『春の雪』:2005、日本

綾倉伯爵は娘の聡子が幼少の頃、侍女の蓼科に「聡子が成人したら、とどのつまりは松枝の言いなりになって縁組を決められることになるだろう。そうなったら、その婚礼の前に聡子を誰か気に入っている口の堅い男と添い臥しさせてやってほしい。その男の身分はどうでも良い。ただし聡子が気に入っていることが条件だ。決して聡子を生娘のまま、松枝の世話する婿に与えてはならない。そうして密かに、成り上がり松枝の鼻を明かすことが出来るのだ」と述べた。伯爵と不義の関係にある蓼科は、その頼みを承諾した。
大正元年。松枝公爵家の令息である清顕は、人生に物足りなさを感じていた。親友の本多繁邦が「君はそんなに完璧なのに、これ以上、何を望むのさ」と尋ねると、清顕は「何か決定的な物。それが何だか分からないけどね」と告げた。ボートで川を移動していた2人は、橋の上を歩いて行く一行と遭遇した。綾倉家の大伯母である月修寺門跡や蓼科、松枝侯爵夫人や綾倉伯爵夫人、それに聡子たちである。一行と別れた後、本多は聡子との関係について清顕に尋ねた。清顕は「幼馴染ってとこか。僕は幼い頃、綾倉家に預けられていたんだ。父はあの公家の優雅さを僕に身に付けさせたかったのさ」と答えた。
ボートを降りた清顕と本多は、聡子たちの列に加わった。犬の死骸を見つけた聡子は、手を合わせた。門跡が犬の供養を言い出したので、聡子は花を摘みに行くことにした。彼女は清顕に、「清様も手伝って下さらない?」と持ち掛けた。「あの犬にどんな花をくれてやろうというのだ」と不貞腐れた態度を取る清顕に、蝶を見つけた聡子は「美しいが故に短い命なのだわ」と告げる。清顕は全く興味を示さず、不機嫌そうに「ただの虫じゃないか」と口にした。
清顕が「さっきの男、どう思います?きっと気が合う」と本多のことを薦めると、聡子は「清様は私のこと、どう思って?」と訊く。清顕が「別に」と冷たく言うと、聡子は「では、私が清顕様をどう思っているか、お分かりになる?」と問い掛ける。無表情で対応する清顕に、彼女は「もし私がいなくなったら、清様はどうなさる?」と尋ねる。「なぜそんな妙なことを訊くんです?」と清顕が口にすると、彼女は無言のまま立ち去った。
松枝侯爵と侯爵夫人は、20歳になった聡子の縁組を世話しようと考えていた。しかし聡子が全て断り続けているので、2人は夕食の席で不満を漏らした。侯爵は「綾倉家がどれだけ名門でも、今はあれだけ傾いてしまっているんだ。将来有望な内務省の秀才なら充分すぎる話だろう」と言い、夫人は「こう何度も断っていては、お世話するのが嫌になりました」と口にする。だが、それなりの恩義があるため、侯爵は「どうにか再興するよう考えてやらねばな。どうしもて断れない話を持って行ってやればいいんだ」と述べた。
翌日、清顕は本多の元を訪れ、聡子と付き合うよう勧める。本多は困惑して「聡子さんは君のことが好きなんじゃないのか」と言うが、清顕は笑って父と鐘球をやった時のことを話す。父から「聡子のこと、どう思う?」と問われた彼は、「興味ありません」と答えた。父は「そろそろお前も色々と女を知っていかねばな」と芸者遊びや遊郭に誘っただけでなく、女中のみねに命令して清顕と関係を持たせようとした。侯爵は、清顕の年頃の女性遍歴が性格も風格も作ると信じ切っていたのだ。
清顕は本多に、「例えばその一部始終を全部、手紙に書く。そして、それを聡子さんに出すとしたら?もちろん遊郭のことも、女中を朝まで抱いたことも全て書いてね」と語る。「そんなことをしたら聡子さんは」と本多は反発するが、清顕は「屈辱だろうね」と微笑した。清顕は本多に見せ付けるようにして、郵便ポストに手紙を投函した。清顕は隠居所で暮らす祖母を訪ねるが、「何かあったのか」という質問に「何もありませんよ」と答える。だが、祖母はすぐに嘘を見抜いた。祖母は彼に、「お父さんを見習いなさんな。派手な晩餐会ばかり開きよって。あんなお金の使い方は見栄以外の何物でもない」と告げた。
清顕が晩餐会に遅れて出席すると、父は学習院に留学するシャムのバッタナディド殿下とクリッサダ殿下を紹介した。バッタナディドはシャムに残してきた恋人の写真を見せ、清顕の恋人も紹介してほしいと持ち掛けた。清顕は顔を曇らせ、松枝侯爵は笑って「この子には、まだ恋人がいないのです。恥ずかしながら、まだ子供なもので」と告げた。清顕は綾倉家に電話を掛け、蓼科に「聡子さんに手紙を出したんだが、届いても開封せずに燃やしてほしいんだ」と頼んだ。そして「その代わりと言ってはなんだが、演劇にでも招待しようと思う。聡子さんでも誘って一緒に見るといい」と告げた。
