『殯の森』:2007、日本

奈良県にある旧家を改装したグループホーム「ほととぎす」では、軽度の認知症を患った老人たちが生活している。新しく介護福祉士と して「ほととぎす」にやって来た真千子は、主任の和歌子から指示を受けて仕事に取り組んだ。夜になって帰宅した彼女は、死んだ息子の 遺影に線香を上げた。翌日、僧侶が説法のため、「ほととぎす」を訪れた。老人の一人・しげきが「私は生きてるんですか」と質問すると 、僧侶は「生きてる意味に2つあります。1つは御飯を食べたりおかずを食べたりすること。もう1つは、生きてる実感が無い、なぜか 生きてる気がしない、生きてる目当てが分からないのは、御飯とは別の話。虚になってしまう」と語った。
僧侶は真千子に、しげきの手を握らせた。そして、しげきに「あったかいですか。エネルギーが伝わってきますか。それが生きてるという ことの実感なんです。実感なんです、生きてるということは」と説いた。習字の時間、みんなが家族の名前を半紙に書いていると、しげき は真千子の「千」の字を消して真子にした。「この人、真千子さんやで」と和歌子に言われても、「違う、真子」と告げた。
僧侶が「真子さんは奥さんで、亡くなられた方。何年ぐらいになりますか」と問い掛けると、和歌子が「33年かな」と口にした。僧侶は 「そうしますと、今年は33回忌になります。そうなりますと、仏さんの世界に入り込みました。だから、この世へ戻ったりはしません」と しげきに語り掛けた。すると、しげきは真千子の半紙を乱暴に塗り潰した。真千子は子供を失ったことで、別れた夫から「なんで手を 離したんだよ」と激しくなじられた。
しげきの誕生日、「おやつで誕生日会をしましょう」と和歌子が提案した。しげきはカメラを向けられ、嬉しそうにピースサインをする。 「しげきさんの好きな物は何かなあ」と和歌子に問われ、彼は「真子」と静かに言う。夜、しげきの部屋に入った真千子は放り出してある リュックサックを見つけ、「ゴミ、持って行きますね」と手に取った。しげきは彼女を突き飛ばし、リュックを奪い返した。
左手に怪我を負った真千子は、和歌子に「私、やっていけるんですかね」と弱音を吐いた。和歌子は「こうせなアカンっていうことは無い から」と励ました。翌日、真千子は笑顔でしげきと接した。しげきも楽しそうに、彼女と追いかけっこをする。真千子はしげきを車に乗せ 、真子の墓参りに同行する。しかし、その途中で車が脱輪してしまった。近くに民家は見当たらず、真千子はしげきを車に残して「出やん とったな」と釘を刺し、助けを呼びに行った。しかし真千子が戻って来ると、しげきは車から消えていた。
真千子は近くにいたしげきに呼び掛けるが、彼はスイカを抱えたまま逃げ出した。真千子が捕まえると、しげきは落として割れたスイカを 食べ、真千子にも差し出した。2人はスイカを食べた後、森へと足を踏み入れた。しげきが先導し、真千子は付いて行く。彼女が「どこ 行くの?」と尋ねると、しげきは「真子のとこ」と答えた。真千子が少し休もうと提案しても、しげきは前へ進んだ。しげきが浅い小川を 渡ろうとすると、真千子は狂ったように「行かんといて」と泣き叫ぶ。雨が降り出す中、しげきは真千子を優しく抱き締めた…。

監督・脚本は河瀬直美、エグゼクティブ・プロデューサーはヘンガメー・パナヒ、アソシエイト・プロデューサーはクリスティアン・ バウテ、協力プロデューサーは百々俊二&横川清司、撮影は中野英世、照明は井村正美、録音は阿尾茂毅、美術は磯見俊裕、編集監修は 大重裕二、音楽は茂野雅道、ピアノは坂牧春佳。
出演は うだしげき、尾野真千子、渡辺真起子、斉藤陽一郎、ますだかなこ、山本優成、今西マサエ、窪田キヌエ、北森花子、浦光子、 中井邦夫、加幡豊繁、河瀬宇乃、島村彩也香、森崎隆弘、北野太朗、岡井稲朗、森岡嵩、竹西健、中条義弘、杉本良明、百々俊二、 上坊博喜、森田善隆、桝崎康史、北森雅人、浦川温亮、広岡敏彦、村嵜健次、上畑勇、森崎隆文、大東宏幸、新宅正佳、新宅永遠、 今西真一、貫定豊精、奥田克典、窪田篤、関敦子、尾野実菜子、中林美恵子、上畑きよ子、杉本月子、森本美智子、吹ノ戸朋、吹ノ戸勇、 藤本順正、八木光博ら。


2007年カンヌ国際映画祭でグランプリ(審査員特別大賞)を受賞した作品。
読みにくいタイトルを付けるのが好きな河瀬監督だが、今回の『殯の森』は「もがりのもり」と読む。
しげきを演じたうだしげきは奈良市で古書喫茶や古書店を経営する人物で、これが映画初出演。
彼だけでなく、グループホームの老人たちも全て芝居未経験の素人。
真千子を尾野真千子、和歌子を渡辺真起子が演じている。

