『ラストラブ』:2007、日本

ジャズ・ミュージシャンの阿川明は、ニューヨークの名門ジャズクラブ『バードランド』で自身のバンドを率いてサックスを演奏する。客席には妻の友美と幼い一人娘の佐和が来ており、一曲目の演奏を終えた明は「ウチの家族が来てるんだ。今日は私の誕生日なんだ」とマイクで挨拶する。彼がステージへ招くと、花束を抱えた友美を連れて歩み寄った。5年後、朝倉大吾が経営する小さな旅行代理店は創立10周年を迎え、記念パーテイーが開かれていた。パーティーに参加した明は、親友である朝倉に「お前が来てくれてから上り調子だ」と感謝される。朝倉から「そろそろ吹っ切ったらどうだ」と言われた明だが、心は晴れないままだった。
明は5年前に癌で友美を失い、サックスを捨てて帰国した。彼は朝倉の会社で働き、佐和と2人で横浜に暮らしていた。一方、上原結は恋人の坂原大樹と結婚に向けた準備を進めており、夢を膨らませていた。ある朝、明がゴミを出していると、回収に来た環境課職員の結が「これは資源ゴミですね、今日じゃありませんよ。燃えるゴミの日です」と指摘する。明は「いいじゃないか」と文句を付け、そのまま放置して去ろうとする。結は「ちゃんと持って帰って下さい」と言い、反発する明を注意した。
神奈川県庁の環境課職員である結は、後輩の河島徹が苦労していた厄介な陳情客を一睨みで追い払う。明は朝倉から、予定していた添乗員の代役としてニューヨークへ行くよう頼まれる。結は課長から、環境局との技術提携や記念セレモニーの会議でニューヨークへ行くよう頼まれる。成田で飛行機に搭乗した2人は、通路を挟んで隣の席になった。明は添乗員として仕事を済ませ、公園のベンチで佇みながら妻のことを回想する。結は会議を終えると、結婚式の下見として教会へ行くことにした。
公園にやって来た結は、明と遭遇する。結は明に、「最近、彼が遠くに行っちゃってる気がして」と相談する。明は結と一緒に教会へ行き、親身になって助言した。結が礼を述べて「なんか阿川さんって、お父さんみたい」と言うと、明は「せめてお兄さんにしてくれよ」と軽く笑った。夜、明は『バードランド』を覗くが、中には入らずに立ち去った。一方、結は坂原から電話で婚約破棄を告げられ、ショックを受けた。
ホテルへ戻った明は、結の出張に同行していた河島から「電話しても繋がらないんですよ」と言われる。明は結の部屋へ行き、婚約破棄されたことを知る。悪酔いして泣いている彼女を、明は『バードランド』へ連れて行く。明が結を励ましていると、ステージで演奏していた旧友のビルが彼に気付いた。拍手を受けた明はステージに上がり、演奏に参加した。しかし妻のことを思い出し、すぐにステージを降りてしまった。
店を出た明は、結に「妻は俺が殺した」と吐露した。彼は友美が店で倒れたこと、医者から癌で手遅れだと診断されたことを話した。結はサックスを吹くべきだと促すが、明は「君に何が分かる」と拒否した。日本に戻った明は、『バードランド』で彼の演奏を聴いていた李玲という女性からの電話を受ける。ジャズクラブ『コットンクラブ』に呼び出された明は、オーナーの娘である李玲から復帰を要請される。明が否定的な態度を示すと、彼女は「間違ってるよ。貴方はジャズを捨ててはいけない」と口にした。
その夜、明はピアノ教室に通う佐和からの電話で、「教室で転んじゃって。ちょっと擦りむいたんだけど大丈夫」と告げられる。「教室のお姉ちゃんが送ってくれて、もう着くよ」と言われた明が迎えに出ると、娘を送り届けてくれたのは結だった。明は結の分も料理を用意し、一緒に夕食を取る。佐和を寝かせた後、彼は結に「ステージに復帰することにしたよ」と明かした。後日、結は佐和の誕生日に阿川家を訪れ、子犬をプレゼントした。明は結とジャズクラブへ出掛け、演奏を聴きながら会話を楽しんだ。
明は復帰記念コンサートでステージに立ち、結と佐和は客席で見守った。明は朝倉とバーのカウンターで飲んでいた時、急に倒れ込んでしまう。慌てて朝倉が抱き起こして救急車を呼ぼうとするが、明は「ちょっと飲み過ぎただけだ」と釈明した。しかしバーを出た帰路に就いた明は、激しい痛みに見舞われた。病院で意識を取り戻した彼は、救急車で運ばれたことを知る。明は医者から、スキルス癌で余命3ヶ月だと宣告される…。

