『八つ墓村』:1996、日本

昭和二十四年、神戸。石鹸工場で働く青年の寺田辰弥は、東坂工場長から「ラジオで君のこと捜してる人があるで」と教えられる。東坂は連絡先をメモしており、辰弥に渡した。辰弥は諏訪法律事務所を訪れ、父親のことを質問される。辰弥は母・鶴子の連れ子で、戦死した父とは血の繋がりが無かった。母が亡くなった7つの頃に、辰弥は父の実子ではないことを聞かされていた。背中の傷を確認した諏訪は、同席していた井川丑松を辰弥に紹介する。丑松は鶴子の父親だった。
諏訪は辰弥に、彼の本名が田治見辰弥であること、丑松が田治見家の依頼を受けていることを話す。丑松は辰弥に岡山県八つ墓村に帰ってもらうため、神戸へ来たのだという。しかし丑松は辰弥に歩み寄った直後に苦悶し、そのまま死んでしまった。辰弥と諏訪は現場にいたため、警察に疑われて何度も呼び出された。しかし田治見家の使用人である森美也子の証言により、彼らの嫌疑は晴れた。丑松は常用していた薬のカプセルに混入された毒物で殺害されており、犯人は八つ墓村にいるということになるのだ。
辰弥が八つ墓村へ向かう準備をするために下宿へ戻ると、手紙が届いていた。差出人の名前は無く、手紙には「お前が帰って来てもろくなことは起こらぬぞ。貳拾六年前の大惨事がくりかえされ、八つ墓村は血の海と化すであろう」と記されていた。辰弥は美也子に連れられ、八つ墓村に赴いた。田治見家は400年も前から村の長を務めており、莫大な土地と資産を保有している。25代目の当主が辰弥の父に当たる田治見要蔵で、26年前に亡くなっている。長男の久弥が後を継いだが、肺を患って寝たきりの状態が長く続いていた。そのため、大伯母である双子の小竹と小梅が田治見家を取り仕切っている。
久弥の妹・春代は、辰弥と腹違いの姉に当たる。春代は一度は結婚したが、実家に戻っている。要蔵の弟は里村家の養子になり、その遺児が海軍士官だった慎太郎と典子の兄妹だ。村で唯一の医者である九野は要蔵の下の弟で、洪禅は寺の住職だ。辰弥が田治見の屋敷を訪れると、小竹と小梅は歓迎した。久弥は「よう気い付けて、田治見家の財産を人に取られんようにせなアカンで」と、慎太郎や九野たちの方に視線をやりながら語った。小竹と小梅は久弥に、彼が産まれた離れで休むよう促した。
久弥が春代の案内で離れの部屋へ行くと、扉には南京錠が掛けてあった。久弥が部屋に入ると、庭先に濃茶の尼と呼ばれる老婆が現れ、「お前が来ると村は血で穢れる。八つ墓明神様がお怒りじゃ。お前の爺の丑松がなんで死んだか知ってるのか。今に8人の死人が出る」と狂気の表情で凄んだ。私立探偵の金田一耕助が村を訪れると、博労の吉蔵が「村に余所者が来るとろくなことが無い」と追い払おうとする。しかし典子に「乱暴はいけんよ」と止めに入り、吉蔵を立ち去らせた。
「宿はありませんかね」と尋ねる金田一に、典子は「あります、一軒だけ。郵便局ですけど」と告げた。ひでという女性が郵便局の局長と宿の女将を兼ねていた。彼女の夫・徳之助は山守が本職で、材木の管理や出荷の差配に忙しくしていた。金田一がひでと話していると、徳之助が駆け込み、久弥が毒殺されたことを話す。死体の第一発見者は、朝食を運んだ田治見家の女中・お島だった。捜査にやって来た轟警部は、関係者から事情聴取を行う。轟は薬を調合した九野に疑いを抱き、「警察で捜査中の、神戸における井川丑松の変死も、アンタの薬が死因だと見当が付いとるんだよ」と述べた。
金田一が田治見邸へ行くと、轟は迷惑そうな様子を見せた。轟が辰弥と話している間に、金田一は死体の傍らにある八つ墓明神の古い護符に気付いた。金田一は辰弥に、諏訪に頼まれて村へ来たことを話す。今度の尋ね人の一件が、裏に深い事情が隠されているのではないかと諏訪は考え、調査を金田一に依頼したのだ。美也子は慎太郎の元へ行き、里村家が農地改革など様々な事情で田畑を失ったこと、それに比べて本家は栄えていることを話す。慎太郎は「戦争が終わったからこそ、家の財産よりも実力が頼りと思っています。自分はこの手で運命を作り出す」と語った。その夜、辰弥は小竹と小梅が蔵へ入って行くのを目撃した。
翌朝、金田一は防空壕の穴のような場所を見つけ、美也子に尋ねる。美也子は鍾乳洞の入り口だと教え、落盤の恐れがあるので入ってはいけないことになっていると説明した。美也子は草木染めをやっており、染料になる植物を探していた。そこへ辰弥が来て、八つ墓明神が気になったので見に行くところだと語る。金田一も興味を示すと、美也子は落雷で社が焼けてしまったことを告げ、「村人たちは、これも尼子の落武者の成す業だと騒いだそうです」と述べた。