清顕は本多と2人の殿下を誘い、『ファウスト』が上演される帝国劇場へ赴いた。本多が聡子と蓼科に気付くと、清顕は「なんたる偶然」と微笑した。清顕はバッタナディドとクリッサダに、聡子を2つ年上の友人として紹介した。バッタナディドは清顕に、「君は彼女に心底惚れているね。君はあの人のためなら死ねるだろう」と告げた。翌朝、清顕は執事の山田から、聡子が馬車で雪見に行きたいと言っていることを知らされる。清顕は断ろうとするが、既に聡子は門の所まで来ていた。
馬車に乗り込んだ清顕が「一体どういうつもりですか」と不愉快そうに尋ねると、聡子は穏やかな口調で「どうしても清様とこの雪の中へ出て行きたくなって。生まれて初めてこんな我が儘を申しました」と告げた。馬車が激しく揺れると、清顕は咄嗟に聡子を守った。聡子は「昨日はまるで許嫁のようにご紹介して下さって嬉しかった」と言い、ゆっくりと目を閉じた。清顕は彼女と唇を重ね、手を繋いだ。
後日、清顕は本多から、「この間、君は父上との話をしたな。遊郭へ行けと言われたり、女中が迫って来たという話。嘘だろう、全て」と指摘される。「君は何のために聡子さんに出紙を出したんだ?君はずっと昔から聡子さんが好きだった。それを素直に認めたくないのは、貴様がガキだからだ。ただのガキが恋を上手く表現できないものだが、貴様は聡子さんの気を惹こうとして僕を利用した」という非難を受けた清顕は、動揺を抑えて「バカバカしい」と告げた。
本多は「僕は隠し事をしたくない」と言い、聡子と馬車で帝劇から帰った夜の出来事を明かす。聡子は彼に、清顕が良く遊郭へ行くのかと質問した。蓼科は手紙を処分せず、聡子に見せていたのだ。本多は笑い出し、「その前に、貴方は松枝のことが好きですか」と問い掛けた。うなずく聡子に、「では、仮にその話が事実であっても?」と彼は訊く。「はい」と答えた聡子に、「たぶん、その話は嘘でしょう。もちろん女中の話も」と本多は告げた。
本多は「実は松枝は、僕と聡子さんを恋仲にしようと画策していたのです」と明かし、「しかし私が思うに、松枝は貴方のことを愛しています。奴はこんな形でしか、それを表現できない。だから、どうか許してやって下さい」と述べた。そのことを清顕に話した本多は、「本当の気持ちを聡子さんに伝えるべきだ。聡子さんはそれを待ってるんだ」と告げる。しかし清顕は「何もかも知っていて、聡子の奴。騙された」と聡子に対する怒りを示した。
松枝侯爵が洞院宮治久王殿下を招いた宴を開き、清顕や聡子、本多やシャムの殿下たちも出席した。治久王は第三皇子の治典王殿下を同行させていた。治典王と聡子が挨拶を交わす様子を見た清顕は、嫉妬心にかられた。花見の余興が始まると、清顕は聡子に目線を送ってから中座した。聡子が後を追うと、清顕は招待客に見えない場所で強引に接吻した。聡子は激しく抵抗して清顕を突き放し、「子供よ、清様は。何もお分かりになってない」と悲しそうに立ち去った。
洞院宮治久王殿下と洞院宮妃は聡子を気に入り、治典王との縁組を進めることにした。聡子は松枝家に電話を掛け、清顕と話そうとする。だが、清顕は取り次ぎを拒絶した。父から「聡子さんの結婚について、お前は特に異存は無いな」と確認された清顕は、「僕には何の関係も無いことじゃありませんか」と苛立ったように告げた。聡子から手紙が届いても、清顕は読まずに燃やした。それでも聡子は諦めず、何度も手紙を届ける。だが、清顕は一度も手紙を開封せず、燃やしたり破り捨てたりした。
宮内庁からの勅許が下りて、聡子と治典王の婚約が正式に決定した。清顕は蓼科を呼び出し、聡子と会わせるよう要求した。「ご縁談の話が持ち上がっても若様のご決断を心待ちにされ、そればかりに全てを懸けておられたのに、若様は黙ってお見過ごしあそばした。情けのうございます」と蓼科は清顕を責め、「もう、どう致すことも出来ません。もう遅うございます」と告げた。清顕は「もし僕が聡子さんからの手紙を宮家に見せたらどうなる?」と蓼科を脅し、一度だけ会わせるという約束を引き出した。
蓼科は北崎玲吉という男が営む小さな旅館を手配し、そこで清顕と聡子を密会させた。清顕は聡子を激しく求め、肉体関係を持った。蓼科から手紙の返還を求められた清顕は、それを拒絶した。聡子は「手紙を快く返してもらえるまで」ということを口実にして、その後も清顕との密会を繰り返した。清顕は本多に、聡子と関係を持ったことを明かした。驚いた本多は「結末を考えてのことか。御上が絡んだ問題だぞ」と言うが、清顕は聡子への熱情を口にするだけだった。そんな中、聡子が清顕の子を妊娠する…。

