『悲愁物語』:1977、日本

東欧の花と呼ばれたソ連の体操選手のチブルスキーは引退後、極東レーヨンの専属モデルとして起用された。日栄レーヨン社長の井上は企画室長の森を呼び、チブルスキーを上回るタレントを探し出すよう命じた。森は国際構造研究所の所長でファッションコーディネーターの田所圭介と会い、協力を要請した。森はCMディレクターの古沢と会い、今の企画を中止するよう指示した。田所と森が目を付けたのは、プロゴルファーの桜庭れい子だった。れい子はキャディー時代にプロゴルファーの高木から才能を認められ、彼の引退後に上京した。彼女は新人王を獲得しているが、それだけではCMタレントとして弱いと田所は感じた。
田所は週刊ゴルフダイジェストに掲載されているれい子の記事を読み、編集長の三宅精一が恋人だと見抜いた。彼は三宅と会い、れい子に1ヶ月後の日本選手権を獲らせたいと話す。三宅は無理だと考えて断ろうとするが、300万円の報酬を提示されて態度を変えた。彼は弟で中学生の純と暮らすれい子の元へ行き、これはチャンスだと説得した。三宅は高木にコーチを依頼し、れい子を預けた。古沢は写真撮影を行い、れい子が水着姿でパットのラインを読む姿が広告に使われた。
れい子は日本女子プロゴルフ選手権大会に出場し、トップを走っていた所恵子を抜いて優勝した。井上はれい子を売るため、レギュラーで出演するテレビ番組を決めた。れい子は一軒家を購入し、純を連れて引っ越した。近所に住む主婦の阿部友子は妬みを抱き、騒音の苦情を訴える電話を掛けた。主婦の仙波加世は、れい子が司会を務める『アフタヌーンバラエティ さわやか3時』の観覧に出掛けた。番組が終わってれい子がスタジオを出る時、加世は握手を求めた。帰宅した彼女は、夫の道造に「れい子ちゃんに会って来たのよ」と嬉しそうに話す。彼女は「私が写ったの、ちゃんと見てた?」と浮かれた様子で言うが、道造は適当に受け流した。
加世は近所に住む長谷川公江たちを訪ね、「テレビに出たの。これはお裾分け」とれい子のサイン色紙を配った。彼女は近所の主婦たちに陰で「頭がおかしい」と馬鹿にされるが、まるで気付いていなかった。加世は車で帰宅するれい子を目撃し、笑顔で呼び掛けた。れい子が車を停めると、彼女は「昨日はどうも。ほら、テレビでご一緒した」と話す。しかし共演者ではないので、れい子は困惑した様子を見せる。加世は冷たくされたと感じ、れい子に強い恨みを抱いた。
田所は三宅に、全米女子プロ1位のジュディー・ダンカンを呼んでれい子と対決させる企画を考えていると明かす。三宅がれい子を車で家まで送り届ける時、加世はわざと飛び出してはねられた。加世は怪我を負うが、三宅は無視して通り過ぎた。れい子が激しく動揺すると、三宅は「ジュディー・ダンカンとの試合があるんだ。ガタガタするな」と黙っているよう命じた。れい子が帰宅すると加世が現れ、鋭い声で「葬ってやる」と言い放った。れい子が何でも言うことを聞くと約束して謝罪すると、加世は法外な慰謝料と治療費を請求する。さらに彼女は、れい子の髪を短く切ってテレビに出演させた。
加世はれい子の仕事中、勝手に彼女の屋敷へ上がり込んだ。純と遭遇した彼女はれい子の友達だと自己紹介し、食事を用意した。れい子は度重なる加世の要求に耐えかね、三宅に事情を打ち明けた。三宅は桜庭家へ行き、二度とれい子に関わらないよう加世に約束させた。加世が約束を破ってれい子の家へ行こうとすると、三宅が待ち伏せていた。三宅は空き家に加世を連れ込んで胸を揉みしだき、首を絞めて脅しを掛けた。加世が通報したため、三宅は刑事に捕まった。加世はれい子を脅迫し、彼女の友人としてテレビ番組に出演した…。

