『ハウルの動く城』:2004、日本

18歳の少女ソフィーは、亡き父の遺した帽子屋を切り盛りしている。ある日、ソフィーは王国の兵士に絡まれ、美貌の青年に助けられる。青年は「追われている」とソフィーに告げ、2人はゴム人間に取り囲まれる。青年はソフィーの手を取り、空中に浮かんで逃げた。青年と別れた後、ソフィーはカフェ「チェザーリ」で働く妹レティーに先刻の出来事を語る。レティーは「その青年がハウルだったら心臓を食べられちゃうかも」と警告するが、ソフィーは彼にすっかり心を奪われていた。
店に戻ったソフィーの前に、荒地の魔女が現れた。ゴム人間をハウルに差し向けたのは、彼女だった。荒地の魔女はソフィーに呪いを掛け、90歳の老婆に変身させた。ソフィーは家を出て、町を離れた。山を登るソフィーは、カブ頭のカカシを見つけた。カカシはソフィーの後を付いてきて、杖を渡す。さらにカカシは、ソフィーが泊まるための場所も探してきた。ただし、それはハウルの動く城だった。
城の後方の扉から中に入ったソフィーは、火の悪魔カルシファーと出会う。カルシファーは、ソフィーが呪いを掛けられており、しかも他の人には話せないようにされていることを見抜いた。カルシファーは、ハウルとの契約に縛られており、この城も自分が動かしていることを説明する。そして彼は、自分の呪いを解けば、ソフィーの呪いを解いてやると告げた。
いつの間にか眠り込んだソフィーは、翌日になって目を覚ます。ソフィーの前には、ハウルの手伝いをしている少年マルクルの姿があった。カルシファーが来訪者の到着を告げると。マルクルは老人に変身して扉を開ける。すると、扉の向こうには港町が広がっていた。だが、また扉を開くと、今度はキングズベリーの町になっていた。ダイヤルを回すことで、扉は別の場所に繋がるのだ。ハウルは港町ではジェンキンス、キングズベリーではペンドラゴンと名前を使い分けているらしい。
やがて、ハウルが城に戻ってきた。新しい掃除夫だと自己紹介したソフィーを、ハウルは簡単に受け入れた。ハウルは、ソフィーが知らぬ内にポケットに入れられていた、荒地の魔女からのメッセージを見つけた。ハウルはカルシファーに、城の移動を命じた。ソフィーがカブと名付けたカカシも、勝手に付いて来た。
ソフィーは城を大掃除し、星の湖では洗濯をする。しかし勝手に物の置き場所を変えたせいで、ハウルは髪の毛を違う色に誤って染めてしまう。ひどく落ち込んだハウルは闇の精霊を呼び出し、体の表面をドロドロに溶かしてしまう。一度は城の外へ飛び出したソフィーだが、すぐに戻ってハウルを風呂に入れ、ベッドに寝かせて介抱した。
ハウルはキングズベリーの国王から、戦争への協力を要請されていた。王室付き魔法使いサリマンは、かつてハウルの師匠だった女性だ。しかしハウルは、王宮へ行くことを嫌がった。そこで彼はソフィーに対し、「ペンドラゴンの母を名乗って自分の代わりに王宮へ行き、息子は役立たずだとサリマンに行ってほしい」と頼んだ。
ソフィーが王宮へ向かうと、荒地の魔女も国王から呼ばれていた。ソフィーは寄って来た犬を見て、ハウルが変身した姿だと確信する。階段を上って疲れ果てた荒地の魔女は、広間で椅子に座って休憩を取る。その間に、ソフィーは小姓によってサリマンの元へ案内される。そこでソフィーは、先程の犬がサリマンの使い犬フンだと知らされる。
サリマンは「ハウルが来なければ力を奪う」とソフィーに告げ、すっかり老いぼれた荒地の魔女の姿を見せた。荒地の魔女は、サリマンによって魔法の力を奪われていた。ソフィーはサリマンを非難し、「ハウルは真っ直ぐ生きたいだけ」と擁護する。そこへハウルが現れ、ソフィーを飛行機に乗せる。成り行きで、荒地の魔女とフンも同乗させることになった。ハウルはソフィー達を乗せ、王宮から逃亡する。だが、サリマンは手下に命じ、ハウルの行方を追わせる・・・。

