『湯を沸かすほどの熱い愛』:2016、日本
銭湯『幸の湯』の入り口には、「湯気のごとく店主が蒸発しました。当分の間、お湯は沸きません」という貼り紙がある。幸野双葉が朝食を用意すると、娘の幸野安澄は味噌汁の味がおかしいことを指摘する。前回も味が変だったのに、双葉は全く修正できていなかった。安澄は「お腹が痛い。頭が痛い」と言って高校へ行くことを嫌がるが、双葉は全く相手にせず登校させる。安澄が学校へ行くのを嫌がるのは、クラスメイトの宮田留美と仲間2人からイジメを受けているからだった。安澄は美術の授業で教師から褒められるが、留美たちは嫌味を浴びせて彼女の絵の具を使い始めた。
パン屋で働く双葉は学校から連絡を受け、仕事を切り上げて出向いた。すると安澄は全身に絵の具を塗り付けられており、担任教師は彼女が自分でやったと言っていることを双葉に告げた。次の日、パン屋で働いていた双葉は急に倒れ、病院へ行って診察を受ける。医者に質問された彼女は、3ヶ月ほど前から目まいがあること、たまに味が分からなくなることを話した。精密検査を受けた双葉は、ステージ4の末期癌で全身に転移していることを告げられた。激しく動揺した双葉だが、安澄には病気のことを明かさなかった。
双葉は探偵の滝本に、夫の一浩を捜すよう依頼した。すぐに一浩は見つかり、隣町のアパートで暮らしていることが判明した。滝本は幼い娘を連れており、妻は出産の時に脳出血で死去したのだと双葉に語った。双葉は彼に、もう1つの調査を依頼した。帰宅した双葉は、安澄と2人で高足ガニを食べる。毎年4月25日になると、沼津の酒巻君江という女性から手紙と共に届くのだ。双葉は毎年、その返事を安澄に書かせていた。双葉は安澄に、ブラジャーとショーツをプレゼントした。「まだいいよ」と戸惑う娘に、彼女は「大事な時に、ちゃんとした下着を付けてないと恥ずかしいよ。すぐには使わなくていいの。持ってて」と告げた。
双葉は隣町のアパートを訪ね、一浩に病気のことを話した。その夜、安澄が帰宅すると、一浩が鮎子という9歳の少女を伴って戻って来た。困惑する安澄に、一浩は鮎子が妹だと話す。安澄が反発すると、一浩は事情を説明する。かつて浮気した女性と1年前に遭遇した彼は、娘がいると告白された。一浩は同居を頼まれて承諾したが、女性は1ヶ月も経たない内にアパートを去ってしまった。そのため、一浩は鮎子と2人で暮らしていたのだった。
翌朝、双葉は3人に向かって、「お店、明後日の金曜日から再開するから。これだけは約束して。銭湯の仕事は必ず4人全員ですること。働かぬ者食うべからず」と述べた。4人は銭湯を掃除し、手分けしてチラシを配った。一浩は友人の麻生に遭遇して1年も家を空けたことを非難されるが、軽く笑って「店を再開するから、みんなにも言っといてよ」と告げた。再開初日から銭湯には大勢の客が押し寄せ、双葉は番台で笑顔を浮かべた。
双葉は洗い物をしている最中、手が震えて皿を割ってしまった。病院へ付き添った一浩は、手術も放射線治療も出来ない状態であることを医者から聞く。「病気になったのは、苦労とかストレスとかあったからですか」と彼が質問すると、医者は「原因は様々です。一概には言えません」と述べた。点滴を受けた双葉に、一浩は「別の病院へ行こう」と持ち掛ける。しかし双葉は拒否し、「少しの延命のために、自分の生きる意味を失うのは絶対に嫌。私には、どうしてもやらなきゃいけないことがある」と語った。