監督は藤田明二、原作はYoshi「LAST LOVE」(講談社刊)、脚本は龍樹、製作統括は若杉正明&早河洋&野田助嗣、製作は亀山慶二&松本輝起&気賀純夫&柳田和久&三ツ井譲&久松猛朗&大宮敏靖&水野文英&中村邦彦、企画は梅澤道彦&北川淳一、プロデューサーは中山和記、プロデュース協力は井口喜一&榎望&杉山登、アソシエイトプロデューサーは橋本芙美、ラインプロデューサーは牧義寛、脚本協力は松平周子、撮影は川田正幸、照明は渡邊孝一、美術は山本修身、編集は山本正明、録音は竹中泰、サックス指導は稲垣次郎、ジャズ編曲協力は前田憲男、音楽は大島ミチル、主題歌は絢香「Jewelry day」。
出演は田村正和、伊東美咲、高島礼子、片岡鶴太郎、山崎一、ユンソナ、森迫永依、細川茂樹、阿部進之介、飯田基祐、宮崎彩子、小林令門、安田知世未、荒井梨理花、Cleve Gray、Ken S.、Seiko Higuma、Shauna Feeley、Mollie Feeley、Fred Simmons、Rick Vogel、James Mahone、Jonathan Katz、Mark Tourian、Forris L. Fulford, Jr.、Neil Stalnaker、Zion、水橋孝、武田光司、葉毛田耕士、茶谷将彦、鈴木啓友、竹村直哉、西本奈々、柴田敏弥、高瀬裕、安藤正則、Kenyata Beaseley、Lew Gluckin、Roland Schneider、Akiko Tsuruga、Joris Teepe他。


ケータイ小説『Deep Love』シリーズで注目を集めたYoshi大先生の原作を基にした作品。
『アジアンタムブルー』で映画監督デビューした藤田明二が、2度目のメガホンを執っている。
脚本担当の龍樹(これで「りゅうじゅ」と読ませる)は、現在は放送作家や広告プランナーとして活動しているらしいが、プロとしての仕事は本作品が初めてのようだ。
明役の田村正和は、1993年の『子連れ狼 その小さき手に』以来の映画出演となる。
結を伊東美咲、友美を高島礼子、朝倉を片岡鶴太郎、課長を山崎一、李玲をユンソナ、佐和を森迫永依、坂原を細川茂樹、河島を阿部進之介が演じている。

プロデューサーの中山和記と監督の藤田明二、撮影の川田正幸は田村正和が主演した1988年のTVドラマ『ニューヨーク恋物語』の顔触れなので、「まず田村正和ありき」の企画だったんだろう。
しかし残念ながら、田村正和を主演に起用した時点で、この映画の失敗は半ば決まっていたと言ってもいい。
『ニューヨーク恋物語』を始めとして、これまで田村正和は数多くのTVドラマで色っぽさのある大人の男を演じて来た。そのイメージが、中山プロデューサーにも強くあったんだろう。しかし残念ながら本作品の田村正和は、まだ40代だった『ニューヨーク恋物語』の頃に比べると、すっかり年を取ってしまった。
たぶん中山プロデューサーからすると、「年を取っても滲み出る魅力」を期待したんだろう。しかし、もはや本作品の田村正和は、「何を言っているのかイマイチ聞き取れないような状態なのに、本人はカッコイイと思い込んでいる哀れな年寄り」でしかない。
それが田村正和の個性ではあるんだが、ボソボソと喋るので、台詞が聞き取れない箇所が幾つもあるのだ。
また、これも彼の個性ではあるんだろうが、喋る時に発する「あはん」「うふん」ってな感じの含み笑いが、疎ましいレベルに及んでいるってのも厳しい。

