『春を背負って』:2014、日本

20年前、幼い長嶺亨は父の長嶺勇夫に連れられ、冬の立山を登った。深い雪が積もる中、険しい斜面を進んだ亨は足を滑らせて転落しそうになった。勇夫はザイルで息子を引っ張り上げた後、平手打ちを浴びせて「気をしっかり持て」と告げた。塩飴を舐めさせた彼は、亨を連れて標高三千メートルの菫小屋に辿り着いた。彼は雪に埋もれた小屋に窓から入り、小屋開けのための作業を手伝うよう亨に命じた。亨は道具を渡され、「寒い、怖い」と呟いた。
現在。亨は証券会社のgacで、株式トレーダーとして働いている。以前は調子が良かった亨だが、最近になって調子を落としている。今は60億円を突っ込んで9億円の損失を出しており、何とか取り返そうと奮闘中だ。彼は部長の朝倉隆史に呼び出されて最近の不調を指摘され結果を出すよう求められた。徹夜で仕事をした翌朝、亨は携帯の留守電を確認した。すると故郷で民宿を営む母の菫から、父が遭難した人を助けようとして死んだというメッセージが吹き込まれていた。
亨は菫に電話を掛け、外せない仕事を済ませてから急いで帰郷することを告げた。彼は母に、「昨日の朝、父さんから着信があったんだ。でも取れなかった」と明かした。亨は専務に呼ばれ、「会社は君に期待してるんだ。結果を出せば幹部にだってなれる」と告げられた。彼は仕事を終えて、車を飛ばした。葬儀が終わった頃になって、ようやく彼は実家へ辿り着いた。診療所の野沢久雄、粟巣野家具工房の息子である幼馴染の中川聡史、番頭の文治、雷鳥荘の島村といった面々の他、高澤愛という見知らぬ女性が参列者の中にいた。彼女は亨に、去年から菫小屋を手伝っているのだと説明した。
山岳救助隊長の工藤肇は自分が勇夫に応援を頼んだことを話し、亨に土下座して詫びた。「もう少し早く現場に到着していたら」と、彼は口にした。昨日、工藤は小屋へ向かう単独登山者を発見し、勇夫に連絡を入れた。様子を見に行った勇夫は、登山者が雪庇を歩いていることに気付いた。彼は慌てて「そこは雪庇だ、右に寄れ」と叫ぶが、登山者は雪庇を踏み抜いて転落する。勇夫は助けようとするが、岩に頭をぶつけて命を落としたのだった。
工藤と隊員の西村太一が土下座を続けるので、菫は「工藤さんのせいじゃないが。落ちた方が助かったんやし、お父さんも悔いは無いと思うよ」と告げた。そこへ山岳ガイドの加賀が来て、雷鳥沢で雪崩が発生したことを知らせたので、工藤たちは慌ただしく現場へ向かった。翌日、亨は家具工房を訪れて聡史と会い、父と言い争いになった時のことを語る。父からトレーダーの仕事を「左から右に人様のお金を動かすだけで稼ぐなんて、男の仕事じゃない」と批判された夫に亨は、カッとなって「山小屋なんか赤字ばっかりで、お袋が民宿で稼いだ金を全て注ぎ込んで、親父の道楽じゃないか」と怒鳴ったことがあった。
亨は母に愛のことを尋ね、冬は民宿を手伝ってもらっていることを知る。菫は亨に、明日になったら菫小屋へ行くことを告げる。まだ雪は深いが、山岳ガイドの清水と加賀に頼んで入れるようにしてもらったのだという。菫が愛を誘うと、話を聞いていた亨は「俺も久しぶりに小屋へ行こうかな」と口にした。次の日、亨たちは車で麓まで行き、立山に登った。菫は夫婦の思い出の丸い石を飾り、亨と愛に遺灰を撒かせた。亨は彼女に、父が「久しぶりに山小屋へ行かないか」という電話をくれたのに取らなかったことを話した。
