『魔界転生』:2003、日本

寛永15年(1638年)、島原。飢饉の中での容赦ない重税とキリシタン弾圧に耐えかねた農民たちは反旗を翻し、籠城した。徳川幕府は12万 の軍勢を送り込み、これを制圧した。一揆の総大将である天草四郎時貞や従者のクララお品たちが祈っていた場所にも、細川越中守家臣・ 陣野佐左衛門と家来たちが乗り込んで来た。四郎は落ち着いた態度で、「ようやくこの世を後にする時が来た。斬れ」と告げる。
四郎に見つめられた陣野は体を震わせ、仲間たちを次々に斬り捨てた。そして振り向いて四郎の首を落とし、すぐさま自害した。バテレン の妖術を恐れた徳川幕府は、女子供を含む3万7千人を皆殺しにした。老中・松平伊豆守信綱は将軍指南役・柳生但馬守宗矩と会い、島原 での戦いについて話す。さらに彼は、島原で宮本武蔵の噂を耳にしたことを言う。信綱は「もはや武道は飾りに過ぎず、今後は知略が人を 動かすとワシは見る」と但馬守に告げた。
十余年後、3代将軍・家光の叔父である紀州大納言・徳川頼宣が鷹狩りをしていると、死んだはずの四郎がお品を従えて姿を現わした。 彼らは頼宣が天下取りの野望を抱いていることを指摘し、洞窟へと案内した。四郎は用意しておいた女を生贄に使い、秘術“魔界転生”で 柳生流の剣客・荒木又右衛門を復活させた。四郎とお品は頼宣を才覚ある男だと褒め称え、天下取りのための協力を申し出た。
柳生の庄。但馬守の息子である柳生十兵衛の元に、紀州藩の老臣・木村助九郎がやって来た。門弟として修行中の娘・おひろとお雛を 引き取るためだ。藩の重役・牧野兵庫頭のお触れがあり、頼宣にお目見えすることになったという。木村は娘たちを連れて紀州藩延永寺へ 出向き、牧野に2人を預けた。それから数時間後、傷を負ったお雛を馬に乗せ、柳生の庄へ向かおうとする木村の姿があった。木村はお雛 に馬を委ね、柳生の庄へと走らせた。
お雛が柳生の庄に到着した直後、男たちが弓矢で攻撃してきた。さらに、木村を仕留めた又右衛門が姿を現した。彼は十兵衛に「お前を 斬るために蘇ったのだ」と告げた。柳生の門弟たちが又右衛門に襲い掛かり、十兵衛は彼の右腕を落とした。又右衛門は門弟の一人を殺し 、その場を立ち去った。お雛は、家中の娘たちが牧野の元に集められていたこと、魔界の者たちが死人を甦らせる儀式の生贄にされること を語る。おひろのことを尋ねると、道中ではぐれ、それきりだという。
四郎の元に戻った又右衛門は、彼の意に従うことを拒んだために始末された。牢に閉じ込められていたおひろの前にお品が現れ、「忍体に あつらえ向き。お前の体には死人の骨が埋められる。骨はお前の中で次第に育ち、腹を割いてこの世に生まれ出る」と語った。江戸柳生家 には、槍の達人である宝蔵院胤瞬が現れた。彼は十兵衛を訪ねたのだが、但馬守から「ここにはおらん。柳生へと帰した」と告げられた。 但馬守は、十兵衛が家光への指南で気絶するほど打ち据えたことを述べた。
胤瞬が十兵衛との立ち合いを求めていることを口にすると、但馬守は「倅に代わって、この但馬がお相手いたそう」と言う。胤瞬は彼が 病んでいることに気付いた。但馬守は胤瞬を負かし、「倅の剣は殺人剣。負け即ち死と、よう知っておる」と告げる。胤瞬が滝の近くで 鍛錬していると、お品が現れて「仏の教えを破れば槍の奥義に達するとすれば?」と持ち掛ける。「戒律を破って、この胸を突け」と挑発 された胤瞬は、彼女を槍で突き刺した。すると、殺した相手は少女の姿に変わる。しかし胤瞬は平然とした態度で、「どうということは ない」と口にする。胤瞬は槍を極めるのと引き換えに、自ら命を捨てることを承諾した。
十兵衛は頼宣の元へ行き、魔界の者と通じている陰謀について問い質す。その間に、お雛と仲間の伊達小三郎たちが、おひろを牢から救出 した。頼宣が家来たちに十兵衛を襲わせようとした時、お雛たちの動きが知られた。家来の一部は、そちらへ急行した。十兵衛は「何やら お取込み中の様子。失礼つかまつる」と告げ、その場を去る。そこへ四郎が現れ、「ほどなく審判が下され、再び乱世だ」と告げて姿を 消した。彼は但馬守の元へ現れ、命を与えるので、武芸者として十兵衛と戦うよう持ち掛けた。
家光が危篤に陥ったとの知らせを受けた頼宣は、病気見舞いと称し、軍勢を率いて江戸へ向かうことを決めた。その様子を、十兵衛たちが 監視していた。そんな彼らの前に、魔物となった胤瞬が現れる。胤瞬は2人の門弟を殺し、舌を噛み切ったおひろが転生したことを語る。 彼は十兵衛との一騎打ちを望んだ。十兵衛が戦いの末に槍を折ると、胤瞬は自害して消える。そこへ四郎が現れ、不滅の命と引き換えに、 手を貸すよう持ち掛けた。
十兵衛が「貰ったところで面倒だ」と言うと、四郎は「何を守る?徳川か、紀州か」と問い掛けた。十兵衛が「誰の側にも付かぬ。だがな 、魔界の者、残らず斬る」と告げると、彼は「この世に転生した者は2人だけではない。柳生の者もいる」と言って消える。おひろは自分 が魔界の者なのかと悩んで自害しようとするが、伊達に制止される。十兵衛は「どこも変わらん。おひろはおひろだ」と言う。おひろは、 自分が魔界の者のような心持ちになったら斬り捨ててほしいと頼んだ。
掛川宿、紀州藩本陣。頼宣と牧野は、十兵衛を倒すのに難儀している四郎たちの手を借りず、天下取りを果たそうと話し合っていた。そこ へ四郎が現れ、「我らの血から無くとも、天下が落ちて来るとお思いか。大納言様自ら、家光様のお命経ってほしゅうございました。 ご承知いただけないなら結構。我ら何も望みますまい」と語って立ち去った。彼はお品に「徳川同士が殺し合うことこそ、乱世の幕を 開ける儀式。頼宣だけが徳川ではない」と言い、家康が祀られている久能山東照宮へ向かった。
十兵衛たちは、頼宣一行が駿府城で足止めを食らっていると知った。駿府城では、伊豆守が武家諸法度に背く頼宣の行為に異議を唱えて いた。彼は、大納言の名を騙って浪人を集めた不届き者が多数いたので、捕まえて成敗したと語った。そして頼宣に、駿府で武器を全て 預けるよう要求した。すすき野を行く十兵衛たちの前には、魔物となった宮本武蔵が出現した。十兵衛が武蔵と戦っていると、おひろが 突っ込んで来た。おひろは武蔵に斬られても死なず、自分が魔界の者だと知った。十兵衛が苦戦していると、おひろが武蔵を背後から 突き刺した。武蔵は彼女を斬るが、命は絶えた。おひろは十兵衛に看取られ、消えて無くなった…。