田村正和の相手役に伊東美咲を起用したのも、これまた大失敗だ。
彼女はお世辞にも芝居が上手い女優ではないので、「最初は明を年寄り扱いした上に嫌悪していたが、少しずつ好意を抱き、それが恋愛感情へ昇華する」という結の繊細な気持ちの移り変わりなんて全く表現できていない。
ただし、ちょっと可哀想な部分もあって、それは「そもそも結の心情の移り変わりが変で雑」ってことだ。
まあキャラの描写が丁寧であっても、それを具現化できる演技力は無いので、どっちにしろ似たような状態になっただろうけど。

この作品は先に原作小説があって、それを映像化したわけではない。中山プロデューサーが映画の企画をYoshi大先生に持ち掛けて、このために小説を書き下ろしてもらったのだ。
だが、Yoshi大先生の小説は主に女子中高生からの人気で話題になったのであり、大人からは全くと言っていいほど相手にされていなかった。
だから、明らかに大人向けの映画にYoshi大先生の小説を使うってのは、その時点で企画として間違っている。
大人の観賞に耐えるメロドラマなんて、Yoshi大先生には荷が重すぎるでしょうに。

Yoshi大先生の原作なので、もちろん失笑の連続である。「ただ退屈なだけの駄作」ではないので、そういう意味では見る価値があると言ってもいい。
ストーリーを追いながら失笑ポイントを指摘していく前に、まず「田村正和の娘が森迫永依」という配役の部分に触れておこう。
明の年齢設定は57歳で、佐和は10歳。そういう父子が実社会で存在しないわけではないが、映画としては違和感が否めない。
「年を取ってから産まれた娘」という部分に、大きな意味があるわけではない。もっと根本的なことを言ってしまうと、そもそも娘の存在意義が皆無に等しい。
しかも皮肉なことに森迫永依の演技力が高いので、余計に田村正和と伊東美咲のひどさが際立ってしまう結果になっている。
この映画で最も演技力が上手いのは、間違いなく森迫永依だ。しかもダントツだ。

田村正和は稲垣次郎の指導でサックスの特訓を積んだらしいが、もちろんプロじゃないので数多くの曲を演奏できるほど上達できるわけではない。
それでも『Begin the Beguine』だけは吹けるようになったんだろうけど、よっぽどアピールしたかったのか、あるいは製作サイドが気を遣ってしまったのか、その曲しか演奏しない。
普通、「プロのジャズ・ミュージシャン」という設定なんだから、複数の曲を演奏するシーンが用意されるべきでしょ。でも、明は劇中、『Begin the Beguine』しか演奏しないのだ。
だから「またかよ」と言いたくなるし、それが明という人物&映画全体の陳腐な印象に結び付いている。

っていうかね、そもそも「ニューヨークでバリバリに活躍するジャズ・ミュージシャン」という設定で、演奏曲をスウィング・スタイルの『Begin the Beguine』にしている時点で、どうなのかと思うんだよね。
個人的にスウィング・ジャズは大好きだけど、「ニューヨークで活躍しているイケてるジャズ奏者」として描くのなら、そこはダンモのズージャにしておいた方がいいんじゃないかと。
楽曲のテンポも含めて「ラウンジ・ミュージック」っぽさが強くて、「カッコイイ主人公」のイメージには合わないんじゃないかと。