監督は行定勲、原作は三島由紀夫『春の雪』(豊饒の海・第一巻)新潮文庫刊、脚本は伊藤ちひろ&佐藤信介、製作は富山省吾、製作統括は島谷能成&亀山千広&堀義貴&細野義朗&安永義郎、企画は藤井浩明&三島威一郎、プロデューサーは市川南&臼井裕詞&春名慶&甘木モリオ、撮影は李屏賓、美術は山口修、照明は中村裕樹、録音は伊藤裕規、編集は今井剛、音楽は岩代太郎、音楽プロデューサーは北原京子。
主題歌は宇多田ヒカル「Be My Last」作詞・作曲・編曲:宇多田ヒカル。
出演は妻夫木聡、竹内結子、若尾文子、大楠道代、高岡蒼佑(現・高岡奏輔)、真野響子、山本圭、榎木孝明、岸田今日子、石丸謙二郎、宮崎美子、中原丈雄、石橋蓮司、SWINIT PAKJAMAWAT、ANUCHYD SAPANGPHONG、及川光博、田口トモロヲ、高畑淳子、柄本佑、少路勇介、朝倉えりか、上杉二美、大橋聖子、竹乃内明日香、比佐廉、大瀧麻紀子、横山美智代、小堀陽貴、志田未来、田中千絵、三谷侑未、徳井優、畠山寛、深来勝、江沢大樹、貴志、徳原晋一、中務一友、由依静、宮田大三、菅原永二、海老沢神菜、北原ひとみ、近野成美、天野美香、戸村麻衣子、岡村麻美、北村豊晴、水野美穂、坂本和代、菅原永二、IAN MOORE、よかた汐、百花、大野慶太、LENA MILLER、JENS BURKHARDT、VILAWAN AULAMAI、JUDE DE SILVA、OKSANA SIDENKOら。


