『炎の肖像』:1974、日本

浅瀬に浮かぶ古い小舟に、血だらけになった歌手の鈴木二郎、通称「ジュリー」が倒れ込んでいた。浜辺には大久保和夫と仲間の男女がいて、女は二郎を嘲笑した。大久保と仲間の男が石や木を海に投げ込むと、二郎は「今に見とれ。アホタレ」と罵った。大久保たちが姿を消してから岸に上がった二郎は、海辺の家に住む画家の小林絵里を訪ねてセックスした。「全部見てたわ。アンタがメタメタになるのを。ホントに死んじゃえば良かったのよ」と絵里が語ると、二郎は「喧嘩はあんまり好きじゃない」と口にした。
絵里が「なぜ喧嘩を売られたの?」と訊くと、二郎は「俺は誰にでも喧嘩を売られる」と苛立った。彼が「お前の絵もおもろうなくなってきたね」と話すと、絵里は「ガラにもなく当たり前の女になろうとしたからよ」と述べた。絵里の家を出た二郎が当ても無く歩いていると、大型トラックが通り掛かって運転手の星野正弘が乗って行くよう勧めた。絵里は列車に乗り、検札に来た車掌に「東京までの乗り越しにしてほしい」と頼んだ。
星野は食堂に立ち寄り、二郎に昼食を御馳走した。小便に行った二郎はオープンカーを見つけ、勝手に乗り込んだ。運転を誤ってトラックに車をぶつけてしまった彼は、慌てて逃亡した。絵里は自殺し、線路脇で遺体が発見された。二郎が自宅マンションにいると、父が訪ねて来た。父は「表でウロウロしてたから拾って来た」と言い、今西きりこという若い女を連れて来た。父はきりこから「お父さんですか」と問われ、「あいつには父親なんかいねえ。あいつはいつもあいつだけや」と答えた。
きりこは二郎に「友達呼んでいいですか」と言い出し、承諾も無いまま勝手に電話を掛けた。彼女が絵里の妹であるえりに電話を掛けたと知った二郎は、受話器を奪い取って切った。「話も聞かずに逃げるのね」と非難された彼は、「逃げるもんかよ。行って聞いてやるよ」とひろが待つ喫茶店へ赴いた。きりこが「アンタのせいで絵里が自殺した」と言うと、二郎は「俺のせいかどうかは分かんないだろ」と反論した。ひろは遺書があったことを明かし、「とても優しくて嬉しかった」と綴られていたことを教えた。
二郎は「だったら俺のせいかもしれないな」と言い、「俺が優しかったからやないで。その反対やったからや」と告げる。「俺のせいやとして、どうせえっちゃうんじゃ。絵里にこんな可愛い妹さんがいるとは聞いてなかったな」と彼が語ると、ひろは平手打ちを浴びせて立ち去った。きりこは二郎から「呼び戻して来いよ。一緒に飯でも食おうよ」と言われ、「それが貴方の手口なのね。それには乗らないわ」と拒否して去った。二郎は父を伴い、馴染みのスナックへ出掛けた。二郎が同伴者を父だと紹介すると、ママは嘘だと感じて軽く笑った。父が怒って「そうは見えへんいうんか」と不機嫌になったので、ママは謝罪した。
二郎はキオスクで働くきりこを見つけ、新聞を買いに行く。きりこは冷たく対応するが、二郎は仕事が終わるのを待って追い掛けた。彼はきりこが拒絶するのも構わず、強引に腕を掴んで連れ出した。きりこはひろが以前からファンだったので無理に連れて行ったことを告白し、「会ってくれなきゃ投書しようと思ってたぐらい」と語る。二郎が不意にキスして「それがお前の手口かよ」と言うと、彼女は「貴方の手口が見たかったのよ」と睨み付けた。二郎は「投書でも何でもしろよ。止めないよ、俺は」と言い放ち、その場を去った。
二郎はひろを電車に乗せ、絵里の家へ連れて行った。連れて来た理由を問われた彼は、分からないと答えた。二郎はひろをモータボートに乗せて、海に繰り出した。しかしエンジンの調子が悪くなり、通り掛かったボートの船長に助けを求めた。彼はボートに乗り移ると船長を押さえ付けて操縦し、ひろを置き去りにして岸に戻った。大久保と遭遇した二郎は、ファイティングポーズを取った。大久保がナイフを手にすると、彼は「やってくれよ」と言う。大久保が「カッコ付けやがって。来いよ」と挑発すると、彼は大声で叫んだ。
大久保が「思い通りには行かねえんだよ」と告げると、二郎は「一人じゃなんにも出来ねえのかよ」と挑発する。大久保は二郎にタックルを食らわせ、2人は落下して転倒した。二郎は大久保と食堂へ行き、誰かが忘れていったメイク道具で顔を白塗りにしてルージュを引いた。二郎は食堂の女に当て逃げの男だと気付かれ、逃げ出そうとするが通報されてしまった。翌朝、二郎が警察署を出ると、食堂の女から話を聞いた星野が待っていた。彼は二郎はトラックに乗せ、旭川まで行くことを話す。乗せて行ってほしいと二郎が頼むと、星野は妊娠した妻を故郷へ送り届けるので無理だと告げた。星野は途中で妻を拾い、二郎はマンションへ戻った…。