安澄は体育の授業後に制服を盗まれ、クラスメイトから嘲笑された。帰宅した安澄はベッドに潜り込み、一浩は新しい制服を買ってやろうと考える。しかし双葉は絶対に駄目だと反対し、翌朝には登校を嫌がる安澄の布団を引き剥がす。「お母ちゃんは何も分かってない。私には立ち向かう勇気なんて無いの。私は最下層の人間だから。お母ちゃんとは全然違うから」と安澄が泣いて抗議するとと、双葉は「何にも変わらないよ、お母ちゃんと安澄は」と告げた。
安澄は体操服で登校し、教室でいきなり下着姿になった。「制服、返して下さい」と震える声で訴えた安澄は、牛乳を嘔吐した。保健室で彼女が休んでいると、留美たちは制服を投げ入れた。心配しながら待っていた双葉は、制服姿で帰宅した安澄に「頑張ったんだ」と告げる。安澄が「お母ちゃんの遺伝子、ちょっとだけあったみたい」と言うと、双葉は強く抱き締めた。その様子を、少し離れた場所から鮎子が見つめていた。
鮎子が番台から金を盗むのを目撃した双葉は彼女の荷物を密かに調べ、「来年の誕生日までには、必ず迎えに行く」と書かれた母親の手紙を発見した。夜になっても鮎子は帰宅せず、双葉は彼女の誕生日だと気付いた。双葉は安澄と共に隣町のアパートへ出向き、ドアの前で座っている鮎子を発見した。双葉が抱き上げた途端、鮎子は失禁した。双葉は鮎子を連れ帰り、翌朝には誕生日祝いとしてしゃぶしゃぶを用意した。鮎子が泣きながら「これからは、もっともっと一生懸命働きますので、出来れば出良いのですが、この家に居たいです。でも、今はまだママのこと好きでもいいですか?」と口にすると、双葉は笑顔で「バカ、当たり前でしょ」と告げた。
その夜、一浩は双葉に、「したいこととかさ、欲しい物とか、俺が出来ることあったら何でも言ってよ」と告げる。しかし双葉が「じゃあエジプト行きたい。新婚旅行はピラミッド見にエジプト連れてってくれるって約束したよね」と言うと、呆れたように「何年前だよ」と口にする。双葉は「いっつも貴方はそう。調子のいいことばかり言って私を裏切った。最後に1つぐらい約束守って」と言うが、「それはちょっと」と一浩が困惑すると「冗談。死んだら全部許すから。後のことは、よろしくお願いします」と笑った。
双葉は安澄と鮎子を連れて、沼津へ泊まり掛けの旅行へ行くことにした。彼女は一浩に車を借りてもらい、「全部話してくるね。大丈夫、きっと分かってくれる」と告げる。車で出発した3人が昼食を取るためサービスエリアに立ち寄ると、向井拓海という若者が「どこまででもいいので」と頼んで来た。双葉は断ろうとするが、サービスエリアに5時間もいると聞いて承諾した。拓海は3人に、北海道から来たことや、女性のトラック運転手からラブホテルへ誘われたことなどを語った。
休憩を終えた双葉が車を発進させると、後部座席で安澄と鮎子は転寝を始めた。双葉は拓海の話が全て嘘ばかりだと見抜いており、それを指摘する。拓海は全く悪びれずに嘘だと認め、目標も目的も決めずに旅をしていると話す。双葉が「最低な人間、乗っけちゃったなあ。貴方の腐った時間に付き合ってると思うと、ヘドが出る」と吐き捨てるように言うと、彼は最低であることを認めた。次のサービスエリアで車を降りた拓海を、双葉は強く抱き締めた。彼女が「貴方はこれから、日本の最北端を目指すの。それがたった今から、貴方の目標」と告げると、拓海は「じゃあ、目標を達成できたら、報告に行ってもいいですか」と尋ねる。双葉はいいよ。でも、ちょっと早めに来てね」と言い、拓海と別れた。
