『パンク侍、斬られて候』:2018、日本

その日も不順な天気だった。北の小さな藩に、1人の流れ者がやって来た。黒和藩(くろあえはん)街道にある峠の茶屋の近くで、巡礼の男と娘のろんが物乞いをしていた。通り掛かった浪人の掛十之進は不敵な笑みを浮かべ、父親を斬り捨てた。、掛が立ち去ろうとすると、茶屋で休んでいた黒和藩藩士の長岡主馬が斬った理由を尋ねた。すると掛は、「この者たちは、この土地に恐るべき災いをもたらす。それを事前に阻止すべく斬ったのです」と答えた。
掛は父娘が急速に蔓延している新興宗教の腹ふり党であること、壊滅状態に陥った隣の牛逐藩から流れて来たことを語って去ろうとする。長岡は刀を抜いて襲い掛かるが、掛に右腕を斬られて倒れ込む。長岡が泣いて狼狽すると、掛は仕官したいので口添えするよう要求した。巡礼が腹ふり党信者ではないと気付いた十之進は焦るが、ろんを斬らずに立ち去った。掛はろんが盲目だと思っていたが、ちゃんと見えていた彼女は復讐心を燃やした。
筆頭家老の内藤帯刀は長岡から報告を受け、この一件はライバルである次席家老の大浦主膳を追い落とすのに使えるかもしれないと考えた。藩主の黒和直仁と会った掛は、腹ふり党の根絶方法を知っていると嘘をつく。数日前に内藤から呼ばれた掛は、対処法を教えると言って藩を騙そうとしていることを見抜かれた。内藤は江下レの魂次という密偵を牛逐藩に差し向けたこと、腹ふり党に関する情報を集めていることを語り、「君の出る幕は無い」と告げる。彼は「私に従えば殺さない」と言い、直仁の前で大浦を馬鹿にするよう命じた。
指示通りの暴挙に出た掛は、尻を見せて大浦を挑発した。内藤は憤慨する大浦を諌めて、掛を腹ふり党対策委員として起用するよう黒和に進言した。大浦と彼の家臣たちは真っ向から反対するが、それも内藤の作戦通りだった。掛は長岡の私邸で、内藤の目論みを明かす。実際に腹ふり党が来たとして、警察力は財政的に期待できない。そうなった時、策を講じなかった大浦一派は責任を問われて淘汰され、藩政は内藤の思うがままになるというわけだ。
掛は長岡の私邸に居候し、女中と遊ぶなどして自堕落な日々を過ごした。怒りの収まらない大浦は、用人の暮馬孫兵衛を呼んで仕事を指示する。孫兵衛は掛の暗殺を依頼するため、真鍋五千郎という浪人の元へ赴く。酔い覚ましに近所の境内を歩いていた彼は、真鍋の待ち伏せを受けた。しかし戦っている最中、掛と真鍋は互いに幼馴染だと気付いた。真鍋は大浦から刺客を頼まれたことを掛に明かし、同行していた真鍋に受け取った金を返した。
内藤は腹ふり党によって多くの藩が潰されていることを会議の場で黒和に語り、大浦が掛の起用を退けたことを批判する。孫兵衛は掛を怪しんでいることを明かし、彼が「大浦は失脚する」と陰で言っていたことも報告する。その流れで彼は、大浦が刺客を雇って掛の暗殺を目論んだことも喋った。黒和は激怒し、大浦に切腹を命じた。すると内藤が制止し、切腹の代わりに屁高村へ派遣することを提案した。屁高村では猿回しの名人が死んで以来、跡継ぎがいないため民百姓が困っていた。
話を聞いた黒和は大浦をさるまわ奉行に任命し、孫兵衛は内藤の家臣として重用した。長岡は黒和から、大浦に同行するよう指示された。屁高村に着いた大浦と長岡は、猿の調教に取り掛かる。言うことを聞かない猿に腹を立てた大浦が刀を抜くと、長岡は我慢するよう頼んだ。時が過ぎ、腹ふり党が一向に現れないので内藤は掛に「お前が斬ったジジイに入れ墨は無かった。お前の勘違いだったんじゃないの?」と問い掛ける。様子を見て来ると嘘をついて逃げ出そうとした掛だが、内藤は魂次の使いであるオサムが届けた中間報告書の内容を明かす。報告書には結党の経緯や作法について記されていたが、腹ふり党は既に滅んだと記されていた。教祖が密告で捕まって処刑され、牛逐藩は至って平和だと魂次は報告していた。
