『星になった少年 Shining Boy & Little Randy』:2005、日本

1989年、千葉県東金市。小川哲夢が暮らす小川動物プロダクションに、銀行員2名がやって来た。継父・耕介の経営が杜撰で、会社は多額 の負債を抱えているのだ。耕介は姿を隠してしまい、哲夢の母・佐緒里が対応して銀行員を帰らせた。元々、プロダクションを経営して いた耕介の元に、動物好きだった佐緒里が嫁いできたのだ。しかし現在では、佐緒里が会社を切り盛りしている。彼女は子供たちの世話を 全て母の朝子に任せ、自分はプロダクションの仕事に没頭している。
哲夢は通っている中学校で、「動物の匂いがする」とイジメを受けていた。ある日、姉の紀が夕食の席で、そのことを佐緒里に告げた。 しかし佐緒里は全く心配する様子を見せず、「ゾウを買うことにしたの」と別の話題を口にした。テレビの仕事が入り、それに合わせて 購入を決めたのだという。かねてからの夢だったという佐緒里は、耕介の反対も気にしなかった。
サファリパークの飼育係・岩本信介が、ゾウのミッキーを連れてプロダクションにやって来た。初めてミッキーと対面した哲夢は、すぐに 「ミッキーが喋った」と言い出した。しばらくして、佐緒里はCM撮影のために子ゾウを購入することにした。入手は困難だったが、 何とか譲ってもらえることになった。こうして、子ゾウのランディがプロダクションにやって来た。今度も哲夢はゾウの言葉を聞き取り、 「こいつ、お喋りだよ」と佐緒里や耕介に言った。
哲夢はミッキーとランディの世話をするが、2匹には大きな差があった。タイで訓練を受けていたミッキーは哲夢の言う通りに行動するが 、訓練されていないランディは全く指示に従わないのだ。哲夢は岩本から、タイにはゾウ学校があり、少年達が訓練を受けて一人前の ゾウ使いになるという話を聞いた。すぐに哲夢は、タイへ行ってゾウ使いになりたいと佐緒里に申し出た。最初は反対した佐緒里だが、 結局は承諾し、哲夢をタイへ送り出した。
タイに到着した哲夢は、ゾウ学校で初めての外国人生徒となった。意気込んで訓練に入った哲夢だが、ゾウはまるで言うことを聞いて くれず、タイ人の生徒たちからも受け入れてもらえない。なかなか訓練がはかどらない中で、母親の声を聞いたゾウに逃げられるという重大 なミスまでやらかしてしまった。それでも哲夢は挫けず、頑張って訓練を続けた。やがてゾウを手懐けることに成功し、仲間たちからも 受け入れてもらえた。そして1年半が経過し、ついに彼は帰国することになった。
1992年、日本に戻った哲夢は、タイで学んだ方法によってランディの訓練を開始した。その様子を見た佐緒里は「厳しすぎるのではないか」 と言うが、哲夢は「今の内に教え込まないと駄目なんだ」と自分のやり方を貫いた。哲夢はゾウのことに夢中で、学校での授業など全く 頭に入らなかった。彼は授業中も、年老いたゾウの楽園を作る計画に夢中になっていた。
高校生になった哲夢は、あるイベントでコンパニオンの絵美と出会い、プロダクションへ遊びに来るよう誘った。哲夢は高校を中退して ゾウ使いの仕事に集中したいと考えていたが、佐緒里からは大反対されていた。ある時、プロダクションではゾウを使ったドラマの撮影が 行われた。ゾウが思うように動いてくれない中、哲夢は自分のやり方を貫き、他の手を使おうとする耕介に反抗的な態度を取った。何とか ゾウが言うことを聞き、撮影も無事に終わった。やがてプロダクションでは、日本初の「ゾウさんショー」が開催された…。