その夜、箱根の旅館に宿泊した双葉は、トイレで吐血した。翌日、双葉は沼津の食堂へ出掛け、安澄と鮎子に高足ガニを食べさせた。注文を取りに来た女性店員は耳が不自由で、身振り手振りでカニを表現した。食事を終えた双葉は子供たちを先に店から出すと、会計を終えてから女性店員に平手打ちを浴びせた。双葉は驚く店員に頭を下げ、店を出た。彼女は安澄に、その女性店員が酒巻君江であることを明かす。さらに彼女は、君江が安澄の実母であることを告白する…。脚本・監督は中野量太、製作は藤本款&太田哲夫&村田嘉邦&篠田学&坂東浩二、エグゼクティブプロデューサーは藤本款&福田一平、プロデューサーは深瀬和美&若林雄介、アソシエイトプロデューサーは柳原雅美、ラインプロデューサーは大熊敏之、撮影は池内義浩、照明は谷本幸治、録音は久連石由文、美術は黒川通利、編集・題字は高良真秀、音楽は渡邊崇。
主題歌『愛のゆくえ』きのこ帝国 作詞・作曲:佐藤千亜紀、編曲:きのこ帝国。
出演は宮沢りえ、オダギリジョー、杉咲花、松坂桃李、伊東蒼、篠原ゆき子、駿河太郎、遥、松原菜野花、江藤修平、三浦景虎、田中壮太郎、りりィ、安藤聖、泉光典、高木悠未、西田薫子、木村知貴、小澤雄志、新井郁、田中えみ、田中佐季、辻しのぶ、中谷仁美、佐藤真子、鈴木士、住田萌乃、鈴、関口智樹ら。
劇場用長編映画デビュー作『チチを撮りに』で高い評価を受けた中野量太監督が次に手掛けた作品。
『チチを撮りに』は自主映画として製作した物が映画祭での評価を受けて劇場公開されたという形であり、商業映画は本作品が初めてとなる。
中野監督は双葉役をダメ元で宮沢りえにオファーし、脚本を読んだ彼女が快諾したことで企画が前に進んだそうだ。
一浩をオダギリジョー、安澄を杉咲花、拓海を松坂桃李、鮎子を伊東蒼、君江を篠原ゆき子、滝本を駿河太郎が演じている。最初に細かい引っ掛かりに触れておくと、双葉や一浩たちが銭湯のことを「お店」と表現するのが気になる。
決して間違いではないけど、あまり銭湯を「お店」と表現するのを聞いたことが無いんだよね。
ひょっとすると、実際に銭湯を営んでいる人々は当たり前のように「お店」と表現しているのかもしれない。そう読んでいるのなら、現実に即した描写ってことになる。
ただ、そうであったとしても、無駄な引っ掛かりを作っているように思えてしまうんだよなあ。さて、ここからは本格的な批評に入る。
序盤から違和感を覚える描写の連続となっている。
特に酷いのがイジメ関連の描写だ。安澄は絵の具を全身に塗り付けられるという露骨な形でイジメを受けているのに、担任教師が親を呼び出すという対応を取ることに対して違和感を覚える。
イジメを隠蔽しようとするなら親を呼んじゃマズいし、でも解決しようとするなら親を呼び出す前にクラスで話し合うべきじゃないかと。安澄は自分でやったと主張しているが、そうじゃないのは分かり切っているんだし。ただ、それよりも引っ掛かるのは、安澄が気丈に振る舞って「数えたら11色あった」と言った時、呼び出しを受けた双葉が「その中で、好きなのは?」と質問することだ。
安澄が「水色」と素直に答えると、双葉は「お母ちゃんは断然、赤。情熱の赤が好き」と告げるのだが、「なんじゃ、そりゃ」と言いたくなる。
もしかすると「双葉が安澄を元気付けようとしている」という意味のシーンなのかもしれないが、まるで乗れないわ。もっと引っ掛かるのは、「明日も学校、行こうね」と双葉が安澄に言うことだ。
返事が無いと、彼女は「行こうね、安澄」と声を強める。プレッシャーを掛けているのだ。
娘がイジメを受けていると分かっているのに、それを何とかしてやろうと策を練るわけでもなく、なのに逃げ道を封じてしまい、学校へ行くことを強要するのだ。
そんな双葉をダメな保護者として描いたり、後から反省する様子を描いたりするなら、それはOKだ。