内藤は腹ふり党を偽装し、黒和藩に襲来させる目論みを掛に話す。孫兵衛は内藤に、オサムがアホだが念動力を使えることを報告した。掛、孫兵衛、魂次、オサムは「腹ふり党でっちあげプロジェクト(HDP)」として、牛逐藩へ向かった。同じ頃、長岡は意外な才能を開花させ、猿回しの曲芸で屁高村の民を楽しませていた。大浦は村の暮らしに満足し、すっかり馴染んでいた。HDPは元幹部を党首に据えて腹ふり党を再興する任務を命じられていたが、オサムを除く3名は乗り気ではなかった。
HDPが極悪非道で有名だった元幹部の茶山半郎を訪ねると、孫兵衛がマニュアルを棒読みして計画への参加を依頼した。茶山は何も返答しなかったが、付き人の2人が勝手に承知した。先に退席していた魂次は、茶山の隠れ家で働く奉公人のろんに恋をした。そこへ掛が来るが、ろんが巡礼の娘だとは気付かなかった。掛たちは黒和藩の貧民街にあるめし処「変粉」へ行き、茶山の布教活動を見守った。茶山は出島の抜け人である縄次に太鼓を叩かせ、ろんと付き人たちが民に説法した。
茶山が太鼓の音に合わせて腹を振っていると、集まった人々だけでなく孫兵衛まで参加した。そこへ黒和藩同心の江部荘二郎が駆け付け、茶山を殴って額を割った。孫兵衛の命令を受けたオサムは念動力を使って石を浮かせ、江部の腹に命中させた。民衆は江部に襲い掛かり、大いに盛り上がった。そんな騒動を知らずに内藤の私邸へ戻った掛は、大浦からの招待状を見つけた。重役たちは冷やかし半分で黒和に同行し、屁高村へ出向いた。大浦は猿回しの芸を披露するが、その面白さを黒和は全く理解できなかった。大浦は丁寧に解説するが、黒和は納得しなかった。すっかりやる気を失った大浦は、適当に芸を続けた。
魂次は内藤の元へ行き、腹ふり党が来ることを伝える。内藤は喜ぶが、魂次は「ちょっと心配なくらい盛り上がっちゃって」と口にする。予想を遥かに超える民衆が腹ふり党に入信し、手の付けられない暴徒と化していたのだ。内藤は「弾圧すればいい」と告げるが、現段階で千人に膨れ上がっていると聞いて言葉を失った。戦力が50人しかいないため内藤は焦るが、黒和には「エキスパートの掛が動いています」と平静を装って語った。
踊りながら行進する腹ふり党のせいで城下は混乱状態に陥っており、掛は彼らの前に立って刀を抜こうとする。すると、ろんが制止して「道を開けなさい」と腹ふり党に命じた。彼女は掛の手を取り、その場から連れ出した。腹ふり党の一味は地獄ヶ原を本拠と定め、天幕を張ってやぐらを立てた。集まった民は二千人を超えており、魂次は明朝までに収束させるよう茶山に要求する。掛は「自然に収まっちゃマズいでしょ。あくまで黒和軍によって鎮圧された形でお願いします」と告げるが、もはや腹ふり党がコントロールできない状態になっていることを悟った。
掛は茶山を斬ろうと考え、オサムに協力を命じた。しかし茶山の世話になっていたオサムは、念動力で掛を妨害した。付き人たちは掛に、「城を焼きます。雇い主に報告しなさい」と告げた。掛と魂次は監視役のろんを伴い、屁高村へ向かった。城を焼かれた黒和は掛の報告を受け、「城下へ行って征伐する」と宣言する。しかし内藤が綿密な作戦を立てるべきだと助言すると、彼は受け入れた。重役たちが内藤に責任を取って切腹するよう言うと、掛は彼らを諌めて建設的な意見を出すよう要求した。すると奥に控えていた大きなニホン猿の大臼延珍が、「そろそろ喋っていいかな」と人間の言葉を喋り出した…。