さてストーリーの中身に入っていこう。
冒頭、明が名門ジャズクラブ『バードランド』でバンドの外国人ミュージシャンたちと共に演奏する。その時点で違和感に満ちているが、そこは誰が主人公を演じたところで無理が生じるので仕方が無い。
さて、明の紹介を受けた友美はステージへと歩み寄り、花束を差し出そうとする。しかし花束が床に落ち、シーンが切り替わると5年後になっている。友美は癌で死去し、明は帰国して一人娘の佐和と暮らしている。
花束が落ちたのは、「そのタイミングで友美が倒れ、癌が発覚した」ってことだ。ただ、あまりにも表現が遠すぎるので、ちょっと意味の分からないシーンと化している。
友美が倒れる様子は後から回想として挿入されるが、その時点で隠しておいた意味なんて全く無い。

5年後に移った後、まずは明と結の様子がカットバックで描かれる。
だが、そこは明だけに絞り込んでおいた方がいい。明のシーンから話を始めて5年後になったんだから、「5年後の明」を描く手順にするのが当然の流れであって、そこで急に明と結を並列の扱にするのはバランスが悪い。
明が対面するシーンを、結の初登場にしておけばいい。先に「彼女に恋人がいて、結婚を控えていて云々」ってのを提示しなくても、後から描けば余裕で間に合う。
っていうか、そうすべきだ。

明が結と出会うのは、ゴミを出すシーンだ。燃えるゴミの日に資源ゴミを出して注意されると、明は「いいじゃないか」と文句を付けて放置しようとする。
こんな主人公を造形している時点でYoshi大先生の特殊なセンスが見えるが、もっと凄いのは結の描写。
明を注意した後、「私は忙しいんで、失礼します」と言うと作業服をバサッと脱ぎ、パンツルックになって颯爽と出勤していくのだ。
どうやら、それを「カッコイイ女」として描いているようだが、単に「変な女」と感じるだけだ。

さて、明は添乗員の代役で、結は課長の代役で、ニューヨークへ行くことになる。そして同じ飛行機に搭乗し、再会を果たす。
もちろん都合の良すぎる偶然だが、そんなのはYoshi大先生に限らず、良くあるパターンだ。
そのバカバカしさは、コメディーなら大きなマイナスとしては作用せずに済むこともある。ただ、マジなメロドラマの場合、それは陳腐さに直結する。
でも、その辺りはコメディーっぽいノリを匂わせているので、まだ何とかなりそうな可能性は充分に残っている。

明と結はニューヨークの公園で再会するが、そんなのも良くある。っていうか、むしろ飛行機で偶然に再会したのなら、ニューヨークに着いても早い段階で「偶然の遭遇」を用意しなきゃ意味が無い。
ってなわけで予定調和の再会を果たすわけだが、もちろん恋に発展するには早すぎる。互いに悪い印象しか持っておらず、機内でも言い合いになっていたぐらいだ。
ところが、なぜか結は、結婚のことで明に相談を持ち掛ける。
嫌な年寄りだと思っていた相手なのに、どういう人物なのか全く知らないのに、いきなりマジな恋愛相談をするなんて、さすがはYoshi大先生の描く女性キャラクターだ。マトモな女じゃないのだ。
そうでなくっちゃね。

明がホテルへ戻ると、河島が結のことで「電話しても繋がらないんですよ」と相談する。こいつも飛行機で会っただけなのに、いきなり相談しちゃうわけだ。
「他に相談する相手がいくて困り果ててていたから」ってことなんだろうけど、結が出掛けたと決め付けて部屋へ行こうともしないボンクラだ。
彼に比べると明はマシなので、すぐに結の部屋へ行く。中で物音がしたので、慌てて明は部屋へ突入する。
一流ホテルなのにオートロックが無いらしく、簡単に外からドアを開けることが出来るのだ。

