『母と暮せば』:2015、日本

1945年8月9日。助産院を営むクリスチャンの福原伸子は、医者を目指す息子の浩二と2人で暮らしている。その日、浩二が長崎医科大学で川上教授の講義を受けていると、原爆が投下された。浩二が被爆死してから3年後、伸子は彼の恋人だった小学校教諭の佐多町子と墓参りに出掛けた。浩二の骨さえ見つからなかったことから、今まで伸子は死を受け入れられずにいた。亡霊でもいいから、会いに来てほしいと思っていた。しかし彼女は町子に、もう諦めようと告げた。
夜、夕食を用意した伸子は浩二の遺影に向かい、もう諦めたと話したら町子も受け入れてくれたことを語る。そんな彼女の様子を、浩二の幽霊が穏やかな笑みを浮かべて眺めていた。気配に感じた伸子が「誰かおるの?」と呼び掛けると、彼は「僕だよ」と言う。浩二は母に、なかなか諦めてくれないから3年も出て来られなかったと話した。伸子は既に夫と長男を亡くし、浩二が死んで一人ぼっちになっている。しかし寂しくないかと問われた伸子は、「仕方なかよ。生きとるだけでも有り難いの」と告げた。
浩二が周囲の人々の様子について訊くと、伸子は少し前まで上海のおじさんが同居していたことを話す。しかし浩二が本当に知りたいのは町子のことだった。彼女が小学校の先生になったと知り、浩二は喜んだ。伸子が仕事で出掛けると、浩二は2階でレコードを掛けて町子との思い出にふけった。徹夜仕事を終えて帰宅した伸子が寝ていると、浩二は体の弱い彼女を心配した。彼は母の傍らで、思い出話を饒舌に語る。しかし上海のおじさんが訪ねて来て伸子が目を覚ますと、浩二は姿を消した。
上海のおじさんは伸子に味噌や石鹸を渡し、町子に縁談を持って来てもいいかと尋ねる。伸子は町子が見合いはせずに自分で相手を決めるだろうと言い、その話を断った。町子は借りていたレコードを返すため、伸子の家を訪れた。彼女は同僚の教師たちと共に、音楽教室で蓄音機を囲んだコンサートに行った帰りだった。町子は浩二が好きだったメンデルスゾーンを聴いたこと、同僚の黒田正圀が泣いたことを話す。黒田は出征する時にその曲を聴き、これか最後だと覚悟した。出征先で多くの仲間が命を落とす中、自分だけは生き延びて帰国し、その曲を再び聴いた時に様々な思いがよぎって泣き出してしまったのだ。
町子はレコードを戻すため、2階に上がって浩二の部屋に入った。彼女が浩二のことを思い出していると、伸子がコーヒーを運んできた。彼女が浩二を忘れるよう促すと、町子は「そんなことは出来ません」と告げる。このまま浩二を思いながら一生を過ごしたい、それを彼も望んでいるはずだと彼女は語り、涙をこぼした。夜、浩二は伸子の前に現れ、町子と相談した結婚式の内容を語った。彼が町子はどうしているのか尋ねるので、伸子は見えないのかと訊く。すると浩二は、見たら辛いので見ないようにしていると答えた。
伸子は浩二に、自分が生きていられるのは町子が世話を焼いてくれたおかげだと話す。「町子には幾ら甘えても良かとよ。僕の嫁さんなんだから」と浩二が口にすると、伸子は「嫁さんになるはずだった、でしょ」と修正する。浩二は何も言わず、不機嫌そうな表情に変化した。町子に好きな人が出来たら諦めるべきだと伸子が説くと、浩二は「そんなの嫌だ」と頑なに拒否した。もう死んでいることを考えるべきだと伸子が諭すと、浩二は反発して姿を消した。
町子は教え子の風見民子に付き添い、復員局の長崎出張所へ赴いた。民子は祖父に頼まれて、出征した父の消息を確かめに出向いたのだ。調査課の職員は記録を確かめ、父親がフィリピンで戦死していることを民子に伝えた。民子は気丈に振る舞い、父の死んだ場所と状況を紙に書くよう職員に頼んだ。町子は必死で涙を堪える彼女を抱き締め、ボロボロと泣いた。町に戻った町子は伸子の家に立ち寄り、そのことを話した。また涙をこぼした彼女は、浩二が好きだった桔梗の花を伸子に渡して立ち去った。
伸子が2階に上がってメンデルスゾーンのレコードを掛けようとすると、浩二が現れた。彼は指揮者の真似をして、曲に合わせて見えないオーケストラを指揮した。曲が終わると、彼は指揮者になりたかったと語る。伸子は浩二に、長男が戦死した日に会いに来たと話す。その夜、うなされながら伸子が就寝していると、軍服姿の長男が玄関に現れた。ビルマに出征していた彼は、多くの兵士たちと共に姿を消した。伸子は目を覚まし、2階から下りて来た浩二に長男が来たことを話したのだった。
浩二は伸子に、兄から出征する前に「医者になって母さんを守れ」と言われたことを語る。死んだのは運命だと彼が言うと、伸子は「これは防げたことなの。人間が計画して行っった悲劇なの」と告げる。浩二は涙をこぼし、彼女の前から姿を消した。夜、伸子が夕食を準備して食べようとしていると、浩二は再び現れた。彼は憲兵にスパイ容疑で捕まった後、中華街で一緒にちゃんぽんを食べた時のことを話す。彼は町子について考えたと言い、「いないとは思うけど」と何度も前置きした上で「自分より素敵な相手がいれば結婚すべきだと思う」と告げる。伸子は「さすが私の息子」と述べ、涙をこぼした。
上海のおじさんが福原家を訪れ、修理したラジオを伸子に返した。さらに彼は進駐軍から手に入れたピーナッツパターやメリケン粉などを渡し、町子の縁談の話は断ったと告げる。彼は自分と結婚しないかと持ち掛けると、伸子は「冗談がお上手」と軽く受け流した。上海のおじさんは笑い飛ばし、冗談にして立ち去った。浩二が不機嫌そうに塩を撒くよう促すと、伸子は上海のおじさんの気持ちを理解していること、それに甘えて闇の品を安く売ってもらっていることを明かした。
伸子は助産婦の仕事で近所の家を訪れ、町子の教え子の少女と会った。少女は伸子に、黒田が町子に惚れていることを話す。その夜、浩二は兄から譲り受けたかすりの着物姿で姿を現し、中等学校時代の思い出について語った。彼は町子に嫌われるのではないかと思ったこと、彼女からの手紙で喜んだことを母に話した。町子が訪ねて来ると、浩二は姿を消した。伸子は町子に、自分や浩二に義理立てせずに家族を持ってほしいと告げる。しかし町子は絶対に結婚しないと言い、その理由を説明する…。

