『マークスの山』:1995、日本
東京都目黒区で、暴力団吉富組元組員の畠山宏が殺害された。警視庁捜査一課七係の合田雄一郎警部補は、同僚の肥後や新妻、森、有沢らと共に捜査を開始した。合田達は畠山のアパートを捜索し、ドラッグと30口径のカートリッジを押収する。
北区王子では、法務省の刑事局刑事課長・松井浩司が殺害された。大塚監察医務院に出向いた合田は、独断で遺体の解剖を許可した。本部から解剖を引き延ばすよう指示されていた王子北署の須崎靖邦警部補は、合田の行動に激怒した。
畠山と松井を繋ぐ人物として、林原雄三という男が浮かび上がる。林原は畠山の弁護士であり、松井とは修學院大学螢雪山岳会で同期だった。修學院大学螢雪山岳会について調べ始めた須崎は、皇民憂国の会の片桐義勝に自宅前で刺された。
金町病院に勤める看護婦・高木真知子は、以前に勤務していた精神病院の患者・水沢裕之と同棲していた。水沢は林原を脅迫し、金を要求していた。そんな中、吉富組の2人組が水沢の命を狙い、かばった真知子が銃弾を浴びて重傷を負った。
精神病院に入っていた頃、裕之は浅野剛という患者と肉体関係を結んだ。裕之は浅野から、“マークス”について聞かされていた。マークスとは、松井浩司、浅野剛、林原雄三、木原郁夫、佐伯正一という5人の頭文字を取った暗号だ。
5人は、学園闘争中に起こった内ゲバ殺人事件の実行犯の1人・野村久志を殺害していた。事件が外に漏れることを恐れた5人は、大学に戻って来た野村と共に登った北岳で、彼を殺したのだ。その後、精神を患って入院した浅野は、病院の監視員から暴行を受けて死亡した。水沢は監視員を殺害し、病院を出ていたのだ…。監督は崔洋一、原作は高村薫、脚本は丸山昇一&崔洋一、製作は中川滋弘&宮下昌幸&大脇一寛、プロデューサーは田沢連二、アソシエイト・プロデューサーは榎望、撮影は浜田毅、編集は後藤彦治&奥原好幸、録音は松本修、照明は渡邊孝一、美術は今村力、衣装は岩崎文男、特殊メイクは原口智生、アクションコーディネーターは二家本辰己、音楽はティム・ドナヒュー、音楽プロデューサーは石川光&佐々木麻美子。
出演は中井貴一、萩原聖人、小林稔侍、名取裕子、古尾谷雅人、小木茂光、角野卓造、岸部一徳、西島秀俊、遠藤憲一、前田吟、笹野高史、岩松了、萩原流行、塩見三省、菅原大吉、豊原功補、大村正泰、吉原丈二、小須田康人、伊藤洋三郎、岸谷五朗、松岡俊介、金守珍、井上博一、黒沼弘巳、小檜山洋一、清水宏、三浦賢二、有福正志、姜昇徹、寺島進、大鷹明良、大杉漣、牧口元美、井筒和幸、でんでん、鄭義信、舟越圭佑、江口尚希、宮崎淑子(現・宮崎美子)ら。
第109回直木賞を受賞した高村薫の同名小説を映画化した作品。
合田を中井貴一、水沢を萩原聖人、林原を小林稔侍、真知子を名取裕子、肥後を古尾谷雅人、新妻を小木茂光、佐伯を角野卓造、木原を岸部一徳、須崎を萩原流行、森を西島秀俊、有沢を遠藤憲一が演じている。他に、畠山を映画監督の井筒和幸が演じている。犯人は序盤で分かっているし、その犯行理由については「キチガイだから」と考えておけばいいので、謎解きを考える必要は無い。というか、真面目にミステリーとして楽しもうとしても、ミステリー映画じゃないんだから、そんなことは時間の無駄だ。
たぶん事件について描くだけでもかなりの時間を必要とするはずだが、それに加えて警察の縄張り争いやら、仲間内でのやり取りやら、マンションで靴を洗う主人公やら、水沢の幼少時の記憶やら、水沢と真知子の濡れ場やら、そういう要素も中途半端に入れるので、もうシッチャカメッチャカになっちゃって、もう大変なんすよ、お客さん。この映画、正しいタイトルは『マークスの山』ではなく『マッドネスの山』だ。つまり、クレイジーな連中が山のように登場する映画だ。
まず、浅野と水沢は説明不要だろう。精神病院では患者が他の患者のカマを掘り、監視員が遊び半分に患者をボコボコに殴って殺害し、その監視員を絞め殺した患者が普通に退院できる。クレイジーだ。
須崎は男に背中から思い切り刺されて、御丁寧にスロー映像で見せられるが、それでも彼は生きている。真知子は近距離から3発も撃たれ、1発は確実に胸を撃ち抜かれているが、それでも生きている。すごい生命力だ。まさにクレイジーだ。
もっと凄いのは、水沢である。彼は林原に鉄パイプでメッタ打ちにされ、コンクリに頭を打ち付けられ、何度も蹴られ、マウントパンチを食らいながらも、しばらくすると普通に歩いている。全く怪我をしていないかのように、南アルプスに登っている。
クレイジーだ。この映画は、観客を挑発し、挑戦状を叩き付けている。原作を読まずに、この映画を1度だけ見てストーリーが理解できる人は、相当に頭がいいと思う。それぐらい、ワケの分からない内容だ。「こんな分かりにくい話が理解できるか」と挑戦しているのだ。
分からないことは色々とある。例えば、なぜ合田の指示に森が疎ましそうな態度を取るのか、良く分からない。森を「お蘭」、有沢を「又三郎」と呼ぶシーンが序盤にあるが、その愛称はほとんど使われないので、そう呼んだ意味が分からない。前半で警察のライバル意識が描かれるが、中盤に入って水沢と真知子の関係や林原の回想で話が進行し、警察は消える。後半になって警察は復活するが、もはやライバル意識とか、何名も登場する刑事の個々のキャラクターなどは、全く意味が無い状態になっている。そうなると、前半で警察を掘り下げた意味が良く分からない。
血の付着したアイスハーケンが発見された時点で、それが凶器だということは分かる。だから、わざわざ遺体の傷にアイスハーケンを突っ込んで確認するという時間の無駄としか思えないシーンに、どういう意味があるのか良く分からない。しかし、それらも全て、「この無意味に思える部分に込めた意味が分かるか」と挑戦しているのだ。警察が犯人を突き止め、水沢を捕まえるために南アルプスに登るという展開がクライマックスになっておらず、山は険しいのに話が平坦になっている。普通にやれば、もうちょっと盛り上がるはずだが、それも、あえて盛り上げずに観客を突き放し、「この寒々とした展開に付いて来られるか」と挑発しているのだ。
間違い無い。