『蟲師(むしし)』:2007、日本

雨の中、少年ヨキと母親が峠の道を歩いていた。突然、土砂崩れが発生し、母親は飲み込まれた。残されたヨキの姿を、ぬいという女が 見ていた。蟲師のギンコは雪道を歩き、ある庄屋で泊めてもらうことになった。話で盛り上がっていた庄屋の倅と仲間たちは、ギンコが 蟲師だと自己紹介すると、途端に黙り込んだ。ギンコが2階へ行くと、芝山の文蔵という博徒の先客がいた。
ギンコは庄屋夫人に呼ばれ、「診てやってほしい者がいる」と告げられた。庄屋夫人は村人や女中を呼び寄せ、彼らが耳を患っていること を告げた。彼女は「この村は深い谷の底。風の通らぬ静かな里。何年かに一度、大雪が降ると物音一つ無くなり、そういう晩には、やがて 心細くなって耳から音が消えてしまう。蟲のせいだ」と語った。大半の者が、片耳しか聞こえないという。
ギンコは、それが音を食う吽(うん)という蟲であることを教えた。天井裏を調べると、そこに何匹もの吽がいた。ギンコは「耳の中には カタツムリそっくりな器官がある。吽は、そこで入ってくる音を全て食ってしまう」と説明した。彼は岩塩と焚き蒸したセンブリをお湯に 溶かし、それを村人の耳に流し込んだ。すると、たちまち耳が聞こえるようになった。
ヨキが目を覚ますと、ぬいの住む地蔵堂だった。ヨキは天井に張り付いている大量の蟲に気付いた。ぬいは淡々と、「怯えなくても、あの ように光を浴びているものは悪さをしない」と告げた。それから「早く治して出とっとくれ」と告げた。ギンコは村人を治療した翌日、 庄屋夫人に「もう一人いる、他の者とは何やら違う。両耳を病んだ者がいる」と告げられた。それは彼女の孫娘・真火(まほ)だった。 ギンコが部屋に行くと、真火の額には角が生えていた。
庄屋夫人は「秋口からこのようになってしまった。角が生えて、今まで聞こえていた音が聞こえなくなり、聞いた事のない音が聞こえる ようになった。角から音が入ってくる」と語った。ギンコは、阿(あ)という蟲かもしれないと述べた。その蟲には、吽を治療した薬では 効果が無い。ギンコは真火を調べるため、煙を炊いて蟲を遠ざけた。それから彼は、どのように角が生えてきたのか真火に尋ねた。すると 真火は、「耳を塞いでいた」と言う。病気で角が生えた母と同じようにしたのだという。
ギンコは庄屋夫人に、真火の母のことを尋ねた。真火の母は、音のためにろくに眠れず、衰弱して死んだらしい。死んで桶に入れようと した時、角が取れていることに気付いたという。ギンコは「墓を掘り起こして角を見てみたい」と頼むが、火葬にしてしまったという。 だが、ギンコは真火が母親の角を隠し持っていることを知った。真火は、母の角を見つけて額に付けたことを明かし、「お母さんの声が頭 の中をグルグル回って、怖くなった」と語った。
ギンコは蟲の巣を発見し、阿を探し当てた。彼は自らを実験台にして、阿の生態を調べた。その結果、人間が寝付いた時など、呼吸や脈拍 が静かになった時に入ってきて、記憶の一番深いところに憑り付くことを突き止めた。ギンコは、真火の母の角が吽になろうとしている ことを庄屋夫人と真火に告げた。彼は「真火が自分で治すしかない」と告げ、目の前で母の角を握り潰した。真火は絶叫するが、その額 から角が取れた。ギンコは「阿は出て行った」と告げた
