『遊☆戯☆王 デュエルモンスターズ 光のピラミッド』:2004、日本

武藤遊戯は、祖父・双六から与えられた千年パズルを完成させた。そのパズルを解いた者は闇の力の支配者になるのだが、遊戯は願いを叶える物だと思っていた。同じ頃、エジプトのピラミッドで、パズルに似た形のクリスタルが反応していた。
パズルを完成させた直後、遊戯の周囲にモンスター軍団が出現する。だが、彼の中に目覚めた別の人格“闇のファラオ”が、モンスターを封じ込めた。一方、エジプトでは、かつてファラオを滅ぼした邪悪な存在アヌビスが復活していた。
遊戯はペガサス・J・クロフォードや海馬瀬人を破り、デュエルキングになった。バトルシティ・トーナメントでチャンピオンになった彼は、オシリス、オベリスク、ラーという三幻神のカードを手に入れた。海馬は遊戯の神のカードを超える力を得ようと、躍起になる。
海馬は遊戯とのパワーの差を埋めようと考え、3枚の神のカードを作ったペガサスに会う。彼ならば、三幻神を超える力を持つカードを作っているはずと考えたのだ。しかしペガサスはカードの存在は認めたが、「力を操るにはふさわしくない心の持ち主だ」と海馬に告げる。海馬はペガサスをデュエルで打ち破り、2枚のカードを奪い去った。
遊戯の元には、挑戦希望者が殺到していた。仲間の真崎杏子と共に美術館に逃げ込んだ遊戯は、そこで千年パズルに似た形のクリスタルを発見する。美術館に来ていた双六によれば、それは千年パズルと対極を成す光のピラミッドだという。
遊戯らが光のピラミッドと共にエジプトから運ばれたミイラを見ていると、突然の閃光で目が眩んでしまう。遊戯は、不思議なビジョンを見た。それは、デュエルで遊戯が敗れ去り、勝利した海馬が邪悪な何者かによって倒されるという光景だった。遊戯が目を覚ますと、美術館からはミイラと光のピラミッドが消えていた。
美術館を出た遊戯の前に、海馬の弟・モクバが現れた。海馬が何かに憑依されたようになり、海馬ランドでデュエルの勝負を求めているというのだ。遊戯は、先程のビジョンが予言だと感じる。それでも彼は未来を変えるため、海馬との勝負に向かう。
遊戯と海馬のデュエルが始まった。遊戯は序盤から、オシリスの天空竜を召還する。だが、海馬は強制召還のカードを使い、オベリスクの巨神兵とラーの翼神竜まで揃えさせる。そして海馬は新たなるカード“光のピラミッド”を発動し、神の力を封じ込める…。

監督は辻初樹、原作は高橋和希&スタジオ・ダイス、脚本は武上純希&彦久保雅博、プロデューサーは小林敦子&笹田直樹、絵コンテは辻初樹&菱川直樹&南康宏、キャラクターデザイン&作画監督は辻初樹、モンスターデザインは島村秀一、美術監督はHoi Young Lee、録音監督は三ツ矢雄二、音響監督は平光琢也、音楽は光宗信吉、主題歌はBLAZE「Fire」。
声の出演は風間俊介、斎藤真紀、高橋広樹、菊池英博、津田健次郎、竹内順子、宮澤正、高杉Jay二郎、石井康嗣、池田政典ら。


高橋和希の人気漫画をアニメ化した人気テレビ番組の劇場版。
例えばポケモンの映画などは、まず日本で公開し、それから全米で公開されるという流れを取っている。しかし、この映画の場合は、最初からアメリカ市場向けとして作られている。だからオリジナルは英語版で、後から日本語吹き替え版が作られるという経緯を辿っている。

マトモに考えると、のっけからバカバカしい。
その秘められた力を知りながら、双六は遊戯に本当のことを明かさずにパズルを渡している。そして遊戯がパズルを完成させたのを覗き見ても、「重い宿命を背負わせてしまった」とつぶやくだけで立ち去る。
闇の力の支配者となるようなパズルを、なぜ安易に与えたのかと思わずにいられない。

主人公の覚醒とアヌビスの復活が描かれた後、「遊戯がペガサスを破った」「海馬を破ってデュエルキングになった」「3枚の神のカードを手に入れた」などと、矢継ぎ早にセリフによる説明が行われる。
しかし、それは何の説明にもなっていない。

TVアニメやカードゲームを知らない人にとっては、「ペガサスや海馬って誰?」「デュエルって何?」「神のカードって何?」「そもそも何の競技で勝ったの?」など、疑問だらけになる。
逆に知っている人なら、今さら説明してもらう必要は全く無い情報だ。