三島由紀夫の同名小説を基にした作品。
監督は『世界の中心で、愛をさけぶ』『北の零年』の行定勲。
脚本は『Seventh Anniversary セブンス アニバーサリー』『世界の中心で、愛をさけぶ』の伊藤ちひろと『ひまわり』『ロックンロールミシン』の佐藤信介。
清顕を妻夫木聡、聡子を竹内結子、月修寺門跡を若尾文子、蓼科を大楠道代、本多を高岡蒼佑(現・高岡奏輔)、侯爵夫人を真野響子、治久王を山本圭、侯爵を榎木孝明、清顕の祖母を岸田今日子 、 伯爵を石丸謙二郎、伯爵夫人を宮崎美子、洞院宮家別当を中原丈雄、北崎を石橋蓮司、治典王を及川光博、山田を田口トモロヲ、洞院宮妃を高畑淳子が演じている。

やはり妻夫木聡と竹内結子では、ちょっと「文芸映画における大正時代の若者たち」を演じるのは厳しいかなあという印象だ。
高岡蒼佑も含め、若者を演じた3人は、時代を意識した台詞回しが今一つ口に馴染んでいないし、貴族としての立ち振る舞いも馴染んでいない。
周囲に若尾文子や大楠道代、岸田今日子といった芸達者な面々を配置したのは、もちろん若い2人をサポートしてもらうためだろう。
だけど皮肉なことに、そういう面々が大正時代の世界観にキッチリとハマるので、余計に妻夫木聡と竹内結子が浮き上がってしまう。

行定勲監督は映像表現にこだわり、撮影監督に『花様年華(かようねんか)』『ミレニアム・マンボ』のリー・ピンビンを起用している。
清顕が見る夢のシーンが何度も挿入されるのだが、それも「美しい映像」としての意味合いが強い。ドラマを厚くするための道具としては、あまり機能していない。
むしろ、「そんなのバッサリと削り落として尺を短くすればいいのに」と思ってしまう。
清顕の心象風景として盛り込まれているんだろうとは思うけど、「そんな幻想的な映像より、普通のドラマ部分で表現すればいいのに」と思ってしまう。

幾ら原作のボリュームがあるからといっても、やはり150分という上映時間は長すぎる。「それぐらいの尺を用意しないと、厚みのあるドラマを充分に描き切ることが出来ない」というのは、何の言い訳にもならない。
なぜなら、150分と尺に見合うだけのドラマなど盛り込まれていないからである。
この内容なら、2時間で充分に収まるはずだ。
「三島の『春の雪』が2時間で収まるはずだと思えるのは、それはそれでどうなのか」と思う人がいるかもしれないけど、そういうことになってしまっているんだから仕方が無い。

感情描写が足りていないのと、感情描写に違和感があるのと、その両方が重なって、清顕と聡子の恋愛劇が冴えない。
まず、2人の幼少期のシーンから始まるのに、そこでの清顕と聡子の関係が全く描かれないのは勿体無い。
2人で百人一首をしている様子や雪を眺めるシーンは描かれるのだが、聡子が一方的に喋るだけで、清顕の感情は全く見えない。だから、そのシーンは「幼い頃に2人が出会っている」という事実を示しているだけに過ぎない。
そうではなく、せっかく幼少期から始めるのなら、もうちょっと互いの相手に対する感情が見えるような表現が欲しいところだ。
それが無いのなら、そのシーンの必要性は薄い。

松枝家と綾倉家のステータスや関係性については、もう少し説明が欲しいところだ。
綾倉伯爵の冒頭のセリフで、松枝家が成り上がりで綾倉家が昔からの貴族であることは伝わるが、不足を感じる。松枝家のブルジョアっぷりと綾倉家の没落っぷりという大きな格差ってのが、映画を見ていてもイマイチ伝わって来ない。
どうやら侯爵は成金根性で金を派手に使っているらしいが、晩餐会のシーンがある程度で、あまり「金の無駄遣い」というアピールは強くない。その晩餐会のシーンにしても、貴族という設定からすると「ごく普通の催し」にしか感じない。
そこに「絢爛豪華」とか「放蕩生活」ってのは感じない。

