『メトロポリス』:2001、日本

近未来。メトロポリスでは権力者・レッド公の超高層ビル“ジグラット”がオープンした。それを記念して1週間の祝日に入り、表向きは祝福ムードで賑わっている。だが、多くのロボットが労働力として使われ、仕事を失った人々は不満を募らせている。
レッド公が設立したマルドゥーク党は、メトロポリスの自警団として暴走するロボットの始末を請け負っている。若き実力者のロックは、孤児だったのをレッド公に拾われた。ロックはレッド公の養子となったが、レッド公は父と呼ばれることを忌み嫌う。
レッド公は国際手配犯ロートン博士を使って、人間そっくりの姿をしたロボットのティマを作らせていた。彼はティマを守護神としてジグラットの頂点に座らせ、世界征服に利用しようと企んでいた。そんなレッド公の動きを、ロックは嗅ぎ付けた。
一方、私立探偵・伴俊作と甥のケンイチは、ロートン捜索のためメトロポリスを訪れ、ロボット刑事ペロの協力を得ることになった。メトロポリスはゾーン1が地下都市、ゾーン2がエネルギー・プラント、ゾーン3が下水処理施設になっていた。
ロックはレッド公の計画を妨害するため、ロートン研究所に潜り込んだ。彼はレッド公こそが頂点の座にふさわしいと考え、ティマを始末しようと考えたのだ。ロックはロートンを狙撃し、研究所を破壊する。炎に包まれた研究所に人影を見つけたケンイチは、ティマを助け出した。一方、俊作はロートンの残した手帳を入手した。
研究所に戻って来たロックは、ティマの残骸さえ無いことに不審を抱く。ゾーン3に向かったロックは、そこでティマとケンイチを発見する。狙撃されたケンイチはティマを連れてゾーン1へ逃亡し、革命家アトラスに助けられた。アトラスはロボットに反感を抱く人々を率いて蜂起する計画を立てており、ブーン大統領も後押しを約束していた。
俊作とペロは、クーデターが起きるという情報を得た。間もなくアトラス達が反ロボットのクーデターを起こし、ペロは破壊される。しかしブーンが大臣の裏切りに遭い、射殺される。クーデターは失敗に終わり、メトロポリスはレッド公の制圧下に置かれた。
ティマを連れたケンイチは、俊作と再会する。そこにロックが現れ、俊作を狙撃してケンイチを失神させる。ロックはティマを狙うが、レッド公の到着によって失敗に終わる。レッド公とロックの会話により、ティマは初めて自分が「ロボット」と呼ばれるのを聞く。レッド公はティマを連行し、コンピュータを支配する超人の座に据えようとする…。

監督はりんたろう、原作は手塚治虫、脚本は大友克洋、企画はりんたろう&丸山正雄&渡邉繁、製作は角田良平&宗方謙&平沼久典&塩原徹&阿部忠道&長瀬文男&松谷孝征&寺島昭彦、プロデューサーは丸山正雄&八巻磐、キャラクターデザイン&総作画監督は名倉靖博、美術監督&CGアートディレクターは平田秀一、CGテクニカルディレクターは前田庸生、作画監督は赤堀重雄&桜井邦彦&藤田しげる、作画監督補佐は辻繁人&平田敏夫、キャラクターメカニックは反田誠二、キャラクター色彩設計は平田秀一、撮影監督は山口仁、録音は安藤邦男、音楽は本多俊之、音楽プロデューサーは岡田こずえ。
声の出演は井元由香、小林桂、岡田浩暉、石田太郎、富田耕生、若本規夫、滝口順平、青野武、池田勝、八代駿、古川登志夫、千葉繁、江原正士、土師孝也、井上倫宏、愛河里花子、麻生智久、天田真人、佐々木健、渋谷茂、志村知幸、杉田智和、鈴村健一、園部啓一、千葉進歩、肥後誠ら。
友情出演は小山芙美、皆口裕子、松本梨香。
特別出演は隆大介、やなせたかし、永井豪、林ゆたか、本多俊之、岡田こずえ、DJ TARO、福ノ上達也、鮎貝健、鈴木裕介。


手塚治虫の初期三部作の1つ、『メトロポリス』(残り2つは『ロスト・ワールド』と『来るべき世界』)を基にした作品。
世界配給を意識して製作されたらしいが、原作漫画がフリッツ・ラングの映画をモチーフにしているわけで、そういうクレジット(つまり原案フリッツ・ラングとか)は無くても大丈夫なんだろうかと、ちょっと気になっしまった。

