『メアリと魔女の花』:2017、日本
赤毛の魔女は花の種を小さな袋に入れ、炎上する建物から逃亡する。彼女は箒に乗り、建物から飛び立った。建物の女主人は、不気味な姿の手下たちに追い掛けるよう命じた。追っ手をかわしていた赤毛の魔女は建物から放たれた爆風を浴び、弾き飛ばされて雨雲に突っ込んだ。雨雲を抜けた彼女の髪は黒く変化し、箒から落下した。袋は森に落ち、種が散らばった。すると種は不思議な力を放ち、あっという間に大きな木へと成長した。
11歳のメアリは、大叔母のシャーロットが住む赤い館へ引っ越してきた。両親は仕事で忙しく、メアリが先に館のある村へ来ている。まだ夏休みが終わるまで1週間あり、彼女は新学期の挨拶を今から練習している。館のテレビは壊れており、ゲーム機も無く、メアリは退屈を持てあましている。彼女は庭師のゼベディを見つけて仕事を手伝わせてもらうが、花の茎を負ってしまう。箒を見つけたメアリは掃き掃除をするが、誤って駕籠に入っていた葉っぱを頭から被ってしまった。新聞配達に来た少年のピーターは、それを見て笑った。
メアリは家政婦のバンクスに勧められてピクニックへ出掛けるが、1人なので何も面白くなかった。黒猫が近付くと、彼女は愚痴を漏らす。立ち去った猫が灰色に変化したので、メアリは驚いた。彼女が猫の後を追うと、また黒に戻った。森に入った彼女は、猫が2匹だと知る。猫たちが唸り声を向ける先に視線をやると、美しい花が咲いていた。メアリは1輪の花を摘み取り、赤い館へ戻ってゼベディに見せた。ゼベディは猫のティブとギブがピーターに飼われていること、花は夜間旅行という名で滅多に見られないことを話す。夜間旅行は7年に1度しか咲かず、かつては魔女も探し求めていたと彼は説明した。
その夜、メアリの部屋に怯えた様子のティブが飛び込んで来た。メアリはティブを落ち着かせるが、翌朝になると姿を消していた。メアリはシャーロットから、ピーターにキイチゴのジャムを届けるよう頼まれた。ピーターと会ったメアリは、ギブも昨夜からいないことを知る。メアリが森へ捜索に向かおうとすると、ピーターは「霧の日は入っちゃいけないんだ」と止める。メアリは構わずに森へ行き、夜間旅行をくわえているティブを発見した。ティブを追い掛けたメアリは、昨日と違う場所に辿り着いた。
大木の弦が絡み付いている古い箒を見つけたメアリは、それを引き抜いた。ティブが花を吹き出したのでメアリは掴もうとするが、潰れて汁が手に付着した。メアリが振り払おうとすると、汁は光を放って箒の文字に染み込んだ。すると箒は勝手に動き出し、慌てて押さえようとするメアリとティブを乗せたまま飛び立った。メアリは雲を突き抜け、大きな建物に墜落した。すると箒小屋の番人であるフラナガンが現れ、メアリを新入生だと思い込んだ。
フラナガンはティブが使い魔だと誤解し、ここは多くの優秀な魔法使いが巣立ったエンドア大学だとメアリに説明する。彼は学則を教えた後、新入生は校長が案内すると告げて立ち去った。メアリが奥へ進むと校長のマダム・マンブルチュークが現れ、メアリに挨拶した。彼女は大学を案内し、メアリの掌に付いた印や赤毛を見て「優れた才能の持ち主」と称賛するマダムは科学の実習クラスにメアリを連れて行き、科学者のドクター・デイを紹介した。
デイが難解すぎる科学の質問を出したので、メアリは困惑しながら適当に答えた。するとデイは実際に計算して絶賛し、メアリは得意げな態度を見せた。マダムとデイはメアリをエレベーターに乗せ、最高学年の姿を消す授業を見学させた。2人はメアリに生徒が使っている球を渡し、見つめて念じるよう促した。メアリが集中していると姿が消えただけでなく、教室で竜巻が発生した。マダムとデイが大天才だと称賛すると、メアリは「今のは40%ぐらいの力ですね」と自慢げに告げた。
