『無限の住人』:2017、日本
万次は旗本と警護の同心6人を斬って追われる身となり、妹の町を連れて逃亡の旅を続けていた。6人目の同心は、町の夫だった。現場を目撃した町は、気が触れてしまった。八百比丘尼という老婆と出会った万次は、妹を残して自害できないと吐露する。彼が話し込んでいる間に、町は姿を消してしまった。万次が捜しに行くと、彼女は賞金目当ての司戸菱安と手下たちに捕まっていた。脅迫を受けた万次が刀を捨てると、司戸は町を殺害した。万次は激昂して一味と戦い、左腕を落とされながらも全員を斬り捨てた。瀕死の状態となった万次は、比丘尼に自分を殺すよう頼む。すると比丘尼は「これだけの人を殺めておいて、身勝手な奴よのう」と言い、血仙蟲を彼の体に注入した。万次の左腕は接合し、彼は不老不死の体になった。
50年後。無天一流の統主を務める浅野虎厳には、凛という一人娘がいた。彼女は剣の稽古に没頭しており、母の時が女のたしなみも覚えてほしいと望んでも全く意に介さなかった。逸刀流の天津影久が大勢の手下を率いて道場へ乗り込み、国中の流派を統一する目的があることを語る。彼は軍門に加わるよう要求し、望むのであれば1対1で戦うと言う。虎厳は刀を抜くが、影久は軽く始末した。彼は手下たちに、町は自由にして構わないが、年端も行かない凛には構わぬよう命じた。町は凌辱され、道場から拉致された。
凛が仇討ちの稽古を続けていると、比丘尼がやって来た。比丘尼は彼女の目的を聞くと、用心棒を雇うよう促した。不死身の男がいることを聞いた凛は、江戸へ出て聞き込みを行った。河原の掘っ立て小屋で暮らす万次は凛の訪問を受け、町に瓜二つなので驚いた。凛は仇討ちの手伝いを依頼し、比丘尼から聞いたことを伝える。万次は断るが、凛が強い思いを訴えると「その仇討ちに全てを投げる覚悟はあるか。だったら決意の程を見せてみろ」と要求して挑発した。凛が着物を脱ごうとすると、万次は「冗談だ」と制止した。
凛の前に逸刀流の黒衣鯖人が現れ、究極の愛として殺そうとする。彼は時の頭部を着物に縫い付けており、それを見た凛は激昂する。万次は影久の居場所を尋ねるが、黒衣が無視して襲って来たため斬り捨てた。影久は幕府の番頭である吐鉤群から流派統一の目的を問われ、「強くなることに心を砕いた者のみ、優れた剣士と呼ばれるべきだと思います」という考えを語る。吐が公儀御用達の武芸所を作るための協力を要請すると、影久は自分を頭取にするよう求めた。吐は老中の判断を仰ぐ必要があると告げ、その場を去った。影久は手下の凶戴斗から黒衣が殺されたことを聞き、他の者たちに用心するよう伝えろと指示した。
凛は万次の刀を研いでもらうため刀鍛冶を訪ねた時、道場から盗まれた家宝があるのを目にした。それを取りに来た凶の顔を見た彼女は、道場から奪った張本人だと気付く。凛から知らせを受けた万次は凶と戦い、地の利を得て余裕を見せた相手を倒す。万次は取り戻した刀を澪に渡し、死んだ妹に似ていることを語った。万次は茶店で休んでいる時、逸刀流の閑馬永空から手を組んで影久を消さないかと誘われる。万次が断ると、彼は襲い掛かって来た。万次は閑馬を殺そうとするが、彼も比丘尼に血仙蟲を注入されていた。
閑馬は血仙蟲の働きを弱める薬を刀に塗っており、万次に傷を負わせた。凛は医者を呼ぼうとするが、閑馬に妨害される。閑馬が彼女を殺そうとすると、万次が襲い掛かった。万次は閑馬の刀を奪い取り、彼の命を奪った。吐は天津の元を訪れ、老中が申し出を承知したことを伝える。影久は側近の阿葉山宗介に、かつて公儀師範を務めた伊羽研水が余命わずかと知って逸刀流に加わりたいと申し出たので高尾山へ出向くことを告げた。万次は逸刀流の剣士を次々に殺しており、影久は出来るだけ単独行動を慎むよう手下たちに告げた。