監督は平山秀幸、原作は山田風太郎(角川文庫版)、脚本は奥寺佐渡子、 企画は遠藤茂行&大川裕&奥田誠治、プロデューサーは天野和人&赤井淳司&佐藤敦&妹尾啓太&出目宏、協力プロデューサーは大川裕、 撮影は柳島克己、編集は川島章正&洲崎千恵子、録音は松陰信彦、照明は杉本崇、美術は松宮敏之、コンセプチュアル・ デザインは寺田克也、衣裳デザインはホリ・ヒロシ、アクション監督は清家三彦(東映剣会)、特殊造型スーパーバイザーは原口智生、 特撮監督は佛田洋、特殊効果統括は橋本満明、音楽は安川午朗、音楽プロデューサーは津島玄一。
出演は窪塚洋介、佐藤浩市、麻生久美子、杉本哲太、加藤雅也、柄本明、長塚京三、黒谷友香、吹石一恵、國村隼、麿赤兒、古田新太、 高橋和也、上杉祥三、田中要次、中森祥文、紅咲美乃里(波多野里美)、宮内敦士、大石吾朗、浜田晃、 笹木俊志、小坂和之、木下通博、細川純一、小峰隆二、河本タダオ、辻本一樹、横山一敏、浜田隆広、山田永二、西村龍弥、高山澪諒、 小笠原ひかる他。