監督は河毛俊作、原作は坂本小百合『ちび象ランディと星になった少年』参考図書『ゾウが泣いた日』、脚本は大森寿美男、製作は 亀山千広、プロデューサーは小岩井宏悦&和田倉和利、エグゼクティブプロデューサーは関一由&島谷能成&細野義朗、 アソシエイト・プロデューサーは前田久閑&荒木波郎、撮影は高瀬比呂志、 編集は落合英之、録音は武進、照明は小野晃、美術は山口修、VFXプロデューサーは伊藤太一、VFXディレクターは臼井則政、 Animal Effects AFXチーフは相良貴幸、AFXクリエイターは星加和子、Visual Effects VFXクリエイターは小林純、音楽は坂本龍一。
主題曲「Shining Boy & Little Randy」作曲・指揮・演奏は坂本龍一、演奏は篠崎史紀 with the Orchestra、Carlos Nunes。
出演は柳楽優弥、常盤貴子、高橋克実、蒼井優、倍賞美津子、武田鉄矢、相島一之、永堀剛敏、小野武彦、佐藤二朗、ブラザートム、 森下能幸、友部康志、中村育二、於保佐代子、加藤清史郎、谷山毅、井上花菜、甲野優美、JARAN PHETJAROEN、WISANUKORN SAISATH、 伴美奈子、佐藤真弥、森聖矢、柳沢大介、中村奎太、岡本奈月、前場莉奈、小手伸也、武田義晴、加藤啓、夏木ゆたか、PETCH SITTら。


日本人初の象使いとなり、交通事故によって21歳で亡くなった坂本哲夢の短い生涯を綴った伝記映画。
「市原ぞうの国」の園長である彼の母・坂本小百合が執筆した『ちび象ランディと星になった少年』が原作。
1977年に『星になった少年』というイタリア映画が公開されているが、何の関係も無い。
苗字が「小川」になっているなど、登場する人名や会社名などは変更されている。
哲夢を演じるのは、前年に『誰も知らない』でカンヌ映画祭の最優秀男優賞を受賞し、次回作が注目されていた柳楽優弥。佐緒里を 常盤貴子、耕介を高橋克実、絵美を蒼井優、朝子を倍賞美津子、ドラマの主演俳優を武田鉄矢、銀行員を相島一之と永堀剛敏、岩本を 小野武彦、高校の教師を佐藤二朗、ドラマのプロデューサーをブラザートムが演じている。

映画は4つのパートに別れている。
プロダクションにゾウが来る話がパート1、タイへの留学がパート2、帰国してからショーまでの話がパート3、そして事故死のパート4 という構成だ。
物語に波を付ける作業は杜撰で、というか全くやっておらず、のっぺりとした平板な進行になっている。
事実を綴った原作を脚本化する際に、「ドラマへの変換」ということに対する意識が乏しかったのだろう。

「カンヌ国際映画祭で主演男優賞を受賞した柳楽優弥の主演作」というのが作品の最大(唯一と言ってもいい)の売りで、バブル的に 湧き上がった彼の人気を当て込んで作られたことが露骨な映画である。
しかし主演男優賞を獲得したものの、彼の演技力はお世辞にも高いとは言えない。カンヌでは(というかタランティーノには)「たまたま 素に近い表情や態度が受けた」ということもあるんだろう。
『誰も知らない』の時は、映画のテイストと、ほぼ素に近い柳楽優弥の表情や態度が上手くフィットしていたということもあるんだろう。
だが、「商業ベースで全国公開される娯楽映画」である本作品において、その「芝居をしていない(出来ていない)芝居」がどのように 見えるかというと、単純に「あまり芝居が上手くない」としか感じないのである。

本作品は、芝居の稚拙さなど度外視して、「柳楽優弥を見せる」ということを目的として作られている。
だから例えば、哲夢が初めてゾウと対面する場面でも、ゾウの表情や仕草にはほとんど関心を示さず、ゾウを撫でて話し掛ける柳楽優弥の 姿ばかりを撮る。
「少年とゾウの心の交流」が大切な作品のはずだが、ゾウは柳楽優弥を見せるための単なる道具と化している。
初めてゾウが来ることに対する哲夢の不安や戸惑いであったり、ゾウと触れ合ったことへの喜びであったり、そういう溢れ出す感情の表現 が全く見られない。
また、唐突に「ゾウが話し掛けてきた」などと言われても、そこに説得力のあるような描写が全く見られず、柳楽優弥が語るセリフだけに 頼っているため、バカバカしくさえ思えてしまう。