影久は万次に刺客を送ろうと決め、花魁の乙橘槇絵に依頼を持ち掛けた。槇絵は飲み屋を出た万次に声を掛けて2人きりになり、殺しに来たことを明かす。万次は彼女と戦うが、全く歯が立たずに腹を突き刺されて右腕を切り落とされた。万次が引導を渡すよう要求すると、槇絵の動きが固まった。彼女が「気を抜くと自分のしたことが怖くてたまらなくなる。私の剣は人を不幸に陥れる」と話していると、凛が現れて万次を守ろうとする。自分のしたことが怖いと思わないのかと槇絵に問われた凛は、「愛するための人なら善悪は関係ない」と言う。槇絵は涙を流し、万次に「ずっとその子を守ってあげてくださいね」と穏やかに述べて立ち去った。
翌朝、万次は妹の墓参に出向き、森へ刀の稽古に出掛けた凛は影久を見つけて復讐を果たそうとする。影久は傍らの斧を担ぎ上げ、それが祖父の物だと話す。彼の祖父である三郎は、凜の祖父である虎行と無天一流の免許皆伝を競い合っていた。三郎の方が斬った数は多かったが、師範の虎秀は息子の虎行に免許皆伝を与えた。三郎が異国の武器を使ったことを虎秀から咎められ、道場を追い出されて哀れな最期を迎えた。影久は凛を殺さず、「お前の技は邪道だ。お前と我々と同類だ」と告げた。
万次と凛は無骸流の尸良、百琳、偽一と出会い、共通の敵である逸刀流を倒すために手を組まないかと持ち掛けられた。万次は警戒するが、凛は彼らの話に乗った。無骸流は内通者の協力で、影久が女装して高尾山に向かった情報を得ていた。これを受け、万次と尸良、偽一と百琳が組んで行動することになった。影久らしき人物を見掛けた尸良が襲い掛かると、逸刀流が用意した女だった。万次は姿を見せた刺客の1人を追い掛け、森で戦う。尸良は偽の情報を流した内通者の真琴と戦い、軽く始末した。
尸良が影武者の女を手籠めにしようとすると、凛が止めに入る。尸良は凛を殴り付けて刀を向けるが、万次に右手を切り落とされて逃亡した。万次は「もうダメだと思った」と漏らす凛に、過去の出来事を語る。彼は旗本から私腹を肥やしてた民を困らせている奴と聞かされ、ある役人を殺害した。だが、実は旗本こそが私腹を肥やしている張本人で、役人は幕府に知らせようとしていたのだ。それを知った万次は、旗本と警備の同心たちを斬ったのだった…。監督は三池崇史、原作は沙村広明「無限の住人」(講談社「月刊アフタヌーン」所載)、脚本は大石哲也、製作は高橋雅美&亀山慶二&吉羽治&Peter Watson&鄭泰成&奥野敏聡&大川ナオ&荒波修、エグゼクティブプロデューサーは小岩井宏悦、プロデューサーは坂美佐子&前田茂司&Jeremy Thomas、撮影は北信康、照明は渡部嘉、録音は中村淳、美術は松宮敏之、編集は山下健治、スーパーバイジングサウンドエディターは勝俣まさとし、キャラクタースーパーバイザーは前田勇弥、ヘアメイクディレクターは冨沢ノボル、特殊メイクアップは松井祐一&三好史洋、殺陣は辻井啓伺&出口正義、音楽は遠藤浩二。
主題歌はMIYAVI『Live to Die Another Day -存在証明-』Writers:MIYAVI&Lenny Skolnik&Tom Leonard&Amon Hayashi。
出演は木村拓哉、杉咲花、福士蒼汰、山崎努、田中泯、市川海老蔵(十一代目)、石橋蓮司、勝村政信、真飛聖、北村一輝、市原隼人、戸田恵梨香、栗山千明、満島真之介、金子賢、山本陽子、菅田俊、音尾琢真、大西信満、福本清三、出合正幸、北代高士、新妻聡、平岡拓真、安達征耶、ちすん、山口祥行、本山力、清家一斗、堀田貴裕、黒石高大、一ノ瀬ワタル、笠原竜司、小橋正佳、夏山剛一、加藤千果、園英子、山口幸晴、茂手木桜子、柴田善行、いわすとおる、吉家章人、吉村正範、山田永二、西尾塁、中村彩実、岸本華和、杉山幸晴、山口孝二ら。
沙村広明の同名漫画を基にした作品。
監督は『テラフォーマーズ』『土竜(モグラ)の唄 香港狂騒曲』の三池崇史。
脚本は『BECK』『DOG×POLICE 純白の絆』の大石哲也。
万次を木村拓哉、凜&町を杉咲花、影久を福士蒼汰、伊羽を山崎努、吐を田中泯、閑馬を市川海老蔵(十一代目)、阿葉山を石橋蓮司、虎巌を勝村政信、時を真飛聖、黒衣を北村一輝、尸良を市原隼人、槇絵を戸田恵梨香、百琳を栗山千明、凶を満島真之介、司戸を金子賢、比丘尼を山本陽子が演じている。三池崇史は基本的にオファーを断らない人で、他の映画監督と比べても圧倒的に手掛けた本数が多い。