金田一は美也子の話に関心を示し、詳しく知りたがった。400年ほど前、毛利元就と戦って敗れた尼子義久の一族の8人が村に落ち延びた。哀れに思った村人たちは彼らを匿い、炭焼きなどを教えて仲良くやっていた。ところが毛利の詮議が厳しくなり、「落武者を匿うと命は無い、殺せば莫大な恩賞が出る」というお触れが回って来た。村人たちは相談し、8人を騙し討ちにした。最後に殺された若い落武者は、「村を祟ってやる」と呪いの言葉を吐いた。その後、村では怪異な出来事が次々に起きた。尼子の祟りだと恐れた村人たちは、8人を丁重に弔って墓を建て、明神として崇め奉ることにした。村の名前も、その明神に由来している。
久弥の初七日、田治見邸には親族と関係者が集まった。美也子は辰弥に、亡き夫の兄・荘吉を紹介した。濃茶の尼が来ると、美也子は金を渡して立ち去らせた。庵に戻った濃茶の尼は、何者かに殺害された。離れに戻った辰弥は、小竹と小梅が蔵から出て来るのを目撃した。彼は蔵に入り、葛篭の中に地下への隠し階段を発見した。階段を下りて鍾乳洞を進んだ辰弥は、石に鎮座している鎧武者を発見した。辰弥は慌てて逃げ出し、外へ抜ける道を発見した。
田治見邸へ戻ろうとした辰弥は、濃茶の尼の庵の前にいる慎太郎を目撃する。慎太郎が人目を気にしながら去った後、辰弥は室内で死んでいる濃茶の尼を発見した。しかし辰弥は、慎太郎を見たことを金田一や轟には言わなかった。金田一は千石巡査から、濃茶の尼には盗み癖があったことを聞かされる。濃茶の尼の死体に目をやった金田一は、鎌が畳に突き刺してあることに気付いた。「まるで三日月のように見えますなあ」と金田一が呟くと、千石は「三日月と言えば尼子の紋章ですな」と告げた。轟は坂東刑事から、濃茶の尼が金を入れるために使っていた薬瓶を見せられる。それ以外にも、庵には粉薬を量る計量器が置いてあった。
慎太郎は美也子の作業場へ行き、「気になることがあるんです。濃茶の尼が殺された件で。何か巻き込まれていませんか。僕に出来ることがあったら、力になりたいと思って」と告げる。美也子は慎太郎のために勉強した石灰岩の知識を披露し、手編みのマフラーを贈った。美也子は慎太郎に、嫁いで3年で夫が戦死したこと、実家に戻ってやり直そうと考えていた時に彼の復員を知ったことを話して抱き付いた。金田一が来たので、2人は慌てて離れた。
慎太郎が去った後、金田一は美也子に、小竹と小梅が辰弥を後継者とするための法律的な手続きを済ませているのかどうか尋ねた。美也子が「さあ、知りません」と答えると、金田一は「されているとすれば、辰弥君の命も狙われるわけですからね」と言い、それを確かめるために辰弥と会うつもりだと話した。金田一は美也子と共に辰弥の元へ行くと、彼は村を去るために荷物をまとめていた。辰弥は自分のせいで事件が起きているのだと語り、下宿に届いた警告書を見せた。手紙を見た金田一は、差出人が筆跡を隠すために左手を使い、インクを滲ませるために粗末な紙を使っていることを指摘した。
辰弥は金田一と美也子を蔵に連れて行き、隠し階段の存在を教えた。彼は鍾乳洞を案内し、2人を鎧武者の元へ連れて行った。鎧武者を調べた金田一は、人形ではなく死蝋だと気付いた。死蝋の前にある新しい御供え物を見た辰弥は、「大伯母が備えた物だと思います」と告げた。兜には尼子の紋章があったが、金田一は「400年前の物ではないですな」と述べた。「誰のミイラなんだろう」と辰弥が疑問を口にすると、彼らを追って来た春代が「貴方や私のお父さんです」と告げた。
春代は金田一たちに、今まで隠していたことを話し始めた。26年前、田治見要蔵はいきなり母を斬って家を飛び出し、村人32名を惨殺した。警察に追われた要蔵が戻って来たので、大伯母が鍾乳洞に匿った。要蔵が死んだ後、大伯母は甲冑を着せて隠し通そうとした。要蔵が事件を起こした原因は、鶴子にあった。仙波清十郎が局長を務める郵便局で働いていた鶴子に思い焦がれた要蔵は、彼女を拉致して土蔵に閉じ込めた。周囲が諌め、丑松が娘を返すよう求めても、要蔵は聞き入れなかった。
要蔵に強姦され、暴力を振るわれた鶴子は、同居することを承知した。要蔵が逃げられないように監視する中、辰弥が誕生した。だが、ある日、要蔵は幼い辰弥の背中に焼け火箸を押し付けた。このままでは自分も子供も殺されると考えた鶴子は、家を抜け出した。それで要蔵は凶暴化し、村人32名を惨殺したのだという。郵便局に戻った金田一が考えを巡らせていると、辰弥が来て「離れにある枕屏風が、夕日の逆光のせいか、初めて透けて見えたんです」と言う。屏風を見に行った金田一は、貼り込んである写真を発見する。それは若い頃の鶴子が亀井陽一という男と一緒に写っている写真だった…。

