『火垂るの墓』:2008、日本

14歳の清太は4歳になる妹の節子を背負い、雨の中を走っていた。節子に母のことを問われた彼は、「防空壕へ先に行ってはる」と答える。立ち止った清太は、焼け落ちた家屋や転がる死体に呆然とする。節子は変わり果てた友人たちを発見するが、その死は全く理解できていなかった。2人が国民学校に辿り着くと、大勢の重傷者が運び込まれていた。清太を見つけた神戸の町会長は、兄妹の母である雪子の元へ導いた。深手を負って衰弱している雪子の様子を見た清太は、教室を飛び出した。
落ち着きを取り戻そうとした清太は、母子3人で過ごした日々を思い出した。海軍大尉の父が出征したため、3人が家に残されたのだ。清太はリヤカーを用意し、母を病院へ連れて行こうと考える。しかし町会長は、雪子が亡くなったことを彼に伝えた。清太は焼け落ちた自宅跡へ行き、地面に埋めてあった食料品をリヤカーに積み込んだ。彼は節子をリヤカーに乗せ、西宮の遠縁を訪ねる。清太は節子から「お母ちゃんは?」と訊かれ、「病院や」と嘘をついた。「会いたい」と節子が言うと、彼は「西宮のおばさんトコへ行こう。お母ちゃんはきっと来る」と告げた。
中学校の校長である本城雅夫は、リヤカーを引く清太に気付いて声を掛けた。清太が剣道をやっていると知った本城は、「落ち着いたら、いっぺん訪ねて来たらええ。いっちょ揉んだろ」と優しく言う。西宮の遠縁は、半年前に夫を失った未亡人だった。清太が「母から荷物が届いてるはずですけど」と言うと、未亡人は「そんなん知らんで」と告げる。荷物は届いていたが、それを彼女は隠していたのだ。
未亡人は「動員行ってるけど、子供が2人おんねん。狭いウチや」などと言い、冷たく兄妹を追い出そうとする。しかし大量の食料品を持っていると知り、2人を預かることにした。未亡人は、「置いてあげることにしたんやから」と言い、食料品の一部を自分の物にした。清太は未亡人と2人になってから母の死を明かし、節子には内緒にしてほしいと頼んだ。悪夢を見た節子が夜中に大声を発すると、未亡人は厳しい口調で叱責した。
町会長の指揮で消火訓練をしている際、未亡人は清太を呼び寄せ、近所の人々に彼の母が亡くなったことを喋った。未亡人は「あんまり可哀想やから世話することにしました」と言い、自分が慈善精神に溢れていることを吹聴した。清太は「空襲に遭ったら無我夢中で逃げるしか無いです。消火してる暇なんか」と言うが、町会長は「逃げたらアカン」と怒鳴った。未亡人は町会長に口答えした清太を叱り付けた。本城が長女の昭子を連れて、未亡人の家にやって来た。清太と節子は、昭子と共に散歩へ出掛けた。歌が好きだという昭子は、川沿いを歩きながら歌った。
清太が水汲みをしている間に、未亡人は食料品を物色し、雪子の指輪を盗んだ。そこに節子が来ると、未亡人は掃除をしていたのだと嘘をつき、「なんでアンタのお母ちゃんの巾着、ここにあるか分かるか。アンタのお母ちゃん、どこにいるか教えてあげよか」と告げた。清太は学生の高山道彦に呼び止められ、下宿に招き入れられた。若い未亡人の家で同棲している高山は、近所の人々の冷たい視線を浴びている。彼はお手玉を「持って行け」と清太に渡し、腹が減ったら中の大豆を食えと告げた。
高山は「人間、2人寄ったら必ず喧嘩や。すぐ殺し合う動物や。これから先も殺し合いをしよると」と言い、自分は土竜みたいに身を守り続けると話す。「卑怯や」と清太が責めると、高山は悪びれずに「卑怯が一番や」と告げた。高山から喘息を利用して家で一生寝ているよう促されると、清太は「僕はそんなことせん」と反発した。清太は節子を連れて本城の元を訪れ、剣道の稽古を付けてもらう。昭子と妹の和子がピアノを連弾し、本城と妻の君枝は微笑を浮かべて聴いた。
ある日、清太は未亡人が母の着物を近所の人に売ろうとしている現場を目撃した。未亡人は清太に非難されると、自分の着物だと主張する。清太に追及されると、未亡人は「確かに荷物は預かってるけど、ろくなモンが入ってなかった。そん中の品物をやり繰りして、何とかアンタらにひもじい思いさせんよう一生懸命やってるんや」と開き直った。着物を返すよう清太が要求すると、彼女は「その代わり、これからは面倒見いひん。それでやって行けるんか」と脅した。清太が「その米を下さい。自分らでやっていきます」と言うと、未亡人は「ほんならそうしましょ」と声を荒らげた。
未亡人の息子と娘は、清太と節子に優しかった。しかし未亡人は、清太と節子に辛く当たった。清太は自分で米を炊くが上手く出来ず、節子が寝られないので未亡人から怒鳴られた。中学校が全焼し、本城の一家が姿を消す出来事が起きた。本城は焼け出された人々を内緒で学校に住まわせており、その連中の不始末が原因ではないかと人々は噂した。しばらくして、本城一家が心中しているのが見つかった。町会長は、一家が死んでいた防空壕を封鎖した。
清太は未亡人が再び着物を持ち出そうとしているのを見つけ、返すよう要求した。清太が母から届いた荷物を探そうとすると、未亡人は「分かった」と風呂敷に包んである着物を差し出した。「これだけですか?」と清太が言うと、「これまでアンタと節ちゃんの面倒を見るために、断腸の思いで着物を売ってきたんや」と未亡人は語った。節子の「お母ちゃん、死んだんや。もう着物、要らん」という言葉で、清太は未亡人が約束を破ったことを知る。しかし清太に睨まれた未亡人は悪びれず、「出てって。人を泥棒扱いする子の顔なんか見とうない」と言い放つ。腹を立てた清太は「出て行きます」と告げ、節子をリヤカーに乗せて家を出た…。

