『壬生義士伝』:2003、日本

明治33年、冬の東京市。翌日の引っ越し準備をしていた町医者・大野千秋の元に、熱を出した孫を連れた老人がやって来た。老人は院内にあった肖像写真を見た瞬間、ハッとした表情を見せた。彼は、そこに映っている男に見覚えがあった。老人は元新撰組の隊士・斉藤一。そして肖像写真の男は、隊士の吉村貫一郎だった。
幕末、新撰組が得意の絶頂にあった頃、土方歳三が選んだ新入隊士の中に盛岡から来た貫一郎の姿があった。永倉新八と互角に渡り合った彼は、近藤勇から剣術師範に任命された。近藤の俗物ぶりに反感を抱いていた斎藤は、貫一郎に鼻持ちならないものを感じた。斎藤は貫一郎を斬ろうとするが抵抗に遭い、腕を試したのだと誤魔化した。
勘定方・河合耆三郎の切腹が決まり、貫一郎は介錯を命じられた。河合は切腹を拒んで逃げ出そうとしたを、貫一郎は後ろから見事に首をはねた。貫一郎は、「無理な介錯で刃こぼれしてしまった」と告げて刀代を要求するが、刃こぼれなど無かった。
千秋は斎藤に、自分が少年時代に貫一郎の教えを受けたことを語った。貫一郎は下級武士でありながら知識と剣術が認められ、藩校の教壇に立っていたのだ。千秋の父・次郎右衛門は南部藩の組頭で、千秋は貫一郎の息子・嘉一郎とも親しかった。
貫一郎の家族は食べて行くのに精一杯という貧しい生活だったが、千秋には幸せに見えた。しかし、貫一郎が急に脱藩し、残された妻しづと子供達は藩を追われることになった。飢饉が蔓延する中で、千秋は久しぶりに嘉一郎を見掛けた。しかし嘉一郎は土下座して謝り、貫一郎からの仕送りの金を握り締めて走り去った。
貫一郎と次郎右衛門は、幼少時代から仲良しだった。しかし妾腹だった次郎右衛門が家督を継ぐことになり、2人の間には身分の差が生まれた。それでも、次郎右衛門は貫一郎を友と思っていた。彼は、貫一郎が家族を養うために脱藩したと分かっていた。
新撰組では谷三十郎が何者かに殺害され、内部犯行の疑いが強まっていた。監察の貫一郎は死体の傷跡を見て、犯人が腕の立つ左利きの人間だと見抜いた。貫一郎は自分の推理を左利きの斎藤に告げて、口止め料を要求した。
貫一郎が金を受け取るために斎藤の家に出向くと、そこには彼が吉原から身請けした女・ぬいがいた。ぬいを見た貫一郎は、しづのことを思い出した。かつて貫一郎と次郎右衛門は、同時にしづを好きになった。惹かれ合ったのは貫一郎だったが、次郎右衛門が彼女を妻にすると言い出したため、そのことを明かせなくなった。
次郎右衛門は身分の違いを理由に、百姓の娘・しづとの結婚を家族から反対され、妾にするよう告げられた。大野家へ行く途中、しづは隙を見て逃げ出した。彼女が向かったのは、貫一郎の元だった。貫一郎は、しづを自分の妻にすると決めた。
新鮮組は直参旗本に取り立てられ、貫一郎は手当てが大幅に増えることを喜んだ。しかし、新撰組は分裂の危機を迎えていた。貫一郎と斎藤は伊藤甲子太郎の一派から、共に新撰組を離脱しようと誘われた。しかし、貫一郎は「主君を2度は裏切れない」と告げて断った。一方、斎藤は近藤らの間諜として伊藤一派に同行する…。

監督は滝田洋二郎、原作は浅田次郎、脚本は中島丈博、プロデューサーは宮島秀司&榎望、企画は石川博&遠谷信幸、製作プロデューサーは野村芳樹&水野純一郎、製作代表は大谷信義&菅谷定彦&鞍田暹&俣木盾夫&石川富康&増田宗昭&菊池昭雄、クリエイティブ・プロデューサーは中嶋竹彦、撮影は浜田毅、編集は冨田功&冨田伸子、録音は小野寺修、照明は長田達也、美術は部谷京子、殺陣は諸鍛冶裕太、音楽は久石譲、音楽プロデューサーは小野寺重之。
出演は中井貴一、佐藤浩市、三宅裕司、夏川結衣、村田雄浩、中谷美紀、塩見三省、堺雅人、野村祐人、伊藤英明、斉藤歩、堀部圭亮、比留間由哲、神田山陽、加瀬亮、山田辰夫、伊藤淳史、藤間宇宙、大平奈津美、木下ほうか、徳井優、蛍雪次朗、芦屋小雁、津田寛治、城戸裕次、安居剣一郎、谷口高史、大橋一三、松尾勝人、本山力、加藤正記、真鍋尚晃、矢吹翔、川井勉史、穴井三二、木下通博、池田勝志、足立公良、石垣充代ら。


浅田次郎の同名小説を基にした作品。貫一郎を中井貴一、斉藤を佐藤浩市、次郎右衛門を三宅裕司、しづ&成人したみつを夏川結衣、成人した千秋を村田雄浩、ぬいを中谷美紀、近藤を塩見三省、沖田総司を堺雅人、土方を野村祐人が演じている。
滝田洋二郎監督はスケールの大きな話を演出するのが不得手な人だろうという、確信めいた考えが私の中には存在している。この映画を見ても、その認識は変わらない。しかし、これは演出が云々という以前に、脚本に大きな問題があるのだと思う。

