『ホームレス中学生』:2008、日本
中学2年生の田村裕は夏休みに入る直前、気になっていたクラスメイトの知恵から「2人で映画行かへん?」と誘われた。遠慮がちにOKした彼は、親友・よしやたちの前で「俺の人生、前向きや」と浮かれた様子を見せた。住んでいる集合住宅へ戻った彼は、家の荷物が全て外に放置され、玄関前に差押さえのテープが貼られているのを目撃する。裕が困惑していると、高校生である姉の幸子、大学に通う兄の研一が次々に帰宅した。しかし2人とも事情を知らず、ドアの鍵が変わっていたので中には入れなかった。
母の京子は死去しており、裕は父である一朗の帰りを待つことにした。そこへ自転車で帰宅した一朗は、平然とした態度で子供たちを集合させる。彼は「厳しいとは思いますが、これからは各々が頑張って生きて下さい。解散」と告げ、自転車で去った。誰かを頼ろうにも、父が金を借りまくったせいで親戚は音信不通になっていた。「これから、どうやって生きていけばいいん?」と幸子が泣き出すと、一朗は「俺のバイトがあるから大丈夫や。とりあえず、寝る場所だけ確保せんと」と告げた。
裕は一朗と幸子に、「俺のことは心配要らんよ。一人で大丈夫やから。泊めてくれる友達がおるから」と告げる。一朗は3人で暮らすべきだと主張するが、裕は隣人が出て来た隙に走り去った。「まきふん公園」と呼ばれている公園に辿り着いた彼は、ウンコに見える滑り台で一夜を過ごした。そこを住まいに決めた裕だが、半日も経つと色々な問題が見えてきた。公園にはトイレが無く、裕は野グソをするしか無かった。夕食として半額の弁当をスーパーで購入すると、所持金は13円になった。
次の朝、公園に近所の小学生・けんたが現れて滑り台の所有権を主張したので、裕は「ここは俺のウチや」と追い払った。自動販売機の下にある小銭を見つけようとした裕だが、近所の住人に見られたので誤魔化して立ち去った。食料を買う金が無いので、公園の水を飲んで腹を満たした。翌日、けんたは仲間3人を伴って公園に現れ、「出て行け」と怒鳴った。裕は「出て行きたくても、行くとこ無いんじゃ」と言い返した。突然の大雨が降り出すと、裕は服を脱いで行水した。
裕は研一が働くコンビニへ行き、店の商品を夕食として分けてもらった。友達の家に泊めてもらっていると嘘をついた裕に、研一は神社で寝泊まりしていることを話す。2日連続でコンビニの食料を分けてもらうと研一に怪しまれるので、次の日は水だけで我慢した。その翌日、けんたは大勢の仲間を引き連れて公園にやって来た。「ウンコのお化け、出て行け」と一斉に投石された裕は、「俺はウンコの神様や。下痢させるぞ」と追い回した。
次の日、裕が昼寝をしていると、けんたと数名の仲間が現れた。彼らはリンゴに手紙を添えて滑り台に置き、裕が目を覚ますと逃げた。裕が手紙を読むと、「げりが止まりません。どうすればいいですか?」という小学3年生の少年からの相談が記されていた。自動販売機の下を調べた裕は五百円玉を発見し、弁当とジュースを購入した。夕食を済ませた裕は、母のことを回想した。裕は身勝手な父を嫌っており、母のことが大好きだった。
翌日、裕はスーパーでコロッケパンを眺め、何も買わずに外へ出た。鳩にパンの耳をやっている老人を見つけた彼は、エサを分けてほしいと頼んだ。裕がパンの耳に貪り付くと、老人は残りが入った袋を置いて静かに去った。大雨が降り出した夜、裕は電話ボックスに避難した。草を食べて翌朝を迎えた彼は、濡れたダンボールを千切って口に放り込んだ。歩道橋で座り込んでいた裕は、よしやに声を掛けられた。最初は嘘をついて誤魔化していた裕だが、家が無くなったことを打ち明けた。
裕がご飯を食べさせてほしいと頼むと、よしやは自宅へ招待した。よしやは2人の弟と1人の妹、父・正光、母・道代の6人で暮らしていた。裕は風呂を使わせてもらい、一緒に夕食を取った。彼が去ろうとすると、よしやは「泊まったらええやん。っていうか、住んだらええやん」と持ち掛けた。正光と道代は、裕に事情説明を求めた。話を聞いた正光と道代は、翌朝になって研一を呼んだ。2人は研一に、生活の目途が付くまで裕を預かると告げた。