ゾウに強い愛着を覚えて「もっと仲良くなりたい」という情熱が芽生えたり、「だけど上手く行かない」という歯痒さに悩んだりという 哲夢の心の動きも、全く描かれていない。
だから、「タイに行ってゾウ使いになりたい」と言われてもピンと来ない。そこまでの強い熱意を持つに至るドラマ、哲夢の心情の動きが 、全く無いからだ。
例えば「可愛いから犬が飼いたい」とか、年端の行かない少年少女が軽い思いつきのような感覚で口にするのと同じレベルに見える。
哲夢は大して気にしていない様子だから、他人がとやかく口を挟むべきではないのかもしれんが、息子がイジメを受けていると聞いても 「だから何?」的な知らんぷりで、そんなことより自分の夢であるゾウのことに夢中になっている佐緒里の姿は、育児放棄の母親失格に しか見えない。
一応は朝子や紀が批判的な意見を口にするシーンもあるが、そこから「佐緒里の考えに変化が生じ、息子との関係も修正されていく」と いった充実した親子ドラマがあるわけでもない。

後半の物語に時間を割かなければいけないために、前半でそれほどじっくりと物語を描いている余裕は無い。だからパート1での家族や 動物との関わりは、おざなりになっている。タイ留学に反対していた佐緒里が承諾に転換する話も、ものすごく浅くて薄い。
まあ、そのくせに、全員がテレビを見ている間にサルが動物達を集めてしまうとか、逃げたコオロギを耕介が探しているとゴキブリと 間違えた朝子が殺してしまうとか、スベる喜劇には時間を使っているのだが。
パート2でタイに渡っても、タイでの暮らしや言語の違いに慣れるところからして大変だろうに、その辺りは薄くしてある。そんなことに 手間を掛けているような余裕が無いからだ。
あまりに淡々としているためか、「タイに渡って1年半」などと言われても、時間経過の感覚が全く伝わってこない。

とは言えパート1と比べれば、パート2は格段に惹き付ける力がアップしている。
ただし当然のことだが、そこだけ急に演出や脚本の質が向上したわけではない。
なぜ惹き付ける力がアップしているかと言えば、演出や脚本に頼らなくてもいいような、説明不要で惹き付ける要素が持ち込まれたからだ。
それはタイの風景によってネイチャリング・スペシャル的なモノが生まれ、ゾウを訓練するというドキュメンタリー的なモノが生まれた からだ。
そして、決して出来映えが良いとは言えないものの、ドラマとしてもパート2がテンションのマックスになっている。
それ以降の展開の中で、それに匹敵するモノは無い。

ゾウ使いになってランディを手懐けるためにタイへ渡った哲夢だが、帰国するとすぐに「ゾウの楽園を作りたい」という別の夢が提示 される。
そんなことよりも、ランディに集中しろと言いたくなる。
で、そのランディは簡単に手懐けて、さっさと次の展開へ移る。
とにかく「哲夢の事故死」まで進まなきゃいけないノルマがあるので、急ぎ足になる必要があるのだ。

パート3の途中で絵美が登場するが、「今さらヒロインの登場かよ」と思ってしまう。
そんなことに気を散らすよりも、ゾウとの関係に絞り込めと言いたくなる。
しかも、「たまたま絵美と知り合い、親しくなっていく」というわけではない。哲夢が「デートしよう」と、いきなりナンパしているのだ。
女にうつつを抜かすよりも、ゾウさんショーの準備に集中しろよ。
しかも絵美の出番、ものすげえ少ないぞ。
その程度なら要らないでしょ。いっそ紀との姉弟関係を軸に据えた方が遥かにいいと思うぞ。

