『みんなのいえ』:2001、日本

シナリオライターの飯島直介と妻の民子は、郊外の土地に念願だった新居を建てることにした。直介は義父で大工の長一郎に頼もうと考えるが、民子は否定的だ。民子は大学の後輩でインテリアデザイナーをしている柳沢英寿に依頼しようと言い出した。
これまで家の設計経験は無かった柳沢だが、以前から興味があったらしく、喜んでデザインを引き受けた。ただし彼は建築士の免許を持っていないため、最終的な図面や実際の建築作業は長一郎に頼むことになった。民子から依頼を受けた長一郎は、久しぶりに大きな仕事が出来ると張り切り、昔からの大工仲間に声を掛け始める。
直介と民子も同席し、初めて柳沢と長一郎が顔を合わせることになった。しかし、柳沢が用意したデザインは、違法建築に当たるものだった。長一郎は柳沢に不快感を示し、一級建築士の須賀に対して独自の図面を考えるよう密かに指示を出した。
柳沢は3日で新たなデザインを仕上げ、長一郎達に見せた。しかしアメリカンナイズされたデザインを主張する柳沢に対し、長一郎は真っ向から反対する。トイレの場所や、単位がインチか尺かという問題などで、柳沢と長一郎は激しく対立する。
長一郎は直介に、須賀が書き上げた図面を渡した。それを知った民子は激怒し、勝手に図面を変えるなら大工を変えると長一郎に告げる。仕方なく長一郎は須賀の図面を諦めるが、柳沢に従おうとはしない。他の大工も長一郎に従い、何かと柳沢に歯向かう。柳沢は6畳の和室を、勝手に20畳に広げて建築を進める…。

監督&脚本は三谷幸喜、製作は宮内正喜&高井英幸、企画は石丸省一郎&島谷能成、プロデューサーは佐倉寛二郎&空閑由美子& 重岡由美子、アソシエイト・プロデューサーは臼井正明、エクゼクティブ・プロデューサーは石原隆&増田久雄、撮影監督は高間賢治、編集は上野聡一、録音は瀬川徹夫、照明は上保正道、美術は小川富美夫、衣装デザインは黒須はな子、音楽は服部隆之、音楽ディレクターは岩崎俊郎、音楽プロデューサーは森啓&岩瀬政雄&桑名裕子。

出演は唐沢寿明、田中邦衛、田中直樹、八木亜希子、野際陽子、吉村実子、清水ミチコ、山寺宏一、伊原剛志、白井晃、八名信夫、江幡高志、井上昭文、榎木兵衛、松山照夫、松本幸次郎、明石家さんま、真田広之、香取慎吾、田口浩正、中井貴一、布施明、近藤芳正、遠藤章造、梶原善、戸田恵子、梅野康靖、和田誠、小日向文世、松重豊、佐藤仁美、大塚範一、橘雪子、細川里佳子、細川隅奈子、臼井森彦、エリカ・アッシュ、アルミンダ・ラモス、ニコラ・ナカシマ、マリル・ハウシャン他。


脚本家・三谷幸喜の第2回監督作品。
柳沢を唐沢寿明、長一郎を田中邦衛、直介を田中直樹、民子を八木亜希子、直介の母・セツ子を野際陽子、長一郎の妻・光代を吉村実子、民子の姉夫婦を清水ミチコ&山寺宏一が演じている。

この作品は、最初から予定調和の物語になることが分かっている。誰だって、「途中で人間関係によるイザコザがありながら、最終的に家が完成してハッピー」というエンドマークになることは容易に予想できる。着地の方法も場所も、分かっているのだ。
その簡単な予想を裏切る内容であれば、それはそれで面白い作品になった可能性はある(逆に破綻する可能性もあるが)。しかし三谷監督は、予定調和を取った。意外性や着地点の分からない期待感ではなく、筋書きの読める物語で勝負することを選んだ。

予定調和ということを強調するためか、至る所でステレオタイプとパターンが使われる。「やたら専門用語を使う新進気鋭のデザイナーと、頑固で融通の利かない熟練の大工との対立」というのは、そのキャラクター設定がステレオタイプそのものだ。そして、それぞれのキャスティングにしても、「いかにも」という役者を当てはめている。
ヴィジュアルで笑わせるわけではなく、細かいネタに凝るわけでもない。とにかくステレオイプのデザイナーと大工の対立だけで引っ張って行く。それをパターン化された話の中で処理するわけだが、その2人の対立ドラマの中に、笑いの要素は乏しい。