裕は研一に、幸子のことを訊く。研一は寝床を神社から万博公園へ移したこと、自分のバイト中に幸子が中年男に声を掛けられて怖い思いをしたことを話す。正光と道代は研一と幸子も家に招き、夕食を御馳走した。幸子が泣き出すと、正光は「毎週一回、2人も来て一緒に御飯を食べる」というルールを決めた。正光と道代は民生委員の西村スミ子にも協力してもらい、裕たちのために一軒家を借りた。夫婦は「お金は働き出してから返してくれたらええし、御飯が食べられへん時はウチに来たらええ」と言い、自転車とスクーターまで用意してくれた。生活保護も申請してもらい、裕たちは貧しいながらも兄弟揃って暮らせるようになった。そんなある日、スミ子が意識不明で倒れ、そのまま息を引き取ってしまう…。監督は古厩智之、原作は田村裕『ホームレス中学生』(ワニブックス刊)、脚本は後藤法子&古厩智之、製作は島谷能成&亀山千広&水上晴司&横内正昭&島本雄二&中沢敏明&周防郁雄、エグゼクティブ・プロデューサーは市川南&清水賢治&岡本昭彦、プロデュースは臼井央&種田義彦&片岡秀介、プロデューサーは富田敏家&前田茂司、アソシエイトプロデューサーは窪田義弘&梅村安、撮影は藤石修、照明は沢田敏夫、録音は日比和久、美術は松宮敏之、編集は大重裕二、音楽は上田禎。
主題歌は天上智喜//CLIFF EDGE『HERE』 作詞:JUN&SHIN&周防彰悟、作曲:JUN&周防彰悟、編曲:JUN。
出演は小池徹平、西野亮廣(キングコング)、池脇千鶴、イッセー尾形、古手川祐子、田中裕子、いしだあゆみ、宇崎竜童、黒谷友香、柄本時生、徳永えり、笑福亭松之助(2代目)、キダ・タロー、紅萬子(現・紅壱子)、土井洋W、徳永優樹(現・徳永ゆうき)、小野田顕児、鈴木悠生、上田恋音、山田夏輝、大原光太郎、長尾武龍、竹内優香、畑未夢、永井樹、ボギー、鈴川法子、浅田祐二、迫英雄、木滝和幸、下宮里穂子、植栗芳樹、松田一三、小林さり、廣田正典、島袋智子、多井章人、名嘉千尋、大野光、中島麻惟、鈴木健司、新里瑠巳那、倉本発、津川真美子、石橋寛仁、宮城佑多、大迫浩貴、土岐明里、高尾宗宏、松本参士郎、山川斗夢、幸尺りか、山川舞貴、仲村裕貴、松下駿、冨永菜月、河本竜志、槌谷直樹ら。
漫才コンビ“麒麟”の田村裕による同名自叙伝を基にした作品。
監督は『ロボコン』『さよならみどりちゃん』の古厩智之。
脚本は『BACK STAGE -バックステージ-』『ラヴァーズ・キス』の後藤法子と古厩監督による共同。
裕を小池徹平、研一を西野亮廣、幸子を池脇千鶴、一朗をイッセー尾形、京子を古手川祐子、道代を田中裕子、スミ子をいしだあゆみ、正光を宇崎竜童、担任教師を黒谷友香、よしやを柄本時生、知恵を徳永えりが演じている。田村裕の中学生時代を描いているんだから、過去の物語のはずだ。しかし、時代考証をしている気配は全く見られない。
しかも大阪が舞台なのに、公園のシーンは沖縄でロケーションを行っている。
夏休みの設定だが撮影期間が春だったので、沖縄を選んだらしい。
だけど、そんなに季節感が伝わるような描写は見当たらないのよね。
そんなことより、自動販売機に沖縄の「さんぴん茶」が堂々と入っている不自然さを何とかしようぜ。裕がホームレス生活をスタートさせる部分には、観客を引き付ける力が全く無い。
兄と姉に気を遣って「一人で大丈夫」と嘘をついたのは理解できる。ただ、なぜ本当に友人を頼ろうとしなかったのか、そこはサッパリ分からない。
もしも「恥ずかしかった」ってことなら、それを表現すべきだし。
せめて「一度は友人の家まで言ったけど、本当のことを打ち明けられなかった」という程度の描写はあってもいいだろう。
いきなり公園での生活を始めるってのは、「どうしようもないバカなのか」と言いたくなる。まあバカなんだけどさ。裕が公園に移動すると、「僕が辿り着いた公園は、まきふん公園と呼ばれていた。巨大なウンコそっくりの滑り台があったからだ」というモノローグが挿入される。
