『必死剣 鳥刺し』:2010、日本

海坂藩物頭の兼見三左エ門や保科十内、中老の津田民部、藩主の右京太夫や側室の連子たちは、能舞台を観劇していた。能が終わると連子が拍手し、それを受けて右京も手を叩く。その様子を見てから、他の面々も拍手した。右京に続いて連子が去ろうとすると三左エ門が立ち塞がり、刀で腹を突き刺した。周囲が騒然とする中、三左エ門は刀を置いて民部に「ご面倒をお掛けします」と頭を下げた。兼見の本家筋の従弟である伝一郎は、父の清蔵から「三左エ門の斬首とお取り潰しは免れまい」と聞かされた。
大目付の大場兵部や筆頭家老の矢部孫千代たちは執政会議を開き、三左エ門の処分について話し合う。三左エ門は勤勉実直で穏やかな人物という評判の持ち主で、右京や連子への不満を聞いた者もいなかった。彼は妻を病気で亡くして子供はおらず、取り潰しも覚悟の上の行動だと思われた。矢部は切腹も止む無しと考えるが、民部は反対した。民部は三左エ門に、1年の閉門と禄高の減石、無役という軽い処分を通告した。切腹を希望していた三左エ門は抗議するが、民部は「これは上様が下された御沙汰である」と告げた。
三左エ門は下男と若い女中を田舎に帰らせ、姪の里尾が世話係を請け負った。里尾は不縁になって里に帰るしかないところを、三左エ門の亡き妻である睦江の好意で住まわせてもらっていた。三左エ門が「そろそろ身の振り方を考えたらどうだ」と言うと、彼女は「今さらよそへなど行きたくありません」と留まることを望んだ。里尾は三左エ門のため、甲斐甲斐しく動き回った。彼女は1人だけ残っている女中のはなに手伝ってもらい、庭に畑を作ることにした。
三左エ門は木工細工の作業をしながら、過去を振り返る。右京は連子の言いなりで、彼女は政治にも関与するようになっていた。物頭の光岡たちが連子の陰口を叩いているのを、三左エ門は静かに聞いていた。連子は贅沢三昧を繰り返していたが、百姓の窮状を知る勘定方の安西直弥は右京に倹約を求めて上申した。これに腹を立てた連子は「藩の財政問題は安西の能力不足」と糾弾し、切腹を要求した。安西は右京に訴えるが、全く聞き入れられなかった。
三左エ門は十内から飲みに誘われ、庶民からは右京と藩政に対する不満ばかりが聞こえてくると告げられた。彼は三左エ門に、右京と別家の不和は知っているかと問い掛けた。右京は連子に求められ、一族に縁のある興牧院の再興を決めた。しかし興牧院は廃寺となっており、財政難にも関わらず莫大な費用が掛かる事業だった。連子が再興を求めたのは、自分の父親を寺の当主に据えるためだった。別家の人間である帯屋隼人正は連子を糾弾するが、右京は腹を立てて追い払った。
1年が経過して閉門が解けた三左エ門は領内を巡り、馬で移動する帯屋の姿を目撃した。1人で歩きながら、三左エ門は過去を振り返る。連子の入れ知恵で右京が赤石郡の年貢取り締まりを厳しくしたため、凶作に苦しんでいた百姓たちは憤慨した。耐え切れなくなった百姓の茂吉たちは農機具を手に取り、江戸へ訴え出ようとする。三左エ門たちが戦の準備をする中、帯屋が百姓を説得した。しかし右京は百姓を許さず、代表の茂吉たちを殺して晒し首にした。
興牧院を訪れた三左エ門が連子の墓を見つめていると、彼女の侍女だった多恵が尼僧となって現れた。多恵が連子を殺した理由を尋ねると、三左エ門は無言のまま立ち去った。彼は親族との交わりを断ち、客を全て断った。二年後、三左エ門は民部に呼ばれ、禄高を元に戻して近習頭取を命じると告げられる。三左エ門が困惑していると、民部は右京が殊勝な心掛けを気に入ったのだと説明した。三左エ門は右京の近くで仕事を始めるが、息苦しさを感じた。
三左エ門は隠居した十内と会い、里尾の嫁入り先を見つけてほしいと頼んだ。後日、十内が普請組の牧藤兵衛を連れて三左エ門の屋敷に来ると、里尾は複雑な表情を浮かべた。右京が自分を赦していないと感じた三左エ門は職を解いてほしいと頼むが、認められなかった。彼は民部の屋敷に呼ばれ、天心独名流の達人で鳥刺しという秘伝があることについて質問された。三左エ門は鳥刺しについて、流儀の秘伝ではなく自分が細工した技だと話した。民部は直心流の達人である帯屋が謀反を企てていると語り、右京を守るよう命じた…。