監督&脚本は宮崎駿、原作はダイアナ・ウィン・ジョーンズ、プロデューサーは鈴木敏夫、特別顧問は徳山雅也&矢部勝、作画監督は山下明彦&稲村武志&高坂希太郎、デジタル作画監督は片塰満則、映像演出は奥井敦、デジタル撮影は籔田順二&高橋わたる&田村淳、編集は瀬山武司、録音演出は林和弘、美術監督は武重洋二&吉田昇、色彩設計は保田道世、色指定補佐は高柳加奈子&沼畑富美子&山田和子、音楽は久石譲、
主題歌「世界の約束」作詞は谷川俊太郎、作曲は木村弓、編曲は久石譲、歌は倍賞千恵子。
指揮・ピアノは久石譲、演奏は新日本フィルハーモニー交響楽団、トランペットはミロスラフ・ケイマル。
声の出演は倍賞千恵子、木村拓哉、美輪明宏、我修院達也、神木隆之介、伊崎充則、大泉洋、大塚明夫、原田大二郎、加藤治子、保村真、村治学、つかもと景子、香月弥生、佐々木誠二、高橋広司、八十川真由野、菅野莉央、高橋耕次郎、櫻井章喜、栗田桃子、目黒未奈、大原康裕、田中明生、山田里奈、半場友恵、鍛冶直人、関輝雄、片渕忍、乾政子、大林洋平、宮島岳史、水落幸子、小泉真希、西岡野人、明石鉄平、大西玲子、尾方祐三子、上川路啓志、清田智彦、金子加於理、中島愛子、桑原淳、小林優太、野村悠子、福士珠代、竹谷敦史、田中宏樹、藤崎あかね、松岡依都美、中川義文、松角洋平、蜊阨典、安田顕、森崎博之、佐藤重幸、音尾琢真。


ダイアナ・ウィン・ジョーンズの児童小説『魔法使いハウルと火の悪魔』を基にした作品。
当初は細田守が監督を務めることで企画が進行していたが、いつの間にか降板し、宮崎駿監督になっていた。
どういう経緯があったのかは知らないが、そもそもジブリが外部から監督を招くということ自体に無理があったのではないかと思う。
良くも悪くもジブリって「閉じられた世界」なので。
監督交代を受けて、脚本も宮崎監督が自ら書いたものに変更された。原作とは大幅に違う内容となっているらしい。

声優嫌いで有名な宮崎監督は、今回も主要キャストの吹き替えに有名人を起用している。ソフィーを倍賞千恵子、ハウルを木村拓哉、荒地の魔女を美輪明宏、カルシファーを我修院達也、マルクルを神木隆之介、小姓を伊崎充則、かかしのカブを大泉洋、ヒンを原田大二郎、サリマンを加藤治子といった次第だ。
しかし、大勢の大人が揃っている中で神木隆之介クンがピカイチってのは、どうなんだろうね。いや、もちろん彼の芝居が素晴らしいことは間違いないんだけど。

この映画のセールスポイントに挙げられたのが、木村拓哉を声優に起用したことだ。木村拓哉の起用は大きな訴求力が期待できる一方で、かなり怖いことでもある。
というのも、ビッグネームであるがゆえに、吹き替えがヘタなら叩かれ具合も相当なものになることが予想されるからだ。
しかし、「木村拓哉以外の何者でもない」という点を除けば、そう悪くない。

それよりも、倍賞千恵子がヒドかった。
ただし誤解が無いように説明しておくと、彼女の芝居が下手なのではなく、完全なるミスキャストなのだ。
18歳のソフィーが第一声を発した瞬間に、「いやいや、ちっとも少女じゃねえぞ」と思ってしまった。
そりゃそうだわな。
プロの声優なら少女役もやれるだろうが、そうじゃないんだから。

そもそも、ソフィーは見た目こそ90歳の老婆だが、中身は18歳なのである。だから声優を90歳に合わせるか、18歳に合わせるかという選択なら、それは絶対に後者を選ぶべきなのだ。
老婆ソフィーが若い声で喋る方が、少女ソフィーが老けた声で喋るよりも道理に適っている。
というか、倍賞千恵子の吹き替えは90歳にもなっていないし。
せめてソフィーだけでも、プロの声優を起用すべきだった。

吹き替えを担当した面々も、ちょっと難しかったのではないかと思う。
というのも、登場人物のキャラ設定が非常に分かりにくいからだ。
例えば荒地の魔女は力を奪われた後、すっかりボケ老人のようになる。しかし、時として急に魔女らしい態度を取ったりもする。場面によって、都合良くコロコロとボケ老人と魔女の間を行ったり来たりするのだ。
サリマンにしても、ソフィーを脅したりハウルを狙ったりするので冷酷な権力者かと思ったら、そうでもないような態度も取る。自分で積極的に戦争に関与しておきながら、終盤になって急に「このバカげた戦争を終わらせましょう」とか言い出す。
今までさんざん戦ってきて、どの口がそんなことを言えるのかと。
とにかく、掴みどころがない連中ばかりだ。