闇の力の支配者になった遊戯が、なぜゲーム限定でしか能力を発揮していないのか。海馬はペガサスの持つカードを手に入れたいのに、なぜ力ずくで奪わずにゲームでの勝負を持ち掛けるのか。そもそも、なぜ命懸けになってまでゲームの勝利にこだわるのか。
などなど、マトモに考え始めると、バカバカしいこと山の如しだ。
そして、そういった問題に目をつぶるとしても、主人公であるはずの遊戯を放置したまま、脇役である海馬とペガサスの勝負で話が進むという状態が生じている。さらに、その後も遊戯の親友・城之内と挑戦希望者とのデュエルで時間を費やしている。

例えばアニメ版『ポケモン』のバトルなら、モンスターが炎を吐くとか、電撃を発するとか、そういう映像的表現だけで処理されている。しかし『遊戯王』の場合、カードの能力が1つ1つ丁寧に説明される。アニメ用の省略や映像表現のみでの処理は無い。
ゲームのシーンが非常に長くなるのは、その説明が全て行われているからだ。ポイントが幾つ増えるとか、どういう動きをするとか、そういったことを登場人物が全て説明するのだ。完全に、実際のカードゲームのまんまをアニメーションにしているわけだ。

ゲームを知らない人にとっては、どれだけ説明されても、何を言っているのか意味不明だ。だから、無駄に説明的なセリフが多く、ダラダラと長く続くと感じるかもしれない。
しかし、カードの能力説明は絶対に必要なことだ。
何しろ、「そんな能力を持ったカードが欲しい」と購買層に思わせることこそが、映画のテンポよりも重要だからだ。

カードゲームで勝負していただけなのに、なぜか「古代エジプトを焼き尽くした光が云々」などと言い出し、海馬ランドが破壊され、なぜか「遊戯と海馬の命が危ない」ということになっていく。その滑稽さは、ポケモンなどでは全く比較にならないぐらいだ。
中盤以降は、海馬ランドでのデュエルが延々と続くことになる。何しろ遊戯は闇の力の支配者らしいが、その能力はゲーム限定でしか使われないのだ。邪悪な存在が復活しようとも、それを倒す力を得るため様々な場所を移動するとか、襲い掛かる様々な敵と戦うということはなく、ただカードゲームを繰り広げるだけなのだ。

敵のアヌビスにしても、古代エジプトを焼き尽くしたほどの力を持っているにも関わらず、御丁寧なことにカードゲームで遊戯に勝負を挑む。
普通に暴力を持って制することを考えれば簡単に捻じ伏せられるような気もするのだが、どうしてもカードを使わねばならないのだ。
なぜなら、この作品は、カードを売る商売のための道具だからだ。
『遊戯王』は、単に「人気漫画のアニメーション版」というだけに留まらない。漫画とアニメを基にしたカードゲームが作られ、販売されているという広がりがある。
ここに、大きな意味がある。
それは、そのゲームが商売として非常に“美味しい”ということだ。

いきなり何の予備知識も無いままに劇場版作品を見ても、何が何やら全く分からないだろう。それは当然だ。何しろ、世界観や登場キャラクターのステータス、彼らの人間関係、モンスター、ゲームのルール、全てにおいて、何の説明も無いからだ。
だが、説明を省いた理由を考えれば、すぐに納得できるはずだ。なぜ説明しないかと言えば、それはアニメにハマってカードゲームで遊んでいないような連中は、最初から相手にしていないからだ。そんな連中に見てもらわなくても、何の問題も無い。この映画にとって、カードゲームを買ってくれる「お客様」が観客であればいいのだ。

この映画が全米で公開された時、映画評論家は口を揃えて酷評した。
しかし、たぶん映画評論家は、誰も『遊戯王』のカードゲームで遊ばないだろう。
だから、そんな連中に酷評されても、痛くも痒くも無い。
そんな奴らは、商売の相手ではないからだ。

この映画を見る大半の客は、カードゲームで遊んでいる子供達だ。そして、映画を観賞した子供達が、関連商品を買い求める。その連動こそが、重要なのだ。映画自体だけでなく、そこからカードゲーム販売という商売に繋がることに意味がある。
「映画として面白いか」よりも、「商売としてイケてるか」ということの方が遥かに重要なのだ。
そういった考え方は、純粋に映画を愛する人々からすれば最低かもしれないが、商売人としては間違っていない。
例え多くの人々に軽蔑されようとも、間違っていない。

 

*ポンコツ映画愛護協会