明は『バードランド』へ入ることを避けたのに、結が泣いて婚約破棄を口にすると、すぐに店へ連れて行く。出会ったばかりの女を励ます目的だけで、簡単に断ち切れてしまう程度の気持ちだったってことだ。
あえて擁護するなら、「それを理由にして店に入った」という見方も出来るが、どっちでもいい。どうであれ、バカバカしいことに変わりは無い。
もっとバカバカしいのが、5年も吹いていなかった明が旧友に誘われると楽器も持っていないのに簡単に参加した上(そもそも参加を促す旧友も問題があるが)、ブランクなんて全く無かったかのように易々と演奏しちゃうことだ。
ジャズを舐めてんのか。まあ舐めてるんだろうな。

ちなみに帰国した明は復帰コンサートを開くのだが、そのために練習を積んで勘を取り戻そうとする気配は全く無い。どうやら彼には、ブランクなんて全く関係なかったらしい。
っていうか、ブランクが無くても日々の練習は積むべきだけどな。
でも明は、今までと同じ生活を続けるだけだ。それどころか結とデートに出掛けたりしてするので、もっと余裕のある生活になっているわけだ。
それでも以前と同じレベルで簡単に復帰できるんだから、『5つの銅貨』のレッド・ニコルズとは素質が格段に違うってことなんだろう。

明の「妻は俺が殺した」という告白は、普通に考えれば「自分が癌に気付かなかったせいで、手遅れの状態になってしまった」という意味になる。
強烈な罪悪感として「殺した」という表現になるのは、充分に理解できる。
ところが本作品は、そんな真っ当な道を選ばなかった。明の告白は、その言葉が示す通りだったのだ。友美が病室のベッドで息を引き取る回想シーンで、傍らにいる明は彼女の呼吸器を口から外しているのだ。
そりゃあ「俺が殺した」ってことになるが、それで罪悪感を抱かれても困るわ。

明が『バードランド』で少しだけ演奏して退場するシーンで、一人の女が客席にいる。そいつはジャズクラブ『コットンクラブ』経営者の娘で、復帰するよう明に持ち掛ける。
その李玲を演じるのがユンソナなのだが、「なぜユンソナ」という疑問が拭えない。そこを韓国人にしている意味があるわけではないし、そもそも韓国人設定なのかどうかも不明だ。
それと李玲というキャラについても、1分程度のソロしか聴いていないのにパトロン化するのは安易すぎるでしょ。
なんちゅう都合のいい女だよ。

「佐和がピアノ教室で転んで、家まで送り届けてくれたのが結」ってことで、帰宅してからも明は結と再会する。
飛行機のニューヨークのシーンで既に理解しているだろうけど、そういう都合の良さは受け入れなきゃいけない映画である。もちろん、苦笑しながら受け入れても構わない。っていうか、むしろ苦笑させるための展開と言ってもいいぐらいだ。
そして再会した結は調子に乗り、佐和の誕生日に子犬をプレゼントする。
どんだけ仲良くなったとしても、いきなり子犬を贈るセンスは、やっぱりマトモじゃない。
プレゼントしたくても、事前に「佐和は犬が好きどうか」を調べ、明に「犬をプレゼントしてもいか」を確認するのが真っ当な感覚だろう。

前半でもYoshi大先生のセンスが感じられる箇所は色々と用意されていたが、後半に入ると「これぞ真骨頂」と感じさせる展開が訪れる。
明が倒れて病院に運ばれ、「癌で余命3ヶ月」という設定が突如として示されるのだ。
Yoshi大先生がケータイ小説の潮流として生み出した「重病」&「死」という要素が、そこに来て使われているわけだ。
で、ショックを受けた明は、埠頭でサックスを吹く。
一応は「悲しいシーン」であり、同情を誘うために用意されているんだろうけど、苦笑しか出て来ない。