監督は日向寺太郎、原作は野坂昭如「火垂るの墓」新潮文庫刊『アメリカひじき・火垂るの墓』より、脚本は西岡琢也、製作は石川博&川城和実&桐畑敏春&久松猛朗&横倉信夫&鈴木ワタル、企画は大橋孝史、プロデューサーは伊藤成人&河野聡&南條昭夫&磯田修一、プロデューサー補は上山公一&中島英俊、撮影は川上皓市、照明は水野研一、録音は久保田幸雄、美術監修は木村威夫、美術は中川理仁、編集は川島章正、ラインプロデューサーは桜井陽一、音楽はCastle In The Air(谷川公子+渡辺香津美)。
出演は吉武怜朗、畠山彩奈、松坂慶子、松田聖子、原田芳雄、長門裕之、江藤潤、高橋克明、山中聡、池脇千鶴、千野弘美、谷内里早、鈴木米香、萩原一樹、矢部裕貴子、飯島大介、竜のり子、赤木幸子、江口かほる、吉田淳子、守屋凱斗、筒井俊行、松本真優、大館理恵、大館瑠唯、小岩亮一、松永毅ら。


野坂昭如が自らの戦争体験を題材に執筆した同名小説を基にした作品。
当初は黒木和雄が監督を務める予定で企画が進められていたが、彼は2006年4月に脳梗塞で死去してしまう。
そこで、黒木の『スリ』や『美しい夏キリシマ』で助監督を務め、2005年の『誰がために』で監督デビューした日向寺太郎がメガホンを執ることになった。
清太を吉武怜朗、節子を畠山彩奈、未亡人を松坂慶子、雪子を松田聖子、西宮の町会長を原田芳雄、神戸の町会長を長門裕之、本城を江藤潤、清太の父を高橋克明、高山を山中聡、若い未亡人を池脇千鶴、君枝を千野弘美、昭子を谷内里早、和子を鈴木米香、未亡人の息子を萩原一樹、未亡人の娘を矢部裕貴子が演じている。