デイが変身魔法の研究に向かうと、マダムはメアリに「金庫室には必要な材料が保管されている」と説明した。動物の子供たちが運ばれてくると、デイは優れた被験体だと満足そうに言う。マダムは「力を持たない者を魔力を持つ存在にする実験」と述べ、デイは失敗が付き物だと口にした。マダムの家へ案内されたメアリは、2階の部屋で魔法の本を発見した。本を開くと、呪文がメアリの体に飛び込んで来た。マダムが来たので本を戻そうとするが穴が閉じていたため、メアリは慌てて背中に隠した。
マダムから多くの役職を任されそうになったメアリ、魔法を使えたのは不思議な花のおかげだと白状した。その言葉を聞いたマダムは怖い顔になり、隠している物を渡すよう要求した。メアリは咄嗟にピーターのメモを差し出し、「その子の花なので、良く分からなくて」と嘘をついた。マダムはメアリに入学手続きをさせて、帰りを見送る。メアリの箒を見た彼女は、花のありかを知っていると確信した。マダムは受け取ったメモに魔法を掛けて蝶に変身させ、メアリの後を追わせた。
メアリが村へ向かっていると魔法の力が無くなり、箒は落下した。赤い館に戻ったメアリは、ピーターが森の入り口に自転車を残して失踪したことを知る。彼女の部屋には、窓からマダムの蝶が飛び込んで来た。蝶からマダムの幻影が出現してメアリの嘘を指摘し、大学で捕獲しているピーターの姿を見せた。彼女はメアリに、ピーターを助けたければ魔法の花を持って来るよう要求した。メアリは花の力で箒を動かし、エンドア大学へ戻った。
マダムとデイはメアリの前に現れ、魔法の花を渡すよう要求する。メアリは鞄から花を入れた瓶を取り出し、ピーターとの交換を求めた。しかしマダムたちは花を奪い取り、メアリを実験材料として金庫室へ監禁した。メアリが金庫室を見回すと、実験に失敗して変貌した動物たちが檻に閉じ込められていた。ティブが寄り添っている怪物を見たメアリは、実験に使われたギブだと気付いた。ピーターも金庫室に閉じ込められており、メアリに「一緒に帰ろう」と告げる。彼と話したメアリは、魔法の本が鞄に入っていることを思い出す。彼女は本を開き、全ての魔法を解く呪文を発見した…。監督は米林宏昌、原作はメアリー・スチュアート『メアリと魔女の花』(KADOKAWA)、脚本は坂口理子&米林宏昌、製作担当は市川南&福山亮一&藤巻直哉、共同製作プロデューサーは岩佐直樹、製作プロデューサーは門屋大輔、感謝は宮崎駿&高畑勲&鈴木敏夫、プロデューサーは西村義明、作画監督は稲村武志、作画監督補佐は井上鋭&山下明彦、動画検査は大谷久美子、美術監督は久保友孝、美術デザインは今井伴也、色彩設計は沼畑富美子、特殊効果監督は谷口久美子、CG監督は軽部優、撮影監督は福士享、映像演出は奥井敦、編集は小島俊彦、音響演出・整音は笠松広司、アフレコ演出は木村絵理子、録音は高木創、音楽は村松崇継、主題歌『RAIN』はSEKAI NO OWARI。
声の出演は杉咲花、神木隆之介、大竹しのぶ、天海祐希、小日向文世、満島ひかり、佐藤二朗、遠藤憲一、渡辺えり、大谷育江、Lynn、濱健人、バトリ勝悟、広瀬裕也、藤原夏海、近松孝丞、大町知広、れいみ、坂井易直、中尾智、神戸光歩ら。
スタジオジブリ出身の西村義明プロデューサーが設立したスタジオポノックの第1回劇場長編作品。
原作はメアリー・スチュアートの『新訳 メアリと魔女の花』(『小さな魔法のほうき』)。
監督は『借りぐらしのアリエッティ』『思い出のマーニー』をスタジオジブリで手掛けた米林宏昌。脚本は『リトル・マエストラ』『かぐや姫の物語』の坂口理子と米林宏昌監督による共同。
