『HOKUSAI』:2021、日本

[壱の章]
鎖国が続く江戸時代には町人文化が花開き、浮世絵や洒落本が楽しまれていた。しかし幕府は徳川の威信が揺らぐことを恐れ、厳しく取り 締まるようになった。蔦屋重三郎が版元を務める耕書堂は取り締まりの対象となり、店内にあった多くの書物は看板と共に焼却処分された 。しかし蔦屋は「頭一つ抜けた版元というお墨付きを貰った」と前向きに捉え、耕書堂が注目を集める良い機会になったと考えた。吉原へ 出向いた彼は、女郎の絵を描いている喜多川歌麿と会った。歌麿は蔦屋に、花魁の麻雪を呼ぶよう頼んだ。
蔦屋は麻雪の元へ行き、仕事を依頼する。しかし麻雪は以前に絵師の仕事で一晩中立たされた経験があるため、二度とやりたくないと拒む 。麻雪は上から覆い被さるようにして絵を描いた絵師を嫌悪し、山猿だと評した。話を聞いた蔦屋は、その絵師に興味を抱いた。彼は店員 の瑣吉から、その絵師は勝川春朗だと教わった。瑣吉は「ウチでも何枚か扱っています」と言い、春朗の絵を見せた。彼は「腕は悪くない が面倒な奴」と春朗について説明し、兄弟子を殴って破門されていることを蔦屋に教えた。
蔦屋は春朗が住む長屋を訪れ、耕書堂で描かないかと誘う。春朗は生意気な態度を示し、「人の指図で描きたくない」と断った。その日は 去った蔦屋だが、別の日に春朗が帰宅すると部屋に小判2枚が置かれていた。春朗は耕書堂へ出向き、蔦屋が吉原にいることを瑣吉に聞く 。春朗が吉原へ赴くと、蔦屋は歌麿と一緒にいた。蔦屋は麻雪を呼び、歌麿に描かせようとしていた。歌麿は春朗に、「おめえの描く女は 色気がねえ。目の前にある物に似せて描いただけだ。上っ面だけの絵だ」と告げた。春朗は去ろうとするが、「逃げるのか」と言われて 残る。蔦屋は彼に、歌麿が麻雪を描く様子を見ておくよう促した。
翌日、春朗が耕書堂へ行くと、蔦屋は不在だった。春朗は瑣吉に小判を差し出し、蔦屋に渡すよう要求した。瑣吉が小判を受け取って絵を 描くよう促すと、春朗は拒否した。瑣吉が「描けよ、自信ねえのか」と告げると、彼は「馬鹿言うんじゃねえよ」と声を荒らげた。彼は 数枚の美人画を描き、蔦屋の元へ持参した。すると蔦屋は「どういうつもりだ」と冷たく言い放ち、なぜ絵を描くのかと尋ねる。「下っ端 からでも勝ち上がれる」と春朗が語ると、彼は「なら、辞めちまえ。そんなくだらないことにこだわってるなら」と告げた。
遊郭の主人である源次郎は、客が道楽で描いた歌舞伎の役者絵を蔦屋に見せた。蔦屋は全て買い取ると告げ、絵を描いた東洲斎写楽という 青年に会った。蔦屋は版画を作成し、儲けを度外視して平刷りにした。春朗が耕書堂の前を通り掛かると写楽の絵が大量に飾られ、大勢の 人々が集まっていた。蔦屋は春朗に気付き、写楽に会いたくないかと持ち掛けた。彼は春朗を吉原へ連れて行き、写楽の宴席に参加させた 。座敷に姿を見せた歌麿は、写楽に対して露骨に不快感を示した。
春朗が「あんな絵を描く奴は絵師とは呼ばねえ」と怒鳴ると、蔦屋は写楽が誰の門下でもなく師匠を持たないことを教える。春朗が「なら 、なんで絵が描けるんだ?」と言うと、写楽は道楽で描いただけだと告げた。春朗が激昂すると、写楽は「私はただ、心の赴くままに描く だけです」と涼やかな態度で言い放った。長屋に戻った春朗は絵を描くが納得できず、あちこちを徘徊する。浜辺に辿り着いた彼は、海に 漂った。海から出た彼は、浜辺に絵を描いた。
病気で寝込んでいた蔦屋は、春朗が絵を持参したと聞いて面会した。春朗が描いた簡易な波の絵を見た彼は、「いい絵だ」と正式に一枚を 描くよう依頼した。春朗が絵を完成させると、蔦屋は「やっと化けたな」と口にした。この時から春朗は、「北斎」と名乗るようになった 。蔦屋は彼に世界地図を見せて、江戸の小ささを教えた。それから彼は、見たことも無い国を訪れて店を開き、絵を売る夢を語った。その 後、病気が悪化して蔦屋は死去し、葬儀が執り行われた。