山田風太郎の小説を基にした1981年の同名映画をリメイクした作品。
監督の平山秀幸と脚本の奥寺佐渡子は、『学校の怪談』シリーズの1、3、4作目のコンビだ。
四郎を窪塚洋介、十兵衛を佐藤浩市、お品を麻生久美子、頼宣を杉本哲太、又右衛門を加藤雅也、伊豆守を柄本明、但馬守を中村嘉葎雄、 武蔵を長塚京三、おひろを黒谷友香、お雛を吹石一恵、陣野を國村隼、徳川家康を麿赤兒、胤舜を古田新太、小三郎を高橋和也が演じて いる。
1981年版の細川ガラシャ夫人の役割を、お品が担当するような形になっている。また、時の将軍が1981年版では四代将軍の家鋼だったが、 今回は原作と同じく家光になっている。
衣裳デザインを人形師のホリ・ヒロシが担当しているのは、オリジナル版で人形師の辻村ジュサブローが衣裳アドバイスとして携わって いたことを意識したんだろう。
そんな妙なところで、オリジナル版を真似しなくてもいいのに。

1981年版は、「沢田研二が天草四郎、千葉真一が柳生十兵衛を演じる」というところから企画が始まった。
今回は「窪塚洋介が天草四郎を演じる」ということが企画の出発点にあるわけだが、その時点で失敗作になることが決定していたと 言ってもいい。
冒頭、窪塚の第一声が見事なぐらいの棒読みで、まるで魅力が無い。
そもそも、窪塚に中性的な魅力を持っていた頃のジュリーの真似をさせようとしている時点で間違いなのだが、もはや中性的かどうかと いう問題ではなく、明らかに役者不足。

さらに、窪塚以外にも、役者不足を露呈している面々が大勢いる。
お品役の麻生久美子は、ちっとも妖艶じゃないし、脱いでいないのが大きなマイナス。
伊豆守役の柄本明は、現代劇だと達者なところを見せる役者だが、時代劇の台詞回しが全く出来ておらず、この映画での芝居は下手だと 言わざるを得ない。
武蔵役の長塚京三は全く剣豪に見えないし、その台詞回しは実直なサラリーマンのようだ。

シナリオと演出も、芳しい出来ではない。
冒頭、激しい戦いで農民たちが殺される中、四郎はすました顔で祈りを捧げている。敵が来ても全く動じず、無表情で「ようやくこの世を 後にする時が来た。斬れ」と告げる。彼はクールな態度のまま、首を落とされる。
だけど、これじゃあダメでしょ。
そこは、四郎が徳川幕府に対して恨み骨髄で死んでいく様子を描かないと。
恨みがあるから転生するんじゃないのか。
そういう態度だと、何のために転生するのか良く分からない。
そこから始まり、どのキャラに関しても、淡白な演出が目立つ。
但馬守に関しても、伊豆守から「もはや武道は飾りに過ぎず、今後は知略が人を動かすとワシは見る」と言われた時、「仰せの通り、剣を 極める時代でもありますまい」と口にして、サラッと次のシーンに移るけど、そこは但馬守が強さへのこだわりを今も持ち続けていること を、少しぐらいは匂わせておいた方がいいんじゃないのか。

他流試合を諌める立場である但馬守が、胤瞬との立ち合いを求めるシーンがある。
それは胤瞬が驚くような行動なのだが、そこに但馬守の「実は強さへの探究心を抱き続けている」という心は見えない。
彼が「現役の武芸者でありたい」とか、「強い相手と戦ってみたい」とか、そういう気持ちを抱いていることが全く示されていないから、 四郎に「命を与えるから十兵衛と戦え」と持ち掛けられた時、喜んで応じるというのが、どうにも解せない行動になってしまう。

頼宣については、四郎が指摘する前に、天下取りの野望を抱いていることを示すべき。それから四郎が出現すべきでしょ。
あと、四郎が彼の前に出現した後、天下取りを約束するシーンを分けているが、そこは同じシーンで処理してしまう方がいい。
それと、四郎が自らの手で徳川幕府転覆を狙わず、頼宣に天下取りを約束して取り込むのか、それが分からない。
後になって「徳川同士が殺し合うことこそ、乱世の幕を開ける儀式」と語っており、そういう理由で頼宣を引き入れたようだが、なぜ 「徳川同士が殺し合うことこそ乱世の幕を開ける儀式」なのか、徳川同士の殺し合いが必要不可欠である理由が全く見えない。

又右衛門の復活は、彼が復活したいという欲求や執念、志半ばで死んだ無念、そういうものをセリフで軽く説明するだけで、実際にドラマ として表現することが無い。
だから、ただの手下、戦いの駒に過ぎない存在となっている。
胤舜に関しても、殺した少女に冷淡な態度を取るのが、ものすごくギクシャクした感じになっている。
武蔵に至っては、初登場の段階で既に魔物になっている。どういう理由で彼が魔物になったのか、サッパリ分からない。