メアリの声を杉咲花、ピーターを神木隆之介、シャーロットを大竹しのぶ、マダムを天海祐希、デイを小日向文世、赤毛の魔女を満島ひかり、フラナガンを佐藤二朗、ゼベディを遠藤憲一、バンクスを渡辺えりが担当している。米林宏昌と西村義明にとって、「スタジオジブリ出身」というのは常に付きまとうレッテルだ。そんな大きな看板であるジブリとどんな風に付き合っていくのかは、彼らにとって重要な問題だ。
スタジオポノックを設立した2人が目指したのは「ジブリからの脱却」ではなく、「ジブリの踏襲」だった。
もっと限定すれば「宮崎駿アニメの踏襲」である。
宮崎アニメのファンは大勢いるから、そこを全て取り込もうという狙いがあったのかもしれない。この映画のキャッチコピーに「魔女、ふたたび。」という言葉を使っているのは、明らかに『魔女の宅急便』を意識したモノだ。この映画の魔女はキキと同じように箒で空を飛ぶし、ご丁寧なことにメアリのパートナーとして黒猫まで用意している。
ある種の敬意を込めつつ、「米林宏昌は宮崎駿の後継者です」ってことをアピールしようと目論んでいたのかもしれない。
しかし、宮崎アニメに寄せるってことは、おのずと「比較される」ってことに繋がるわけで。
それが賢明な選択だったのかと考えた時、失敗だったと断言できる。
宮崎アニメに寄せまくった結果として、「宮崎駿の劣化版」という残念な事実が浮き彫りになっている。主要キャストにプロの声優ではなく有名俳優を起用しているのは、スタジオジブリと同じだ。
ただ、例えば細田守のスタジオ地図なんかも有名俳優を主要キャストに揃えているし、今や一般向けのヒットを狙うアニメ映画では普通のことになっている。
元々は舞台俳優が声優の仕事を兼任していたことを考えれば、俳優が声優を担当するのが悪いとは言わない。この作品でも、ほとんどの俳優は何の問題も無く声優の仕事をこなしている。
ただし大竹しのぶだけは、明らかに違和感を抱かせる。ちっとも老婆に感じられない。
これは彼女の演技が云々というよりも、キャスティングの失敗と言った方がいいだろう。赤毛の魔女が箒で空を飛ぶオープニングシーンからして、宮崎アニメの浮遊感には遠く及ばない。あえて宮崎駿の得意分野を冒頭に配置したのかもしれないが、米林宏昌の得意分野じゃなかったってことだ。
っていうか、米林宏昌に「これが売り」という物が見えて来ない。だから、単なる宮崎駿の物真似になっている。
『借りぐらしのアリエッティ』と『思い出のマーニー』でも何となく見えていた米林宏昌という人の資質が、明らかになっている。
この人はきっと優れたクリエイターじゃなくて、指示された仕事をキッチリとこなす、優秀なアニメーターなのだ。演出面だけでなく、脚本の方でも問題がある。オープニングで魔女が空を飛ぶシーンを用意したことによって、メアリが初めて箒で空を飛ぶシーンのワクワク感が無くなっているのだ。
さらに言うと、「アニメーションとしての魅力」にも欠けている。映像として気持ちをグッと掴むようなシーン、ハッとさせるようなシーンってのが、どこにも見つからない。
宮崎駿監督の作品だと、シナリオにや演出に色々と問題があっても、少なくともアニメーションとして「凄いな」と文句無しで思わせるシーンが必ず用意されていた。
この映画には、「シナリオはアレだけど映像面では」とファローできるような余地が残されていない。メアリが住んでいるのは赤い館村という設定だが、村人はピーターしか登場しない。
複数の家が建っている様子が写るシーンはチラッとあるが、人々が生活している雰囲気はゼロ。
ピーターは新聞配達員という設定だが、彼が村人たちに配っている様子も無い。
エンドア大学に場面が移ると多くの生徒たちが登場するが、全員が背景扱いになっている。
だから、村と違って大勢の人々は描かれているものの、そこに生活感が見えないのは同じだ。全てが空虚で寂しいのだ。エンドア大学のディティール描写は弱くて薄っぺらいし、そこでメアリが正式に授業を受けたり生徒たちと交流したりすることは無い。