監督は石井岳龍、原作は町田康「パンク侍、斬られて候」(角川文庫刊)、脚本は宮藤官九郎、製作は若泉久央、エグゼクティブプロデューサーは西澤力&笹岡敦、企画・プロデュースは伊藤和宏、プロデューサーは湊谷恭史、共同プロデューサーは上田徳浩&鈴木健太郎&古賀俊輔&紀伊宗之&新野安行、特撮監督は尾上克郎、美術は林田裕至、撮影は松本ヨシユキ、照明は宮西孝明、録音は古谷正志、キャラクターデザイン/衣装デザインは澤田石和寛、アクションコーディネーターは諸鍛冶裕太、編集は武田峻彦、振付は振付稼業air:man、音楽は森俊之。 出演は綾野剛、北川景子、東出昌大、染谷将太、村上淳、若葉竜也、近藤公園、渋川清彦、浅野忠信、永瀬正敏、國村隼、豊川悦司、ラティール・シー、篠原篤、小川ゲン、小橋川建、町田康、福本清三、本山力、一颯、永島悠雅、甘南備和明、筒井萌子、伊藤龍治、手塚みのる、阿部志鴻、大野風花、岸本華和、平尾優光、沢暉蓮、真木莉那、阿部優里、横山一敏、細川洪、稲田龍雄、伊勢美琴、吉村沙紀、増岡恵美、小谷沙奈恵、椿弓里奈、鏑木信三ら。
ナレーションは永瀬正敏。


町田康の同名小説を基にした作品。
監督は『シャニダールの花』『蜜のあわれ』の石井岳龍。
脚本は『謝罪の王様』『土竜(モグラ)の唄 潜入捜査官 REIJI』の宮藤官九郎。
掛を綾野剛、ろんを北川景子、黒和を東出昌大、孫兵衛を染谷将太、五千郎を村上淳、オサムを若葉竜也、長岡を近藤公園、魂次を渋川清彦、茶山を浅野忠信、大臼を永瀬正敏、大浦を國村隼、内藤を豊川悦司が演じている。
他に、江部役で篠原篤、巡礼の父親役で町田康、オサムの祖父役で福本清三、ヤクザ役で本山力が出演している。

この映画はネット動画配信事業者のdTVが一社で製作している。
最近は複数の企業が製作委員会を立ち上げて映画を製作するケースが多いし、1社で作るにしてもメジャー大手の映画会社じゃないと難しいだろう。それは単純に、製作費の問題だ。
しかも短期間だけ単館で上映されるわけじゃなくて、この映画は300館以上の規模で全国公開されている。
作品の内容を考えると、これは凄いことだ。
製作委員会方式を採用していたら、ゴーサインが出ていなかったかもしれない。

どうせ内緒にする必要も無いようなネタだから早々に書いちゃうけど、最後に掛はろんに仇討ちされる。
主人公が巡礼を殺して娘に仇討ちされるってのは、たぶん『大菩薩峠』が元ネタだよね。『大菩薩峠』は未完の作品なので、仇討ちは達成されていないけど。
で、そんなトコから話を始めているので『大菩薩峠』へのオマージュがあるのかというと、そんなのは全く無い。また、『大菩薩峠』のパロディーになっているわけでもない。
他にも有名時代劇からネタを持ち込んでいるのかと思ったが、何も見つけることが出来なかった。

