『ホテル ビーナス』:2004、日本

チョナンはホテル ビーナスの0号室で暮らしている。1号室には酒浸りのドクターが住んでいて、毎日のようにワイフが彼を怒鳴っている。3号室には花屋で働くソーダが、4号室は殺し屋を自称するボウイが暮らしている。ホテルの1階にあるカフェが、チョナンの働き場所だ。ホテルの女主人であるビーナスは、いつも同じ場所に座っている。いつものようにチョナンが客の少ないカフェで働いていると、ガイという男がサイという少女を連れて入って来た。ガイが「ビーナスの背中を見せてくれ」と口にしたので、チョナンは驚いた。それは名も無い連中が無い名前まで隠しながら暮らす時、その古ぼけたカフェの奥に潜むための言葉だ。チョナンが初めてカフェに来た時も、同じ言葉をビーナスに告げていた。
ホテルの世話係でもあるチョナンは、ガイとサイを2号室へ案内した。チョナンが住人たちの食事を用意しても、ガイは黙って外出し、サイは部屋から出て来なかった。チョナンが食事を運んでも、サイは食べようとしなかった。しかし「仲良くしようとは思わないから、食べてよ。こんな所で倒れられたら迷惑だ」と告げると、サイは何も言わなかったが、少しだけ食事に手を付けた。ガイは日雇いの仕事を見つけて働き始めた。チョナンはガイの帰りを待つサイに声を掛け、洗濯物を干す作業を手伝わせた。
チョナンはソーダから、「たぶんワイフが泣いてる」と知らされる。1号室へ行くと、ワイフは「出て行けっていうんだよ」と口にした。ドクターが「俺が出て行ってもいい」と言うと、ワイフは「だからどうしてそういう話なのって事!」と喚いた。ホステスとして働くワイフは、「何が不満よ。ちゃんと稼いで来てるじゃないの。誰の稼ぎで飲めてんのよ」と詰め寄った。しかしドクターが何も言わないので、ワイフは「情けないよ」と漏らして部屋を去った。
ドクターはチョナンに「どういう事?」と問われ、「いつかはこうなるはずだった」と述べた。「あいつ、俺と一緒にいたいかな」と言うドクターに、チョナンは「だからいるんだろ」と答える。「一緒にいたくないって事に気づいてないだけじゃないか?この部屋に、あいつの幸せはないと思う」と話した。ビーナスはチョナンに、ドクターがお人好しでどんな患者も断らない医者だったこと、ある患者の体を自分のミスで不自由にしたと思い込んで辞めたことを教えた。
ドクターは泣きながら何度も平手打ちを浴びせるワイフにビンタを返し、「お前はここにいちゃいけない。強い奴に幸せにしてもらえ。ガイとか」と告げた。チョナンが2号室へ行ってサイに食事を渡していると、ワイフが笑顔で現れた。彼女はサイを抱き上げ、「一緒に食べよう」とカフェへ連れて行った。サイがカウンターに行くと、みんなが集まって来た。サイが食べ始めると、ワイフは嬉しそうに微笑を浮かべた。ワイフはカフェを出て行き、二度と戻らなかった。
チョナンがサイにランドリーサービスの仕事を手伝わせている最中、彼女は少しだけ笑った。そのことをチョナンがガイに伝えると、「他人の暮らしに踏み込むな」という冷淡な言葉が返って来た。ガイはソーダの働く花屋を訪れ、小さな鉢植えの花を買った。男たちに追われていることを察知したガイは、それを撒いてホテルに戻った。チョナンが屋上でタップを踏んでいるとガイが来て鉢植えを差し出し、「渡してくれ。明日、誕生日だ」と述べた。チョナンが「サイ?自分で渡せば?」と言うと、ガイは「お前といれば笑うんだろ?渡してくれ」と頼んだ。
翌日、ホテルの住人たちに誕生日を祝ってもらったサイは、笑顔を見せた。しかしチョナンがガイのプレゼントだと告げて鉢植えを渡すと、サイはそれを払い落として部屋に戻ってしまった。ガイに八つ当たりされたボウイは、悔しそうに外へ出て行った。ビーナスはチョナンに、ボウイのことを話す。十年程前に女が来てコーヒーを頼み、連れていた子供を置き去りにして姿を消した。その時の子供がボウイで、彼は弱いから母親に捨てられたのだと自分を責めた。
ソーダはチョナンに、いつか自分の花屋を持つ夢があること、店長がいずれ店を任せると言ってくれていることを話し、「だから、ここにいる」と告げた。チョナンは「僕は、いるだけ。どこにいる理由もないから、ここにいるだけ。生きててもいいけど、きっと死んでてもいいんだ」と話した。チョナンは彼女がドラッグの仲介をしていると知り、そのことを問い詰めた。「夢は?」とチョナンが言うと、彼女は「だから、その為よ」と声を荒らげた。ソーダは店長から、店を任せる約束で運び屋の仕事を指示されていた。
「そんなことして叶えた夢なんて意味が無い」とチョナンが批判すると、ソーダは「生きてても死んでてもいいんでしょ。そんな人にとやかく言われたくない。アタシには夢がある。アンタよりマシじゃない。道なんて選んでられない」と反発した。チョナンは「僕よりはマシだ」と認めた後、恋人がドラッグのせいで死んだことを打ち明けた。チョナンの恋人は、ジャンキーの運転する車にひかれて命を落としていた。それは、恋人がチョナンの国で暮らすため、来日した直後の出来事だった。
ボウイがカフェで拳銃を触っていると、ガイが来て「それをしまえ」と鋭く告げた。ボウイが凄むと、ガイは彼を見据えて「お前に人を殺す度胸なんか無い」と言い放った。「何に怯えてる?弱虫が。人を殺せば強いか」と口にするガイに腹を立てたボウイは、拳銃を構えて「そういうのは人を殺した事がある奴が言うんだよ」と告げた。チョナンが止めに入るが、ガイと揉み合ったボウイは誤って近くにいたサイの膝を撃ってしまう。ドクターが治療に怯んだため、チョナンは闇医者を呼んだ。手当てをした医者から輸血が必要だと言われたガイは、チョナンに「血液型が合わない。俺の娘じゃない」と告白した…。