「2人の対立に巻き込まれた夫婦が、和解させようとオロオロしたり、振り回されたりする」という部分を軸にすれば、そこに笑いを作ることは可能だ。しかし、夫婦に作品を支えるだけの存在感は無いし、シナリオと演出も柳沢と長一郎を主役にしている。
例えば、柳沢と長一郎の意見を両方とも取り入れた結果、妙な扉や壁が出来上がってしまうといった、見た目のギャグを取りに行くことは充分に可能だ。しかし、そんなハチャメチャはやらない。風水にこだわる直介の母や、身内の揉め事が嬉しそうな民子の義兄といった面々も登場するが、トラブルメーカーとして活躍することは無い。

会話の内容で徹底的に突っ込んで行くとか、過剰に盛り上がってしまうとか、そういう笑いの作り方も無い。テンポ良く畳み掛けるということもなく、ノンビリした感じで進める(そもそもテンポ良く進めようとしたら、中心に田中邦衛は据えないだろうが)。
「そこは笑いに持って行けるんじゃないか」と思えるようなポイントでも、キレイにまとめてしまったりする。例えば仕事を放棄した柳沢に直介が「期日は守れ」とプロとしての意識を説くシーンなんて、ドタバタの結果として柳沢が仕事復帰する形にだって出来るのだ。しかし、そこを笑いで処理せずに、生真面目に、ごく普通に解決している。

柳沢と長一郎の対立がエスカレートしていくのかと思ったら、そういうわけでもない。途中から柳沢が妥協してしまうし、長一郎が勝手に進めると柳沢は諦めてしまう。だから対立の激化が話を面白くすることは無く、その場その場で何となく済まされてしまう。
最初は2人の対立の間に夫婦が挟まれていたが、途中からは夫婦を挟まない形で対立関係が描かれるようになる。だから、夫婦が困ったり仲介を試みたりするということも無くなる。夫婦は単なる傍観者となり、妻などは後半、ほとんど消えている。

大勢の豪華ゲストがチョイ役で出てくるが、その大半は作品に箔を付けるためだけの存在になっている。
例えば地鎮祭などは、喜劇として使える素材である。しかし、そこで笑いを取りに行かないから、香取慎吾を出演させるためだけのシーンになってしまう。

「正反対と思われていた2人が実は同じ方向を見ていた」という話にしたいのだろうが、その運び方が上手くない。終盤に家具を修理するシーンがあるが、そこで長々と時間を費やすのは違うだろう。それは、家の建築と直接の関係は無いのだから。
そこは家具が壊れて柳沢が困っているのを見せた後、シーンが切り替わると「知らない内に長一郎が修理した」という形で処理すればいい。そこで笑いがあるならともかく、2人が共同作業をすることを見せるだけ。もちろん柳沢と長一郎が協力するという場面は必要だろうが、それは家の建築に関連する部分で見せるべきだろう。

これは、ドタバタ喜劇ではない。ホノボノとしたヒューマン・ドラマである。何気ない日常生活を、何気無い感じで綴って行く。監督自身が「カット割りは出来ない」と語っており、1シーン1カットで撮影されている。しかし、そのことがメリハリの無さを生んでいる。
これが場所を1つに限定したシチュエーションなら、それでも良かっただろう。しかしシーンごとに場所の移動があり、空間的な広がりがある中で、前述したように何気無い日常風景を綴って行くということによって、そこにテンポのユルさを感じてしまう。

達者な俳優がシーンを引っ張ったり、エピソードに意外性や特異性があったりすれば、1シーン1カットでもOKだったかもしれない。しかし、田中直樹や八木亜希子に物語を引っ張る芝居を期待するのは無謀だし、エピソードも良くあるようなモノだ。
最初から「軽快なコメディー」ではなく「明朗な人間ドラマ」だと分かっていれば、それなりに納得できたのかもしれない。しかし、「たくさん笑って最後にホロリとさせる」と宣伝されていたはずが、たくさん笑えないので、外された気分になってしまうのだ。

 

*ポンコツ映画愛護協会