ぬいはヨキに、蟲のことを教えた。「私の言う蟲は、見える人間と見えない人間がいる。私たちの命の別の形。ただ、影響は及ぼしてくる から近付くな」と彼女は警告した。ぬいは「そろそろ足はいいんじゃないのか」と帰るよう促すが、ヨキは「ずっと母親と物売りをして 歩いていたから、帰る場所は無い」と告げた。地蔵堂の近くにある池の魚は、全身が白くて片目だった。ぬいも髪が白くて片目だ。ぬいは 「池の光を繰り返し浴びるとこうなる。池には常闇(とこやみ)と銀蠱(ぎんこ)という蟲がいる」と告げた。
仲間の集まる場所を訪れたギンコは、外で眠っている男の姿を目にした。男の傍らには、大きな甕(かめ)があった。ギンコの元には、 狩房淡幽(かりぶさ・たんゆう)の乳母・たまから「早く来い」と書かれた手紙が届いていた。外の男について仲間に尋ねると、雨宿りの 流れ者で、虹を捕まえ、甕に入れて持って帰ると言っているらしい。ギンコは、その男・虹郎(こうろう)に、「どんな虹を探している?」 と声を掛けた。そしてギンコは虹郎と共に狩房家へ向かうことにした。
虹郎は、「子供の頃に親父と虹を見た。蛇のように曲がりくねる虹だった」と語った。ギンコは「それは虹蛇(こうだ)というんだ」と 教え、「これから行こうとしている淡幽の家の記録を読んだ」と告げた。淡幽の家には代々、変わった蟲に体を侵された者が生まれてくる。 蟲に憑り付かれた家だとギンコ。この蟲の呪いを解くには、様々な蟲を殺した話や封じた話を文字にして書いていく。そうすると文字の墨 となって蟲が出て行く。だから淡幽は蟲の記録を取るのだと、ギンコは虹郎に説明した。
ぬいはヨキに、「夜、山を一人で歩いていると、月が雲も無いのに急に見えなくなったりして方角が分からなくなり、次に自分に昔あった ことも分からなくなる。それは常闇が近くに来ているからだ」と語った。それから彼女は、「何でもいいから、何かの名前を自分の名前と して思い出せばいい」と対処法を告げた。その代わりに、前の名前だった頃のことは思い出せなくなるという。ヨキが「おっ母のことを 忘れるのは嫌だなあ」と口にすると、ぬいは黙り込んだ。
ヨキは「ぬいが何か隠している、おいらがいちゃ困る理由が何かある」と考え、夜中に抜け出して池へ向かった。彼は「蟲が蟲を食べる なんて有り得ない」と考え、棒で水面を叩いたり石を投げ込んだりして、「出て来い、常闇。銀蠱、お前なんかちっとも怖くないぞ」と 叫んだ。すると、池から常闇が出現した。直後、池が光り、そこへ泳いでいった魚の姿が消えた。
ぬいが池にやって来て、「魚は消えるのではない。銀蠱の放つ光が、常闇に食われた生き物を光に変えたのだ」とヨキに教えた。さらに 彼女は、「白くなった魚は、いずれは両目を失い、常闇となってしまう。それが分かった時には、私も光を浴びすぎていた」と語る。ぬい ヨキを追い払い、池に体を沈めた。だが、ヨキは舞い戻り、池に入ってきた。2人は光に包まれ、ぬいはヨキの右目を銀蠱に与えた。道を 歩くヨキは、名前も分からなくなっていた。彼は「おいらの名前、ギンコ」と呟いた。
