『はなちゃんのみそ汁』:2015、日本

安武信吾は結婚式の当日、テレビを見ていて教会に遅刻した。その上、彼は大切な結婚指輪まで家に忘れて来た。新聞記者の信吾は無神経な所があり、買っただけで満足するような男だった。しかし妻の千恵は、遠距離恋愛の彼氏と別れてまで信吾を選んだ。1998年、信吾と千恵は34歳と23歳で出会った。西日本新聞で働く信吾は、田舎町の小さな支局に配属されて1年4ヶ月が経っていた。大学院声楽科の学生だった千恵が取材に支局を訪れたのが、2人の出会いだった。
信吾は千恵に一目惚れし、猛アタックで交際に漕ぎ付けた。千恵の就職が決まった頃、信吾は結婚への展望を熱烈に語った。彼は千恵の胸にしこりを見つけ、病院で診察してもらった。千恵は担当医の加山から、乳癌で左胸は全摘出した方がいいと告げられた。いざ手術となり、彼女は嫌だと言い出した。病院へ出向いた信吾は、千恵の姉の志保、両親の和則と喜美子に、2人きりにしてほしいと頼んだ。彼の言葉に励まされ、千恵は手術を受ける覚悟を決めた。
手術の後、信吾、志保、和則、喜美子は加山から、治療についての説明を受ける。加山は再発の可能性もあるので抗癌剤を併用すると告げ、体の負担が大きいので子供は諦めてほしいと言う。信吾は和則に、千恵と結婚させてほしいと頼んだ。和則は信吾の強い意志を確認し、「よろしゅうたのんます」と頭を下げた。信吾の両親の信義と美登里は、子供の出来ない相手との結婚に反対する。特に美登里は、信吾の前妻が子供を欲しがらなかったのが離婚の原因だったことに言及して猛烈に反対した。しかし信吾は「俺には彼女しかおらんけん」と必死に訴え、2人に認めてもらった。
治療の第一段階を終えた千恵は退院し、結婚式を挙げた。結婚パーティーには、信吾の幼馴染である松尾陽一など大勢の人々が出席した。それから1年後、本社で仕事をしていた信吾は千恵からの電話で、妊娠を告げられる。千恵が声楽の先生である吉田由布子を尋ねると、娘の由季が帰国していた。妊娠を聞いた由季は、もう千恵の決意が固まっていることを見抜いた。信吾が浮かれて帰宅すると、千恵は産むと女性ホルモンが活発になるので再発の可能性が上昇することを説明した。彼女が産めないことを告げると、信吾は美登里に教えたことを打ち明けた。美登里が大号泣していたと彼が話すので、千恵は呆れ果てた。
千恵は産婦人科でエコー検査を受け、赤ん坊が動いている様子を確認した信吾は感涙した。千恵は和則からの電話で、「お前は死んでも良かけん、死ぬ気で産め」と言われる。加山も彼女に、「産んだらどうね?貴方が産んだら、同じ病を持つ人の希望になる」と語る。千恵は信吾に、赤ん坊を産むと告げた。彼女は女児を出産し、夫婦は「はな」と名付けた。9ヶ月が経過した頃、はなが母乳を飲まなくなった。千恵は軽く考えるが、信吾は念のため検査を受けるよう勧めた。千恵は検査を受け、乳癌の再発を宣告された。
信吾は同僚が「糖尿病などを治す凄い先生がいる」と言っていたことを思い出し、紹介してもらう。その先生は伊藤源十という人物で、表に出たがらず山奥の一軒家で暮らしていた。千恵と信吾はナビも使えない山奥へ行き、彼と会う。佐藤は千恵に、体温を上げて自然治癒力を高めること、食生活を味噌汁と玄米中心にすること、不規則な生活習慣とは決別することを指示した。夫婦は毎朝、車で2時間掛けて彼の元へ通い始めた。佐藤に支払う治療費は、信吾にとって大きな負担となった。
信義は美登里に内緒で信吾と会い、仲間たちに頼んで集めたという金を渡した。しかし信吾は美登里からの電話で、それが信義の養老保険だと知った。美登里は佐藤の治療を怪しむが、信吾は全面的に信用していた。病院では新たに片桐という女性が千恵の主治医となり、現在はホルモン治療が有効だと告げた。信吾が治療費に困っていると知った松尾は、彼に金を渡した。ほぼ1年に渡って佐藤の元に通う日々が続き、病院の検査で千恵と信吾は癌が消えたと知らされる。和則はお祝いに来た翌日に入院し、そのまま息を引き取った。
時が過ぎ、千恵たちは平穏な日々を過ごしていた。千恵は片桐からのファックスで検診に来るよう促されても無視し、信吾には内緒にしていた。信吾は保育園の保母から、千恵の癌が消えたとなると新年度から通園できない可能性もあることを聞かされる。保母は信吾に、まだ通院しているという証明と病院の診断書が必要になることを説明した。信吾は千恵に電話を掛け、診断書が要ることを告げた。そして、2007年現在。千恵は癌が全身に転移して1年となり、それまで嫌がっていた抗がん剤治療も始めていた。
信吾は同僚から、千恵が「早寝早起き玄米生活」というブログを書いていることを知らされる。信吾が電話で確認すると、千恵は去年の暮れから始めたことを告げた。はなが4歳の誕生日を迎え、千恵と信吾はエプロンと子供用の包丁をプレゼントした。千恵は娘に味噌汁の作り方を教え、「それさえ出来りゃあ、何とか生きていけるけん」と告げる。彼女が「これからは、はなが味噌汁作る係になって」と口にすると、はなは快諾した…。