[弐の章]
北斎はコトと結婚し、多くの弟子を抱える立場になった。瑣吉が戯作者となって「滝沢馬琴」と名乗り、北斎は彼の挿絵も手掛けていた。 北斎が話の内容に関係ない絵まで描くので、馬琴は修正を要求した。北斎が拒否して「俺は俺の好きに描く」と言うと、馬琴は憤慨しつつ も絵に合わせて話を書き直した。北斎は版元の山崎屋から柳亭種彦の妖怪本を渡され、夢中になって読んだ。ある版元が開いた妖怪百物語 に北斎や馬琴が参加していると、歌麿が捕まったという知らせが届いた。御禁令に背いた絵を描いていた彼は、見せしめで捕まったのだ。 版元たちが慌てて解散する中、北斎は落ち着き払った態度で帰宅し、絵を描いた。
北斎はコトから妊娠を打ち明けられるが、まるで嬉しそうな様子を見せなかった。コトに喜ばない理由を問われると、北斎は「こんな世の 中に生まれてきた子が、本当に幸せになれるのか」と口にした。するとコトは北斎を見つめ、「そんな顔じゃ、幸せがやって来るはずが ないでしょ。この子は生まれてくるのを待ち侘びているんです。私たちが喜んでやらないで、どうするんです」と告げた。北斎は納得し、 産まれて来た娘のお栄を可愛がった。

[参の章]
老人になった北斎は前年にコトを亡くし、田舎で絵を描き続ける日々を過ごしている。種彦は彼の家を訪れ、挿絵の仕事を依頼している。 武士でもある種彦は、上司の永井五右衛門から堕落した読み物を厳しく取り締まるよう指示されている。それを聞いた北斎は、「言いたい 奴には言わせておけばいい」と述べた。北斎は脳卒中で倒れ、回復するが右手に痺れが残って思うように絵を描けなくなった。しかし彼は 「今だからこそ見える物がある」と考え、全国行脚の旅に出た…。

監督は橋本一、企画・脚本は河原れん、エグゼクティブプロデューサーは細野義朗、プロデューサーは中山賢一、共同プロデューサーは吉原大佑、題字は伊藤康子、アソシエイトプロデューサーは勅使川原千春&大西結衣、撮影監督はニホンマツアキヒコ、撮影は角田真一、照明は佐藤宗史、録音は久連石由文、美術は相馬直樹、衣装は宮本まさ江、編集は掛須秀一、音楽は安川午朗。
出演は柳楽優弥、田中泯、阿部寛、永山瑛太、玉木宏、青木崇高、瀧本美織、辻本祐樹、津田寛治、浦上晟周、城桧吏、芋生悠、魏涼子、関幸治、石原淋、河原れん、峰蘭太郎、谷口高史、白井滋郎、芦屋雁三郎、小峰隆司、大石昭弘、山田幸晴、高畑敬樹、山根誠治、久保山知洋、米田良、山本賢太郎、堀田絆史、及川莉乃、勇家寛子、五島さとし、赤星満、キャッチャー中澤、春木生、本山力、山本悠央、菜山有加里、山本宗介、石原寛子、木村天音、加藤千果、増岡恵美、下園千晴、カワバタアキエ、新堂夢実、巻山真結子、桐生みほ、藤崎絢己、芝田璃子ら。