狩房家へ向かう途中、ギンコは虹郎に「俺の片目はガラス玉で、子供の頃の記憶が無い」と語った。狩房家に到着すると、たまが出てきた。 彼女は虹郎に「外で待ってな」と冷淡な口調で言うと、ギンコだけを招き入れた。たまは早く来なかったことを責め、淡幽が呼んでいる ことを告げた。淡幽の部屋に行くと、彼女は苦悶していた。その右足には、墨色のアザが広がっていた。
たまはギンコに、1ヶ月前に一人の蟲師が来たことを告げた。蟲師は盲目の女で、杖となっている男の方も口が利けなかった。2人は、 珍しい蟲を退治した話をすれば金になると吹き込まれ、訪ねてきたのだ。女蟲師は狩房とたまに、「昔、山の池に常闇という蟲がいて、 その池の底には銀蠱という蟲もいた」と語った。それを聞いたギンコは「俺の名前?」と驚く。
たまは、銀蠱が目の無い魚だと教えるが、ギンコは「知らない」と告げた。女蟲師から話を聞いた晩、それを記録している時に、淡幽は 寝込んでしまった。女蟲師と男は話が終わると、謝礼の代わりに狩房家に通じる光脈筋(こうみゃくすじ)の図面を見せてほしいと 持ち掛けた。たまが蔵にあった図面を見せてやると、2人はどこかへ流れていったという。
ギンコはたまに頼んで、淡幽が女蟲師の記録を書いた巻物を読ませてもらった。その年、女蟲師の家が受け継いできた田が稲の病気で土が 汚れた。二年続きの不作と天候不順で、田んぼが枯れようとしていた。女蟲師が仕事で家を開けていた時期、亭主が彼女の荷物から土地の 光脈を書いた図面を盗み見た。湧き水を塞き止めて村の谷に引こうと考えたのだ。
光酒(こうき)を含んだ水によって、田は蘇った。しかし、それは人が手を掛けてはいけない所業だった。そのせいで、池には常闇が 住み着くようになった。そして、女蟲師の亭主と子供は池に消えた。女蟲師は池の近くの地蔵堂に住み、常闇を調べ始めた。ある日、母親 を鉄砲水で亡くしたヨキという子供を峠の道で拾い、連れて来た。ヨキは、女蟲師の子供と同じぐらいの年齢だった。
記録を読んでいる途中、ギンコの周囲に大量の蟲が寄って来た。巻物の文字は、滲んで読めなくなった。蔵にある他の巻物では、淡幽が 封じた蟲が騒ぎ出した。淡幽の部屋に行くと、彼女のアザは全身に広がっていた。それは常闇ではなく、淡幽に元から憑いている蟲だと、 たまはギンコに告げた。「解き放たれて宿主に牙を向いている。祓うことは出来ない。操れるのは淡幽だけ」と彼女は言う。たまはギンコ に、「蔵へ戻って、淡幽の文字に食らいついた常闇を探してお前が操れ」と命じた。
ギンコは虹郎に蔵を封印するよう指示し、自分は中に留まった。ギンコの前には、「ヨキ」と呼び掛ける蟲が出現した。一方、たまの懸命 の処置により、淡幽は息を吹き返した。虹郎が蔵へ行くと、ギンコが倒れていた。淡幽は、「常闇を封じた自分の文字たちに食われた」と 虹郎に説明する。淡幽はギンコを救うため、常闇に寄った文字たちを解き放つ作業を開始した。ギンコは回復したものの、衰弱した状態の ままだった。ギンコは虹郎と共に、命の元である光酒の流れる光脈を目指す…。