脚本・監督は阿久根知昭、原作は安武信吾&安武千恵&安武はな『はなちゃんのみそ汁』(文藝春秋)、製作は阿久根知昭&太田和宏&本間五郎&酒井幸子&加藤貴弘&星野岳志&星野晃志&川崎隆生、企画は村岡克彦、プロデューサーは坂本和隆&堀尾星矢&桑原啓子、監督補は横山浩之、撮影は寺田緑郎、照明は鈴木康介、録音は本田孜、美術は丸尾知行、装飾は吉村昌悟、編集は瀧田隆一、音楽は石橋序佳。
主題歌『満点星』作詞:一青窈、作・編曲:武部聡志、歌:一青窈。
出演は広末涼子、滝藤賢一、赤松えみな、古谷一行、鶴見辰吾、鶴見辰吾、一青窈、原田貴和子、紺野まひる、平泉成、木村理恵、北見敏之、高畑淳子、春風ひとみ、遼河はるひ、弓削智久、前田淳、直江喜一、八城嵩司、田辺ひかり、荒川朋恵、上瀧征宏、加藤衛、宮田たかし、東風平高根、斎木亨子、桜井ユキ、阿久津百合、山下晶、内田美智子、根岸晴子、末次由美、末次寿、本間みのり、奥野港一、大谷誠、相馬毬花、林紗良、岡部奏南、佐野志織、三苫央ら。


乳癌を患った女性と娘&夫の生活を綴ったブログを書籍した同名ノンフィクションを基にした作品。
『ペコロスの母に会いに行く』の脚本を手掛けた阿久根知昭が、初監督を務めている。
千恵を広末涼子、信吾を滝藤賢一、はなを赤松えみな、伊藤を古谷一行、加山を鶴見辰吾、松尾を赤井英和、志保を一青窈、片桐を原田貴和子、千恵の親友の奈津子を紺野まひる、和則を平泉成、喜美子を木村理恵、信義を北見敏之、美登里を高畑淳子、由布子を春風ひとみ、由季を遼河はるひが演じている。
東京テアトル株式会社70周年記念作品。

映画が始まると、まず慌てて結婚式場へ駆け込む千恵と信吾の姿が映し出される。だが、結婚式が映画のクライマックスというわけでもなくて、かなり早い段階で、そのシーンに戻って来る。
なので、時系列をいじって、そこを最初に配置している意味が無い。
そんなシーンを最初に用意しなくても、信吾の性格は示せるし。
っていうか、千恵のナレーションで信吾の性格を簡単に説明しているけど、それ以降の展開には、そんなに上手く繋がっていないし。