監督は藤田敏八&加藤彰、脚本は内田栄一、プロデューサーは伊地智啓、撮影は山崎善弘、美術は徳田博、録音は高橋三郎&紅谷愃一、照明は新川真、編集は井上治、音楽は井上堯之&大野克夫。
出演は沢田研二、秋吉久美子、地井武男、大門正明、中山麻理、原田美枝子、中島葵、朝丘雪路、佐野周二、悠木千帆(樹木希林)、井上堯之バンド、内田裕也、五條博、神山勝、白井鋭、影山英俊、賀川修嗣、薊千露ら。


ザ・タイガースを解散してソロになった沢田研二が、初めて主演を務めた映画。
監督は『修羅雪姫』『赤ちょうちん』の藤田敏八と、『愛に濡れたわたし』『蜜のしたたり』の加藤彰による共同。
最初から共同監督の予定だったのか、途中から何らかの事情で共同監督の体制になったのか、2人が相談しながら演出を進めていたのか、それども場面によって分業する形だったのか、その辺りの事情は全く分からない。
脚本は『妹』『バージンブルース』の内田栄一。
二郎を沢田研二、きりこを秋吉久美子、星野を地井武男、大久保を大門正明、絵里を中山麻理、ひろを原田美枝子、星野の妻を中島葵、スナックのママを朝丘雪路、二郎の父を佐野周二、食堂の女を悠木千帆(樹木希林)が演じている。

ザ・タイガースは1971年1月24日に解散したが、沢田研二はすぐにソロ活動を開始したわけではない。その前にPYGというグループに参加している。
PYGはグループ・サウンズのザ・スパイダースから井上堯之と大野克夫、ザ・テンプターズから萩原健一と大口広司、そしてザ・タイガースからは沢田と岸部修三(岸部一徳)が参加し、ニュー・ロックのスーパーバンドを目指して活動を開始した。
しかし萩原健一の俳優活動が多忙になって自然消滅し、残ったメンバーは井上堯之バンドになった。
ちなみに、沢田研二はPYGが自然消滅する前の1971年11月1日に『君をのせて』でソロデビューしている。

オープニング、沢田研二が市街にあるベンチに座っていると、複数の女性たちが駆け寄って来て話し掛ける。その中の1人は、ベンチの隣に座る。
そんな中、インタビュアーが沢田に「喧嘩は好き?」「不良時代があったとすれば、今は何時代?」などと質問する。
その流れで「今度の映画はジュリーにとってオーダーメイドの映画だと思うけど、自分自身は何%ぐらい?」と質問し、沢田が60%ぐらいだと答える。
その間も、周囲で通り掛かった大勢の人々が見ている様子をカメラが捉える。

この冒頭シーンは、まだ映画の本編に入っていない。ようするに、「これから始まる映画について沢田研二に尋ねるインタビューシーン」という扱いである。
最初に登場するのは映画の主人公ではなく、「沢田研二」なのである。
そこから本編に入る構成だと、観客は「この話はフィクションである」ってことを強く意識することになる。
まるでメリットが見えない演出だ。
その趣向自体が目的と化しており、手段としては完全に外していると断言できる。

