら幹部が集まる会議室に姿を見せた。浅倉は米国との協定を結んで伊507とローレライ・ システムを供与し、3発目の原爆を東京に投下させようと目論んでいた…。

監督は樋口真嗣、原作は福井晴敏、脚本は鈴木智、製作は亀山千広、製作統括は島谷能成&関一由&千草宗一郎&大月俊倫、 プロデューサーは臼井裕詞&市川南&甘木モリオ、協力プロデューサーは山田健一、監督補は尾上克郎、企画協力は中島かずき、 撮影は佐光朗、編集は奥田浩史、録音は鶴牧仁、照明は渡邊孝一、美術は清水剛、VFXスーパーバイザーは佐藤敦紀&田中貴志、 画コンテ協力は庵野秀明、パウラ・ヘアメイクデザインは柘植伊佐夫、水密服デザインは出渕裕、B-29マークデザインは押井守、 音楽は佐藤直紀、主題歌はヘイリー『モーツァルトの子守唄』。
出演は役所広司、妻夫木聡、柳葉敏郎、香椎由宇、石黒賢、堤真一、國村隼、佐藤隆太、ピエール瀧、小野武彦、鶴見辰吾、伊武雅刀、 橋爪功、阿川佐和子、粟根まこと、井上肇、KREVA、近藤公園、塚本耕司、上川隆也、野口雅弘、大河内浩、佐藤佐吉、平賀雅臣、 江畑浩規、忍成修吾、富野由悠季、橋本じゅん、インディ高橋、蒲生純一、逆木圭一郎、川原正嗣、前田悟、こぐれ修、河野まさと、 大森樹ら。


福井晴敏の小説『終戦のローレライ』を基にした作品。
絹見を役所広司、折笠を妻夫木聡、木崎を柳葉敏郎、パウラを香椎由宇、高須を石黒賢、浅倉を堤真一、時岡を國村隼、清永を佐藤隆太、 田口をピエール瀧、岩村を小野武彦、大湊を鶴見辰吾、楢崎を伊武雅刀、西宮を橋爪功、西宮の妻を阿川佐和子が演じている。
ちなみにフライシャーの艦長を演じているのは、ハリウッドの大物俳優タイロン・パワーの息子だ。

小説『終戦のローレライ』自体が、最初から映画化を想定して執筆されている。
元々、意気投合した福井晴敏と樋口真嗣が映画化を想定した企画を考え、その小説版を福井晴敏が、映画版を樋口真嗣が担当したといった感じだろうか。
だから「原作を冒涜している」的な批判は違うと思う。
原作者は、こういう映画を想定していたはずだ。

監督が樋口真嗣なので、最初から硬派の戦争映画になるわけがないと思っていた。
オタク趣味の強いアニメチックなSF映画になるであろうことは、想定内だった。
画コンテ協力で庵野秀明、水密服デザインで出渕裕、B-29マークデザインで押井守といったアニメ界関係者 が関わっていると知ったことで、その予想はさらに強いものとなっていた。
『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』『超時空要塞マクロス』『新世紀エヴァンゲリオン』など、様々なTVアニメを混ぜ合わせ、 それをアニメテイストたっぷりのままで実写化したのが、この映画である。

この映画を見て「リアルな戦争映画としてダメだ」と批判するのは、完全に的外れだ。
監督が樋口真嗣という段階で、そんなモノになるはずがないのだ。
ただし製作サイドにも、それに対する責任が無いわけではない。
私のように監督やスタッフから予想できる人間ばかりではないのだから、マイナスになる誤解を避けるためにも、「リアルな戦争映画、 硬派な潜水艦映画」として宣伝したことは誤りだった。
もっと「荒唐無稽なSF映画ですよ」ということをアピールしておくべきだったのだ。
「1959年の『潜水艦イ−57降伏せず』以来、46年ぶりの本格的な潜水艦映画」として宣伝するなんて、絶対にやっちゃいけないことだったのだ。

ただ、これってキャスティングも悪いよなあ。
主演が役所広司で敵役が堤真一となれば、普通はバカ映画だとは思わないよなあ。
意図的に作られたバカ映画ではなく、『北京原人』と同じように結果的に出来てしまったバカ映画なので、役所広司や堤真一も「マジな 戦争映画」として熱演しているし。
バカ映画らしいアイコンでもあれば、もうちょっと予想の助けにはなったかもしれないけどね。
例えば丹波哲郎さんが出ているとかさ。
っていうか、役所広司で実写化すべきは『沈黙の艦隊』だったんじゃないのかねえ。

時代考証は、全くやっていないと言ってもいい。
絹見らが堂々と「原子爆弾」と呼んでいるし(投下された時点では、どんな爆弾かは知らなかったはず)、日本兵は総じて髪が長い。
だが、それでいいのだ。
これはバカバカしいSFアニメ的実写映画であり、リアリティーなど必要が無い。
皆の髪が長いのも、「これはファンタジーの世界の出来事ですよ、実際の第二次世界大戦とは何の関係もありませんよ」ということを強調 するためには、良かったのではないか。

ストーリーの展開は、とにかく慌ただしい。気持ちを入り込ませる余裕も無いまま、すぐに次の場所へと移動してしまう。1つ1つの要素、 1人1人のキャラクターを充分に取り扱うための時間が足りず、どれも薄っぺらい状態となっている。
ボリュームたっぷりの原作を128分に収めるために相当の無理をしたようで、例えば開始から約20分程度で、もう折笠がパウラを発見して いる。その時点で足元が固まっていれば、別にパウラを発見させても構わないのだが、まだフワフワしたままだ。
全体を通して、スピーディーでテンポが良いのではなく、ひたすら落ち着きが無い。
そんな中で、戦争映画にあるべき緊迫感、潜水艦映画にあるべき閉塞感は、この映画には微塵も感じられない。
しかし、これはバカ映画なので、それも仕方が無い。
たっぷりと詰め込まれた安っぽいVFXが、バカ映画らしさを強調するために貢献してくれている。

ローレライがパウラの特殊能力によって動いていたことが判明した後、その仕掛けは大した意味を持たなくなってしまう。
クーデターが明らかになってしまうと、それを阻止する行動において、守るべき対象が生きている少女であろうと機械であろうと船であろうと、大差は無いのだ。
例えば絹見や折笠とパウラの人間関係を深く描いているなら、そこでの絆の強さやら葛藤やらの心情ドラマによって、パウラが少女である 意味を見出すことは出来る。あるいは、パウラが超能力者として恐れたり悩んだりすれば、そこでも意味は見出せる。
しかし、パウラは単にオタクの萌えキャラとして存在しており、見た目だけに意味があるようなモノだ。
だから、パウラの代わりに副操舵手でも構わない。「ソナーを動かすために必要な人材」ということであれば、成立する。
そこを少女ではなく機械にしておき、綿密な時代考証をすれば、架空戦史モノとして硬派でシリアスな潜水艦映画になった可能性はある。
キーポイントを綾波レイもどきのパウラにしたことが、この作品をバカ映画に仕立て上げた根源と言っていい。
『潜水艦イ−57降伏せず』の影響を受けて映画を作るに際し、「潜水艦に若い娘が乗っている」という部分を重視するあたりは、さすが オタク的な目の付け所と言っていいだろう。

(観賞日:2007年2月24日)


第2回(2005年度)蛇いちご賞

・作品賞

 

*ポンコツ映画愛護協会