監督/脚本は大友克洋、原作は漆原友紀、脚本は村井さだゆき、プロデューサーは小椋悟、共同プロデューサーは神田裕司、 アソシエイトプロデューサーは井上潔、エグゼクティブプロデューサーは二宮清隆&泉英次&Sunmin Park、製作は林田洋&浅沼誠& 加藤鉄也&高橋増夫&喜多埜裕明&会田郁雄、撮影は柴主高秀、編集は上野聡一、録音は小原善哉、照明は長田達也、美術は池谷仙克、 特殊メイクは中田彰輝、VFXスーパーバイザーは古賀信明、音楽はハイ[くさかんむりに配]島邦明。
出演はオダギリジョー、大森南朋、蒼井優、江角マキコ、李麗仙、りりィ、クノ真季子、守山玲愛、稲田英幸、沼田爆、大高洋夫、 りんたろう、榊英雄、梅沢昌代、田口主将、六角慎司、井上佳子、田鍋謙一郎、本城丸裕、寺田克也、麻田真夕、マメ山田、依田英助、 建蔵、和田周、松下将也、荒井州壬子ら。


漆原友紀の同名漫画を基にした作品。漫画家でアニメ監督の大友克洋が撮った映画。
原作漫画は2005年にTVアニメ化され、高い評価を受けているが、これは実写映画。大友克洋にとっては1991年の『ワールド・アパート メント・ホラー』以来、久しぶりの実写映画ということになる。
原作は一話完結だが、映画では「柔らかい角」「筆の海」「雨が来る虹がたつ」「眇の魚」という4つの話を組み合わせ、1つの物語と して構成している。
ギンコをオダギリジョー、虹郎を大森南朋、淡幽を蒼井優、ぬいを江角マキコ、たまを李麗仙、庄屋夫人をりりィ、真火の母をクノ真季子、 真火を守山玲愛、ヨキを稲田英幸、ぬいの亭主を沼田爆、ぬいの元亭主を大高洋夫、庄屋主人をアニメ監督のりんたろうが演じて いる。
オダギリジョーの姿はハッキリ言って、実写版ゲゲゲの鬼太郎(つまりウエンツ瑛士が演じた映画の鬼太郎ね)をアダルトにして、しかも 出来損ないにしたみたいな感じ。

一言で表現するならば、何が何やらワケが分からない映画だ。とにかく説明が圧倒的に不足している。
あまりにも専門用語に関する説明が多すぎて、情報量の洪水。
だけど、そこまで多くのことは覚えていられないよ。
雪深い村での出来事は最初のエピソードなんだから、蟲や蟲師がどのように定義されているのかを観客にキッチリと説明すべきだろうに、 最後までボンヤリしたままで終わってしまう。
上述した粗筋も、ワシは自分でも何が何だか良く分からないまま書いているからね。

初期設定があやふやなままでどんどん話が先に進んでいくので、見ているのが苦痛になってくる。
まだ蟲や蟲師の定義が良く分からない内に、蟲師の他に、蟲と異なる関わり方をしている深幽というキャラが登場して、ますます頭が こんがらがってくる。全てにおいて、誰が蟲に憑り付かれようが、それが解決しようが、何が起きようが、「だから何なの?」と言いたく なる。
「コウキ」とか「コウミャクスジ」とか言われても、いちいち調べないと、漢字でどう書くのかも分からない。そして漢字が分からないと いうことが、意味を理解するためことの妨げにもなる。
原作を読んでいれば、その辺りは大丈夫なんだろうけど、だとしても「原作を読んでいないと意味不明」という時点でダメだしね。
まあ苦痛になってくる理由は、そういうことだけじゃなく、単純に話が退屈ってのもあるんだけどね。ひたすら淡々と進み、起伏は全く 無いと断言してもいい。チェンジ・オブ・ペースも無い。
文芸映画というわけじゃなくて、ただ単に「本来は娯楽性があるべきなのに欠如している」というだけ。

冒頭、ジョーハープのような、低い単調な音が流れる。そして、山の景色が1分ほど延々と続く。
その時点で、観客の気持ちを掴むことに失敗している。
最初は主役のギンコではなく、少年ヨキの話から始まる。なぜかヨキは土砂崩れに母親が飲み込まれも、母の名を叫んだり悲しんだりする 様子もなく、淡々と何か良く分からない作業をしている。そこに母を失った感情は見えない。
その後、ギンコが雪深い村に来る話になる。
庄屋には芝山の文蔵という博徒の先客がいたが、こいつは話に全く関わらず、何のために登場したのかは不明。
ギンコが吽に憑り付かれた村人を治療した後、再びヨキの話に戻る。
このように、ヨキの話とギンコの話が交互に描写される。ヨキの話は、ギンコの過去を解き明かす内容に繋がっていくことになる。
ただ、現在地における主人公の立ち位置さえボンヤリしているし、世界観も、蟲師ってのが何なのかも良く分からない状態なのに、そこで ギンコの過去を掘り下げられても困る。
そういうのは、今の主人公の状態や取り巻く環境を明確に描いた上でやるべきことだ。既に良く分からない状態、五里霧中の中で、それと は別の謎を解き明かす作業を始められても、こっちはますます混乱するばかりだ。
その前に、まずは目の前にある謎を解き明かしてくれと言いたくなる。