本編が始まってからも、やたらと実験的だったり前衛的だったりを感じる演出が次々に出て来る。
たぶんヌーヴェルヴァーグっぽいモノを撮りたかったんじゃないかなあ。
日本では1960年代に「松竹ヌーヴェルバーグ」という潮流があったけど、日本アート・シアター・ギルド(ATG)は1970年代に入っても大島渚や吉田喜重、実相寺昭雄たちの実験的な映画を製作していた。
この作品はロマンポルノ路線の時代の日活製作だけど、そういう野心的な映画に感化されていたんじゃないかなあ。

ザ・タイガース時代の沢田研二はアイドル的な人気があり、若い女性からキャーキャー言われる存在だった。
それは解散してソロになった後も変わらなかったが、本人はそれを手放しで喜んでいるわけではなかった。むしろ、アイドル的なイメージからの脱却を目指していた。前述したPYGへの参加も、その1つと捉えていいだろう。
そして本作品でも、やはり今までの印象を打破しようとする意図が明確に見える。
前衛的で実験的な演出もそうだが、決して好感度が高いとは言えない主人公のキャラ造形にも、それが感じられる。

主人公は身勝手で傲慢で、女を食い物にする冷淡な男だ。このキャラ造形は、何となくアラン・ドロンを連想させる。アラン・ドロンも、自己中心的だったり卑怯だったりするけど、女性客を魅了するような主人公を複数の映画で演じていたからね。
ただ、関西弁と標準語のチャンポンで喋っているのは、どうにも中途半端だなあ。
最初は関西弁なので、それで通すのかと思いきや、途中で標準語になり、その場によって両方が入り混じる。それが演出なのか、ジュリーに全て委ねていたのかは分からない。
ただ、そこは関西弁か標準語か、演出としてキッチリと決めておいた方が良かったと思うぞ。

本編に入ってからも、屋外ロケのシーンでは周囲の人々がジュリーに注目したり振り向いたりすることが何度もある。
当時は事前の許諾を取らずにゲリラ撮影するってことが珍しくも無かったわけで、この映画でも同様のことが行われていたようだ。
ただし、この映画の場合、ひょっとすると「現実と虚構の境界線を曖昧にする」という意図が含まれていたかもしれない。
現実のジュリーと劇中のジュリーを混同させることで、前衛の世界に観客を引き込む狙いはあったのかもしれない。

粗筋ではカットしたが、序盤ではジュリーがコンサートのリハーサルをしている様子がチラッと映り、物語が描かれている途中でリハの歌声が挿入される箇所もある。そして、しばらく話が進むと、コンサート本番の様子が何度か挿入される。
映画の中でも、主人公は「人気歌手のジュリー」なのだ。
それだけでなく、ジュリーがバンドメンバーを紹介する時には「井上堯之バンド」とハッキリ言っている。順番にメンバーを紹介する時も、岸部修三、速水清司、田中清司、大野克夫、井上堯之という名前を口にしている。ようするに、当時の実際のメンバーだ。
さらにジュリーはアルバム『JEWEL JULIE』を発売したばかりだと話し、その中から『親父のように』を歌唱する。
つまり、主人公は鈴木二郎という架空の存在のはずなのに、コンサートのシーンだけは、まんまドキュメンタリーなのだ。

しかも、それは「鈴木二郎が井上バンドを率いてコンサートをしている」という設定ですらない。終盤にはコンサート直前の楽屋シーンがあるのだが、ドアには「沢田研二 井上バンド」と書いてある。
つまり、もはや「主人公は鈴木二郎」という設定も放棄しているのだ。コンサートのパートとドラマのパートは、それぐらい完全に乖離している。
ドラマのパートでは主人公が人気歌手として行動する箇所が全く無いし、コンサートのパートでは「二郎に起きた出来事や心情が影響を及ぼしている」という描写が皆無だ。
ここまで連携を取らずに終わらせるなら、素直に「コンサートのドキュメンタリー映画」を作れば良かったんじゃないの。
どうせドラマパートは何も面白くないまま、何もかも宙ぶらりんで放り出してしまうんだし。

(観賞日:2024年11月26日)

 

*ポンコツ映画愛護協会