亨たちは菫小屋に入り、中を片付けた。愛の用意した夕食を取った後、菫は亨に「この小屋、雷鳥荘の島村さんにお願いすることにした」と告げた。すると亨は、「菫小屋、俺がやるよ」と口にした。「亨には無理よ。山小屋は貴方が思ってるほど生易しいもんじゃない」と菫は言い、「同情されるほどヤワじゃないから」と告げる。しかし亨は「自分で決めたんだ。やりゃあ出来る」と強い決意を示した。愛が自分にも手伝わせてほしいと申し出ると、彼は「こちらこそ、よろしくお願いします」と頭を下げた。
東京へ戻った亨は朝倉に事情を説明し、会社を辞めた。帰郷した彼は家具工房へ行き、聡史と妻のユリ、父親の3人に山小屋を継ぐことを話した。亨は山岳警備隊雷鳥平詰所で野沢たちに挨拶し、荷物を背負って菫小屋へ向かう。彼が荷物の重さと険しい山道に苦労していると、後ろからやって来た多田悟郎という男が「先を見ない方がいいぞ。一歩一歩、普通に歩いていけばいいんだ」と助言した。彼は菫小屋の荷物を背負っており、涼しい顔で「気にするな、ついでだからな」と述べた。
悟郎は途中での亨の荷物を少し負担してやり、一緒に菫小屋へ辿り着いた。すると愛が「ゴロさん」と嬉しそうに駆け寄り、悟郎は彼女に「ただいま」と挨拶した。亨が困惑していると、悟郎は「アンタのことも勇夫さんから聞いてるよ。そういうわけでしばらく厄介になるよ。勇夫さんが夢枕に立って、息子が一人前になるまでヨロシクって言ってたから」と語った。亨は母に電話を掛け、悟郎が風来坊であること、夏場は山小屋を手伝ってもらっていること、大学の登山部で勇夫の後輩に当たることを聞いた。
小屋上げが終わり、翌日から大勢の登山客が菫小屋にやって来た。亨は慣れない作業に奮闘し、その日の仕事を終えた頃にはヘトヘトに疲れていた。次の朝、彼は午前3時半に起こされた。悟郎は勇夫と一緒に見つけた内緒の場所へ亨を案内し、そこからの絶景を見せた。小屋の常連客である高野かねが来たので、悟郎は亨を紹介した。かねは亨に、5年前の登山中に捻挫で歩けなくなり、勇夫に助けられたことを話した。亨は彼女に、秘密のテラスがあるので来年までには登山者が行けるように整備するつもりだと語った。
嵐の日、亨は菫小屋で使う荷物を取りに、悟郎と2人で民宿へ戻った。そこへ愛から電話が入り、亨は近くの沢に迷い込んだ登山者の連絡があったことを聞かされる。山岳警備隊が駆け付けるには1時間ほど掛かるが、菫小屋からなら30分程度の距離なので、愛は様子を見に行くと話す。亨は彼女に、すぐに向かうから無理をしないよう告げた。愛は単独行の女性登山者を発見し、岩場で毛布や熱いコーヒーを与える。そこへ亨が駆け付け、女性を菫小屋まで連れて行った。
菫の花が咲く時期も過ぎた頃、小屋には須永幸一という関西弁の青年がやって来た。1年ぶりに菫小屋を訪れた彼は、愛と挨拶を交わした。彼は亨がgacを辞めたと知り、「勿体無い、僕の第一希望やのに」と言う。彼は既に三次面接までを突破し、後は来週の役員面接を残すだけだった。須永はゲン担ぎのために頂上へ行こうとするが、亨は強い低気圧が迫っているので下山した方がいいと助言する。それでも須永が行きたがるので、亨は出発を遅らせた方がいいと告げる。須永は「もう少し様子を見ますわ」と言うが、亨と愛が仕事をしている隙に菫小屋を抜け出した…。