江戸時代の人気絵師である葛飾北斎の半生を描いた作品。
監督は『シマウマ』『相棒 -劇場版IV- 首都クライシス 人質は50万人! 特命係 最後の決断』の橋本一。
脚本は『余命』の河原れんで、お栄役で出演もしている。
青年・壮年期の北斎を柳楽優弥、老年期の北斎を田中泯、蔦屋を阿部寛、種彦を永山瑛太、歌麿を玉木宏、鴻山を青木崇高、コトを瀧本美織、馬琴を辻本祐樹、永井を津田寛治、写楽を浦上晟周、少年期の北斎を城桧吏、麻雪を芋生悠、トヨを魏涼子、源次郎を関幸治が演じている。

端的に表現するならば、これは「スターダストプロモーションの、スターダストプロモーションによる、スターダストプロモーションのための映画」である。
企画・脚本の河原れんは、スターダストプロモーションの代表取締役を務める細野義朗の奥様。
細野義朗は本作品のエグゼクティブプロデューサーで、作品の配給はスターダストピクチャーズ。
柳楽優弥や城桧吏、瀧本美織や青木崇高は、スターダストプロモーション所属の俳優。
つまり、そういうことだ。

冒頭で少年時代の北斎の様子が少しだけ写るが、この時点では何者でもない。そして「鎖国が続く江戸時代には云々」という文字が出た後、耕書堂が役人に荒らされるシーンになる。
ここから物語を始めることによって、「蔦屋の物語」という形になる。
とは言え、それが悪いわけではない。「蔦屋の視点から北斎を描く」という見せ方をすれば、何の問題も無い。
ところが、その後に「蔦屋が吉原へ赴いて歌麿と会う」という展開に続けると、「それは違う」と言いたくなる。
北斎より先に有名人である歌麿を登場させることによって、完全に「蔦屋の物語」という図式が出来上がってしまうからだ。

「歌麿を登場させるな」と言いたいわけではない。当時の江戸を描く上で、歌麿が出て来るのは普通の流れだし、むしろ排除してしまう方が不自然になる恐れが高い。
ただ、「蔦屋が関わる相手」として、北斎より先に歌麿を登場させるのはマズい。
実際に北斎よりも先に歌麿は蔦屋と仕事をしていたわけだが、「だから仕方がない」ということではない。例えば、「蔦屋が北斎の存在を知って接触する」というエピソードの後で、「蔦屋が歌麿に北斎のことを話す」という形でもいいだろう。
あるいは、「蔦屋と仕事をするようになった北斎が、耕書堂か吉原で歌麿と出会う」という形でもいいだろう。やり方なんて、幾らでもある。
後で「北斎が蔦屋と会うために吉原へ行くと歌麿がいる」というシーンもあるんだから、そこが歌麿の初登場でもいいだろうし。

麻雪は北斎(春朗)のモデルを務めた経験について蔦屋に語り、不快感を示している。
だが、貧乏絵師だった頃の北斎が、なぜ花魁の麻雪をモデルにすることが出来たのか。
花魁を買うような金なんて無かったはずでしょ。「まだ麻雪が人気の花魁になる前」ってことなのか。だとしても、そんなに昔のことじゃないはずでしょ。
だけど、回想シーンからすると、どうやら遊郭じゃなくて別の場所っぽいんだよね。
ってことは、師匠のコネか何かでモデルに出来たのかな。そこは色々と疑問が湧くなあ。

麻雪という女性が、ちっとも特別な存在には見えてこない。花魁としての圧倒的なオーラやゴージャスさが、まるで感じられない。
これはルッキズムに関わる批評ではなくて、表現としての問題だ。
蔦屋が面会するシーンでは2人の禿(かむろ)を伴っているし、歴史的な考証を全くやっていないわけではなさそうだ。だが、普通に考えれば、花魁ってのはそう簡単に会える相手ではない。一見さんで会ってお喋り出来るってのは、有り得ないはず。
蔦屋がそれを許されるぐらい特別な客であるなら、それは説明しておく必要があるし。遊郭の主人が蔦屋の弟ってのも、しばらくは分からないままだし。
そこに限らず、説明不足が多いのよね。