『火垂るの墓』は、1988年に高畑勲が脚本と監督を務めてアニメーション映画化している。
本作品は、その実写版ではなく、あくまでも小説の実写映画化である。
しかし『火垂るの墓』と言えば、むしろ原作小説よりスタジオジブリのアニメ映画の方が圧倒的に有名なぐらいであって、幾ら「アニメ版のリメイクじゃない」と主張したところで(実際にそうではあるんだけど)、どうしても比較されることは避けられない。
高畑勲の『火垂るの墓』は『となりのトトロ』と同時上映されたが、配給収入は5億9千万円であり、それほど大ヒットしたわけではない。だが、その後に日本テレビ系列で何度もテレビ放映されているので、見たことがある人は多いだろう。
それを考えると、『火垂るの墓』を実写映画化するってのは、そもそも企画としてどうなんだろうかと思ってしまう。知名度の高さによる訴求力よりも、アニメ版と比較されてしまうデメリットの方が大きいのではないかと。

高畑勲の『火垂るの墓』は、優れたアニメーション映画ではあったが、ものすごく痛々しいし、何も救いが無い。
何しろ幼い兄妹が衰弱して死んでしまうんだから、そりゃ救いが無いのは当たり前だ。泣くために映画を見る女性も多いが、あの映画は泣けるけど感動は無い。ひたすらに、辛くて悲しい涙だ。そして、悲劇のカタルシスがあるわけでもない。見終わった後には、ズッシリと重いモノが心に残される。
そういう類の涙を流したいと思う女性は、それほど多くないだろう。
それを考えると、アニメ版を見たり、内容を知ったりした上で、この実写版を見たいと感じる人は、そんなに多くないんじゃないかと思ってしまう。

まず序盤で感じたのは、「空襲によって大勢の犠牲が出て、兄妹の母も死んだ」という印象が弱いってことだ。
それは空襲のシーンを描写していないことも要因の1つだし、兄妹が国民学校へ向かうシーンの見せ方にも問題はある。
原作やアニメ版と違って現在進行形にしているのなら、いっそのこと、母子3人が過ごしている様子から始めて、「空襲がありました」→「オープニング・クレジット」→「母が死にました」という流れにしても良かったかもしれない。
あと、雪子だけが空襲で重傷を負い、母とは離れた場所に兄妹がいて助かっている状況が良く分からないんだけど、そこは何か説明があっても良かったんじゃないかな。
ただし、問題は構成だけじゃなくて、雪子が死んでも悲劇性が弱いってのは、やはり演出に難があると考えざるを得ないなあ。

っていうか根本的な問題として、原作やアニメ版と違って「母親が一瞬だけ意識を取り戻す」という内容にしている意味が、果たしてあるのだろうか。
回想シーンも含めてバッサリと削除してしまっても、何の支障も無いんじゃないかと思ってしまう。
しかも、そういう無意味を通してまで登場させた母親を演じているのが松田聖子なので、「それは無いわ」と言いたくなる。
ミスキャストだわ、力不足だわで、なんで彼女を起用したのか理解に苦しむ。

重傷の雪子を見た清太は教室を飛び出した後、母子3人で過ごした時の楽しい出来事を回想する。
雪子が死んだ後、父の写真を見た彼は、剣道の稽古を付けてもらったこと、喘息を心配する雪子に「もう治った」と父が言ったこと、父が赤ん坊の節子を抱いたことなどを思い出す。
だが、そんな回想の数々って、ホントに必要かね。
「家族で過ごしていた幸せな日々」を描くことで、「あの頃は、もう戻らない」という悲しみを浮かび上がらせようという狙いがあるのかもしれないけど、まるで意味の無い回想になっている。段取りとして回想を挿入しているだけにしか感じない。