だけど、状況説明のモノローグを入れる暇があったら、本人の心情を伝えるためのモノローグを入れた方が遥かに有益だと感じる。
そこに限らず、この映画は裕の心情が全くと言っていいほど伝わって来ない。
状況説明のためのモノローグは何度も入るが、あまりにも淡々と進行する。ただし、じゃあ心情を説明するモノローグが入ればOKなのかというと、これまたボンクラなことになっている。
例えば、けんたと仲間3人を追い掛けようとして転倒し、バカにされた時には「最悪の日だった。プライドがズタズタになった。涙がこぼれた」という語りが入るが、まるで心は見えない。
ただモノローグで「最悪の日」と言っているだけで、ちっとも最悪の日には見えない。
それが喜劇としての仕掛けになっているわけではなく、ただ描写が薄っぺらいだけだ。裕が研一に弁当を食べさせてもらった後、翌朝のシーンになってから「お兄ちゃんに嘘をついた。どうしても本当のことを言えなかったというモノローグが入るが、ここなんかも「翌朝のシーンで語らせるより、その夜の芝居で表現すべきだろ」と言いたくなる。
モノローグが補足として入るのならともかく、そこで全て片付けようとしている。
裕が公園の滑り台を住まいに決める決意や、ホームレスになる覚悟なども、まるで見えてこない。
そもそも裕は父親から捨てられたのに、ものすごく落ち着き払っている。それが可笑しさに繋がっているわけでもなく、単純に観客の感情移入を妨げるだけ。主演が小池徹平ってのは、原作者である田村裕の希望したキャスティングだ。それは芸人の軽い冗談ではなく、調子に乗っていた頃の田村がマジで望んだことだ。
ただ、原作者が希望しても、それだけで配役が決まるわけではない。製作&配給した東宝としても、そこに訴求力があると考えたんだろう。
実際、田村裕に似た無名の子役を主役に起用するよりは、小池徹平の方が観客動員は見込めるだろう。
ただし、ルックスのいい小池徹平が主演を務めることで、同情心を削がれることは否めない。それと、「小池徹平が中学生役」という無理のあり過ぎる配役を通したことによって、そこに兄と姉も合わせなきゃいけなくなっている。
兄と姉が小池徹平より年下だとマズいってことで、西野亮廣が大学生、池脇千鶴が高校生という、これまた年齢的に無理のある配役になっている。
作品の内容やテイストによっては、設定と演者の実年齢が大きく違っていても、そんなに影響を受けないケースもある。
ただ、この映画の場合、そこはリアリティーがあった方がいい。
年齢の大きな差は、陳腐な印象に結び付いている。小池徹平のキャスティングがマズいというだけでなく、その扱いも「これはアイドル映画ですか」と言いたくなる状態になっている。
いつまで経っても、彼は小奇麗なままなのだ。ホームレス生活に突入したのに髪の毛は整っているし、服も顔も全く汚れない。
一度だけ雨を浴びるシーンがあるが、それで全て綺麗になるわけでもないでしょ。匂いも漂うようになるはずだが、そういう気配も無い。
見た目が綺麗で整ったままなんだから、そりゃあ嘘っぽさ満開になるのも当然だろう。裕が空腹で辛そうという印象も薄い。悲壮感は全く見えない。
悲惨になり過ぎるのを避けようとしたのかもしれないが、ホームレス生活の辛さや苦しさを表現した上でユーモラスに描くのが演出力ってモンじゃないのかと。
ほぼ演出を放棄しているかの如く、この映画は用意されたシーンを事務的に消化しているだけだ。
ちっとも追い込まれていないから、草やダンボールを食べるのも段取り芝居でしかない。
そもそも、五百円玉を見つけた時に、なんで弁当とジュースで一気に使い切っちゃうのかと。せめてジュースは買わないとか、弁当を買うにしても何度かに分けて食べるとか、貧乏生活をこなすために頭を使えと。バカなのかと。
まあバカなんだけどさ。ただ、悲壮感が無いのも当然っちゃあ当然で、裕のホームレス生活は1週間に過ぎないし、本物のホームレスからすると「ちょっとしたキャンプ」というレベルなのだ。
所持金が無くなった裕は水だけを飲んで空腹を満たしているが、本気になればゴミ箱の残飯を漁ることだって出来るはずで。