監督は市川崑、原作は横溝正史(角川書店刊・角川文庫版)、脚本は大藪郁子&市川崑、製作は村上光一&桃原用昇&堀内實三、企画は重村一&川合多喜夫&高井英幸、エクゼクティブプロデューサーは久板順一朗&大和正隆&橋本幸治、プロデューサーは松下千秋&大川裕&島谷能成、プロデューサー補は保原賢一郎&関口明美&有正真一郎、撮影は五十畑幸勇、美術は櫻木晶、録音は斉藤禎一、調音は大橋鉄矢、照明は下村一夫、編集は長田千鶴子、助監督は手塚昌明、音楽は谷川賢作。
主題歌「青空に問いかけて」作詞:谷川俊太郎、作曲・歌:小室等。
出演は豊川悦司、浅野ゆう子、宅麻伸、加藤武、井川比佐志、高橋和也、喜多嶋舞、萬田久子、岸部一徳、岸田今日子、神山繁、吉田日出子、石倉三郎、石橋蓮司、白石加代子、今井雅之、うじきつよし、織本順吉、西村雅彦(現・西村まさ彦)、小林昭二、大沢さやか、保木本竜也、姿晴香、鈴木佳、横山通代、石濱朗、永妻晃、川崎博司、宇治川理斉、歌澤寅右衛門、鈴木隼人、清末裕之、小林一帥、田邉年秋、佐藤直子、井上浩、徳島更紗、野上亜佑多、末次真三郎、豊岡英郎、音羽久米子、谷口真紀、池田一視、赤沼晃、佐藤太三夫、鎌田栄治、森岡隆見、田渕景也、岡山和之ら。