歌麿は北斎と初めて会った時、「おめえの描く女は色気がねえ。目の前にある物に似せて描いただけだ。上っ面だけの絵だ」と酷評する。
この時、同席している蔦屋は何も言わないが、同じ意見のはず。それなのに北斎をスカウトした理由は何なのか。
「色気が無くて目の前の物に似せて描いただけ」と思っているのに、それでも北斎の絵に魅力を感じたんでしょ。でも、どこに惹かれたのかサッパリ分からない。
「覆い被さってまで描いた」とか、「描きたい物は気が済むまで描く」とか、そういう絵に対する取り組み方しか伝わって来ないのよ。
でも、そんなのは、それこそ上っ面だけの評価に過ぎないわけで。

歌麿が麻雪を描くシーンでは、彼の何が凄いのか、その絵の何が素晴らしいのか、そういうことが全く伝わらない。
それを見ていた北斎が何を感じたのか、それも分からない。
その北斎が美人画を持って行くと蔦屋は「どういうつもりだ」と批判するが、だったら歌麿が麻雪を描く様子を見るよう要求し、負けん気を煽ったのは何だったのか。それは北斎に美人画を描かせるためじゃなかったのか。
行動と目的が合致していないようにしか思えないぞ。

北斎に蔦屋に酷評されて憤慨したら、そこから「北斎が改めて絵を描き、蔦屋を訪ねる」とか、「北斎が絵を描く理由について考える」とか、ともかく「北斎の行動や心情を描く」という手順に繋げるべきだろう。
ところが、この映画は「蔦屋が東洲斎写楽の絵を知って購入する」という展開に繋げているのだ。
そこで北斎から目を離して蔦屋のターンに移るって、どういう構成だよ。
それだと、完全に「蔦屋の物語」になっちゃうでしょうに。

北斎が吉原で歌麿や写楽と対面するシーンがあるのは、「北斎が他の絵師から刺激を受けて、自身の作風を確立させていった」ってな感じの話にしたかったんだろう。
だけど、歌麿や写楽の登場は「蔦屋のターン」として描かれているし、北斎を彼らと会わせるのも蔦屋だ。
ところが、ずっと「蔦屋の目から見た北斎」という形で貫くわけではないので、まるで足元が定まっていない。
蔦屋を大きく扱うのは別にいいとして、彼の視点から描くパートを何度も入れたことが、この映画をボンヤリさせた一番の原因になっている。

歌麿の絵だけでなく、写楽の絵に関しても、どこが凄いのかが伝わって来ない。
何が蔦屋を興奮させたのか、なぜ儲けを度外視してでも平刷りを決めたのか。
それまでの絵とは全く違うので売れないリスクもあるが、それでも蔦屋は大胆な戦略を決断し、それが大当たりしたはずだ。でも、そういう経緯が全く伝わらない。
色んなトコで解説が必要な内容なのに、そのための作業が皆無。実質的な解説役を配置することも無ければ、会話によって説明するわけでもない。俯瞰のナレーターに解説させるわけでもない。

写楽の絵に関しては、宴席のシーンで歌麿や北斎が「縮尺が違う」「ひょっとこのような顔」などと馬鹿にするが、それだとタイミングが遅い。
写楽の絵が版画として大々的に売り出される前の段階で、「それまでの絵とは何が違うのか」ってことも、「普通の感覚では売れると思えない」ってことも、観客にアピールしておく必要があるのだ。
っていうか、「北斎の物語」にキッチリと焦点を絞り切れていれば、そんな説明を入れずに済んだ可能性が高いんだけどね。

柳楽優弥はハマった時には素晴らしい存在感を見せる役者だが、決して器用なタイプではない。この映画では残念ながら彼のダメな部分が強く出ており、芝居が下手に感じる。
あと、彼が演じる北斎の年齢設定がサッパリ分からない。師匠に破門された後だから30代のはずだが、史実通りの描写かどうかも判然としないし。
不満を示しながらも歌麿が絵を描く様子を見たり、写楽と会ったりするが、そのくせ不機嫌そうな態度を示したり簡単に激怒したりするのは、ものすごく子供っぽく感じる。
でも、「いい年をしているのに中身は子供」ってことなのか、それとも本当に若いのか、その辺りが全く分からない。