とにかく登場人物のモチベーションが、まるで見えて来ない。
情念や執念、強い気持ち、熱い気持ち、そういうものが、ほとんど伝わって来ない。
演技も場面も不足している。
それは魔界衆だけでなく、十兵衛も同様だ。
頼宣の行列を監視するシーンで、「早速、魔物退治に取り掛かるとしよう」と十兵衛の門弟たちが言っているが、いつの間に十兵衛の目的 が魔物退治になったのか。なぜ彼は「魔物を退治しなきゃ」という気持ちになったのか、それも良く分からない。

お品が、わざわざおひろの前に現れて彼女を威嚇する必要性は皆無。そこで忍体の説明をする必要も無い。
どういう仕組みで死人が女の体を使って転生するかなんて、どうでもいいことだ。
それは妖術なんだから、理論的なモノなんて要らないんだし。
欲しいのは、そんなことよりもケレン味やハッタリなんだよ。
ところが、そこに限らず、平山監督って、まるでケレン味を出そうとしないんだよな。

又右衛門は「魔界の力、これほどとは思わなんだ。思ったところに体が動く」と不敵に言っているが、あっさりと右腕を落とされている。
いやいや、ダメじゃん。
落とされるにしても、すぐに右腕を拾ってくっつけるとかさ。
しかも、四郎の元に戻っても堂々と「恥とは思わぬ。不滅の命をくれると言ったな。ならば腕をくれ」と要求するが、「戯言など聞く耳 持たぬ」と突き放され、「お前のためには死ねん」と言うと、あっさりと始末されてしまう。
いやいや、なんだよ、その弱さは。
それは四郎の強さをアピールするための演出かもしれんが、逆に魔界衆の弱さを見せ付ける結果となっている。

又右衛門だけでなく、胤瞬にも強さを感じない。
十兵衛は魔物を倒す力を得るために修業したわけでもなければ、魔物を倒せる武器を手に入れたわけでもない。
しかし、胤瞬と対等に戦い、彼を倒す。
そうなると、せっかく魔物になったのに、あまりパワーアップしてねえんじゃねえのかと感じる。
十兵衛サイドも、圧倒的な強さを持つ魔物を倒すために、何かしらの努力や工夫をする手順が欲しい。

魔界衆の中でも特に強さをアピールしなきゃいけないはずの武蔵だが、おひろに背後から刺されて、あっさり死ぬ。
こいつも弱い。
それと、おひろが十兵衛を密かに慕っているという描写が無いので、「自分が魔物かも」と悩んだり、実際に魔物だと知って武蔵を殺しに 行く行動を取ったり、十兵衛に看取られて姿を消したりしても、まるで盛り上がらない。
大事な手順をすっ飛ばしているんだよな。

お雛たちがおひろを救いに行き、そこに頼宣の家来たちが向かった後、十兵衛は「何やらお取込み中の様子。失礼つかまつる」と告げて 去るが、このシーンには少し引っ掛かりを覚える。
お雛たちの方にも手下は差し向けたが、まだ十兵衛を取り囲む家来たちは残っている。
だったら、頼宣は手下に十兵衛を襲わせればいい。そこで手を引かせる理由は何も無い。
あと、お雛たちがどうやっておひろを連れて脱出したのか、それも良く分からない。取り囲まれて戦っているシーンはあるけど、そこから 抜け出す様子は描かれていないしね。
大勢の敵を相手に、わずか5人で戦って、それでも勝てたってことなのか。

お品の体から血にまみれた男が現れるシーンで、それが家康であることをお品が紹介しなきゃ誰なのか分からないってのも、段取りの悪さ だよな。
そこは、それより先に家康の姿を、どこかで見せておくべきなんだよ。
で、その場面では、血まみれの男が現れただけで、観客が「それは家康だ」と分かるような形にしておくべきなんだよ。
っていうか、家康を復活させることで後半の展開を盛り上げようとしているけど、そんなに盛り上がる要素じゃないよなあ。剣客でもない 家康が復活したからって、だから何なのかと。
十兵衛たちにとっては、強敵になるような存在でもないでしょ。今は権力を掌握しているわけでもないんだから。
そんで、あっさりと十兵衛に始末されちゃうから、何のために登場したんだか良く分からない。

ポンコツ映画愛護協会で取り上げているように、オリジナル版も決して大傑作というわけではない。
ただしオリジナル版は、例えばクライマックスにおいて、本当に燃え盛る炎の中でサニー千葉と若山富三郎が戦うシーンがあるわけで。
それだけ取っても、どう頑張ろうとリメイク版の勝ち目は薄い。
とは言え、これはあまりにも酷い惨敗だ。
サッカーで例えるならば、ブラジル代表とモントセラト代表ぐらいの差がある。
もっとケバケバしい色彩で描いて行くべきなのに、むしろ平山監督は抑えちゃってるしなあ。

(観賞日:2011年11月6日)

 

*ポンコツ映画愛護協会