『真夏のオリオン』:2009、日本

倉本いずみの元に、英文の手紙が届いた。それは第二次世界大戦当時に米海軍駆逐艦の艦長だった人物の孫から届いたものだった。そこ には「あの夏、私の祖父が何を失い、何を得たのか、それが知りたくて手紙を書いています」と綴られていた。いずみの祖父・倉本孝行は 、日本軍の潜水艦長だった。いずみは潜水艦の搭乗員で今も生きている唯一の人物・鈴木勝海を訪ね、その手紙と添えられていた楽譜を 見せた。楽譜には、いずみの祖母・有沢志津子の署名があった。鈴木は64年前の体験を語り始めた。
1945年8月3日。倉本が艦長を務めるイ-77に、軍医の坪田誠が乗り込んだ。倉本は坪田に、水雷長の田村俊雄と航海長の中津弘を紹介した 。坪田の案内は、彼と同じく初出撃となる鈴木が担当した。倉本は鈴木が落としたハーモニカを拾い、「今度、聞かせてくれ」と告げた。 鈴木は坪田を機関長・桑田伸作の元に案内した。米軍の燃料タンカーは10隻以上がグァムに集結しており、船団を数回に分けて沖縄に 向かうものと推測された。先に出撃した日本の潜水艦4隻は、既に作戦領域へ到着していた。
イ-77は、今回の作戦における最後の砦だった。だが、残された14本の魚雷の内、既に2本を使っていた。イ-77には、回天搭乗員である 遠山肇や久保憲明ら4名も乗り込んだ。既に連合艦隊は全滅しており、戦えるのは潜水艦だけだった。倉本は、作戦領域に到着している イ-81の艦長・有沢義彦のことを思った。倉本と有沢は、海軍兵学校時代からの親友だった。そして倉本と有沢の妹・志津子は、互いに 想いを寄せる関係だった。
出航前、音大生だった志津子は倉本に、お守りとして楽譜を渡した。そこにはイタリア語のメッセージも添えられていたが、倉本には 読めなかった。イ-77が浮上した時、倉本は坪田から、どうして潜水艦乗りを選んだのかと質問された。倉本は「自由なんですよ。海に 出てしまえば、その船だけの判断で行動できるんです」と答えた。空を見上げると、オリオン座が輝いていた。
イ-81は米軍駆逐艦パーシバルの爆雷を受け、浸水した。有沢は乗組員に指示し、探知不能領域へイ-81を離脱させようとする。だが、有沢 の想定とは異なるタイミングで、パーシバルの艦長マイク・スチュワートは爆雷を落としてきた。12日、イ-77は米国の石油タンカー2隻 を発見し、倉本は魚雷による攻撃で大破させた。遠山が「魚雷8本で2隻ですか。回天なら1艇で1隻を沈められますが」と言うと、倉本 は、「勿体無いでしょ。実に勿体無い」と告げた。
パーシバルがタンカーの乗組員を救助していると、イ-77が浮上した。倉本もスチュワートも、互いに相手が攻撃してこないと分かって いた。イ-77に艦艇司令部からの連絡が入り、敵の第2陣がグァムを出発したことが分かった。他の4隻からの連絡は、全て途絶えた。 倉本は鈴木に楽譜を見せ、ハーモニカで演奏してもらった。それから彼は坪田に楽譜を見せ、イタリア語を翻訳してもらった。そこには 「真夏のオリオン」という曲の題名と、「オリオンよ、愛する人を導け」というメッセージが記されていた。
至急電により、敵の第2船団が確認されたこと、45時間前にイ-81から最後の打電があったことが報告された。しばらく航行していると、 断続的な金属音が聞こえて来た。それは沈んだイ-81から有沢が発しているモールス信号だった。酸素残量がわずかだと知らせる有沢に、 倉本はモールス信号を返した。その時、パーシバルが爆雷を落としてきた。イ-77の機関室では火災が発生するが、倉本は桑田を信じて モーターを停止しなかった。田村たちが消化した後、倉本は敵に探知されぬようイ-77を無音潜行させた。
パーシバルとの我慢比べが35時間に達し、イ-77の二酸化炭素濃度は限界を迎えようとしていた。遠山は倉本に、回天での出撃を求めた。 倉本は鈴木に、回天の整備員を呼ぶよう命じた。森勇平が整備に入るが、それは出撃のためではなく、回天に蓄えられた高圧酸素を外に 放出するためだった。倉本は遠山たちに、「操縦性能が悪い回天を今、出したところで、海中をさまよい、燃料切れを待つ可能性が高い。 実に勿体無いだろう」と告げた。
倉本はパーシバルが必ず取り舵を取ってくることを利用し、敵の真下に潜り込んで側面を捉える作戦を立てた。イ-77が前進すると、それ を待っていたパーシバルも動き出した。イ-77は作戦通りに魚雷を発射するが、パーシバルにかわされた。パーシバルと接触したイ-77は 油圧が掛からず、海底まで深度が落ちて停止した。森は魚雷の下敷きとなって死亡した。倉本は森の遺体と廃棄物を魚雷発射管から射出し 、敵を欺こうと考えた。その際、彼は楽譜を空のボトルに詰め、森の遺体に持たせた…。