っていうか、心底から空腹になったら、そこまで追い込まれるはずで。
ものすごくヌルい極貧生活なので、悲壮感を出すのは難しいのだ。
まあ原作が虚構だらけなので、仕方が無い部分はあるんだろうけどね。前述したように、裕は貧乏なのに金を見つけたら一度に使い切っちゃうとか、ジュースまで買っちゃうとか、あまりにもバカすぎる。そのせいで、ちっとも同情心が湧かないし、ちっとも追い込まれている様子が感じられない。
だから、よしやの家で風呂を使わせてもらったり夕食を御馳走になったりするときも、その喜びが伝わらない。
入浴シーンでは湯船の湯を見つめて笑顔になるけど、そもそも体も服も全く汚れていないからね。洗った後に床を流れる湯は茶色くなるけど、体を洗う泡も伝う湯も綺麗だからね。
嘘のつき方が下手すぎるわ。
夕食の時の反応にしても、せいぜい「今日は何も食べていなかった」という程度の空腹にしか見えんよ。よしやの両親に預かってもらい、一軒家まで用意してもらうと、裕がホームレスではなくなるので、タイトルから完全に外れた内容になる。
兄弟3人で暮らし始めるので、「貧乏ではあるが、それなりに幸せな家族ドラマ」ってことになる。
それならそれで、そこを含まらせるという手もあるが、薄っぺらいのは相変わらずだ。
どんな映画でも確実に仕事をこなしてくれる池脇千鶴が相変わらずの優れた演技を披露して牽引しようとするが、彼女だけで手に負えるモノではない。製作サイドも「ホームレス生活だけで映画を盛り上げるのは厳しい」と分かっていたのか、「母の思い出」という要素を盛り込んでいる。
裕の母が病死するまでの出来事を、何度かの回想シーンに分けて挿入している。
だが、それが映画に面白味に繋がることは無い。
スミ子が急死すると、裕が突如として荒れ始めて「全部しんどい。生きてるのがめんどくさい」と口にするが、「そういうことを言うテメエの方が遥かにめんどくさいわ」と言いたくなる。裕が急に苛立ちや不満を吐露して荒れ始める理由がサッパリ分からないまま、彼は姉と些細なことで喧嘩して家を飛び出す。
映画を見ている限りでは全く表現できていなかったけど、一応は「ホームレス生活は辛かった」という設定のはず。
それなのに、くだらないことで簡単に家出するってのは、どんだけバカなのかと。
こいつはホームレス生活の時もヘドが出るぐらいのバカだったけど、そこから脱却した後も全く成長していない。家出したバカ男の裕は、研一に見つけてもらうと「母が死んでも泣かなかったのは、いつか会えると思っていたからだ。しかしスミ子が死んだことで、もう会えないとハッキリ分かった。だから、生きているのが面倒になった」という気持ちを語る。
そこで荒れ始めた理由は説明されるが、「なるほど」と納得できるわけではなく、「やっぱりバカだわ、こいつ」と呆れるだけだ。
中学2年生にもなって、まだ「いつかは死んだ母と再会できる」と信じているって、それだけでバカだし、ちっとも同情心は湧かないし。
「スミ子の死で母のことを連想して云々」という要素でも用意しないと話の着地点が見つからなかったんだろうけど、取って付けたような印象がハンパないし。ラスト寸前に裕の「お母さんを失ったあの日から、僕らはみんなホームレスでした。お父さんは、それを教えてくれたのかもしれません」というモノローグが入るけど、「何言ってんの?」と呆れてしまう。
そんな無理のある台詞で急に話をまとめて、父親まで擁護しようとしても、誰の理解も得られないぞ。
その後には「僕に出来る唯一のことは、お母さんを笑わせることでした。だから、この先も僕は笑わせ続けようと思います。お母さんを。家族を。まだ知らんみんなを」という語りが入り、19歳になった裕が漫才師の卒業公演に出ている姿が写し出されるけど、そこで急に「漫才コンビ“麒麟”の田村裕」に繋げるメリットも必要性も皆無だわ。
むしろ、急に舵を切ったせいで、完全に沈没してるわ。
まあ、それ以前から、ほぼ沈んでるけど。(観賞日:2016年9月12日)