監督・撮影は木村大作、原作は笹本稜平『春を背負って』(文藝春秋 刊)、脚本は木村大作&瀧本智行&宮村敏正、製作は石原隆&市川南、プロデューサーは松崎薫&上田太地、制作担当は金澤清美、監督補は宮村敏正、撮影補は坂上宗義、山岳監修は多賀谷治、美術は佐原敦史、録音は石寺健一、照明は鈴木秀幸、編集は板垣恵一、音楽は池辺晋一郎。
主題歌 山崎まさよし 「心の手紙」作詞・作曲・編曲:山崎まさよし。
出演は松山ケンイチ、蒼井優、豊川悦司、檀ふみ、小林薫、新井浩文、吉田栄作、安藤サクラ、池松壮亮、市毛良枝、井川比佐志、石橋蓮司、仲村トオル、嶋田久作、でんでん、モロ師岡、螢雪治朗、蟹江一平、仁科貴、大石吾朗、角替和枝、KIKI、浜田学、島美香、加藤桃子(現・黒岩桃子)、駿河太郎、辰野勇、多賀谷治、立石裕子、神田龍太朗、本郷颯ら。


笹本稜平の同名小説を基にした作品。
原作は「春を背負って」「花泥棒」「野晒し」「小屋仕舞い」「疑似好天」「荷揚げ日和」という6編の短編からなる連作小説。映画化に際し、舞台が奥秩父から立山連峰の大汝山に変更された。
亨を松山ケンイチ、愛を蒼井優、悟郎を豊川悦司、菫を檀ふみ、勇夫を小林薫、聡史を新井浩文、工藤を吉田栄作、ユリを安藤サクラ、須永を池松壮亮、かねを市毛良枝、文治を井川比佐志、野沢を石橋蓮司、朝倉を仲村トオルが演じている。
撮影技師の木村大作が、2009年の『劒岳 点の記』に続いて2度目の監督を務めている。
彼と共同で脚本を担当したのは、『はやぶさ 遥かなる帰還』や『脳男』などの監督である瀧本智行と、『劒岳 点の記』で脚本&監督補佐を務めていた宮村敏正(今回も監督補を兼任している)。
瀧本智行が映画脚本を手掛けるのは、監督も兼ねた『樹の海』『イキガミ』に次いで3度目。ただし映画脚本だけを担当して監督を兼任しないのは、今回が初めて。

劇中の台詞でトレーダーの仕事を「左から右に人様のお金を動かすだけで稼ぐなんて、男の仕事じゃない」と称しているけど、なんせ監督が木村大作先生だから、本気でそう思っている節がある。
この人は、たぶん「汗をかいて、体を動かして、必死に苦労しなきゃ良い物は作れない」と心底から思っている。
だからこそ『劒岳 点の記』に続き、スタッフと出演者に険しい雪山を登頂しての過酷なロケを要求しているんだろう。
きっと「これは撮影ではなく“行”である」という前作の考えを、今回も貫いているんだろう。

冒頭、勇夫は幼い亨を連れて山を登り、「人はな、年を重ねるにつれて、たくさんの命を背負って(しょって)かなければならないんだ。地図も目印も無い、行き先も自分自身で決めなきゃならん。誰かに助けてもらうわけにはいかないんだ」と語る。
その後も、何かに付けて「背負う」という言葉が複数の登場人物の口から発せられる。
それによって何がテーマなのかはハッキリと分かるが、まあ見せ方としては明らかに不細工だよな。
むしろ、そういうのは言葉じゃなくて、ドラマで見せた方が心に響くはずだし。台詞で言わせるにしても、ここぞというポイントだけに絞っておくべきであって、何度も繰り返すのは野暮ったい。

だけど、木村大作監督はやたらと台詞に頼りまくっていて、冒頭シーンでも亨に「寒い、怖い」と台詞で言わせてしまうデリカシーの無さを露呈している。
その後も、登場人物が「いかにも台本に書かれた言葉を喋っています」という台詞を喋るシーンの多いことといったら。
別にさ、ナチュラルな台詞回しが必ずしも良いってわけでもないのよ。例えば小津安二郎監督の映画なんて、すんげえ不自然な台詞回しだったわけだし。
でも、そこには人間の感情が伝わって来るドラマがあったのよ。
この映画の場合、ホントに「説明のためだけに台詞を喋っている」という状態なんだよな。

BGMが邪魔になっている箇所が目立つ。
過剰に鳴っていても場面の雰囲気に合っていればともかく、まるで合っていないんだよな。
朝倉から結果を出すよう求められた亨が仕事をしているシーンでは、過剰に不安を煽ってしまう。
工藤が土下座して亨に詫びを入れると重厚な音楽が流れてくるが、どういう効果を狙っているのかサッパリ分からない。
とは言え、BGMに頼らなかったら、もっと安っぽい印象になっていた可能性もあるので、そこは痛し痒しといったところだろうか。

冒頭、少年時代の亨が父に連れられて菫小屋へ行く途中で危険な目に遭ったり、山小屋で「寒い、怖い」と感じたりする様子が描かれる。そして現在のシーンに移ると、彼は故郷を離れ、山小屋とは無縁の株式トレーダーとして働いている。
どうやら父とも疎遠になっている様子だ。
ってことは、幼少期のことがあるので山小屋に良い思い出は無く、山の仕事を続ける父とも確執があると解釈できる。
ところが、勇夫の死を知らされた後の亨を見ていると、そんな風には感じられないのである。

菫が愛を誘って菫小屋へ行くことを知った亨は、「俺も久しぶりに小屋へ行こうかな」と口にする。ものすごく軽い口調だし、母が小屋へ行くと聞いた直後に自分も行くことを決めている。
彼に取って菫小屋は、「嫌な思い出がある場所」じゃないのか。そして父に反発していたことの象徴とも言うべき場所じゃないのか。
だから、そこは迷いや葛藤があって、考える時間があって、夜になってからでも母に「俺も小屋へ行く」と切り出すような形にすべきじゃないかと。あるいは、本人は積極的ではなかったけど、母から誘われて同行するという形でもいいけど。
ともかく、あまりにも軽すぎるのよ。