監督は篠原哲雄、原作は池上司、映画化原作は福井晴敏&飯田健三郎、脚本は長谷川康夫&飯田健三郎、監修・脚色は福井晴敏、製作は 上松道夫&吉川和良&平井文宏&亀井修&木下直哉&宮路敬久&水野文英&吉田鏡&後藤尚雄、企画は亀山慶二&小滝祥平、 プロデューサーは小久保聡&山田兼司&芳川透、エグゼクティブプロデューサーは梅澤道彦&市川南&佐倉寛二郎、製作統括は早河洋& 島谷能成、監督補は森谷晃育&中西健二、撮影は山本英夫、編集は阿部亙英、録音監督は橋本文雄、照明は小野晃、美術は金田克美、 視覚効果は松本肇、 音楽は岩代太郎、 音楽プロデューサーは慶田次徳。
主題歌『願い星〜I wish upon a star〜』 いつか、作詞:いつか/奥村イオン、作曲:岩代太郎/前田和彦、編曲:岩代太郎。
出演は玉木宏、北川景子、堂珍嘉邦、平岡祐太、吉田栄作、益岡徹、吹越満、鈴木瑞穂、黄川田将也、太賀、松尾光次、 古秦むつとし、奥村知史、戸谷公人、三浦悠、伊藤ふみお、山田幸伸、鈴木拓(ドランクドラゴン)、木村啓太、森廉、望月章男、永井努 、松本匠、岡安泰樹、滝直希、小野孝弘、中台あきお、佐々木和徳、八敷勝、太田恭輔、山崎隆弘、小橋川よしと、藤沼豊、小嶋浩司、 望月潤一、山本将利、寺本康之、中嶋直久、デヴィッド・ウィニング、ジョー・レヨーム、アダム・マイヨット他。


池上司の小説『雷撃深度一九・五』をモチーフにした作品。
ただし映画化に際して、大幅に脚色されているようだ。
倉本を玉木宏、いずみ &志津子を北川景子、有沢を堂珍嘉邦、田村を益岡徹、中津を吹越満、現代の鈴木を鈴木瑞穂、桑田を吉田栄作、坪田を平岡祐太、遠山を 黄川田将也、過去の鈴木を太賀が演じている。
監督は『深呼吸の必要』『地下鉄(メトロ)に乗って』の篠原哲雄。

玉木宏にしろ堂珍嘉邦にしろ、第二次世界大戦当時の潜水艦の艦長には全く見えない。
っていうか、仮に現代だとしても、やはり潜水艦の艦長には見えないけど。
あと、北川景子も、戦時中の女には見えない。
最初にいずみとして登場し、その後に志津子として登場しても、いずみから何十年も前の時代だとは思えない。
外見も演技面も、1945年を生きた女性のようには感じられない。

「映画化に際して大幅に脚色されている」と書いたが、それどころか、ほとんど換骨奪胎に近い状態らしい。
私は未読だが、原作と同じなのは、回天を使って敵艦を騙す終盤の作戦ぐらいで、他は全く別の内容になっているそうだ。
つまり、主人公が親友の妹と恋仲だとか、その恋人から楽譜を渡されるとか、それが敵艦長の手に渡るとか、そういうのは全て映画 オリジナルってことだ。
で、その映画オリジナルの脚色部分が、すげえ陳腐なのだ。