監督は鈴木清順、原案は梶原一騎、脚本は大和屋竺、製作は梶原一騎&藤岡豊&川野泰彦、プロデューサーは川野泰彦&野村芳樹&浅田健三、撮影は森勝、照明は小林秀之、録音は大橋鉄矢、美術は菊川芳江、編集は鈴木晄、ゴルフ指導は勝俣大三郎、音楽は 三保敬太郎&とみたいちろう。
出演は白木葉子、原田芳雄、江波杏子、宍戸錠、岡田真澄(岡田眞澄)、和田浩治、佐野周二、仲谷昇、小池朝雄、玉川伊佐男、野呂圭介、堀越陽子、左時枝、千代恵、葦原邦子、水野哲、小山麻美、片岡功、白川いづみ、小林かおり、石井くに子、久富惟晴、志賀圭一郎、北上忠行、朝倉俊博、野村隆、大谷木洋子、原田千枝子、横田楊子、赤木孝男(NTV)ら。


『東京流れ者』『けんかえれじい』の鈴木清順が、10年ぶりに監督を務めた映画。
脚本は『不連続殺人事件』『青年の樹』の大和屋竺。
れい子役に抜擢されたのは、新人の白木葉子。原案と製作を務めた梶原一騎が『あしたのジョー』の登場人物と同じ名前を与えてデビューさせたが、わずか2年の活動で芸能界を去っている。
映画は1977年の『愛情の設計』、TVドラマは1978年の『東京メグレ警視シリーズ』に出演した記録が残っているが、他の経歴については不明。
他の出演者は、三宅役が原田芳雄、加世役が江波杏子、刑事役が宍戸錠、田所役が岡田真澄(岡田眞澄)、古沢役が和田浩治、高木役が佐野周二、井上役が仲谷昇、道造役が小池朝雄。

主題歌『戻っておくれ』を歌っている「とみたいちろう」は、後に「MoJo」名義で多くのアニメソングや特撮ソングを手掛けることになる。
なお、この映画では音楽担当で「とみたいちろう」と表記されているが、なぜか主題歌の方は「とたみいちろう」の表記になっている。「み」と「た」の順番が逆になっているのだが、たぶん単純な誤記だろう。
そのまま誰も気付かずに公開されているのは、どういうことなのかと思ってしまうけどね。
で、そんな「とたみいちろう」の主題歌がオープニングで流れて来るのだが、これが作品の内容や雰囲気が全く合っていない。
初っ端から「間違えている」と感じさせて、そこから挽回することの無いまま映画は終わる。

鈴木清順は日活時代に手掛けた『殺しの烙印』が当時の社長である堀久作から「ワケの分からない映画」と痛烈に批判され、専属契約を打ち切られた。
堀久作はシネクラブが企画した「鈴木清順作品三十七本連続上映会」へのフィルム貸出しも拒否し、鈴木清順を支援する面々が「鈴木清順問題共闘会議」を結成して行動を起こす問題に発展した。
最終的には和解に至ったが、鈴木清順は「面倒な監督」というレッテルを張られ、映画界を干されることになった。

その後、竹中労の仲介により、東映の社長だった岡田茂が鈴木清順を預かる形になった。しかし東映の幹部たちは岡田に内緒で、鈴木清順が監督を務める企画を全て潰した。
そんな不遇の時期を長く過ごした鈴木清順に手を差し伸べたのが、漫画原作者の梶原一騎だった。
梶原は『巨人の星』や『あしたのジョー』、『タイガーマスク』や『空手バカ一代』など、数々の漫画を大ヒットさせていた。
『愛と誠』は松竹で映画化され、これをきっかけに映画やTVドラマにも深く関わっていくようになった。

1975年、梶原一騎は藤岡豊と川野泰彦の3人で「三協映画」を設立し、本格的な映画製作を開始した。
第1作が1976年の『愛のなぎさ』で、これは東宝の配給だった。同年には格闘技ドキュメンタリー映画『地上最強のカラテ』『地上最強の空手PART2』が製作され、こちらは松竹の配給。翌年の『雨のめぐり逢い』、そして本作品も、松竹の配給だ。
三協映画を端的に評するならば、「梶原一騎の道楽」である。
格闘技物で出た儲けを、梶原が企画した劇映画の赤字で食い潰すってのが会社の構造になっていた。
1983年には暴行事件で梶原一騎が逮捕され、他にも多くのスキャンダルが明るみに出たこともあり、三協映画は終焉を迎えた。