ザックリと言うならば、これは「老人は妻を失った喪失感、女は子供を失った喪失感を抱えている。老人は女に妻を重ね、女は老人に子供 を重ねる。2人は森で癒しに出会い、魂の再生を迎える」という話である。
そんなに小難しい内容ではない。
しかし実際の映画は、かなり取っつきにくい印象になっている。
その理由は簡単で、娯楽性を全く持ち込まず、高尚なゲージツ映画として作っているからだ。

映画を見ていても、しげきと真千子の喪失感なんて全くと言っていいほど伝わって来ないし、2人に感情移入することは出来ない。
観客を冷たく突き放したまま、中盤辺りで2人は森に迷い込む。
そして、ただ2人が森の中を徘徊する様子を観客は見せられることになる。
そこには充実したドラマなんて無いし、心情描写も無い。
ただ「2人が森を徘徊する」という事実を淡々と見せられるだけだ。

グループホームの様子は、ドキュメンタリー・タッチで撮影されている。
登場人物がボソボソと喋っていて、何を言っているのか内容が聞き取れない箇所が多いのだが、それもある意味、ドキュメンタリーらしい と言える。
本物のドキュメンタリーだったら、テロップやナレーションでフォローするかもしれないが、そういうのが全く無いから、それが次の展開 に関与するセリフだったとしても、サッパリ分からないまま進んでいくことになる。

っていうか、河瀬監督の場合、ドキュメンタリーであっても、聞き取れないセリフをテロップでフォローしたり、ナレーションを入れたり することは無いだろうけどね。
たぶん河瀬監督は、セリフなんて大して意味が無いものだという考えなんだろう。
何しろ海外の評論家やゲージツ好きにさえ分かってもらえればいいわけだし、海外版なら字幕が付くから、聞き取れなくても支障は 無いしね。

一言で言えば退屈でつまらない映画だが、それは河瀬監督作品なら当たり前のことだと言ってもいい。
河瀬監督の映画を1本でも見ている人なら、彼女が面白い映画なんて絶対に撮らない人だってことは百も承知だろう。
彼女の作品に、退屈は付き物なのだ。
「撮らない」のか「撮れない」のかは知らないけれど、娯楽映画の人じゃないしね。
彼女は頭の先からつま先まで、完全に「ゲージツ映画」の人だ。

真子が死んだのは33年前なのに、しげきが今も妻を亡くした喪失感を抱えたままってのは無理のある設定に思える。痴呆症になったことで 、もう吹っ切れていたはずの喪失感が蘇ったということなのかもしれんが、それは映画を見ていても分からない。
真子の墓がマトモな道も無いような森の奥深くにポツンとあるのも、どういうことなのか良く分からない。どうやら長年に渡って放置 されていたようだが、それにしては墓の周囲だけ背の高い草が無いのも奇妙だし。
それと、日記帳を土に埋めるつもりなら、なぜスコップを持って来なかったのかというところにも引っ掛かりを覚える。
でも、そんな細かいことを気にしても、きっと無意味なのだろう。
あえて自分で答えを探すなら、「だってゲージツだもの」ということだ。

河瀬監督には、内容やテーマ、メッセージを観客に分かりやすく説明しようという気が全く無い。
会話やドラマによって、その状況や展開、登場人物の心情を伝えようという意識は無い。
「分かる人だけ分かればいい」というエゴイスティックな感覚によって、彼女の映画は作られている。
まさにゲージツである。
ゲージツというのは基本的に自慰行為だから、そういう感覚が間違っているわけではない。
本人さえ納得できれば、それでOKなのだ。

これを見て「サッパリ分からない」と感じる人が大勢いても、「退屈だなあ」と感じる人が大勢いても、作った本人さえ満足できていれば 、それでゲージツとしては成立している。
ただし、もしも「私は優れた芸術を作っているのだから、分からない奴らのセンスが無いのだ、もしくはレベルが低い連中なのだ」とか 思っていたら、そりゃダメだけどね。
まさか、「私は黒澤明に並ぶような偉大な監督だから、映画を見た観客は高く評価するのが当然なのだ」とか、そんなことは思って ないよね。
まあ、そこまでトンデモないことを思っていたら、ある意味では「面白い」監督だけどさ。

公開当時、尾野真千子が脱いだことが大きく取り上げられていたが、映画を見ると、いかに勿体無いヌードかなのかが良く分かる。
終盤、雨に濡れたしげきの体を温めるために服を脱いで抱き締めるのだが、別に脱がなくてもいいだろうと。
そこへの流れが弱いし、そのシーンそのものに見せ場としてのパワーも全く無いし。
『潮騒』の「その火を飛び越して来い」みたいな、意味のあるヌードではない。
彼女は『リアリズムの宿』の超遠景のヌードもそうだったけど、もうちょっと作品を選んで脱いだ方がいいと思うぞ。
ハッキリ言って、この映画だと完全に脱ぎ損だよ。薄暗がりだから、良く見えないし。

(観賞日:2011年11月26日)


2007年度 文春きいちご賞:第10位

 

*ポンコツ映画愛護協会