タイトルにもなっているぐらいだから、志津子が倉本に渡した楽譜は、この映画において重要なアイテムとして持ち込まれているの だろう。
しかし、実際に映画を見てみると、「この楽譜、要らなくね?」という感想が浮かんだ。
物語の鍵を握るアイテムとして、全く機能していないのだ。
「その楽譜が戦った敵同士を結び付けた」ということにしたかったのかもしれないが、まるで上手くいっていない。

映画化原作、監修、脚色として、福井晴敏が携わっている。
いつの間にか私の中では、「福井晴敏が絡んでいたら地雷映画」という勝手な偏見が出来上がっている。
ちなみに今まで彼が関わったのは、『戦国自衛隊1549』、『亡国のイージス』、『ローレライ』、リメイク版の『日本沈没』、そして本作品だ。
このラインナップで、私の偏見も何となく理解してもらえるだろうか。

回想に入った直後に重要なキャラのように登場した坪田は、その後はすっかり存在感が薄くなり、軍医として活躍する場面も用意されて いない。
生き残るために戦おうとする倉本と、死ぬために戦おうとする遠山たちとの対立の図式も、まるでドラマとして膨らまない。
あと、戦闘に参加していないヒロインは、当然のことながら影が薄くなる。
っていうか、要らないでしょ、ヒロイン。
そこは「大作映画にはヒロインが必要」というハリウッド的な考え方に、日本の映画界も侵されているということなのかな。

他の4隻からの連絡が全て途絶えたことを知った倉本は、鈴木に楽譜を見せてハーモニカで演奏してもらう。
だが、なぜ、そのタイミングなのかサッパリ分からない。
その演奏を聴いた乗組員が感動したかのような描写になっているが、初めて聴くようなメロディーに何の感慨も抱かないだろうに。
あと、倉本は楽譜に書かれたイタリア語のメッセージを坪田に読んでもらうが、なぜ志津子は日本語じゃなくて、翻訳してもらわないと 理解できないような形で書いたのか。
伝わらなかったら無意味じゃないのか。

森の遺体を射出する時、倉本は楽譜をボトルに詰めて持たせるが、その理由がサッパリ分からない。死を覚悟したから、それを手放そうと 考えたのか。
しかし森の遺体を見たスチュワートは、「まだ彼らは諦めていない」と言っている。
倉本は、まだ諦めていないはずだ。
っていうか、もし死を覚悟したとしても、やっぱり楽譜を射出するのは理解できない。死を覚悟したなら、なおのこと、その楽譜は持った まま死にたいと考えるものじゃないのか。
倉本が何を考えて射出したのか、まるで分からない。

冒頭、倉本は潜水艦を相手にした戦闘において、魚雷2発を使用している。
当時の潜水艦が敵の潜水艦を攻撃することは、ほぼ不可能な行為だった。当時はホーミング機能が無く真っ直ぐ進むだけなので、命中の 可能性は皆無に等しかったからだ。
だから普通、潜水艦を相手に魚雷を撃つなんてのは有り得ない。
そもそも魚雷というのは高価であり、特に終戦直後ともなれば、そんな無駄遣いは許されなかったはずだ。
しかし、その後も倉本は、平気で魚雷をバカスカと発射している。

燃料タンカーを狙う際、残り12本しか無いのに、8本も撃っている。
メチャクチャである。
倉本は超優秀な艦長という設定になっているが、どう考えてもボンクラである。
パーシバルの真下に潜り込む作戦の時にも、残り4本を惜しげもなく一度に放出しようとする(トラブルで1本だけ残ったが)。
遠山が「魚雷8本で2隻ですか。回天なら1艇で1隻を沈められますが」と言った時、倉本は「勿体無いでしょ」と言うが、魚雷を 無駄遣いしている奴の口から、よく「勿体無い」なんていうセリフが出てくるもんだ。

「残り少ない魚雷によって、いかに敵艦と戦うのか」「いかに魚雷の発射数を抑えながら戦いに勝利するか」というところで話を面白く することも出来たはずなのに、そういうシナリオ作りはしていない。
この映画は魚雷の本数に関して、あまりにも無頓着だ。
だから「残り本数が少ない」「ついに1本になってしまった」というところで、スリルが全く盛り上がらない。