序盤の簡単な説明では信吾の欠点だけを並べているので、「それでも千恵が恋人と別れて彼を選んだ理由」が見えない。その後、2人が交際するまでの回想シーンによって、彼を選んだ理由が見えてくるわけでもない。
っていうか、2人が付き合うまでの経緯など、ほとんど描かれていない。あっという間に2人は付き合っている。
それと、回想シーンに入ると信吾がナレーションを担当するのだが、そういう語り手の交代劇も仕掛けとして成功しているとは言い難い。
そもそも、ナレーションベースによる進行そのものが、物語を薄っぺらくて淡白なモノにしている。

尺の都合もあって仕方がないのかもしれないが、映画開始から6分程度で千恵の乳癌が判明している。それがアヴァン・タイトルになっているのだ。
出産してからの物語がメイン・イベントなので、そこまでの展開を短くまとめようとするのは、当然っちゃあ当然なんだろう。ただ、「乳癌の発覚」とか、「手術を嫌がる千恵を信吾が元気付ける」とか、「子供が産めないと分かっても信吾が千恵と結婚したがる」といった要素を全て感動的に描こうとしているので、「それに見合うだけの丁寧なドラマ描写が無いから無理でしょ」と言いたくなる。
心に響くモノ、涙腺を刺激するモノなんて、何も無いからね。
だから、いっそのこと割り切ってしまって、泣かせに行くのは諦めたらどうなのかと思ったりするんだよね。
もっと明るく軽妙なテイストを徹底した方が、賢明だったんじゃないかと。尺の取り方と演出のテイストが、アンバランスじゃないかと。

エコー検査で赤ん坊が動いているのを見た時、千恵は涙を見せる。たぶん彼女が出産を決めたのは、この出来事が大きく影響しているという設定なんだろうと思われる。
ただ、短い描写で一気に感動へ持っていこうとしているが、内容が薄っぺらくて追い付いていない。
あと、エコーを見た信吾が「赤ちゃん」と嬉しそうに言うのは、病気のせいで産めないと言っている千恵に対する気遣いが全く無い。
そりゃあ冒頭で無神経な部分があるとは説明していたが、すげえ不愉快だよ。

それと、和則が「お前は死んでも良かけん、死ぬ気で産め」と言ったり、加山が「産んだらどうね?貴方が産んだら、同じ病を持つ人の希望になる」と言ったりするのも、これまた無神経極まりない発言にしか聞こえない。
これが「本人は産みたいけど周囲への遠慮で迷っていることを見透かし、背中を押してあげるための発言」ってことなら、それは理解できるのよ。
だけど、そんな様子は皆無だしね。
産むと決めたことを千恵から聞いた信吾が何も考えず嬉しそうに泣くのも、やっぱりデリカシーに欠ける態度だ。

夫婦は佐藤の元へ通い始めたせいで、出費が一気に増えてしまう。
そこは「信義や松尾がカンパしてくれる」という描写で「いい話」に見せ掛けようとしているけど、「ホントに佐藤の元へ通ったのは正解なのか」と言いたくなる。同時に病院のホルモン治療も始めてるので、「そっちの効果が大きかった可能性もあるんじゃないか」と考えてしまう。
そもそも癌治療が云々という以前の問題として、千恵の生活が不健康すぎたんじゃないかという気もするし。
食事や生活習慣を改善するって、それは癌の治療なんて関係なくても、普通にやった方が良さそうなことでしょ。大金を支払うに見合う治療法には思えない。

原作は2014年の『24時間テレビ』の枠内でTVドラマ化されたが、その時は「現代医学を否定している」とか「代替医療を美化している」といった批判が出た。
この映画版でも、やはり同じような印象を受ける。
これが例えば、夫婦の倦怠期とか、精神的な悩みとか、そういうことが食事や生活習慣の改善によって改善されたという話なら何の問題も無いのよ。だけど、「味噌汁と玄米中心の生活なら癌が消える」というのは、どうにも引っ掛かる。
あと、千恵が病院の定期検診を無視して全身に転移しちゃうので、「何やってんだよ」と呆れるし。
完全に自業自得じゃねえかと言いたくなるぞ。