そのため、そこが大学である意味を全く見出せない。
これは赤い館村でも同様で、メアリと村人の交流はゼロ。
メアリが村の暮らしに退屈しているとか、夏休みが明けてからの学校生活に不安を抱いているとか、そういう設定も全く後の展開に繋がらない。
メアリは自分の赤毛を嫌っていて、マダムやデイから「赤毛で才能がある」と称賛されて浮かれているが、これも対して機能していない。メアリとピーターの交流でさえ皆無に等しいまま時間が経過していくため、「メアリがピーターを救うために奔走する」という話の牽引力も脆弱だ。
2度目の救出劇に関しては「ピーターが自分を逃がすために捕まった」という流れがあるから、そこで引っ掛かることは無い。でも1度目に関しては、ものすごく弱い。
一応は「自分のせいで捕まった」という罪悪感もあるから、助けに行くのは当然の流れだろう。
でも、それだけじゃない理由でメアリを動かさないと、物語として弱くなってしまうのよ。終盤に入り、シャーロットが年老いた赤毛の魔女であることが明らかにされる。しかし、そこの表現が淡白すぎて、仕掛けとしての力が薄弱になっている。
そんな赤毛の魔女は、以前はマダムとデイが心優しき教育者だったこと、夜間飛行(魔法の花の名称ね)を手に入れてから変貌したこと、あらゆる魔法が使える強大な力を生徒たちに持たせるために実験したことを語る。
でも本人たちが強大な力を得るための実験ならともかく、「全ての生徒に強大な力を与えようとする」ってのが、どうにも良く分からん。
それによって、2人は何を得ようとしたのか。単純に「全ての魔法使いの力を向上させよう」ってことだったのか。ともかく実験は失敗して力が暴発するのだが、それを受けて赤い魔女は「この世界には、私たちには扱い切れない力がある。なのに2人は、次こそは自分たちの思い通りに出来る」と信じている」と考え、阻止するために夜間飛行を盗んで逃亡したわけだ。
でもマダムとデイは相変わらず「力は制御できる」と過信し、ピーターで実験する。そして実験は失敗し、魔法の化け物が誕生して暴走する。
ってことは、話としては「この世界には人間に扱い切れない力がある」という着地になるべきだろう。
ところが、最終的にメアリとピーターが魔法の本を使い、化け物を消滅させちゃうのだ。
それって「人間の力で制御できた」ってことになるんじゃないの。そこは矛盾しているように感じるわけで、どうなのかと。自分を逃がすために捕まったピーターの救出に向かう時、メアリは魔法の力を失っている。それでも彼女は助けに行くのだから、「魔法に頼らずにピーターを救い出す」という形にすべきだろう。でも化け物に捕まったピーターを救う時には、魔法の本を使っているんだよね。
それでも、まだ魔法の本を使うのは「全ての魔法を解く」という意味であり、「魔法なんて要らない」と言っているので、まあ良しとしておこう。
ところが家に戻る時、メアリは魔法のホウキで飛ぶんだよね。
いやいや、魔法なんて要らないんじゃなかったのかよ。
っていうか、全ての魔法を解いたはずなのに、なんでホウキは空を飛べちゃうんだよ。宮崎駿は良くも悪くも異常性があり、誰かが上手く操縦しないと暴走することがあった。しかし、それは溢れ出す才気でもあり、作品の魅力に繋がっていた。
米林宏昌は師匠の宮崎駿に比べると、安定感は感じられる。これが「誰かの企画や脚本があって、オファーを受けて手掛ける雇われ仕事専門の監督」ってことなら、安定感は求められる要素と言えるかもしれない。
しかし、自分で企画や脚本も兼ねる映画監督としては、決して重要な資質とは言えない。
たぶん彼は、番頭として才能を発揮するタイプの人間なんじゃないかな。(観賞日:2019年1月12日)