ティマの声を担当した井元由香、ケンイチ役の小林桂、ロック役の岡田浩暉は、いずれも声優初挑戦。他に、 レッド公の声を石田太郎、ヒゲオヤジ(俊作)を富田耕生、ペロを若本規夫、ロートンを滝口順平が担当している。また、俳優・隆大介、漫画家・やなせたかし、漫画家・永井豪らが、チョイ役として声の出演をしている。
井元由香、小林桂、岡田浩暉の内で最も芝居力が要求される役柄を演じるのは岡田浩暉だが、下手な台詞回しが最も目立っている。小林桂はロックに飛び掛かるシーンなどでボロが出ているが、普通に喋るシーンは問題無い。井元由香は、大きな問題は無いが、ティマがおとなしいキャラクターなので、それで得をしている感じはある。

監督曰く、「メトロポリスという街に1940年代のマンハッタンのイメージがあったので音楽はディキシーランド・ジャズで行くことにした」と語っている。
そもそも1940年代といえば、既にディキシーではなくスウィング・ジャズ全盛の時代なのだが、そこは目をつぶることにしよう。
ただ、ずっとディキシー風だったのに、ラストシーンだけモダン・ジャズになるのは違うでしょ。

予算も、時間も、労力も、たっぷりと掛けた作品だということは良く分かる。しかし、状況説明や舞台設定の紹介だけで、上映時間の半分ぐらいは消費してしまう。では残りの半分でドラマを充実させているかと言うと、そういうわけでもない。
街の映像は、良く出来ている。引いた絵による街の広がり、モブシーンの人々の動きなどには、相当に力が注がれている。しかし、あくまでもメトロポリスは物語の舞台に過ぎないはずなのに、街を見せることが目的であるかのようになっている。

そもそも、漫画ではバラバラだったピースを繋げるために、原作に登場していないロックというキャラクターを持ち込んだはずなのだ。だが、このロックは単なる繋ぎ役に留まらず、レッド公との「血の繋がらない親子」という関係性が設定されている。
となれば、その2人の関係は、大きく扱うべき要素になるはずだ。ところが、その関係を使ったドラマは、なぜか中心には無いのだ。わざわざ原作に無い人物を登場させ、父との屈折した関係を設定しながら、なぜか親子ドラマからは目を反らしてしまう。

ロックはレッド公を父親として見ているが、疎んじられ、嫌われている。レッド公は亡くした娘の面影をティマに見ているが、愛を得ることは出来ない。この愛の一方通行による人間関係はドラマの軸になるべき要素だと思うのだが、そこへの意識は乏しい。

ティマの見た目は人間そっくりだが、その「心」は描かれない。ロボットだが心を持つ、感情があるというところにティマの存在意義があるはずなのに、無機質では「まんまロボット」になってしまう。彼女が自身の出生、アイデンティティーに傷付き、定められた運命に翻弄されてこそ、終盤の暴走が納得できるモノになるはずなのに。
感情の揺れ動きが生じる場面で、顔や体の動きによる感情表現を見せようとしない。例えば「孤児のお前を拾ってやっただけだ」とレッド公からロックが言われるシーン、そこはロックの表情や手の動きを捕らえるべきだろうに、なぜか素通りしてしまう。

ティマのアイデンティティー探しのドラマは、ほとんど皆無に等しい。終盤に至るまでは自分がロボットと気付かない上、自分が誰なのかを探ったり苦悩したりすることも無い。ティマとケンイチの「ロボットと人間の恋愛」というのも、2人ともティマの正体を知るのが終盤だから掘り下げられないし、ケンイチはティマの正体を知っても何の反応も無い。
既に顔半分が機械剥き出し状態になっているティマを、ケンイチが命懸けで助けようとするのは解せない。フリークスと人間の恋愛劇を描こうとしているわけではあるまい。見た目は人間のままじゃないと、描くべきポイントにズレが生じてしまう。あと、ティマがケンイチを助けるシーンが無いのは、ダメなんじゃないかと思ったのだが。

クーデターのシーンでは、なぜか暴動の様子を描かずに終わらせてしまう。そこは革命派がロボットを破壊して暴れ、大統領が射殺されてクーデターが失敗に終わり、アトラが失意の中で死んで行くという流れを見せないと、ドラマとしての波が生じないのに。
クライマックスに待ち受けているジグラット崩壊のシーンでレイ・チャールズの『I Can't Stop Loving You』を流しているが、どうにも白けてしまう。そこまでの流れの持って行き方、盛り上げが上手く無いから、カタルシスが生じず、歌が力を発揮しないのだ。

これが例えば、完全にアクションに特化した作品なら、映像のクオリティーだけで充分だったのかもしれない。しかし、この映画は違う。もっと他に、ロボットと人間の恋愛や友情、対立と共存、暴力と平和、進歩への疑問提示など、色々な要素を含んでいるはずだ。
そう、その「色々な要素を含んでいる」というのも問題で、扱う題材が多すぎて、どれも充分に掘り下げることが出来ていない。結果的には、どこを取っても何を見ても薄いということになる。持ち込んだ要素は多いが、どれ1つとしてマトモに捉え切れていない。

 

*ポンコツ映画愛護協会