この映画から遡ると、劇場用作品に限定しても2016年は『テラフォーマーズ』と『土竜(モグラ)の唄 香港狂騒曲』、2015年は『風に立つライオン』と『極道大戦争』、2014年は『土竜(モグラ)の唄 潜入捜査官 REIJI』と『神さまの言うとおり』と、ほぼ1年に2本ペースで作っている。
彼は質より量の人なので、おのずと駄作も多くなる。しかも、ここ最近は駄作の割合がものすごく多くなっている。
前述した作品の後も調べてみたのだが、6年ぐらいは駄作しか作っていない。そうじゃない映画ってことになると、『十三人の刺客』まで遡らなきゃいけなくなる。そんな駄作製造マシーンの三池崇史と初めてタッグを組んだのが、日本では絶滅危惧種となっている「ザ・スター」の木村拓哉である。
彼は今の日本において数少ない、「スター」としての輝くを放つ人材だ。高倉健の亡き後、彼が日本映画界で唯一の男性スターと言ってもいい。TVのバラエティー番組やTVドラマにも積極的に出演しているので、そこに引っ掛かりが無いわけではないのだが、少なくともスターであることに間違いは無い。
つまり木村拓哉の主演映画を観賞する際の我々は、「彼はスターである」ということを念頭に入れておく必要があるのだ。
具体的に言えば、「映画の主人公を木村拓哉が演じている」のではなく、「木村拓哉が映画の主役である」という見方をする必要があるってことだ。過去に木村拓哉の主演作を批評した時にも書いていると思うのだが、「木村拓哉は何をやっても木村拓哉である」ってことだ。
それが悪いということではなく、それがスターである証なのだ。スターが映画に主演する場合、基本的には「役を俳優に近付ける」という方向性で考えるものだ。役の方へ簡単に近付いていけるような人間は、スターには向いていない(市川雷蔵のような例外もあるが)。
何をやっても変えられない強烈な個性こそ、スターの輝きなのだ。
なので本作品にしても、「原作漫画と比べてどうなのか」という見方をしてはいけない。
そこから完全に切り離して、例えば「長谷川一夫が演じる銭形平次」や「市川右太衛門が演じる旗本退屈男」と同じような捉え方をするべきだ。
「木村拓哉は何をやっても木村拓哉」ということを考えれば、そもそも人気漫画の主人公を演じさせている時点で企画としては間違いなのだが、そこは仕方がない。冒頭から「大量の敵をバッサバッサと斬っていく」というチャンバラを用意しているのだが、そこをモノクロで描いているのがマイナスに作用している。
それだけでなく、ガチャガチャと揺れるカメラや寄り過ぎるアングルなどもマイナス。
あと、やけにモッチャリしている印象なのは、何なのかねえ。
木村拓哉の動きからすると、ホントは「キレとスピード」で魅せるチャンバラになっているべきじゃないかと思うんだけど、むしろ重厚さを強調した方が良さそうな感じで、そこは上手く噛みあってないなと。町が殺されたのは、万次が比丘尼と喋っていたせいだ。その程度で大事な妹を見失う万次はボンクラで、「町が死んだから生きる意味が無い」と言い出すけど、同情しかねる。
あと、万次もボンクラだけど、比丘尼にも責任の一端はあるのよね。なので、こいつが「大勢を殺しておいて死のうなんて甘い」ってことで万次を不死身にしちゃうのが、「そんなことより責任を感じろよ」と言いたくなる。
っていうかさ、こいつの行動原理がサッパリ分からんのよ。
なぜ万次を不死身にするのか。なぜ凛に彼を雇えと言うのか。ある程度は謎めいたキャラがいてもいいけど、こいつの場合は支離滅裂な奴にしか思えんぞ。50年後になると、虎厳の道場に影久の一味が来る出来事が描かれる。
だが、そこは最初に「墓の前で凛が剣の稽古をしている」という様子を描き、「こういう過去がありまして」という形で道場の出来事を描いた方がいい。
それだと「最初に50年前があって、また回想で過去を描いて」という部分が不細工な構成になるという問題は生じる。