この映画の構成は、かなり複雑になっている。まず明治から始まり、続いて斉藤の回想で貫一郎が新撰組に入隊した頃が描かれる。また明治に戻り、今度は千秋の回想で脱藩前の貫一郎が語られる。さらに貫一郎の少年時代が回想されたり、また新撰組の話になったり、結婚前の貫一郎の話になったり、また明治に戻ったりする。
そのように、話の語り手がコロコロと変わり、時代や場所が行ったり来たりするだが、その複雑な構成は少なからず観客を混乱させるだけで、効果的だとは思わない。いちいち話の流れを止めることになるし、そうまでして変則的構成にするメリットを感じない。特に明治の部分に意味を見出せず、普通に幕末だけで話をまとめてもいいような気もしてしまう。

斎藤は、「ここしばらく人を斬っていない」という理由だけで貫一郎を斬ろうとする。特に信念を持って新撰組に加わっているというわけでもなさそうだし、単なるキチガイの乱暴者に見える。それこそ、「義」なんてモノは全く感じさせない。
さて、そんなキチガイ斎藤に斬られそうになった貫一郎は抵抗し、そのシーンでは「生きるために戦う」貫一郎と「死ぬことなど恐れない」という斎藤の考えの相違を示す。しかし、例え死を恐れないにしても、忠義のために死ぬのと闇討ちで死ぬのとはワケが違う。
だから、そんなシチューションで斎藤が「死ぬことなど恐れない」と言ったところで、意味が無いのだ。斎藤が死など恐れないにしても、キチガイに闇討ちで殺されたらイヤなはずだ。だから、闇討ちしておいて貫一郎の考えを否定しても、しょうがないのである。

斎藤はぬいのことを「醜女だ」と紹介し、「オレは美しい女はキライだ」と告げる。しかし、中谷美紀は一般的に美人女優とされている人だ。もちろん、「斎藤は美人を醜女と言っている」という狙いを持った配役なのだろうが、その狙いが良く分からない。普通に、器量良しとは言えない女性をキャスティングした方が良かったようにも思えるのだが。
音楽にリードさせる形で、やたらと感動させようとするシーンが多い。しかし、感動の過剰セールスのために四方八方に手を広げてしまい、話が散らかっている。上下巻の膨大な内容量から感動させるためのエッセンスを抽出した結果、収拾が付かなくなっている。しかも泣かせ所を作りすぎて緩急の使い分けが悪くなり、泣かせ所も弱くなる。

貫一郎という男の生き方を描く作品なのかと思ったら、あまり彼の関わらない所で新撰組のゴタゴタを描いたり、斎藤&ぬいのドラマを描いたりする。斎藤のドラマが貫一郎との対比になっているとか、2人の友情が育まれるという流れがあるわけでもない。
江戸での出来事をフックにして、貫一郎が過去を回想するという仕掛けがある。しかし、これは上手く機能しているとは言い難い。その仕掛けは、フックを用意した方の話が散漫にならず、貫一郎の物語として生きていてこそ上手く機能するものなのだ。

貫一郎は新撰組離脱を持ち掛けられた際、「既に主君を1度裏切っている。2度は裏切れない」という理由で断っている。彼が尊王攘夷の信念や幕府への忠義ではなく家族を養うことを優先しているのなら、金銭的には離脱を選ぶのが筋だ。
しかし、そのシーンでは、急に武士としての忠義を持ち出す。もちろん、脱藩の時だって、「本当は武士の忠義を守りたかったが家族のために仕方なく」ことは分かる。しかし、家族を守るという気持ちの強さがあるならば、2度目も裏切りを選んでいいはずだ。なぜ1度目は良くて2度目はダメなのか、その線引きの基準が良く分からない。

「守銭奴と罵られようが、なりふり構わず武士としてのプライドも捨てて家族を守るために生きる」というのが貫一郎にとっての“義”だというなら、それも1つの生き方だ。しかし、既に満足な手当ても期待できない状況の中、彼は新撰組に残って戦い続ける。
あらかじめ定められた死に向かって、貫一郎は突き進んでいる。そこで貫一郎の心が移り変わる経緯に何があったのか、なぜ生き方を変えたのか、それが分からない。そりゃあ、家族を守ろうとすれば新撰組を離脱するのが筋だし、それだと絵にならないから滅びの美学でカッコ良く盛り上げたいというのも分かる。

しかし話の筋道を考えると、貫一郎が単なる変節漢にしか見えないのである。家族を守る、家族を養う、そのために生きるというのが“義”であるならば、それを最後まで貫けばいい。「結局、貫一郎にとっての“義”とは何だったのか」と思ってしまう。
しかも、鳥羽伏見の戦いで貫一郎が敵に突撃して「滅びの美学」が昇華しているのに、まだ彼は死なないのだ。彼は大怪我を負いながらも、生への執着を見せるのだ。そうなると、先頭を切って自分から突っ込んだ行為さえカッコ悪くなってしまう。

突撃シーンがクライマックスであるかのように盛り上げられているが、まだまだ話は続く。貫一郎の長い独白も容易されているが、かなり見ているのが辛い。ここでの「辛い」とは、彼の悲しみが伝わってくるとか、そういう意味ではない。
貫一郎が死んだ後の物語にも、かなり時間を割いている。丁寧に説明しようという意図があるのだろうが、時には過剰な説明を排除して余韻を残した方が良い時もある。エピローグは、せいぜい10分ぐらいで良かったんじゃないかと思う。
貫一郎が死んだ後の次郎右衛門や嘉一郎のことは、それを丁寧に描くことの効果を感じないので、テロップだけで処理してもいいぐらいだ。あと、エピローグが長くなる大きな原因は、やはり明治から回想するという構成にあるように思う。

 

*ポンコツ映画愛護協会