監督は平山秀幸、原作は藤沢周平『必死剣鳥刺し』(『隠し剣孤影抄』文藝春秋刊)、特別協力は遠藤展子&遠藤崇寿、脚本は伊藤秀裕&江良至、製作は伊藤秀裕&中曽根千治&平城隆司&尾越浩文&川村龍夫&外村衆司、プロデューサーは江川信也、ラインプロデューサーは霜村裕、撮影は石井浩一、美術は中澤克巳、照明は椎原教貴、録音は田中靖志、編集は洲崎千恵子、アソシエイトプロデューサーは増沢正康、殺陣・所作指導は久世浩、音楽はEDISON。
主題歌『風に向かう花』歌:alan、作詞:松井五郎、作曲:菊池一仁、編曲:中野雄太。
出演は豊川悦司、池脇千鶴、吉川晃司、岸部一徳、小日向文世、戸田菜穂、関めぐみ、村上淳、高橋和也、油井昌由樹、矢島健一、十貫寺梅軒、外波山文明、木野花、瀧川鯉昇、福田転球、俊藤光利、つまみ枝豆、建蔵、村杉蝉之介、針原滋、山田キヌヲ、広岡由里子、石山雄大、前田健、生津徹、田中聡元、佐々木崇雄、中村憲刀、安倍照雄、田中里枝、竹下江里子、亀谷さやか、小林恵、影山英俊、加藤隆之、矢野浩行谷口公一、大岩匡、山形清貴、河西祐樹、松原誠、西本篤志、坂上祐哉、佐藤文吾、柴崎真人、春風亭伝枝、梅田宏、宮澤寿、松本匠、森雄次ら。


藤沢周平の『隠し剣 孤影抄』所収の同名短篇小説を基にした作品。
監督は『しゃべれども しゃべれども』『やじきた道中 てれすこ』の平山秀幸。
脚本は『大阪ハムレット』の伊藤秀裕&江良至。
三左エ門を豊川悦司、里尾を池脇千鶴、帯屋を吉川晃司、民部を岸部一徳、十内を小日向文世、睦江を戸田菜穂、連子を関めぐみ、右京を村上淳、伝一郎を高橋和也、大場を油井昌由樹、矢部を矢島健一、清蔵を外波山文明、はなを木野花、安西を瀧川鯉昇、牧を福田転球、多恵を山田キヌヲが演じている。

冒頭で三左エ門が連子を刺殺するシーンが描かれるが、大いに違和感がある内容となっている。
刺された連子が倒れ込んで侍女の悲鳴が上がるまで、周囲の人間が全く気付いていないかのように、何も気にしていないかのように見えるのだ。いや、見えるっていうか、まるで見えないんだよね。
何を言ってんのかと思われるかもしれないが、三左エ門が連子に立ちはだかって刺殺するまで、周囲の様子を見せない絵作りにしてあるのだ。
だから、いきなり立ち上がった三左エ門が連子に駆け寄る行動に対する周囲の戸惑いとか、刀を抜いて突き刺す行為への驚愕とか、そういった反応が分からないのだ。

何しろ殺人から映画をスタートさせているので、三左エ門の個人的な情報については何も分からない状態だ。彼の家で里尾が暮らしていることも、台詞で触れて初めて分かる。
「睦江おば様の好意で」と言われても、その睦江が誰なのかは分からない。直後に回想シーンが入り、そこで睦江が三左エ門の妻だと判明する。
ただ、三左エ門が病気の睦江と仲良くしている様子を回想シーンで見せられても、まるで不要なんだよね。三左エ門の睦江に対する愛情なんて、本筋と全く絡まないんだし。
三左エ門と里尾の恋愛劇においては、全く関わりが無いとは言わないけど、わざわざ回想シーンを入れる効果は無い。っていうか、上手く絡ませることが出来ていないし。

右京が連子の言いなりになっていることは分かるが、ずっと何の反応も見せずに淡々としているため、「連子を溺愛しているから全てを容認している」ってことが伝わりにくい。
それどころか、「なぜ連子の言いなりになっているんだろう」と疑問を抱いてしまうのだ。
映画を見ていると、「連子に洗脳されて正常な神経を失っている」という感じに見えちゃうのよね。
例えば安西が「本当に切腹は上様の命令なのか」と訴えた時に無表情で去るだけなんだけど、ここの反応なんかも違和感があるし。

原作が短編なので、そのままだと長編映画にならない。薄く引き伸ばして時間を稼ぐだけでは絶対にダメだし、オリジナルのエピソードを盛り込む必要がある。
しかし何をどんな風に加えるか、どこに厚みを持たせるかというトコで、この映画は完全に失敗している。
例えば1年の閉門は、ただ時間をダラダラと費やしているだけで、ほとんど中身が無い。
起こした事件に対して三左エ門の抱える感情が伝わるでもないし、里尾の献身的な愛が充分に描かれているとも言えない。