監督は山田洋次、企画は井上麻矢(こまつ座)、プロデューサーは榎望、脚本は山田洋次&平松恵美子、製作代表は大谷信義&中村邦晴&平城隆司&木下直哉&岩田天植&井田寛&藤島ジュリーK.&松田陽三&山本浩&沖中進&吉川英作&宮本直人&浅井健二&井上麻矢&才木邦夫&前原晃昭&鈴木哲&笹栗哲朗&樋泉実、製作総指揮は迫本淳一、撮影は近森眞史、美術は出川三男、照明は渡邊孝一、編集は石井巌、録音は岸田和美、音楽は坂本龍一。
出演は吉永小百合、二宮和也、黒木華、浅野忠信、加藤健一、広岡由里子、本田望結、小林稔侍、辻萬長、橋爪功、北山雅康、田中壮太郎、川原安紀子、山田美紅羽、迫田孝也、野沢由香里、稲川実代子、松田北斗、鈴木翼、石井凛太朗、安田光太郎、今村公一、Chris McComs、Wade、Mack-B、依田哲也、逢笠惠祐、吉田大輝、竹内寿、長村航希、狩野見恭兵、井上ほたてひも、横山涼、米村秀人、高良亘、石井一彰、吉田翔吾、山根大弥、松田陸、前田聖太、京極圭、芹澤興人、永嶋柊吾、木村トモアキ、佐々木一平、武井駿、横尾下下、春木生ら。