一応は時代劇に属するんだろうが、「江戸時代を舞台にした作品」という最低限の条件以外は無視していると言っていいだろう。
かつては東映の沢島忠監督が当時の流行を時代劇に取り入れたりしていたし、ガチガチに時代考証をやらなきゃダメというわけではない。
そこまで細かい縛りを用意して「本格時代劇であること」を要求したら、たぶん今の時代に時代劇映画なんて1本も作れないだろう。
台詞回し1つを取っても、最近の時代劇って全て現代風になっているからね。

とは言え、そういう「現代風の要素を取り入れた時代劇映画」と、この映画は全く次元が異なっている。
そもそもタイトルに「パンク侍」と付いているぐらいなんだから、そりゃあ違うよね。
考えてみれば、かつて石井岳龍は『狂い咲きサンダーロード』や『爆裂都市 BURST CITY』のようにクレイジーでアナーキーな映画を撮っていた。「そういう路線を時代劇でやろうとした」ってな感じで解釈すればいいんじゃないかなな。
ちなみに石井岳龍は『五条霊戦記 GOJOE』というSF時代劇も撮っているけど、その系統とは全く違うね。

これから見ようと思っている人に覚悟してもらわなきゃいけないのは、「内容は無いよう」というダジャレがピッタリとハマるような作品ってことだ。
一応のストーリーは用意されているが、マトモにストーリーテリングしようとする気は全く無い。
そんなジャンルなんて存在しないかもしれないけど、あえて言うなら「トリップ・ムービー」とか「ドラッグ・ムービー」って感じだね。
まあ監督がそういうことを意図していたかどうかは分からないけど、結果としては、そういうのを狙ったように見える仕上がりとなっている。

実はここまでの批評は急所を外した内容になっていて、この映画の肝心な部分に触れていない。
その「肝心な所」は何かっていうと、それは「単純に娯楽映画として面白いのか否か」ってことだ。
そして「クソつまんねえ」ってのが、正直な答えである。
実はこんな映画よりも、『大菩薩峠』の方が遥かにパンクでアナーキーじゃないか。
これはパンクじゃなくて、ただ最初から最後まで徹底的に外しまくっているだけのナンセンス・コメディーである。

『狂い咲きサンダーロード』や『爆裂都市 BURST CITY』だって、決して完成度が高かったわけではない。お世辞にも傑作と呼べるような映画ではない。
しかし、まだ『狂い咲きサンダーロード』や『爆裂都市 BURST CITY』には楽曲を使って勢いやパワーを放とうとする意識が見えた。
でも、この映画はBGMこそ流れるものの、そこに観客の気持ちを高揚させる力は無い。
今回は後半に入ると腹ふり党の踊りが延々と続くが、そこにも引き付ける力など皆無だ。ただひたすら、どうしようもないバカバカしさが空虚に漂っているだけだ。

序盤で長岡が「不吉なワード」、掛が「プラスでござろう」と口にしているが、この段階で「台詞回しは適当です」と宣言しているようなモノだ。そこは無理に英語を使わなくても「不吉な言葉」とか「得策でござろう」と表現すればいい。
そういうトコでも簡単に「ワード」「プラス」という言葉を選択していることからも、台詞回しに対する雑な意識が窺える。
これが「意図的に現代的な表現を盛り込む」という方針であれば、そこで英語なんて使わないだろう。むしろ基本は日本語、それも「いかにも時代劇っぽい言葉」を使わせておいて、その中でポイントになるようなトコだけ英語や現代的な用語を持ち込むだろう。
この映画は、ただ何も考えず、現代劇と同じように台詞を用意しているだけだ。

冒頭のシーンでは、掛が去ろうとすると長岡が呼び止める」ということが3度繰り返される。いわゆる「天丼」の笑いを作ろうとしているわけだが、見事にぐらい外している。
なぜ外しているかというと、テンポや間が悪いってこともあるけど、一番の問題は「ナレーションで進行している」ってことだ。
映画が始まった時からナレーションが付いており、ずっとベラベラと情報を喋り続けているのだが、これが喜劇を妨害している。
天丼をナレーションで説明したら、笑えなくなるのは当たり前のことだ。