花を摘みに行くシーンで、清顕は聡子に冷たい態度を取る。そこでの聡子の問い掛けは、明らかに清顕への好意を示しているが、彼は相手にしない。
ところが「もし私がいなくなったら、清様はどうなさる?」と問われた途端、急に驚いた様子で「なぜそんな妙なことを訊くんです?」と言う。
これは違和感がある。何故その質問だけはクールに聞き流せないのか、理由がサッパリ分からないのだ。
その夜に清顕は聡子が棺に入っている夢まで見る始末だが、そこまで気にするのは解せない。それまでの質問と、そんなに変わらずに受け止めてもいいような内容だと思うのだが。
その言い方に「ホントに消えてしまうのでは」と不安にさせるモノがあったわけでもないし。

聡子が縁組を断り続けていることに不満を漏らす両親の会話を聞いた清顕は微笑を浮かべて「おかげで謎が解けましたよ」と言うのだが、そこも引っ掛かるんだよなあ。
たぶん「結婚話が嫌だからそんなことを言い出した」と理解したってことなんだろう。だけど、そもそも「両親が聡子の縁組を何度も世話して、それを全て断られてた」というのを今まで清顕が知らなかったのってのが引っ掛かるのよ。
ずっと一緒に暮らしているんだから、そんなことは今までも話題になったんじゃないかと。
まるで初めて聞いたような反応なんだよな。

「だって三島由紀夫だもの」と言われたら返す言葉も無いのだが、どうしても清顕が単なる身勝手な奴にしか思えない。
「大人ぶっているけど中身は幼稚」「強気に振る舞っているけど芯は貧弱」「未熟な理論武装で防御を固めているけど中身はハリボテ」「聡子に対して全てにおいて上の立場でありたいので、お姉さん的な余裕を見せられると腹が立つ」といった「屈折した性格」であることは伝わって来るが、その屈折ぶりが大雑把になってしまっている。もっと繊細に描かないと、ホントに「単なる身勝手な奴」でしかないのだ。
もっと問題なのは、「感情移入できるか」「共感できるか」ということを置いておくとしても、「理解は出来る」ということになるべきなのに、それも実現できていないってことだ。
ようするに、「共感は出来ないけど、何故そういう心情になるのか、そういう行動を取るのかは理解できる」という形になっていれば、ある意味では成功だったんじゃないかと思うのだ(大幅に改変しない限り、清顕という男に共感させることは不可能に近いので)。
だが、捻じ曲がった性格になった背景が伝わらないし、苦悩も見えないのだ。

聡子の方は最初から全くブレておらず、ずっと清顕に対して恋心をストレートに向けている。
だから、この関係が上手く行かなかった責任は、全て清顕にある。彼が一向に素直にならず、身勝手な振る舞いを続けていたから結ばれなかったのだ。
そこには「周囲の目」や「身分の差」という他の原因が介入する余地は全く無い。全面的に清顕が悪い。
そんなわけだから、清顕に対する同情心は全く沸かないし、「全て自業自得だろ」と冷めた気持ちになってしまう。

清顕の場合、「失ってから初めて気付く」というトコロで同情や共感を喚起することも難しい。
なぜなら、「気付いた時には遅かった」では終わらないからだ。まだ相手が手の届かない場所に行ってしまったわけではないので、卑怯な手段を使って聡子との密会を重ねるのだ。
宮内庁からの勅許が下りた後、清顕は蓼科を脅して聡子と会わせるよう要求するが、全く同情心は沸かない。
2人の「許されない恋」を応援する気持ちも沸かない。