前述したように、鈴木清順には映画監督として10年のブランクがあった。しかし長いブランクがあっても、彼は何も変わっていなかった。
そして「ワケの分からない映画」と堀久作に批判された頃の感覚から、良くも悪くも何もブレていなかった。
この映画も、仮に日活で製作していたら間違いなく堀久作に批判されていたはずだ。
っていうか、まだ日活末期の作品の方が、シュールに振り切っていることもあって、カルト作品として一部の好事家の人気を得ている。
それに比べると、この映画は鈴木清順のフィルモグラフィーの中でも完全に埋もれていると言っていいのではないか。興行的にも完全に失敗し、2週間も持たずに打ち切りとなっている。

始まってから30分ぐらいは、「スポ根物とドロドロとした人間模様の組み合わせ」といった様相を呈している。
いかにも梶原一騎が得意とするジャンルだが、残念ながら鈴木清順監督との食い合わせは悪い。だからスポ根物の熱血は全く感じないし、人間模様を描くドラマも陰気で退屈なだけだ。
この映画における鈴木清順のひねくれた演出は、シンプルに娯楽映画としての面白さを削いでいるだけだ。
ただし、この映画、実はスポ根物ではなかったのだ。

加世が登場する辺りで、一気に話の内容が変化する。「れい子のファンだった女が歪んだ愛憎で暴走し、狂気で追い詰めていく」というサイコ・サスペンスになるのだ。
この時点で「何か違う」と感じたとしたら、そんなセンスは決して間違っていない。インド映画じゃあるまいし、1本の映画の中で途中からジャンルが変化するのだ。
その急展開で映画が面白くなっていれば大成功なのだろうが、ただ狂っているだけだ。加世も歪んでいるが、それと同じぐらいに作品としても歪んでいる。
ただし重ねて言うが、決してイカれた面白さがあるわけではない。何となく文芸チック、芸術チックな方向に歪んでいて、辛気臭いだけだからね。

れい子がプロゴルファーであることは、早い段階で意味が無い設定と化している。
日本女子プロゴルフ選手権大会では所恵子というキャラがライバル的に登場するが、そこだけで出番は終わる。
彼女を売り込むために多くの人々が動いている設定も、やはり前半で意味が乏しくなる。
古沢とスタッフの面々は、れい子が広告に使われると完全に役割を失っている。田所や井上も、加世が大きく扱われてからは、ほぼ存在意義を失っている。
近所の主婦がれい子を妬む設定も、苦情の電話を掛けるシーンで捨てられる。

これは本当に必要なのかと首をかしげたくなるシーン、何のためにあるのかサッパリ分からない尺の使い方が、幾つもある。
だが、それによって独特の雰囲気を作り出すのが、鈴木清順の演出だ。そこに鈴木清順の美学や哲学がある。
なので「本当に必要なのか」という疑問に対しては、「鈴木清順にとっては必要」という答えがある。
同じく、「何のためにあるのか」という問い掛けに対しては、「鈴木清順のためにある」ってのが答えになる。

いつも花束を持っている男性ファンがれい子の周りにはいるが、こいつの存在も全く使いこなせていない。
純は1人で過ごす設定が多いが、これも全く使いこなせていない。彼が同級生らしき少女と仲良く話すシーンが何度か挟まれるが、これも意味不明なだけ。
他にも様々な要素があるのだが、ことごとく交じり合わず、バラバラのままで放り出されている。
五里霧中のトンネルを、鈴木清順のオナニー列車が、勢いも無く通過していくのだ。

終盤に入ると、れい子が完全に精神を病んで壊れてしまう。釈放された三宅はゴルフ場で田所に殴り掛かり、上半身裸で旗を振り回す。純はゴルフクラブで加世と道造を撲殺し、れい子を拳銃で射殺して家に火を放つ。
暴力が一気に沸騰して、終幕に至る形となっている。
全てが崩壊するカタストロフィーみたいなモノを表現する意図があったのかもしれないが、バカバカしくて寒々しいだけだ。
冷笑しか出ないような、完全に失敗作と断言できる結末である。

(観賞日:2023年6月8日)

 

*ポンコツ映画愛護協会