そんで山小屋に到着した亨は「まだ親父が生きてるみたいだ」と感慨深そうに言うし、「わだかまりが解ける」「父への反発が消える」といった手順を全く踏まないんだよな。
そんなに簡単だと、冒頭で描かれた幼少期の思い出や、父に反発していたという設定が全て無意味になってしまうのよ。
それとさ、「父から久しぶりに山小屋へ行かないかと誘う電話があったけど、亨は取らなかった」ってのを後から台詞だけで説明するってのは、すんげえ雑だわ。
そこは該当するシーンを実際に描写すべきでしょうに。そして、そこにある親子の関係性、電話を取らなかった時の亨の様子を描くべきでしょうに。

葬儀の場に急いで駆け付けた亨は、父に助けてもらった登山者が参列せずに東京へ戻ったことを知り、憤りの感情を示す。
翌日のシーンになると(数日後かもしれないが)、聡史に「まだ実感が無いよ、オヤジが死んだって」と話しているが、ホントに実感が無いようには全く思えない。
その直前に描かれた葬儀のシーンで呆然としているとか、あるいは淡々とした態度を取っているとか、そういうことでもあれば分かる。
でも普通に悲しむ気持ちや助けてもらった登山者への怒りといった感情を示しておいて、「まだ父親が死んだ実感が無い」ってのは違うんじゃないかと。

葬儀のシーンで愛が登場しているが、ホントは後から出した方がいいんだよなあ。
というのも、葬儀のシーンで登場させちゃうと、亨との初対面がサラッと流される形になるんだよね。
亨からすると、「そんなことより父の葬儀」という状況なので。あと、工藤が土下座で謝罪した後、勇夫が死んだ時の様子が回想シーンとして挿入されるんだけど、すんげえ違和感があるんだよな。
登山者は雪庇を踏み抜いて転落しているのに、そこに勇夫が追い付いて救助するって、ちょっと無理があるんじゃないかと。

菫が小屋を島村に任せることを話すと、すぐに亨は「俺がやる」と言い出す。
何の迷いも無く、強い決意を示している。
山小屋とも地元とも距離を置き、父の仕事を「赤字ばかりの道楽」と非難していた彼が、どういう気持ちの移り変わりを経て「自分が父親の後を継ごう」と決意したのか、それはサッパリ分からない。
それと、トレーダーの仕事は決して上手く行っておらず、そこに充実感を抱いているようには見えないので、単に「今の仕事が辛いから逃げた」というだけにも見えちゃうし。

亨は幼い頃に登山しているものの、長く山から離れていた人間だ。もちろん山小屋の仕事なんて初めてだ。普通に荷物を背負って山を登るだけでも、かなり大変なはずだ。実際、最初に山小屋へ行くときは苦労している。
ところが、女性登山者が嵐の中で遭難すると、簡単に駆け付けて救助できている。それぐらい、あっという間に成長しているわけだ。
亨が失敗を経験に変えるとか、愛や悟郎の協力を得て少しずつ学習するとか、そういう成長の様子は全く描かれていない。
後半、須永の滑落を受けて「山小屋は人の命に関わってるんだってことを俺は全然分かってなかった」と亨が吐露し、悟郎が「努力したんだから同じ失敗を繰り返さないようにしたらいいんだよ」と告げるシーンがあるけど、そこまでに亨の成長ドラマが無いから、「順調に経験を重ねて成長し、少し自信も付いて油断が出たところで大きなミスをやらかす」という手順にならないのよ。

女性登山者の遭難シーンは、すぐに亨が駆け付けて救助するので、何の緊迫感も無い。
須永が滑落するエピソードも、すぐに亨が到着して救助するので、これまたスリリングなシーンとしての盛り上がりは無い。
そこは「豪雨」と「自然の風景」という要素だけに頼り、緊迫感を醸し出そうとしている。
亨は悟郎を背負って下山する終盤のエピソードも、菫小屋を出てから5分程度で山岳警備隊に遭遇するので、これまた盛り上がりに欠けたまま終わる。
1つ1つのエピソードが、ことごとく淡白に片付けられている。

終盤、愛が3年前に両親を病気で立て続けに亡くしていること、不倫していたことを語るシーンがあるが、あまりにも唐突で脈絡が無い。
そもそも、そこまでに「愛が過去に関する後ろ暗い秘密を隠している」ってことを匂わせるような撒き餌をしておくべきでしょ。
そういう作業が何も無くて、いきなり「実はこういうことがありまして」と急に言い出して泣いてもさ。
悟郎が「愛ちゃんは重い荷物を下ろした」とテーマに絡ませるようなことを言っても、これっぽっちも心に響かないよ。