睦江が生きていた頃の回想シーンに時間を割いているので、そこに重きを置いているのかもしれないが、それにしても現在進行形のシーンにおける中身が無さ過ぎる。
それなのに1年が経過するまで30分ぐらい掛かるので、退屈になってしまう。
そこでは連子の横暴や右京と帯屋の不和を描く回想シーンも入るが、これも「そんなことがありました」という出来事を描いているに過ぎない。
ザックリ言っちゃうと、「説明」に留まっているのよね。

連子の横暴をアピールするためのシーンにも、かなりの時間を使っているのだが、そこには大いに引っ掛かる問題がある。
それは三左エ門の感情がゼロに等しいってことだ。
同僚が連子について話している時も、安西の切腹を知った時も、百姓の窮状を知らされた時も、常に三左エ門は無表情で全く感情を見せないのだ。
そこまで徹底しているんだから意図的なのは明らかだが、それがマイナスにしか感じない。彼が義憤に駆られたとか、使命感に燃えたといった理由で連子を殺したのなら感情移入も出来ようが、何も見えて来ない。

っていうか里尾の台詞からすると、たぶん三左エ門って「妻を亡くして死に場所を求めていた」という動機で連子を殺しているんだよね。
死ぬための理由が欲しかっただけで、極端に言ってしまえば百姓の苦しみや理不尽な処刑なんて別にどうだっていいってことになるのよ。
そんな奴が主人公という時点で、かなり難しいモノがある。
その一方で、帯屋は分かりやすく連子と右京の横暴を糾弾し、苦しむ百姓たちに寄り添っている。
そうなると、こいつの方が主人公としては遥かに適任じゃないかと。

そんな中で「三左エ門が右京を殺そうとする帯屋の計画を阻止し、始末する」という仕事を請け負っているもんだから、ますます「どっちが主役なのか」と言いたくなる。
それなりに苦悩はあるのかもしれないが、これまた全く伝わって来ないし。
しかも民部や右京がクズ野郎なのはバレバレなので、そんな奴らに利用されて「正しい人」である帯屋を殺す三左エ門が不愉快なボンクラにしか見えない。
最終的に民部を殺しても、まるでリカバリーできていない。しかも、もう1人のクズである右京は生き延びちゃうし。

三左エ門は民部から右京を守る任務を命じられた後、万が一を考えて嫁に行くよう里尾に告げる。それは「帯屋と戦って死ぬかもしれないから」ってことのはずだが、里尾から「いつまでも傍に置いてください」と言われると簡単に肉体関係を持つ。
そこは「傍に置いて」とお願いされても、ストイックに断るべきじゃないかと。
そこまでに彼が里尾への恋愛感情を見せたことなど皆無なので、彼女への思いやりよりも肉欲を優先しているようにしか見えないし。
「妻を亡くして死に場所を求めていたが、里尾を愛したことで生きることを願うようになる」という変化を見せたかったのも知れないが、全く実践できていないし。

民部が三左エ門を呼んで右京を守る任務を命じるシーンで、「三左エ門も帯屋も剣の達人」ってことが初めて明らかにされる。
でも、そこまでに2人が剣術の能力を披露するシーンが無いので、どれぐらいの腕前なのかがサッパリ分からない。だから「達人同士の戦い」という図式についても、ボンヤリしたモノになってしまう。
あと、鳥刺しは誰も見たことが無い秘伝のはずなのに、なぜ民部は知っているのか。三左エ門が誰かに喋らなきゃ、絶対にバレないはずでしょ。
あと、「絶体絶命の時に使う秘伝であり、自分も半ば死んでいる」と三左エ門は説明するけど、今まで一度も使ったことが無いんだから、実際に使ったら役立たずの可能性もあるだろ。

終盤、三左エ門は牧と話し、民部の帯屋に関する説明が虚偽だと察する。それでも彼は任務を遂行する意志を変えず、帯屋が右京との面会を要求すると立ちはだかる。
彼は帯屋と対決して殺害するのだが、まるで共感できない。
「民部の説明はデタラメで、帯屋の考え方には理解できる部分も多いが、上司から命じられた仕事なので止むを得ず遂行する」ということなら、まだ分からんでもないのよ。
だけど、三左エ門には何の苦悩も葛藤も見えないのだ。
なので、「だって侍だから」というだけで納得するのは無理だよ。

帯屋が殺されると、民部は「三左エ門が乱心したので斬り捨てろ」と部下たちに命じる。最初から民部は三左エ門を利用して帯屋の始末を目論んでおり、三左エ門を許していない右京も彼の作戦に乗ったのだ。
そして三左エ門は大勢に襲われて深手を負い、倒れ込む。死んだと思った民部が歩み寄ると、三左エ門は彼の腹を突き刺して殺害する。
これが「鳥刺し」だ。
だけど、三左エ門が不用意に近付かないと繰り出せない技なので、「御都合主義がヒドいな」と呆れてしまうわ。
あと、右京は生き延びるので、その後も彼の横暴によって庶民の苦しみが続くことは確定的だから、すんげえモヤッとした気分になっちゃうのよね。

(観賞日:2019年2月6日)

 

*ポンコツ映画愛護協会