『マザーウォーター』:2010、日本

京都。ある人が川沿いに佇み、乳児のポプラと一緒にいる。町に朝が訪れると、ハツミは店で豆腐を売り始める。セツコは庭の植物に水をやり、タカコは喫茶店を開く準備に入る。夜になり、セツコが営むバーには常連客のヤマノハがやって来る。家具工房の職人である彼は、壊れた椅子の修理を請け負う。ウイスキー専門バーで、ヤノマハは水割りを注文する。次の朝、老女のマコトは町を散歩し、ハツミの店で豆腐を注文する。「ここで頂いていいかしら?」とマコトが言うので、ハツミは店の前にベンチを置いた。
青年のジンが通り掛かると、マコトは手招きする。今から仕事に行くというジンを強引に座らせたマコトは、彼の分の豆腐も注文する。マコトは半ば強引に、ジンにも豆腐を食べさせた。代金を支払ったマコトは、「今日も機嫌良くやんなさい」とジンに告げて立ち去った。椅子の修理を終えたヤマノハは、セツコが用意したホットサンドを庭で一緒に食べる。セツコが適当に植物を置いただけの庭を見ながら、彼は「この庭、何だか落ち着きます。子供の頃に住んでた家を思い出します」と話す。
ハツミはタカコの喫茶店に入り、コーヒーを注文する。彼女は「歩いていたら、コーヒーのいい匂いで入ってしまいました。この通りの匂いとコーヒーの匂いが混ざり合って、何だかいい感じで」と話す。マコトは八百屋で野菜を買い、一人暮らしの自宅に戻る。彼女は野菜のかきあげを作り、ビールのつまみにした。中年男性のオトメは喫茶店に入り、コーヒーを注文する。ジンは銭湯でのポプラを寝かせ、仕事をする。そこへマコトが来てポプラを眺め、「また顔が変わったね。だんだん人間の顔になってきたね」と言う。
ジンが銭湯の外で座っていると、そこの主人であるオトメが戻ってくる。ジンの両親は、またどこかへ行こうとしている。だが、ジンは「もう引っ越しには飽きた」などと言い、全く付いて行くつもりは無い。オトメから「久しぶりに一緒に行ってみたら?」と勧められても、ジンは「いいって。行ったって別に何も変わらないし」と考えを変えない。夜、バーでヤマノハが飲んでいると、ハツミがやって来る。セツコがウイスキーしか無いことを告げると、ハツミは水割りを注文した。
ハツミが豆腐屋だと知ったヤマノハは、「豆腐屋さんだと、朝早そうだなあ」と言う。ハツミが「そうですねえ、やることがあるから目が覚めるって感じです」と話すと、ヤマノハは「なんかいいですねえ、そういうの」と口にする。するとセツコは、「でも、たまには今日も明日も無くて放り投げちゃうってのもいいよねえ」と口にする。「この店はどうしてウイスキーしか出さないんですか」というハツミの質問に、彼女は「横着をしたんです」と答えた。
次の日、ジンが豆腐屋のベンチで豆腐を食べていると、タカコが通り掛かった。ハツミがベンチで食べるか持ち帰るかを尋ねると、彼女はベンチで食べることにした。客に言われてベンチを出したのだと説明したハツミに、タカコは「こういうのもいいねえ」と告げた。ジンが銭湯に戻ると、マコトがポプラを寝かし付けている。オトメは喫茶店でコーヒーを飲み、「毎日同じように入れられるものですか?」とタカコに訊く。タカコは「それは無理なような気がします。同じ物が出来ないっていうのも、何だかそれもいい気がしますけどね」と語る。夜、マコトがバーで飲んでいると、初めてジンが訪れる。マコトはジンの分の水割りも注文する。
ハツミが喫茶店を訪れると、タカコは「今夜空いてる?ウチでご飯食べない?」と誘う。ハツミが訪問すると、タカコはグラタンを用意する。2人は景色を眺めながらグラタンを食べ、ワインを飲む。タカコはハツミに、「何となく、この町の感じも分かって来た。風っていうか、もしかしたら人なのかな。頭で考えるだけじゃなく、肉体でも感じ始めてるような気がするの。今までの場所とは、ちょっと違う。やっぱり、ここだったんだって思ったの」と語る。
マコトが公園のベンチに座ってポプラの面倒を見ていると、ハツミが通り掛かる。マコトはハツミに「お昼御飯食べた?」と問い掛け、まだ食べていないという彼女に持参した卵サンドを勧める。夜、セツコは珍しく、バーでホットサンドを作る。ヤマノハは店で初めて携帯を使ったことを指摘され、「一緒に仕事してる人が帰って来ないんです。心配してるっていうより、妙にワクワクしてるっていうか」と話す。そのことを気にしている彼に、セツコは「きっと、そんなに変じゃないと思うよ。思っちゃったんだから、シンプルに事実として受け止めればいいのよ。そんなの普通よ」と述べる。
タカコが豆腐屋のベンチで豆腐を食べていると、セツコがやって来る。セツコも豆腐を注文し、ベンチで食べる。そこへポプラを連れたマコトが現れ、豆腐を注文する。セツコとタカコは、ポプラを可愛がる。銭湯ではオトメがジンと一緒に丼を食べ、「行って来たら?ここもいつか飽きるよ」と告げる。ジンが「一人で大変じゃない?」と言うと、彼は「新しい人を見つけるさ」と口にする。「勝手に牛乳を飲んだり、覗いたりする人だったらどうするの?」とジンが訊くと、オトメは「それはそれで面白いと思えば、大したことじゃないよ。色んな人がいると思えば、どんなことだって楽しいと思えば、それはそれで本当に楽しくなっていくのさ」と語った…。