悟郎が脳梗塞になるのも、あまりにも唐突だ。
そりゃあ脳梗塞の場合、予兆なんて無くて急に発症するのは普通にあることだ。
でも見せ方として「唐突だなあ」と思わせる形になっているので、不謹慎だけど笑っちゃいそうになる。
それと、「3時間が勝負だけど山岳警備隊の到着までは2時間も掛かる」ってことで、亨は悟郎を背負って下山することを決めるんだけど、脳梗塞の患者を動かすのは、それはそれで危険じゃないのか。

メインとなる亨や愛たちの人物描写や人間ドラマもペラッペラなんだから、脇を固める面々なんて全く掘り下げられていない。
ただ形として配置されているだけで、まるで有効に機能していない。
例えば聡史なんかは、「父も家具職人で、でも自分なりの家具を作りたいという思いがあって、勇夫から頼まれた椅子を作っていて」という設定があるんだが、ほぼ無意味な要素と化している。
作業する彼の背中をユリが見つめるシーンなんて、やたらと意味ありげだが、後の展開には全く繋がらない無意味な描写だ。

かねが菫小屋を去った後、愛が「菫小屋の素晴らしさを私とおんなじように感じてる人がいるんですね」と嬉しそうに話すシーンがある。
だが、映画を見ていても、菫小屋の素晴らしさが観客の方までは伝わって来ない。そこに集う人々の優しさ、温かさ、繋がり、そういった「人情」ってモノが、おざなりにしか描かれていないからだ。
人間は段取りを処理するための駒でしかない。
おまけに、段取りそのものからして、話に厚みや深みをもたらす要素が初めから用意されていないのだ。

ドラマに盛り上がりを作るための種が撒かれていないもんだから、例え水や肥料をやったとしても、メリハリは生まれない。そして、水や肥料をやる作業もやっていない。
あえて淡々としたタッチで抒情的に描こう、その中で静かな感動を呼び起こそうという狙いがあるわけではない。何も考えていないだけだ。
それは私の勝手な決め付けではない。
木村大作監督本人も、出演者も、演出らしい演出が無かったことは認めているのだ。

木村大作先生がやった演出と言えば、せいぜい「そこに立っていたらカブるから」という、映像的な問題で立ち位置を変更させる程度のことしかやっていない。
つまりドラマを盛り上げるための作業、登場人物の感情を表現するための作業ってのは、何も考えちゃいないのだ。
そして巨匠は、「山を歩く役者」や「自然の風景」を撮ることばかりに意識を向けている。
でも、それって撮影技師の仕事であって、監督の仕事じゃないでしょ。
だったら撮影技師をやっていればいいわけで。

脚本に瀧本智行が関わっているんだから、彼にでも監督を任せて、自分は撮影だけを担当すればいい。
まあ木村大作先生はキャリアの長い巨匠なので、どうせ色々と口出しして権力を行使するんだろうけど。
だけど、どうしても自分がボスになって作品を手掛けたいのなら、山をテーマにしたドキュメンタリー映画を撮ればいいのよ。
それだったら、ただ風景だけを撮りたがる人にはピッタリじゃないかと。

木村大作先生は演出が出来るのにやらないわけじゃなくて、そもそも演出のセンスが無い人だ。
だから、どうしても演出が必要な箇所になると、分かりやすくボロが出る。
ここまでの批評でも何となく伝わって来るだろうけど、演出センスの無さが最も顕著に表れているのはラストシーンだろう。
そもそも、そこまでに亨と愛の恋愛劇を全く描写していないのに、最後になって急に2人の恋愛シーンのような形で締め括ろうとしている時点でダメなんだけど、そこだけを取っても酷いことになっている。

ラストは亨、愛、悟郎、菫、聡史が山の景色を眺めて会話を交わし、その流れで亨が「この場所で自然を肌で感じると、胸が空くように気持ちがいいんだ。親父も、きっとそう思ってたんじゃないかな」と口にする。
その時点で完全に段取り芝居なのだが、その後、彼は愛を少し離れた場所に連れて行き、そこで両手を握って笑い合い、クルクルと回転するのだ。
それに合わせてカメラもクルクル回るんだけど、いやマジかと。
それは古臭いとかいうレベルではない。仮に1970年代や1980年代の映画だとしても、やっぱり陳腐だぞ。

(観賞日:2015年7月13日)

 

*ポンコツ映画愛護協会