フィクションだから、全てを史実にしたがって描けとは言わない。
しかし、この映画は、リアリティーを持たせた中でファンタジーを描写していかないとダメな類の作品じゃないのか。
基盤の部分から全てが絵空事の、荒唐無稽なアクション映画として作るってのはダメなんじゃないのか。
ようするに、キッチリとした時代考証をやって、細かいディティールを正確に描写して、その上にフィクションを重ねることで、重厚な ミリタリー・アクション映画として作ることが絶対条件だったはずなのだ。

「無人の回天を発射させて敵を欺く」というのは、実際には有り得ない作戦だ。
回天と潜水艦のスクリュー音は全く違うものだから、敵艦が間違えるはずが無い。
それに、そもそも回天の耐圧深度は最大80メートルなので、その作戦を実行する前に潰れているだろう。
だが、それ以外の部分でリアリティーのある描写をキッチリとやっていれば、その部分の荒唐無稽は受け入れられるのだ。

とりあえず、「まず髪を切れ」と言いたくなった。
玉木宏や堂珍嘉邦の髪型を見た時点で、「ああ、これってマジじゃないんだな」と思わされる。「これはサム・ライミの『クイック& デッド』とかみたいに、おバカなことをマジなテンションでやる映画なんだ」と、そう解釈したくなる。
だけど、製作サイドは、決しておバカアクションとして作っているわけではないのだ。
そこにズレがある。
おバカ映画を作るつもりじゃないのに、ディティールの甘さは完全におバカ映画なのである。

玉木宏や堂珍嘉邦だけでなく、他の乗組員も、みんな揃って髪の毛を伸ばしている。丸坊主の乗組員は、まるで見当たらないのだ。 長髪を隠すためなのか、ほとんどの乗組員は常に帽子を被っている。
この「長髪だらけの潜水艦」について、この映画の小滝祥平プロデューサーは、公式サイト上で「旧海軍では陸軍とは違い、 坊主頭などの短髪はまれでした」と説明している。
しかし、旧海軍で長髪が許されたのは士官に限られたことであり、丸坊主の乗組員が全く見当たらないなんてことは有り得ないはず なのだ。

その後に「ただ、兵や下士官は基本的に短髪が決まりでした」というコメントもあるので、どうやらプロデューサー、それは分かっていた らしい。
だが、厳密に言うと、旧海軍における「短髪」というのは丸坊主のことだ。
そして「長髪」というのが、今で言う短髪なのだ。
ようするに、乗組員は基本的に丸坊主だったはずだし、艦長にしても襟足は刈り上げているはずなのだ。決して玉木宏がやっているような 、オシャレさんな髪型ではなかった。
っていうか、当時の日本では、劇中の玉木宏の髪型はオシャレではなかったし。

小滝祥平プロデューサーは、公式サイト上で「一旦出向すれば水は大変貴重で、当然ながら洗髪など許されず、何週間もそのまま。当然髪 も伸びてきます」というコメントも出している。
洗髪など許されないのに、みんな長髪にしているなんて不衛生でしょうに。
だから衛生的なことも考えて、丸坊主にしていたんでしょうに。 で、「洗髪など許されず、何週間もそのまま。当然髪も伸びてきます」と書いているくせに、劇中の乗組員は誰一人として無精髭が生えて いないのは、どういうことなのか。
髪は伸び放題でも、髭はまめに剃っていたという理解不能な設定だったりするのか。
っていうか、そもそも髪の毛も伸びている気配が全く無いが。

これが戦争アクション映画ではなく、現代を舞台にした荒唐無稽な海洋アクション映画なら、魚雷を平気で無駄遣いしても、乗組員の髪や 髭が全く伸びなくても、「そういう映画なんだな。ジェリー・ブラッカイマーの映画を意識したのかな」などと、そんな感じで受け止めた かもしれない(それはそれでダメな映画だが)。
だが、リアリティーに満ちた戦記映画のように見せ掛けておいて、実際の中身が荒唐無稽なバカ・アクションというのは、かなり問題が あるのではないか。

(観賞日:2010年8月22日)

 

*ポンコツ映画愛護協会