この映画は、説明することを出来る限り避けようとする。
そのため、「そういう展開になる理由は何か」「そういう行動を起こす理由は何か」ということの多くが分からない。
幾つか挙げると、「なぜ荒地の魔女はソフィーに呪いをかけたのか」「ソフィーの姿が急に元に戻ったり、老婆のままだが腰の曲がりが真っ直ぐになったり、見た目がコロコロと変化するのは何なのか」「なぜソフィーは城を壊したのか」「隣国の王子に魔法を掛けたのは誰で、何のためだったのか」など。
とにかく意味不明な箇所が大量に存在する。

観客の想像力を委ねるというやり方は、ある程度は構わないだろう。
しかし、この映画の場合、あまりにも度を越えている。
何か手掛かりがあれば推理も可能だろうが、広大な砂漠で小さなダイヤを探し当てろと要求しているかのような状態だ。
想像力を働かせて答えを推理することは非常に困難だし、想像力を働かせる意欲も失わせる。

宮崎監督は『千と千尋の神隠し』でもそうだったが、この映画では「物語る」という行為に対する意欲の無さが、さらに強くなっている。いつまで経っても物語が転がり始めようとしない。
序盤でソフィーが老婆に変えられるので、「何とか呪いを解こうとする」という部分を使えば物語は動くだろう。だが、ソフィーは積極的に呪いを解こうとはせず、老婆の姿を受け入れて日々を過ごしている。
ハウルが戦争に対する批判的なセリフを吐くので反戦メッセージを主張したいのかとも思ったが、そもそも「どこの国とどこの国が何のために戦っているのか」ということが分からないし、「バカげている」と言われても何がどうバカげているのか分からない。
なので、仮に反戦のメッセージがあったとしても、それは空虚なままで観客には届かない。

メッセージが伝わらないにしても、原作には無い「大きな戦争」という要素を持ち込んだからには、昔の宮崎アニメ(『カリオストロの城』など)にあった醍醐味、すなわち「活劇の興奮」を見せてくれるのかと思いきや、これが全く活劇しない。
戦争してる設定なのに、対立軸が無いんだから、そりゃあ活劇の興奮は無いわな。
ハウルにしても、なぜ戦ってるのかサッパリ分からない。
というか、そんな扱いなら、この映画に戦争の要素を持ち込む意味さえ無いと感じる。

『もののけ姫』で深さの追求では行き着くところまで行ってしまったから、そこはもう構わない。メッセージなんて何も無くても、それは構わない。
だから、原点回帰で楽しい活劇を作ればいいじゃないかと思ったんだが。
それとも、もう宮崎監督は「偉い人」になってしまったから、悪い奴らと戦うような内容の映画は作れないってことなのか。

ただし、宮崎監督も士気が上がらなかったんだろうとは思う。
だって、彼は『千と千尋の神隠し』を使ってカミングアウトしたように、真性のロリコンなのだ。
これまでの宮崎アニメでは、必ず少女が主役か主役の近くにいた。それが宮崎監督のモチベーションに繋がっていたのだ。
しかし今回は主人公が90歳の老婆なんだから、そりゃあ意欲も沸かないだろう。
たぶん、細田監督が降板したので仕方なく引き受けて、搾取マシーンとしてのジブリを機能させるためだけに、公開日に会わせて無理矢理に仕上げたに過ぎないのだろう。

それでも引き受けたからには、宮崎監督も自分なりに努力はしたんだろうと思う。
「中身は少女」ということで、頑張ろうとしたんだろう。
でも、無理だったと。
ただ、その努力の痕跡が、ソフィーの見た目の変化に現れている。
後半に入るとソフィーは少女の姿(髪の毛だけは白いままだが)になることが増えて、残り30分ぐらいになるとずっと少女のままだ。

個人的に、宮崎監督は『もののけ姫』で燃え尽きたんじゃないかと思っている。
富野由悠季監督がイデオンで、庵野秀明監督がエヴァで終わったようにだ。
また、私は映画監督が3作続けてダメだった場合、終わった人だと判断することにしている。
『千と千尋の神隠し』、『ハウルの動く城』と、絵の美しさのみで引っ張った作品が2つ続いた。アニメーターの能力に頼る部分が大きく、物語るべき監督が物語ることを放棄した作品だ。
私は本作品を見た後、次の作品がダメだったら、「宮崎監督は終わった人だ」と考えることに決めた。
で、その3作目となる『崖の上のポニョ』を見た感想については、いずれ、また。

(観賞日:2006年7月21日)


2004年度 文春きいちご賞:第4位

 

*ポンコツ映画愛護協会