倒れて病院に運ばれた明だが、佐和は結に電話を掛けて「日曜日なのに、パパは出掛けてるの」と呑気なことを言っている。
そもそも翌日になっているわけだから「前日の夜は帰って来なかった」ってことになるのだが、それでも佐和は全く気にしていない。今までも帰って来ないことが頻繁にあったってことだろうか。
で、明は精密検査を受けた上で癌だと宣告されたはずだが、それって何日も必要な作業のはず。でも映画だと、「病院に運ばれた翌日には宣告を受けて退院」ってことになっている。
かなり特殊な病院なんだろう。

さて、明が帰宅すると、結と佐和は逃げた子犬を探している。
その時に2人が「ワンちゃん、ワンちゃん」と呼び掛けるのだが、飼ってから何日も経過しているはずなんだから、そろそろ名前ぐらい付けてやれよ。まさか名前が「ワン」だったりするのか。
で、明は「犬はまた後で探せばいい」と冷たく言うのだが、だから一緒に帰宅するのかと思いきや、娘だけで帰らせて結と会話を交わす。
この男、娘より結の方が大事なのだ。
っていうか、娘のことは基本的に、どうでもいいのだ。

明は犬の捜索を続ける結に、冷たい口調で「どうしてそんなにこだわるんだ」と問い掛ける。
佐和が犬をブレゼントされた時は楽しそうな様子だったのに、そこから態度が大きく変化しているのは、もちろん「余命宣告を受けたから」ってことなんだろう。
でも、そこを上手く連携させられていないので、単に違和感のある態度と化している。
で、結は「佐和ちゃんは孤独に耐えてるの。パパの仕事だからって、小さな心で耐えようとしてるの。それだけにワンちゃんは、佐和ちゃんにとってかけがえのない存在なのよ」と言うんだけど、かけがえのない存在なのに名前も付けないのは変だろ。

明は結と外食中、河島から「貴方は無責任だ。いい歳して、女の人を振り回すのは止めた方がいいと思います」と責められる。
すると明は得意の薄笑いを浮かべ、聞き取りにくい声で「君は俺に嫉妬してるのかもしれないけどな。確かに若い時の嫉妬は有効だ。だがな、そんな物は俺には通用しないぞ」と言う。
そして「俺はな、若い奴に対しては優越感しかねえんだよ。人生を充分に生きて来たからな」と勝ち誇ったように言い放つ。
どういう狙いがあって言わせている台詞なのかはサッパリ分からないが、イカれたセンスが苦笑させてくれることは確かだ。
ちなみに、「ないんだよ」じゃなくて「ねえんだよ」になっているのも、地味にポイントを稼いでいる。

李玲は明に、「来月、ニューヨークに行ってもらうわよ。チャリティーコンサートに参加してもらうの」と告げる。
さらに全米ツアーをやろうと持ち掛け、「最後はラスベガスよ」と言う。
ジャズ奏者の復帰ツアーで最後がラスベガスってのは違和感があるが、この映画にジャズの魂なんて無いのでね。
サックス指導で稲垣次郎、ジャズ編曲協力で前田憲男という2人の大物が参加しているんだけど、「これでホントにいいんですか」と訊きたいわ。

明が「もし俺が途中で倒れたらどうする?」と尋ねると、李玲は「それが貴方でしょう?」という。サッパリ意味が分からない。
ただ、「ここで全てを終わらせたいの?」と言われた明は、ニューヨークへ行くことを決める。残り少ない時間を、彼はジャズ奏者としての夢に全て投じようと決めたわけだ。父親として、最後ぐらいは幼い佐和と一緒に過ごしてやろうという考えは、まるで無いのだ。
そして最後は明がニューヨークのベンチで息を引き取り、佐和に関しては何のフォローも無いまま終わる。
主人公が病死しても同情心が湧かず、全く悲劇的だと思えず、「なんか色々と酷い男だった気がする」という感想になるんだから、さすがはYoshi大先生の原作である。

(観賞日:2016年9月8日)

 

*ポンコツ映画愛護協会