ゾウさんショーのために哲夢は高校中退まで考えているんだが、それにしてはショーに向けての物語が全く無い。ショーの演目を練習 するがなかなか上手く行かずに苦労するとか、焦っていたけど本番で初めて成功して大喜びするとか、そういうモノは何も無い。
流れが無くて、いきなりショーの日が訪れる。
そして哲夢が、お説教臭い講釈をぶつ。
ヘタな演説で親子関係を絡めて感動させようとする暇があったら、さっさとショーを見せろと言いたくなる。
ただ、そのショーも、何の面白味も無いんだけどさ。

とにかく構成がヒドすぎる。
後半のパートに、無駄に時間を使いすぎだ。
帰国したら、「ランディを手懐けてショーを開く」という目的に向かって道草を食わずに進むべきだ。
そしてショーをラストに持ってきて、事故死の話はカットすべきだ。
「事故死を描く」というノルマに縛られたことによって、全体的に駆け足になっているし、何もいいことが無い。

しかも夢に向かって頑張っている流れの中での死ではなく、ショーが終わって一段落してから、仕切り直して事故のシーンだけをポツンと 配置しちゃうんだよな。
TVドラマならそれでいいかもしれんが(というか、そうせざるを得ないかもしれないけど)、そういう構成にしちゃったら、単に「死」 だけが孤立してしまうわけで、それで感動しろ、泣けと言われても無理なこった。
悲運の死で感動させよう、泣かせようということを目論んだのだろうが、あざとさが仇となった。
そこは『スタンド・バイ・ミー』のような方式にすりゃ良かったのだ。ショーの成功なり何か幸せ気分に包まれるエピソードをラストに 持ってきて、テロップでその後の死を示すだけに留めれば良かったのだ。
感動を狙いすぎたことで、逆に感動を手放してしまっている。

あと「実は哲夢が母親の夢を汲んでゾウに没頭していた」ということが死後に明かされて佐緒里が号泣するとか、そんなの要らないよ。
『ギター演きの恋』みたいなことを狙うべき映画じゃないでしょ、これは。
悲劇性や切なさを強めて終わらせるような形じゃなくて、むしろ観客を爽やかで前向きな気持ちにさせて終わらせるべきでしょうに。
そのためにタイ学校の仲間だったポーがテツと名付けたゾウを操る姿で終わっているはずだし、それを考えても佐緒里の「死んでから 初めて息子の気持ちに気付く」という号泣は邪魔だよ。

私の中では、「亀山千広が関わった映画には気を付けろ」という勝手なルールがある。
個人的に、亀山千広は日本のピーター・グーバーだと思っているので。
この映画では後半にチョロッとだけ蒼井優を登場させ、「ヒロインがいてロマンスが無きゃ大作娯楽映画としては失格でしょ」とでも 言いたげな、ハリウッド映画チックなモノを見せてくれる。
しかし、ではハリウッド映画の影響を強く受けているのかと思いきや、亀山イズムは想像の斜め上を行っていた。
この作品は、なんとボリウッド映画になっているのだ。
ミュージカルシーンこそ無いものの、コメディー、悲劇、動物、アドベンチャー、家族ドラマなど、様々な要素を寄せ集めてゴッタ煮に する。
全てが大雑把なのも、どこに盛り上がりを持ってくるかなど緩急や抑揚の付け方がまるで出来ておらずダラダラと続く感じも、ボリウッ ド風味なのである。

実は本作品って、もはや絶滅したかと思われていたアイドル映画として解釈すべきなのかもしれない。
つまり柳楽優弥を見せるためのアイドル映画ということだ。
色んな要素を持ち込んで、その中で柳楽優弥の様々な表情、違った側面を見せていこうという狙いがあったのかもしれない。
しかし残念ながら、不器用な柳楽優弥は多様性に欠けており、一つの面しか無かったわけだが。

(観賞日:2008年2月6日)

 

*ポンコツ映画愛護協会