そこで「気付いた時には遅かった」ということで、清顕が後悔しながらも泣く泣く聡子を諦めるという展開にでもなっていれば、同情心が沸いたかもしれないけど、そこに来ても相変わらずの身勝手ぶりを発揮しているのでね。
とにかく、この男は最初から最後まで反省の色が全く無いし、身勝手なままなのよ。
だから蓼科から「聡子はもう会わないと言われた清顕が落ち込んでも、「どういう力が手詰まりを打開できるだろう」と思い悩んでも、全く同情できない。

むしろ、全てを知った侯爵が「聡子と僕は愛し合っています」だの「聡子は僕の物だ」だの「僕たちはもう離れることなんて出来ない」だのと無責任で身勝手なことばかり並べ立てる清顕に激怒してボコボコに殴った時、そんな彼の気持ちが良く理解できる。
祖母は侯爵を手厳しく批判し、皇族の女に手を出した清顕を「天晴だ」と称するけど、2つの家を破滅の危機に追い込んでまで身勝手を貫こうとする清顕なんて、ただのクズだよ。
だから出家した聡子に会おうとして門跡に追い払われても、まるで同情心は沸かない。肺炎をこじらして死んでも、それでも同情心は全く沸かない。
死が訪れてもなお、これっぽっちも同情心が沸かないんだから、よっぽどだぜ。

原作は若者の輪廻転生を描く『豊饒の海』4部作の第1巻であり、ここで清顕と聡子の物語は完結するものの、清顕が別の青年に転生した第2巻『奔馬』へと続いて行く。『春の雪』の登場人物の内、何名かは第2巻以降にも登場する。
しかし映画版に4部作としての構想は無く、この1本だけで完結だ。
そうであるならば、まだ物語が続いて行くことを匂わせるような要素はバッサリと削ぎ落とすべきだ。それを残しておくことは、「回収されない伏線」になってしまう。
また、この1本だけで考えれば、シャムの2人の殿下などは全く必要性が無いキャラクターなのだから、ここもバッサリと削るべきだろう。

もっと大きな問題として、「この1本だけで独立した作品にするのであれば、輪廻転生というテーマの必要性が怪しくなる」ということが挙げられる。
この映画では最後に2匹の蝶が飛ぶ様子を描き、「清顕と聡子が転生して幸せになりました」ということを匂わせているが、原作における輪廻転生は、そういう意味ではないはずだ。
実際、第2部『奔馬』で清顕の転生後の姿である青年が登場するが、聡子の生まれ変わりの女性と恋に落ちるわけではない。
そもそも恋愛劇ですらないのだ。

そんなわけだから、それを「恋愛劇としての輪廻転生」という形で綺麗に収めてしまおうとするのは、ちょっと違うような気もするのだ。
もちろん、何から何まで原作と同じことをやれば良いというわけではないのだが、この1本だけを独立させたのであれば、もはや輪廻転生というテーマに固執する必要も無かったのではないかと思ったりする。
いっそのこと、もっと思い切って改変してしまうというのも1つの手だったもしれない。

あまり内容に手を入れ過ぎると、たぶん三島由紀夫の熱烈なファンからは「もっと原作をリスペクトしやがれ」「三島の精神や美学が何も分かっちゃいない」と批判されるだろう。
っていうか、まず間違いなく批判される。
ただし、ここで考慮すべきは、「この映画を観賞する人の中で、三島ファンが占める割合はどれぐらいだろう」ってことだ。
「三島や原作のファンだから観賞する」という人は、決して多数派ではないのではないか。

おそらく三島や原作のファンよりは、「行定監督の映画だから」「妻夫木聡や竹内結子が主演しているから」ということで鑑賞する人の方が、圧倒的に多いような気がするんだよな。
で、そういう人からすれば、原作と違っていようが、まるで気にならないでしょ。そもそも、原作を読んだことが無い人が圧倒的だろうし。
だから単純に「商業映画としての面白さ」とか「観客動員に繋がる商品としての価値」ってことだけを考えると、大幅な改変も有りだったかなと。
ぶっちゃけ、大抵の文芸映画って、そんなに観客動員は期待できないしね。

(観賞日:2014年7月10日)


2005年度 文春きいちご賞:第6位

 

*ポンコツ映画愛護協会