北斎は写楽の宴席から去った後、長屋に戻って絵を描く。その後、彼が色んな場所を徘徊する展開になるのは、「思うような絵を描くことが出来なかったから」ってことだろう。
ただ、「思うような絵を描けないから歩き回る」ってのは、「なんで?」と言いたくなる。その後、海に辿り着いた北斎は浜辺に絵を描き、耕書堂に赴いて波の絵を蔦屋に見せる。「波を見て描きたいと思ったから描いた」ってことではあるんだけど、ちっとも上手い流れになっていない。
波を見た北斎が「これだ」と強く感じたことも、まるで伝わって来ない。
彼が蔦屋に見せた波の絵も、そんなに強烈に引き付ける力があるようには感じない。

蔦屋が北斎に世界地図を見せて夢を語り、「絵を見るには、言葉や文字は関係ねえ。面白え物は誰が見たって面白えんだ。絵はな、世の中変えられるんだぞ」と語るシーンがある。
だが、そんな言葉を聞いた北斎が何を感じたのか、どんな影響を与えたのかは、全く分からない。
蔦屋が死去した後、北斎が長屋で絵を描いているシーンがあるが、「蔦屋の死」という出来事が彼に何を感じさせたのか、何をしようと思わせたのか、そういうことも全く伝わって来ない。

北斎は西洋画の技法である遠近法を取り入れて風景画を描くようになったはずだが、そこは完全に無視して「海を見て波の絵を描くようになった」というだけに留めている。
北斎漫画を始めるなど革新的な表現を次々に生み出したはずだが、それも無視している。「絵師として常に挑戦を続けた革命児だった」という掘り下げ方は、全く意識していない。
また、人気絵師になった後も全く裕福な暮らしをしている気配は無いが、その理由についても全く言及しない。
では北斎の何を描こうとしたのか、どういう切り口から描こうとしたのか、そういうことが全く見えて来ない。

映画は開始から55分辺りで[壱の章]から[弐の章]に移るが、チャプター形式にしている意味を全く感じない。時間の飛躍を示したかったんだろうってのは分かるが、普通に「何年後」と出せばいい。そっちの方が、遥かに親切だ。
そんな[弐の章]に入った後、映画を見ているだけで瑣吉が戯作者の滝沢馬琴になったことを理解できる人は、ごく少数だろう。
そして瑣吉が戯作者になった経緯も、まるで分からない。
また、コトと結婚に至る経緯も、多くの弟子を取るほどの人気絵師になる経緯も、バッサリと省略されている。それどころか、発端となる部分さえ何も無い。

北斎は種彦の妖怪本を読んで夢中になるが、そこから「北斎が種彦の元を訪れる」とか「北斎が種彦と一緒に仕事をする」という展開に入るのかと思いきや、百物語のシーンになる。
そこに歌麿が捕まったという知らせが届くが、北斎の仕事や考えに影響や変化が起きる流れを描くのかと思いきや、コトから妊娠を告げられるシーンになる。
進もうとする道筋がまるで定まらず、ずっと千鳥足のような状態だ。
そして、なんと種彦が登場しないまま[弐の章]が終了し、彼の初登場は[参の章]なのだ。
どんだけイカれたセンスだよ。

[参の章]では一気に北斎の老人期へ移っているが、そこまで飛躍するぐらいなら、青年期か老人期か片方に絞り込んだ方がいいよ。
その両方を描いている意味が、何も感じられないし。老人期だけにして、富岳三十六景を描くエピソードに絞ってもいいぐらいだ。
とにかく、最後まで何を描こうとしているのか、どこに焦点を当てようとしているのか、どういう切り口で北斎を描こうとしているのかが全く見えてこない映画なのだ。
ラストも「これで終わり?」と言いたくなるぐらい、盛り上がりに欠ける変な締め括り方だし。

(観賞日:2022年9月21日)

 

*ポンコツ映画愛護協会