監督はタカハタ秀太、脚本は麻生哲朗、製作は亀山千広&椎名保&三枝照夫&迫本淳一、企画は大多亮&石原隆&清水信寿&久松猛朗、プロデューサーは小川泰&前田久閑&豊島雅郎&衛藤雄一郎、撮影は中村純、美術は都築雄二、照明は平野勝利、録音は西田敬、編集はタカハタ秀太、"Everybody needs somebody" Word & Music & Arranged by LOVE PSYCHEDELICO。
出演は草g剛、中谷美紀、市村正親、香川照之、パク・ジョンウ、コ・ドヒ、チョ・ウンジ、イ・ジュンギ、伊武雅刀、田中要次、松尾貴史、勝村政信、つんく♂、香取慎吾、ピート、笛木優子、金子りずむ、西山陸ら。


フジテレビで放送されていた深夜のバラエティー番組『チョナン・カン』から誕生した映画。
CMプランナーの麻生哲朗が初脚本を手掛け、主にテレビのバラエティー番組を手掛けて来たタカハタ秀太が映画監督デビューしている。
チョナンを草なぎ剛、ワイフを中谷美紀、ガイをパク・ジョンウ、サイをコ・ドヒ、ソーダをチョ・ウンジ、ボウイをイ・ジュンギ(これが映画デビュー)、ドクターを香川照之、ビーナスを市村正親が演じている。

バラエティー番組『チョナン・カン』は、韓国に興味を持ったSMAPの草なぎ剛が韓国語で話し、韓国について取り上げたり韓国でロケをしたりする内容だった。
草なぎ剛はタレントとして韓国に進出し、「チョナン・カン」名義で『愛の唄〜チョンマル サランヘヨ〜』も発売した。
そんな番組から派生した映画ということで、日本の映画でありながら台詞は全て韓国語。
草なぎ剛だけでなく、出演している他の日本人俳優たちも韓国語を喋っている。

ただ、そういう経緯を除外して、この映画だけで考えた場合に、「なぜ全ての台詞が韓国語なのか」というところに疑問を抱かざるを得ない。
日本の映画なんだから、普通に日本語で喋ればいいんじゃないのかと思ってしまう。
しかも、舞台となっている場所のは韓国という設定なのかと思ったら、ロケ地はウラジオストクなんだよな。
ってことは、韓国ってわけでもないのか。
そうなると、ますます台詞を韓国語にしている必要性が分からなくなる。

いや、もちろん前述したように、「MCが韓国語を喋り、韓国を取り上げる番組から派生した映画だから、全ての台詞が韓国語」という事情は理解しているのよ。
だけど、映画を見る人にとって、そんな背景なんて関係が無いでしょ。
これがTVドラマの劇場版で、ドラマ版でも台詞が韓国語だったということなら分かるけど、そうじゃないんだし、映画として「韓国語である意味や必要性」を求めたくなってしまう。
そういうのが見つからないなら、「オシャレを気取って韓国語の映画にしているだけでしょ」と皮肉っぽい口調で言いたくなってしまう。もちろん日本語でね。

この作品を一言で表現するなら、「スタイリッシュ」ということになる。
だが、この映画に対しての「スタイリッシュ」という言葉は、決して褒め言葉ではない。そこに言葉を付け加えるなら、「スタイリッシュを気取って、表面的なオシャレもどきだけで終わってしまった作品。映画としての質を保っておらず、ほぼ長尺のブロモーション・フィルム」という説明になる。
雰囲気を醸し出すための飾り付けだけで満足してしまい、「映画」としての面白さを注入する作業が疎かにされている。
っていうか、そこは何もやっていないに等しい。