監督は松本佳奈、脚本は白木朋子&たかのいちこ、企画は霞澤花子、エグゼクティブ・プロデューサーは奥田誠治、プロデューサーは小室秀一&前川えんま&木幡久美、ラインプロデューサーは関友彦&石川竜大、製作は宮崎洋&平井文宏&峰岸卓生&村上博保&阿佐美弘恭、撮影は谷峰登、照明は斉藤徹、録音は古谷正志、美術は富田麻友美、コスチュームは堀越絹衣、ヘアメイクは竹下フミ、フードスタイリストは飯島奈美、編集は普嶋信一、音楽は金子隆博、音楽プロデューサーは石井和之&平川智司。
マコトの子守唄:「おなじ話」ハンバート ハンバート 作詞・作曲:佐藤良成。
エンディングテーマ:「マザーウォーター」大貫妙子 作詞・作曲:大貫妙子、編曲:小倉博和。
出演は小林聡美、小泉今日子、加瀬亮、市川実日子、永山絢斗、光石研、もたいまさこ、田熊直太郎、伽奈、中野万穂美、宮沢弦也、荒木颯斗、川勝雅登、西村峰子、小森待子、村木修、オオタ メグミ、小川郁雄、綾静香、西田由美、金澤佳代子、平井康治、平井さわ子、田熊邦郎、田熊美佳ら。


『かもめ食堂』『めがね』『プール』に続いて霞澤花子が企画した作品。
監督の松本佳奈はCMディレクター出身で、『めがね』ではメイキング映像も手掛けていた。これが映画監督デビュー作。
脚本の白木朋子&たかのいちこも、これが映画デビュー作。
セツコ役の小林聡美とマコト役のもたいまさこは、『かもめ食堂』からのレギュラー。ヤマノハ役の加瀬亮は『めがね』から3作連投。ハツミ役の市川実日子とユージ役の光石研は、『めがね』に続いて2回目。ある人役の伽奈は『プール』に続いての出演。
他に、タカコを小泉今日子、ジンを永山絢斗、ポプラを田熊直太郎が演じている。

このシリーズは1作目からフードスタイリストの飯島奈美が付いており、どうやら霞澤花子は料理に対するこだわりを持っているようだ。
しかし今回、セツコがバーで料理をすることは、ほとんど無い。彼女はホットサンドを2回作るだけで、しかもバーで作るのは1度だけ。
基本的に、バーで出るのはウイスキーとピーナッツだけ。
ウイスキーの銘柄も、そんなに多くなさそうだ(客側から指名は出来ないし、セツコも銘柄を説明しない)。

「横着したんです」とセツコは言っているが、そんな店に、果たして多くの客が行きたがるだろうか。
彼女のバーは、料理や酒の豊富さで引き付けるわけでもなく、あまり居心地の良さも感じない。セツコとの会話に魅力があるわけでもない。
実際、大勢の人々が行きたいと思うような要素は無いらしく、客はヤマノハ、マコト、ハツミ、ジン、タカコに限られている。
だから、ほぼ内輪で楽しんでいるだけに見える(そんなに楽しそうにも見えないけど)。
それは、この映画を表しているようなものだ。