しかし全面的に肯定し、正当化してしまうのだ。幾らフィクションであっても、幾ら映画であっても、そのデリカシーに欠ける描写は絶対に受け入れられない。なんでもかんでも「逃げずに立ち向かう」ってことを要求し、強くなることを要求するのが立派な子育てではないはずだ。
それでも、これが「余命わずかなので、自分が死んでも大丈夫なように強くなってほしい」ってことなら、まだ分からんでもない。
だけど双葉は自分の病気を知る前から、安澄の逃げ道を塞いでいるのだ。
なので、情状酌量の余地は全く無い。安澄が制服を盗まれた時、双葉は新しい制服を買うことを拒否する。
「いや買ってやれよ」と言いたくなるし、それを拒むなら登校拒否は認めてやれよ。
その両方を双葉は受け入れず、布団を引き剥がして「学校に行きなさい。今日は体操服で行けばいい。今日諦めたら、二度と行けなくなる」と言う。
でも制服を盗まれたんだから、新しいのを買ってもらわないと「今日は」じゃなくて永遠に体操服で行かなきゃいけなくなるわけで。安澄が泣いて嫌がるのは当然だが、双葉は「逃げちゃダメ。自分の力で何とかしないと」と声を荒らげて説教する。
イジメに対して学校や教師が無力なのは良くあることなので、安澄の問題で対処する様子が全く見られないのは別に構わない。双葉が学校に相談しないのも、どうせ役立たずなのは分かり切っているから構わない。
でも、双葉の安澄に対する接し方は、イジメを知った親として最悪の対応と言っていいぐらいだ。
「自分が死ぬから勇気を持ってほしい」と思ったのなら、ちゃんと病気のことを明かすべきだ。それを知れば、安澄だって「頑張らなきゃ」と思えるだろう。
それを隠したまま娘に「立ち向かえ」と要求するのは、ただの醜悪なエゴに過ぎない。ところが、どういうわけか安澄は体操服で登校する。さっきまで泣いて嫌がっていたのに、どんな心境の変化があったのか全く分からない。そして彼女は教室で下着姿になり、「制服、返して下さい」と訴えるという行動を取る。
「何にも変わらないよ、お母ちゃんと安澄は」という双葉の言葉を思い出しての行動なのだが、それで勇気が出るってのは、どういう方程式かサッパリ分からない。
で、その行動を受け、留美たちは制服を返すだけでなくイジメも無くなる。これにより、双葉の行動が正当化されてしまうのだ。
だけど、その御都合主義は受け入れられんよ。この映画で描かれているイジメは、そんなに簡単に解決するようなケースじゃないでしょ。双葉が旅行に行くことを決めるので一浩が運転を担当するのかと思ったら、彼は留守番。
だから双葉が運転するわけだが、目まいの症状がある上に左手の震えも出ているのに、危ないだろ。
もしも事故を起こしたら、自分だけの問題では済まない。乗せている安澄と鮎子や、事故に巻き込まれた他人まで犠牲になる可能性もあるのだ。
だから、そこも絶対に受け入れられない。
目的地は君江のいる食堂であって、どうしても車を使わなきゃいけない理由なんて無いはずだろ。電車とタクシーで行けばいいだろ。拓海が嘘をついていると見抜いた双葉は、彼を軽蔑の眼差しで見る。目標も目的も決めずに旅をしていることを知ると、双葉が「最低な人間、乗っけちゃったなあ。貴方の腐った時間に付き合ってると思うと、ヘドが出る」と吐き捨てる。
だけど、どこへ向かうか、いつまで続けるか決めずに旅をするのって、そんなに扱き下ろされるようなことかね。
嘘をついていることに関しても、決して褒められたことではないけど、そんなに酷い嘘でもないでしょ。
自分が余命わずかで一刻も早く目標を達成しなきゃいけないからって、目標を決めない他人の生き方を非難して全否定するのは賛同できんよ。そこまで言われるほど、拓海が最低な生き方とは思えないぞ。ところが、ここも「双葉が拓海を強く抱き締め、日本の最北端へ行くよう指示する」という行動によって、全面的に正当化される。