「幼い子供たちが戦争の犠牲になる」という部分が作品の肝になっているのだが、ぶっちゃけ、清太に泣かされることは皆無と言ってもいい。
なぜなら、彼が家を出るのは「未亡人に腹を立てたから」ってのが理由であり、ある意味ではワガママだからだ。
どれだけ未亡人に辛く当たられても、彼女が母の着物を売り払っても我慢を続けていたら、兄妹はもっと長く生きられたかもしれない(この実写版だと清太は最後まで死んでいないが、まあ早い内に死ぬことは目に見えている)。

もちろん未亡人の行動に問題はあるが、彼女に「自分らでやっていきます」と宣言して以降の清太に降り掛かる苦境は自業自得という部分もある。
しかし節子の場合、本人の意思で家を出たわけではない。兄妹水入らずの生活を望んだ清太に連れて行かれただけだ。
だから節子は、戦争の犠牲者でもあり、清太の身勝手に巻き込まれた犠牲者でもある。
節子を巻き添えにした奴なので、「未亡人は嫌な奴」という事情があるにせよ、清太には全く同情心が沸かないし、彼に泣かされることも無い。

私は高畑勲の『火垂るの墓』を見て、どこまでも健気な節子に、そして節子の声を担当した当時5歳の白石綾乃に泣かされた。白石綾乃の名演技が無かったら、かなり大きく印象は変わっていただろう。
それに比べると、この映画の節子や演者である畠山彩奈に泣かされることは、残念ながら一度も無かった。
それは演技力の問題ではない。この映画の節子はアニメ版同様、健気だし、いじらしい。哀れであり、同情心を誘う女児になっている。
しかし、ドラマや演出が足りていないから、節子(清太はどうでもいいっちゃあ、どうでもいい)が衰弱し、どんどん死に向かって追い込まれていくという印象が弱いのだ。

未亡人が兄妹を追い払おうとするのは、「子供が2人いるし、面倒を見る余裕が無い」からではない。単純に、陰険で冷徹な女だからだ。
彼女は食料品を見て態度を変え、勝手に食料品や雪子の指輪を盗み、内緒にしてくれと頼まれたのに雪子の死を近所の人々に明かし、それでは飽き足らず節子にまで喋る。
ようするに、根性が腐り切っているのだ。
そうやって最初から未亡人を悪役にしてあるのは、明らかに失敗だ。
それだと、兄妹が辛い目に遭うのは「戦争のせい」ではなくなる。

「未亡人が嫌な奴だったから、兄妹は辛い目に遭う」ってことだと、作品のテーマから大きく外れてしまう。
「最初は親切だった未亡人が、戦況が悪化し、どんどん食料が少なくなる中で苛立ちを兄妹にぶつけるようになっていく」という描写にしておくべきだ。
ようするに、「未亡人も戦争のせいで変わってしまう」という形にしておくべきなのだ。
最初から強欲ババアだと、「兄妹は、醜悪な遠縁を頼ったせいで酷い目に遭いました」ってことになっちゃうでしょうに。
この映画に、根っからの悪人は要らないのよ。

途中、「夫が死ぬ前に残した手紙を読んだ未亡人が感傷的になっていたら、清太がオルガンを弾き、節子が元気に歌うので腹を立てて怒鳴る」というシーンがある。
そこには、ひょっとすると「未亡人も全面的に悪い人間ではない。それなりに事情もある」ってことを描写しようという狙いがあったのかもしれない。
しかし、ものすごく中途半端だし、それまでの悪人イメージを今さら取り返そうとしても、焼け石に水だよ。

(観賞日:2014年12月20日)

 

*ポンコツ映画愛護協会