そこに限らず、この映画は「説明過多」が大きな障害となっている。
ナレーションの洪水は、喜劇としてのシーンから笑いを消し去っているだけでなく、物語に入り込む気持ちを冷めさせる意味でも大きく影響を及ぼしている。
そもそも掛が巡礼を斬るシーンなんて、何の説明も要らないわけで。そこは映像を見ていれば、全て理解できるわけで。見ていれば分かることをクドクドとナレーションで説明する類の映画に、ロクなモンは無いのよ。
あと、ナレーションだけじゃなくて、台詞でも余計な説明が多いのよ。
例えば主馬を見送った掛が「腹ふり党を根絶する方法なんて、あるわけねえだろうがよ」と言うが、そんなの言葉にしなくていい情報なのよ。

掛が近所の境内を歩くシーンでは、「ひょっとして今の俺、絵になる?などと悦に入り掛けた、その時」「我ながら錆びた良い声だ。と再び悦に入り掛けた時」といった掛の気持ちを代弁するナレーションが喜劇の邪魔をする。
そして説明を要求された真鍋が問答無用で襲い掛かると「では私が」とナレーションが言い、彼が孫兵衛の訪問を受けた時の回想に入る。
ここでもナレーションは「ひょっとして暗殺?いいよ、何斬ればいいの?と、そこまで歩み寄る必要は無い」「言わないのかい。全く、どういう教育を受けて来たんだ」などと真鍋の気持ちを代弁してベラベラと喋る。
これが「表面的な振る舞いと心情が大きく異なっている」というギャップを笑いにする演出なら、その意図は分かる。しかし、そういうわけでもないのだ。

それ以降のギャグシーンでは、ナレーションで説明せずに進めているケースもある。
ただし、ナレーションが無かったら面白く仕上がっているかというと、答えはノーだ。
外しまくっている最大の原因は、「現代劇として構築されている会話劇」にあると断言していいだろう。
せっかく時代劇として作っているのに、その枠の中で喜劇を作ろうとしていない。時代劇であることを、笑いに活用していない。だから、「じゃあ現代劇で良くないかね」と言いたくなる。
普段は堅苦しい時代劇の台詞回しや芝居をさせておいて、笑いを作る時に現代劇の言葉や要素を持ち込むような演出でもしていれば、仕上がりは大きく変わったかもしれないけどね。

掛が斬った巡礼を見て焦る展開あるんだけど、それは不可解極まりないぞ。
掛が最初から長岡を騙すつもりで巡礼を斬ったことを、先にナレーションで説明している。そして掛が遺体を確認すると、「腹ふり党信者にあるべき入れ墨が無い」とナレーションが入る。つまり、斬った時点では腹ふり党だと思い込んでいた設定だ。
でも、なぜ巡礼が腹ふり党だと思ったのか、その根拠が分からない。
根拠とするべきは、入れ墨のはずであって。
そんな風に、笑いの部分だけじゃなくてストーリー進行の方でも色々と問題は多い。

ずっと同じ調子でチェンジ・オブ・ペースが無くて、だから笑いに必要な「緊張と緩和」ってのが無い。笑いの部分に限らず、メリハリという言葉を知らないかの如き仕上がりだ。
最初から最後まで、ただ純粋に面白くないという形で破綻している。観客は寒々しい内輪受けを延々と見せられているだけだ。
石井岳龍や宮藤官九郎の熱烈なファンであれば、「内輪」としての資格を持っていると言えるだろう。
ただ、あくまでも資格があるだけで、内輪受けを楽しめるかどうかは別問題である。
っていうか、たぶん楽しめる人は稀だろう。

(観賞日:2020年5月17日)

 

*ポンコツ映画愛護協会