ギンコは真火を治療する際、「自分で治すしかない」と言い、目の前で母の角を握り潰す。すると真火は失神するが、すぐに意識を回復 する。
ギンコは「阿は出て行った」と言い、真火の角は取れるが、どういう原理でそうなったのかはサッパリ分からない。「自分で治す しかない」と言っているんだから、それは真火が自分で治したってことになるんだろうが、どういうことか分からない。
それに、それが治っても、「だから何?」と思ってしまう。
病気が治ったことで、何か観客の心に残るべきじゃないのか。何も残らず、「だから?」と消化不良の感覚だけが残る。
ひょっとすると、真火と母親の関係って、そこにある感情をもっと示すべきじゃないのか。
母が好きだったからこそ、真火は角を額に当てたんでしょ。だけど声が回って怖くなった。それは娘としては、悲しいことでもある。で、 角が取れたら嬉しいけど、母のことを考えれば複雑なはず。
そういうところでの真火の気持ちが、サッパリ描かれていない。そして、そういうことに対するギンコの思いやりも全く無い。もしくは 描かれない。
っていうかギンコってポーカーフェイスなのは意図的だろうが、まるでキャラとして生きていない。
彼に限らず、登場人物は総じて魂が込められていない。

ギンコが虹郎に「どんな虹を探しているのか」と声を掛けた後、次のシーンでは一緒に歩き始めている。
なぜ一緒に旅をすることになったのか、その経緯が良く分からない。そもそも、なぜ話し掛けたのかも分からない。虹郎が勝手に付いて 来たのならギンコは嫌がっても良さそうだが、その様子はないし、じゃあギンコが誘ったのか。だとすれば、なぜなのか。
ぬいが月夜の晩の常闇への対処法を語った夜、ヨキは「ぬいは何か隠している。おいらがいちゃ困る理由が何かある」と考えるが、そう 考えるようになった理由は不明。それから彼は池へ行って「出て来い、常闇」と水面を叩いたりするが、その行動の理由も不明。
で、ぬいが来て「白くなった魚は両目を失い、常闇になる。それが分かった時には、私も光を浴びすぎていた」などと語るが、そんなこと を説明されても「だから何なの?」としか思えない。
その後、ぬいとヨキが光に包まれるが、何が何やらサッパリだ。
そもそも、常闇と銀蠱のことも、一応の説明はあったけど、まだ良く理解できていない状態なのだ。

たまが深幽の処置をするところでスリルを作ろうとしているようだが、何がどうなったらヤバいのか、どうなったら成功なのかも良く 分からないのに、スリルを感じるのは無理だ。
回復した深幽は、常闇に寄った文字たちを解き放つために仰々しく何やら儀式チックな動きを見せるけど、やっぱり何がどうなったら成功 なのか、どうなった場合はマズいのかが全く分からないから、ちっとも気持ちが入らない。
集中するのがホントに難しい作品だ。

虹を探している虹郎は、出番は多いけど、肝心の虹探しに関しては、話は全く膨らんでいない。「見たから満足だ」ってことで終わって いるし。大量の蟲が空に渦を巻いて、空の向こうに虹蛇が出現して、それを見て終わりなのだ。「別の目的で旅をしていたら、たまたま 遭遇」という形なのだ。
で、捕まえないで終わり。
こっちには、「虹蛇が出現した」という感動や喜びは全く無い。
こいつが虹蛇を探していたことさえ、すっかり忘れていたよ。

最後、ギンコがぬいを池に連れて行き、蟲を寄せ集めて、ぬいが光に包まれるが、それが何を意味するのか、ギンコはぬいに対してどんな ことをやったのかサッパリだ。
葬ったってことなのか、それとも助けたのか、全く分からない。
最後までワケが分からないまま終わってしまう。
まあ色々と書いたけど、蒼井優をこれほど魅力的じゃないヒロインとして撮っただけでも、完全にアウトだわ。

(観賞日:2009年12月21日)

 

*ポンコツ映画愛護協会