保母から診断書が必要だと聞かされた信吾は、千恵に電話を掛ける。彼が電話を切るとカットが切り替わり、夫婦が声を揃えて「そして2007年、現在」というナレーションを語る。
この構成は、唖然とするほど不恰好だ。
そこを「現在」と言っちゃう時間の感覚は、違和感に満ちている。どこを省略しているのかと感じるし、その省略の方法も粗すぎる。
なんで「定期検診を無視していた時期」からの唐突な展開で、「全身転移から1年が経過して」という時期に飛ぶのかと。

タイトルに使っているぐらいだから、はなが味噌汁を作り始めるのは、ものすごく重要な出来事のはずだ。
ところが、そのシーンが雑に処理されてしまう。
そこに至る流れもバッサリと乱暴に省略しているせいで、「なぜ夫婦は娘に料理を覚えさせようと決めたのか」「なぜ料理の中でも味噌汁の担当にしたのか」という理由が全く見えて来ない。
そもそも、「夫婦と娘の触れ合い」に対する意識がボンヤリしているせいで、そこが映画の軸として機能していないのよ。

千恵は2007年のシーンになっても、「玄米生活を続けて健康です」みたいなアピールをしている。
だけど、既に癌が全身に転移しており、すっかり手遅れの状態なのよね。
なので、ホントに玄米の効果があるのかどうかは微妙だぞ。少なくとも映画を見る限り、あまり関係なくないんじゃないかと感じるぞ。
夜更かしをやめるなど生活習慣の改善は有効かもしれないが、玄米への過剰な信仰が強すぎるんじゃないかと。そこは白米でも別にいいんじゃないかと。

終盤、由季からコンサートへの出演を持ち掛けられた千恵は、もう声が満足に出ないという理由で断る。はなに「ママの歌が聞きたい」と言われると、「歌えるようになったら、たくさん歌うから」と約束する。
しばらく後のシーンで、コンサートの一件について志保と話した千恵は三味線を渡され、演奏しながら庭で歌う。
はなは信吾と出掛けていたが、千恵の歌声を耳にして帰宅する。歌と演奏が終わると、上の階に住む住人たちが拍手する。
その後には、千恵がコンサートに出演するシーンがある。
この辺りを全て「感動的なドラマ」として描写しようとしているが、かなり無理がある。

それまでに、はなの前で千恵が歌うシーンが無かったわけではない。誕生日のシーンでは、三味線を弾きながら『ハッピーバースデー』も歌っていた。
しかし、「はなの前で、いつも千恵が歌っていた」という印象を強く与えることは出来ていない。
何より問題なのは、千恵が声楽をやっていたことは序盤のナレーションで軽く触れているだけであり、彼女が声楽をやっていることを示すシーンは無いってことだ。
つまり「癌になったから満足に歌えなくなった」という設定のはずだが、映画を見ていると「そもそも、そんなに歌ってなかったでしょ」という印象になってしまうのだ。

とは言え、演じているのが広末涼子なので、実際に「声楽科出身の女性」として歌わせると、そこの説得力はゼロになる。過去に歌手活動もしていた人ではあるが、お世辞にも歌唱力が高いとは言えないし、少なくとも「声楽科の歌い方」が出来る人ではない。
だからと言って、歌だけを吹き替えにすると、それはそれで違和感が生じる。
なので、どうやっても問題は生じるのだが、「だったら声楽科の設定を変更すれば良かったんじゃないか」と思うのだ。
それだと原作からは外れるけど、広末涼子をヒロイン役に起用した時点で、そこに説得力を持たせることは不可能なわけで。だったら、そのぐらいの改変は許されるんじゃないかと。

そんな風に思っていたら、コンサートに出演した千恵が大勢のコーラスをバックにして歌唱するシーンがラスト寸前に待ち受けていた。
そこで泣かせようとしているのは痛いほど分かるんだけど、そりゃ無理だわ。
幾ら「病気を患って衰弱している」という設定を考慮しても、感動させられるような歌ではないよ。
っていうか、そこに限らず、この映画って色んなトコで何度も感涙させようとしているんだけど、ことごとく空回りしているからねえ。

(観賞日:2018年5月5日)

 

*ポンコツ映画愛護協会