拓海が「目標を与えて自分を導いてくれた恩人」として感謝することによって、双葉は立派な人物ってことになるのだ。
強く抱き締める行動の時点で違和感しか無いのだが、それより何より「そもそも、このエピソードって必要か?」と言いたくなる。
欲張って余計な要素まで盛り込んでいるようにしか思えないのだ。そこをバッサリと削ぎ落として、上映時間を短くした方がスッキリするんじゃないか。
何しろ、そこを削れば、双葉が車を運転するという危険極まりない行動も排除することが出来る。
っていうか、そもそも双葉に車を運転させるのって、「サービスエリアで拓海と出会う」という展開を処理するためだけに用意されているようなモノなのよ。
そのエピソードさえカットしてしまえば、電車とタクシーを乗り継いで食堂まで行けちゃうのよ。双葉は食堂で会計を済ませた後、いきなり君江にビンタを浴びせる。
それはたぶん、「君江が安澄を見ても娘だと気付かなかったことへの苛立ち」が行動に出てしまったってことなんだろう。
すぐに頭は下げているけど、無言で突然のビンタはダメだろ。
また、君江が実母だと安澄に明かし、挨拶してくるよう強要するのも、これまた身勝手なエゴだ。それを明かすなら、その前に自分の病気のことを告白しろよ。
あと、相手のアポも取らず、いきなり娘を挨拶に行かせるのも身勝手だと思うぞ。終盤、入院した双葉は滝本に頼んでいた調査結果で、自分を置いて家を出た母の生存を知らされる。64歳となっている母は32歳で再婚し、娘夫婦&孫と暮らしている。
それを知った双葉は「会いたい」と言い、連れて行くよう頼む。安澄を伴って出掛けた彼女は、母から歓迎されることを前提にして期待感を膨らませている。説明に行った滝本から「私にはそんな娘はいない」と言われたことを聞き、ショックを受ける。
だけど、向こうにも現在の家庭があるわけだから、急に押し掛けて歓迎されるとは限らないでしょ。家族には双葉のことを話していない可能性だってあるし。
それなのに、母が現在の家族と一緒にいる幸せな様子を覗き見た双葉は、置物を投げ付けて窓ガラスを割る。
衝動的な行動だし、分からなくも無いけど、やっぱり身勝手な行動でしょ。双葉は母の元を訪れる時、相手には病気のことを教えていない。待っている間も、「心配を掛けたくない」ってことで車椅子に乗ることを拒んでいる。
それは気遣いかもしれないけど、ある意味ではエゴじゃないかと思ってしまうんだよね。
余命わずかだからこそ母に会っておきたいと思ったはずで、そこは事情を明かすべきじゃないかと。向こうだって事情を知れば、会ってくれたかもしれないし。
何も事情を知らなかったら、アポ無しで会いに来ても「いや急に来られても困るし」ってことになっても仕方が無いでしょ。この映画を見て連想したのは、かつて前田日明がアントニオ猪木に激昂して放った言葉だ。
1986年2月6日、猪木は両国国技館で藤原喜明と戦い、反則の連続で勝利を収めた。これに怒った前田は、「アントニオ猪木なら何をやっても許されるのか?」と厳しく批判した。
この映画を見て思ったのは、「死期が近い人間なら何をやっても許されるのか?」ってことだ。
双葉は「余命わずか」ってことを免罪符にして、身勝手な行動を繰り返しているように思えるのだ。
えっ、それを言いたいがために、プロレスの話題を持ち出す必要があるのかって?
いや別に無いんだけど、連想しちゃったんだから仕方が無い。(観賞日:2017年9月23日)
2016年度 HIHOはくさいアワード:第10位