料理ではないが、今回は豆腐が何度も登場する。
豆腐屋の前で豆腐を食べる様子は何度も描かれており、まるでそれが「見ていると一度はやってみたくなる行為、イケてる行為」のように アピールされているが、全く乗れない。まだ豆腐をスイーツとして食べるならともかく、醤油で普通に食べるだけなのよ。
そもそも、最初からベンチで食べるつもりだったのならともかく、買いに行ったらベンチがあるので店で食べるってのは変だよ。
だって、豆腐を買いに行った段階では、帰宅してすぐに食べようと思っていたわけじゃないはずでしょ。
しかも、出される豆腐は一丁なんだぜ。
男ならともかく、女が一度に一丁も食べるかね。豆腐だけで腹一杯になっちゃうぞ。

霞澤花子が企画した一連の作品は、スローライフを推奨する映画シリーズになっている。ストーリーを追及するよりも、雰囲気を重視する傾向が強い。
それが行き着く所まで来てしまったのが、この作品だと言えるかもしれない。
『かもめ食堂』の頃は、少なくとも劇中のヒロインの暮らしに対する憧れを喚起させるような雰囲気だけは漂っていた(例え詐欺まがいの雰囲気であっても)。
今回は、そういった空気さえ取り除かれている。

しかもストーリーは、シリーズの中でもズバ抜けて低くなっている。
っていうか、ストーリー性は皆無だと言い切ってもいいだろう。
ここで描かれているのは、ただ単に「人々が日常生活を過ごしています」という様子のスケッチだ。それしか無い。
ところが、困ったことに、日常風景が描かれているのに、そこには日常感覚が乏しい。
人々が生活している様子が描かれているのに、そこには生活感が乏しい。

まだ前作『プール』においては、「一般人には真似できないな」という乖離は感じられたものの、「ごく一部の特殊な人々」としての生活感はあった。
しかし今回は、それさえも消えている。
セット撮影ではなく全てはロケーションであり、実在する場所を使って、実際に存在する職業の人々を描いているのに、そこには現実感が著しく欠けている。
だから、これはスローライフ推奨映画シリーズの1作ではあるのだが、まるでスローライフを推奨する内容に仕上がっていない。
完全に絵空事の世界の人々でしかないからだ。

どういう客に、何を見せたいのかということも良く分からないぐらいの映画になっている。
と言うのも、ここまで突き詰めてしまうと、もはや「雰囲気だけで多くの観客を満足させる」ということも難しいのではないかと思うからだ。
この仕上がりだと、「ゆったりとした生活風景の醸し出す空気」に楽しみを見出すことも厳しいんじゃないかと。
だってさ、この映画から漂う雰囲気、楽しくないのよ。

セツコは庭の植物について「適当に置いてる」と言い、それに対してヤマノハは「ホントは適当じゃないんだよな。適当を超えちゃって適当じゃないっていうか」と口にする。
その辺りに、本作品のテーマがあるんじゃないかと思われる。
「適当」ってのを肯定的に捉えようとするのは、別に構わない。
ただ、この映画の持つ適当さは、好意的に捉えることが難しい。
「適当」を適当に描いたら、それはダメじゃないかと思うので。

ここに描かれている人々の暮らしは、「真似してみたくなるような羨ましい生活」には到底感じられない。
正直に言って、劇中に登場する人々が、あまり幸せそうには見えない。
決して不幸なオーラを放っているわけではないし、「毎日をノンビリと過ごしており、それなりに充実しています」という描かれ方をしているんだけど、例えばカルト教団の信者たちの集団生活のように、まるで「何か見えない力によってコントロールされている、偽りの幸せ」のようにも感じられてしまうのだ。
登場人物は全員が穏やかだが、それは「喜怒哀楽があるけど、いつも穏やかにしている」というのではなく、まるで「穏やか」以外の感情を殺されているかのように見えるのだ。

ポプラという赤ん坊が色んな場面に登場し、マトコやオトメ、ジンなど複数の人々が面倒を見ている。
どうやらオトメの息子で、複数の人々で面倒を見ているということらしい(オトメの妻に関する情報は全く示されない)。
ただ、この映画における赤ん坊は、明らかに「癒しの道具」として使われているだけであり、そういう扱いに不快感を抱く。
何しろ、赤ん坊の世話と言っても、単に抱いたり隣に座らせたりしているだけであり、ミルクを与えるとか、オツムを交換するとか、そういう仕事は何もやらないのだ。

(観賞日:2014年6月17日)

 

*ポンコツ映画愛護協会