ただ、50年後の内容を時系列順に描くことで、凛が父を殺されて母を凌辱された後、「しばらく経ちまして」ってのが伝わりにくくなっているのだ。後で黒衣が登場した時に凛が「この2年」と言っているので、どうやら道場の出来事から2年も経過している設定なのね。
そんなの、全く分からないぞ。そっちを解消するメリットを選んだ方がいい。
「墓のシーンで凛の怒りや憎しみがあまり伝わらない」ってのも、そういう構成にすれば何とかなりそうな気がするし。
っていうか、墓のシーンで凛の怒りや憎しみが伝わらないのは、ホントは時系列順であっても解決できてなきゃダメな問題だけどさ。凛は比丘尼と会った後、用心棒を雇うよう促されて江戸へ出る。
ここで「聞き込みを行って万次の居場所を突き止める」という手順があるが、ものすごく簡単に見つけ出しているような印象になっている。
それを考えると、もはや「墓の前で稽古している」というシーンの描写さえ無くした方がいいんじゃないかと。
50年後に飛んだら凛が万次の元を訪ねるシーンから入って、そこから「こういう経緯があって仕事の依頼に来た」という説明のための回想に移行する流れにした方がいいんじゃないかと。万次が凛に「暇だから町まで送ってってやるよ。ついでに、人々に人間相手に技の稽古でもするか」と言うシーンの後、そこからカットが切り替わると夜になっている。すると黒衣が独り言を呟き、それが文字として画面に表示される。そこへ凛が現れ、「この2年、アンタからの恋文が毎月のように届いて気が狂いそうだった」と言う。
だけど、黒衣は凛を究極の愛として殺したがっていたんでしょ。だったら相手の居場所は分かっているはずなんだから、なぜさっさと殺しに行かなかったのか。
っていうかさ、そのシーン、繋げ方として変だろ。
なんで小屋のシーンからカットが切り替わったら、いきなり「凛が黒衣の前に現れる」という状況になっているのよ。
どうやって凛は、黒衣の居場所を知ったのか。どういう経緯で、会いに行ったのか。
そこを省略すると、ワケが分からなくなる。閑馬が万次を殺そうとする理由は、サッパリ分からない。
「ワシが必要としているのは、ワシと同じ人間だけだからだ」と言うが、何の説明にもなっていない。「だったらアンタと同じ不死身の万次は、必要とする人間のはずじゃないのか」と言いたくなる。
たぶん、その言葉の奥には深い意味合いがあるんだろうと思うけど、そこまで読み取れるほど閑馬のキャラは厚く描かれていない。
万次と戦った後、「長く生きていて、5人の妻や友達がいたけど全員に先立たれた。死は無慈悲だが、死ねないのはそれにも増して惨いことだ」みたいなことを喋るだけだ。影久が万次に刺客を送ろうと決めた時、なぜ花魁の乙橘槇絵を選ぶのはワケが分からない。
自分の配下に大勢の剣客がいるはずなのに、そいつらではなく花魁を使う意味は何なのかと。「色仕掛けで万次を始末させようと目論む」ってことなら分かるけど、普通に戦いを要請するわけだからね。
実際は凄腕の剣客なので間違いではないってことになるんだけど、そもそも影久と槇絵の関係性が良く分からん。
あと、殺しが怖いのに槇絵が影久の依頼を受ける理由も分からんし、槇絵が花魁をやっている理由も分からんぞ。北村一輝を軽く始末して市川海老蔵も殺した奴が、戸田恵梨香に全く歯が立たないってのは「いや嘘だね」とバカバカしくなる。
さすがに戸田恵梨香が「万次の全く叶わない凄腕の剣客」ってのは、説得力がゼロ。
何か策を講じて追い込むのならともかく、真正面から普通に戦って圧倒しているのでね。
演者ではなくキャラクターの方を見るべきなんだろうけど、なんせ登場した直後に戦っているから、「こいつは強い」ってのをアピールする箇所もないし。凛が森へ稽古に行くと、なぜか影久が斧を使って稽古している。
そんな近くに都合良く影久がいるのは不自然なので、そこには「影久が凛の居場所を知った上で待ち受けていた」という裏でもあるのかと思ったが、ただの「都合の良すぎる偶然」という設定だ。