しかも「オシャレにやろう」としている様々な演出が、こっちを白けさせる結果になっている。「かっこいいことは、なんてかっこ悪いんだろう」ってやつだ。
チョナンがカフェで注文を受けたり洗濯物を干したりしながらタップを踏むとか、見ているこっちが恥ずかしくなる。
例えば、これがミュージカル映画であるとか、コメディー映画であるとか、そんな中でタップがエッセンスの1つとして盛り込まれているなら、やり方次第では何とかなっただろう。
でも、どうやら心を閉ざしているらしいチョナンが無表情のままタップを踏む様子は、ただひたすらに寒い。

韓国語の映画だけど、ひょっとするとウォン・カーウァイ監督の『恋する惑星』や『天使の涙』辺りに影響されている部分はあるのかもしれない。
それはともかく、どこか一部分を抜き取って、数分間だけ映像を流したら、「何となくオシャレな雰囲気の映画」という印象が伝わることは間違いない。
しかし雰囲気だけで、中身は無い。見た目と中身が合致していない奴ってのがたまにいるけど、そんな感じだ。
ロボットだから機械に詳しそうなのに実際は機械オンチのメカ沢新一とか、強面の不良で勉強はダメっぽいのに実は英検一級の竹之内豊とか、そんな感じだ(そこで『魁!!クロマティ高校』を例えに出しても分かる奴は少ないだろ)。

これが数分で終わるPVだったら、オシャレな雰囲気だけでも構わないだろう。しかし、長編映画としては、それだけでは困る。
しかも本作品、なんと125分もあるのだ。なげえよ。こんなの90分程度が限界だろう。削れる箇所なんて幾らだってあるだろ。
まあ、それを言い出したら、全部削れるし、削った方がいいけど。
ともかく、厚みのある人間ドラマ、深みのある人間描写なんて、ここには無い。
「厚み」とか「深み」という修飾語を除外しても、そういう類のモノは皆無に等しい。

例えば、「チョナンと触れ合う中で、サイが少しずつ心を開いていく」というのを見せたいのかもしれないが、サイは洗濯物を干す作業を手伝った後のシーンで、普通に食事を取るようになっている(まだ部屋からは出て来ないけど)。
彼女が心を開いて行く過程が丁寧に描写されているとは言い難い。
っていうか、なんで普通に食べるようになったのかも良く分からん。
どうやらタップがきっかけのようだが、なぜタップを見て普通に食事を取るようになったのかは全く分からない。

ドクターとワイフの夫婦関係も、ソーダが「最近は喧嘩の声を聞かなくなった」と口にした時に「へえ、そうなのか」と感じるぐらい、変化の描写が見えて来ない。
だからドクターが出て行くよう告げて、ワイフが部屋から出て行く展開になった時も、そこに何も感じるモノが無い。そこまでの2人の関係、夫婦のドラマってのが、何も無かったからだ。
なので、そこでドクターが「ワイフの幸せを考えて別れを切り出した」ということを話しても、心がピクリとも反応しない。フラットなままだ。
医者を辞めた事情も、それによってドクターが抱えている心の傷も、セリフで説明されるだけで、観客の気持ちを引き付けるためのドラマが無い。

ボウイにしろ、ソーダにしろ、チョナンにしろ、ドクターやワイフと同様だ。
台詞で説明してくれるので、どういう事情を抱えているのかは理解できる。だけど、そこで止まってしまう。
そいつらの事情が分かっても、それに関して本人が感情表現を見せても、ホテルから去っても、そこに盛り上がりを感じないし、心情が伝わって共感するようなことも無い。
そこに付随するドラマは薄っぺらく、全てが淡々と進んで行くだけだ。
そして映画が終わった時には、「で、何が描きたかったのか」と言いたくなる。

特に酷いのが、ガイの抱えている事情
それは「ガイはサイの母親と惹かれ合い、3人で暮らし始めた。サイも懐いていた。しかし母親は病気になり、醜くなる前に殺してほしいとガイに頼んだ。ガイは首を絞めて彼女を殺し、それを察知したサイは憎むようになった。ガイはサイが一人でも生きてすけるぐらい成長するまで養って、それから罪を償うつもりでいる」というものだ。
で、それをガイが一気に喋る台詞だけで説明してしまう。
だけど、そんなに簡単に済ませるような問題じゃないだろ。

チョナンは自分の事情をナレーションで説明して「僕の時間はそこで止まっている」と言うが、この映画も色んな意味で止まっている。
誰かが苛立ちに声を荒らげても、誰かが悲しみに涙をこぼしても、向こう側にある感情が、こちらの感情を揺り動かすことは一度も無い。
抱えている事情を説明するだけで停止している退屈なエピソードが羅列され、退屈の中で段取りとして処理されていくだけだからだ。
っていうか、正確に言うと、ちゃんと処理されているわけではない。少なくとも、充分な「消化」や「昇華」は行われていない。
とは言え、そもそも消化するだけの中身さえ用意されていない、という見方をすることも出来るのだが。

(観賞日:2013年12月21日)

 

*ポンコツ映画愛護協会