横溝正史の同名小説を基にした作品。
同じ原作が、1951年には東映(監督は松田定次、金田一役は片岡千恵蔵、タイトルは『八ツ墓村』)、1977年には松竹(監督は野村芳太郎、金田一役は渥美清)で映画化されている。
この映画は東宝が配給し、製作には角川書店が携わっている。
角川春樹がボスだった1976年から1979年に、角川書店は監督が市川崑、 金田一役が石坂浩二という組み合わせで5本のシリーズを製作し、東宝が配給した。その当時、角川春樹は『八つ墓村』も映画化したかったが、松竹に権利を持って行かれたのだ。
今回の金田一は石坂浩二ではなく、豊川悦司が演じている。
美也子を浅野ゆう子、慎太郎を宅麻伸、轟を加藤武、諏訪を井川比佐志、辰弥を高橋和也、典子を喜多嶋舞、春代を萬田久子、要蔵&久弥&庄左衛門を岸部一徳、小竹&小梅を岸田今日子、九野を神山繁、ひでを吉田日出子、徳之助を石倉三郎、洪禅を石橋蓮司、濃茶の尼を白石加代子、千石をうじきつよし、丑松を織本順吉、東坂を小林昭二、お島を大沢さやか、鶴子を鈴木佳が演じている。

金田一耕助って、実は役立たずと言ってもいいぐらいの男だ。
次々に人が殺されていく中で、彼はそれを食い止めることが出来ず、ほぼ犯人の目的が遂行された後になって、ようやく事件の真相に行き当たる。犯人の行動を読んだり、目的を察知したりして、事件を未然に防ぐことは全く出来ていない。
物語も佳境に入るまで、彼の推理はなかなか進展しない。
推理が進んでいるのに観客に明かされないわけではなく、ホントに推理が遅々として進んでいないのだ。
金田一は終盤に入って「事件の全貌は、こういうことなんですよ」と説明するための役回りであり、ほぼ狂言回しというポジションだ。

しかし、角川版の石坂浩二にしろ、TVシリーズで金田一耕助を長く演じていた古谷一行にしろ、それなりに「名探偵」としての説得力を持たせるだけの役者力があった。
金田一が判断を誤っても、なかなか犯人を突き止められなくても、「名探偵でも苦労する難事件」という風に感じさせるだけの説得力があった(まあ、それでも結果的には役立たずなんだが)。
しかしトヨエツの演じる金田一耕助は、何となく軽い。普通に「能力の低いボンクラな探偵」にさえ見えてしまう。
あと、台詞回しもイマイチだなあ。

しかしトヨエツより問題なのが浅野ゆう子で、「なんで起用しちゃったのか」と言わざるを得ない。
「古い因習、忌まわしき村」という作品の世界観に、まるでフィットしていない。
まだ「都会に住んでいて、初めて村を訪れた」とか、そういうことならともかく、そういう村にずっと住んでいる役柄だからね(っていうか、初めて村を訪れる役柄だとしても、ちょっと厳しいけど)。
後述するけど、とどのつまり、市川崑の撮る金田一シリーズって「雰囲気が全て」みたいなモンだから、雰囲気に合わないってのは致命的だ。

岸部一徳に要蔵&久弥&庄左衛門の3役を演じさせているのは意味が無いし、失敗だろう。
久弥と庄左衛門はともかく、要蔵としては完全にミスキャスト。
要蔵ってのは村を牛耳る強権的な暴君であり、そういう人間が鶴子を拉致監禁し、逃げられたことで激昂して村人たちを惨殺するのだ。
ところがサリーが演じちゃうと、「いつもは臆病で小心者のサラリーマンが、あることをきっかけに暴発してしまった」という感じに見えてしまうのだ。