そんな不細工な御都合主義で影久を見つけた凛は不意打ちを食らわさずに、大声で呼び掛けて相手が気付いてから攻撃する。なので当然の如く、簡単に防がれる。
そんな凛の攻撃について、影久は「私を殺すために編み出したその技は、無天一流では邪道とされている」と告げる。
だけど、そもそも無天一流がどんな流派か良く分からないし、その技を凛が復讐のために編み出したことも初耳なので、「復讐のために邪道の技を使うのは自分たちと同類だという影久の言葉が、凛の心にグサッと来る」というシーンもピンと来ない。槇絵に負ける戦いも含め、万次のバトルは全て淡白に片付けられる。
そもそも「刺客が登場したら、すぐに万次と戦う」という展開なので、敵キャラを紹介するための時間は全く用意されておらず、当然のことながら何の厚みも無い。
そして襲って来た奴と万次の戦いは、その場で片付けられる。再戦するようなことは無い。
つまり、この映画はザックリ言っちゃうと、「万次が襲って来る刺客と戦う」ってのを延々と繰り返す単調な構成になっているわけだ。とは言え、例えば若山富三郎が主演した『子連れ狼 三途の川の乳母車』だって同じように「主人公が次々に襲って来る刺客と戦う」という繰り返しの構成だったが、海外でもスプラッター時代劇として高い評価を受けている。
なので、この映画も「アクション、アクション、またアクション」ってことで徹底すれば、それはそれで面白くなった可能性はゼロじゃない。
ただ、ここで考えなきゃいけないのは、若山富三郎はチャンバラの名手だったということだ。勝新太郎が『座頭市』シリーズの殺陣で高く評価されているが、個人的には兄貴の方が上じゃないかと思うぐらいだ。
それに比べると、残念ながら木村拓哉は「チャンバラの腕前」だけで魅了する力が弱い。さらに本作品は、「チャンバラシーンの飾り付け」という部分でも面白味が全く足りていない。
『子連れ狼 三途の川の乳母車』の場合、襲って来る敵のキャラ、襲撃方法、使う武器、主人公の戦い方、残酷描写といった様々な方面で工夫が凝らされ、ケレン味たっぷりだった。
この映画では、そういう部分の意識が乏しい。
変わった武器を持っている奴もいるが、戦い方のバリエーションは乏しい。様々な策を凝らすことも少ないし、映像としてのケレン味も感じられない。策略を凝らすとか、場所を利用するってのも少ない。さらに厄介なことに、刺客は「戦う相手」と割り切ってしまえばいいものを、中途半端に「キャラ」としての厚みを持たせようとする。
それだけでなく、「チャンバラの連続」で単調になるのを嫌ったのか、変に物語をこねくり回そうとしたりする。
だけど全く時間が足りていなので消化不良に終わってしまい、「そんな中途半端なのは逆に邪魔」という状態になっている。
そもそも、原作のストーリーを最後まで盛り込もうとする時点で無理があるでしょ。そりゃあ、慌ただしくなるのも当然のことだ。恐ろしいことに、根幹となる「万次が凛のために悪辣な逸刀流の連中と戦う」という勧善懲悪の図式すら徹底されていない。
終盤に入ると「影久も幕府に狙われる哀れな被害者」と同情を誘うような描写を盛り込み、万次と共闘する手順が入ってくるのだ。
そういうの、心底から「要らないわ」と言いたくなる。
終盤に入って急に「万次が公儀の連中と戦う」という展開を用意されても、高揚感を喚起される要素が何も無いのよ。万次にとって公儀ってのは、その直前まで戦う理由が無かった連中なんだからさ。そりゃあ、序盤から影久が「最強の敵」としての存在感を全く発揮できていなかったという問題はあるけど、だからって「影久が憎き復讐相手」という部分を腰砕けにするのは本末転倒だからね。
なんで終盤に来て、「一緒になって公儀の連中と戦う」という構図になるのかと。
そこまでに「万次と影久がシンパシーを感じて云々」みたいな展開があればともかく、そんなの皆無なんだし。
ちゃんとした流れを作ることが出来ていないんだから、「万次が次々に現れる刺客を倒す勧善懲悪の単純明解なチャンバラ劇」で良かったのよ。(観賞日:2018年9月17日)