辰弥が八つ墓村に到着すると、美也子の台詞によって、田治見家の概要や人間関係が説明される。
わずか1分程度の時間で、かなり多くの情報が盛り込まれているので、幾ら映像によって登場人物が表示されるとは言え、それを全て把握するのは簡単ではない。
要蔵以外の面々の名前は、そこで初めて登場するしね。
ただ、そこは「このシリーズは、そういうモノなのだ」と理解し、受け止めるしか無い。

原作のボリュームが厚いため、2時間強の長編映画にまとめるためには、どうしても省略や削ぎ落としの作業が必要となる。
そこを上手くやらないと、説明不足になったり、物語がツギハギ状態になったり、人間ドラマやキャラクター描写が薄くなったりという事態が起きる。
で、この映画がそこの作業を上手くこなせているのかというと、疑問が残る。
っていうか、あまり上手くやれているとは思えない。

監督は1970年代の角川シリーズと同じ市川崑が担当しているのに、見ている途中で「何か映像的な物足りなさがあるなあ」と思ったのだが、様式美が感じられないんだね、この映画。
ぶっちゃけ、1970年代の角川シリーズだって、そんなに面白いとは思えなかった。ただし、全体の雰囲気作りに関しては、良く出来ていると感じた。原作の持つおどろおどろしい雰囲気と、市川監督の様式美が、上手くマッチングしたのだろうと感じた。
でも、この映画には格調高い様式美が足りないので、「人間を冷たく物質化してしまう」という市川監督の特色だけが際立つ結果となっている。淡々としていてメリハリに乏しく、人間ドラマの盛り上がらない映画という印象になっている。
あと、ケレン味も無いよなあ。
殺し方とか、犯人による殺害現場の飾り付けとか、そういう部分でケレン味を出すのが金田一シリーズの特徴だと思っているんだけど、この作品だと、そこが弱い。一応、死体の傍らに護符や鎌を置くという仕掛けはあるけど、ケレン味があるわけではない。

辰弥は濃茶の尼の庵から立ち去る慎太郎を目撃しているのに、そのことを金田一や轟には言わないのだが、その理由が良く分からない。
典子に「(慎太郎が昨日の夜に出掛けたことは)話さない方がいいよ」と告げているところからすると、彼女に好意を寄せているから兄貴を庇ったってことなんだろうか。
でも、それまでの展開の中で、辰弥が典子に惚れたような様子は全く無かったしなあ。だけど、他の理由を考えても、何も見当たらないしなあ。
結局、ここは最後まで分からないままだった。

これは映画版だけの問題ではなく、原作の時点で発生している問題なのかもしれないが、「尼子の祟り」の要素って、まるで無意味なモノになっているんだよな。
濃茶の尼が「八つ墓明神様がお怒りじゃ」と言ったり、千石が「祟りのせいじゃないか」と言ったり、犯人が尼子の祟りに見せ掛けるような偽装工作を施したりしているけど、金田一や轟は祟りなんて全く気にしていないし。
だから、その見立て殺人の偽装も無意味だ。
400年前の祟りという要素が、おどろおどろしさを醸し出すために機能しているわけでもない。

八つ墓村の名前の由来になっているし、原作でも重要な要素として持ち込まれているから使わざるを得ないという事情は分かるんだけど、でも必要性ってことだけを考えると、むしろ削除してしまった方がいいんじゃないかと思うんだよな。
そこをバッサリと削ぎ落として、26年前の事件だけを使って、おどろおどろしい雰囲気を構築した方が良かったんじゃないかと。
村人たちが辰弥を排除しようとするのも、400年前の祟りが無くて26年前の事件だけでも成立するし。
っていうかさ、400年前の祟りと26年前の事件の2つを使っておきながら、村の因習や禍々しさといった部分が弱いってのは、どうしたことなのかと。

(観賞日:2013年11月26日)

 

*ポンコツ映画愛護協会