『東京家族』『小さいおうち』の山田洋次が監督を務めた作品。
脚本は『東京家族』『小さいおうち』でも一緒に仕事をしていた山田洋次&平松恵美子。
井上ひさしの舞台劇『父と暮せば』と対になる作品として製作されている。
『父と暮せば』、井上の死後に舞台化された『木の上の軍隊』、そして本作品の3作を山田洋次は「戦後“命”の三部作」と命名している。
伸子を吉永小百合、浩二を二宮和也、町子を黒木華、黒田を浅野忠信、上海のおじさんを加藤健一、富江を広岡由里子、民子を本田望結、復員局の職員を小林稔侍、年配の男性を辻萬長、川上教授を橋爪功が演じている。

オープニングはセピア色の映像で、空爆に向かうB29のコクピットからの視点になっている。そして「1945年8月9日、午前9時50分。B29は第一目標の小倉に到着したが、視界は悪く、第二目標の長崎に方向を転換した」などと文字が出る。
そこから伸子が浩二を見送る様子、浩二が路面電車に飛び乗る様子が描かれ、またコクピット映像に戻って「その時、長崎上空は70%の雲に覆われていた」などと文字が出る。そして講義を受けている浩二の姿が写し出され、原爆投下で被爆する展開になる。
この冒頭部分、B29のパートって全く要らないでしょ。文字による説明も全く要らないでしょ。浩二が伸子に見送られて大学へ行き、そこで被爆するのを見せるだけで充分でしょ。
「戦争を知らない人々のために丁寧に説明しよう」ってことかもしれないが、余計なお世話だ。
例え戦争のことを全く知らない二宮和也のファンが観賞したとしても、浩二が原爆で死んだことぐらい分かると思うぞ。それに後から「こういうことで死にました」と本人のナレーションで喋らせちゃってもいいんだし。

そんな冒頭部分を過ぎて3年後になると、映像がカラーになる。つまり、「1945年の出来事は過去で、3年後は現在」ってのをハッキリと色で区別しているわけだ。
でも、「現在」のシーンが映画公開と同じ年ならともかく1948年なので、それも随分と昔なんだよね。
なので、どっちもカラー映像で良くないか。
セピアとカラーで分けている効果が充分に得られているようには思えないんだよね。「伸子にとって、息子が生きていた時代がセピア」とも受け取れないしね。彼女がいないトコで死んでいるわけだから。

幽霊の浩二は伸子に、「いつまでも僕のことを諦めんから、なかなか出てこられんかった」と話す。
だけど、ちょっと何言ってんのか良く分からない。
それは裏を返せば「母が諦めてくれたから、ようやく出て来られた」ってことになるけど、まるで筋が通らない理屈になってないか。
「なかなか諦めないから仕方なく出て行く」「諦めてくれたから無事に成仏できる」ってことなら分かるけどさ。
浩二の説明では、全く納得できないぞ。伸子も、たぶん分かってないだろ。

幽霊になった浩二は初登場するシーンで、伸子が遺影に話し掛ける様子を穏やかな笑みを浮かべて眺めている。「誰かおるの?」という母の呼び掛けに、彼は「僕だよ」と答える。
このシーン、文章では全く伝わらないかもしれないが、実際に観賞していた時にはゾッとした。浩二の「僕だよ」が、ものすごく気持ち悪かったのだ。
勘違いしてほしくないけど、別に二宮和也が気持ち悪い奴ってことじゃないからね。彼にそういう芝居を付けているのが、気持ち悪いってことだからね。
そこに限らず全体を通して、浩二の立ち振る舞いは「本当にそれで正解なのか」と首をかしげたくなるんだよね。わざとらしさが、かなり出ちゃってないかと。

吉永小百合が主演を務める作品では、「年齢ギャップ問題」ってのか必ず付きまとう。
サユリ様は実年齢を無視しようとする女優だけど、見た目は年齢に全く逆らえていないので、「実際の年齢と、演じているキャラの年齢設定に大きな開きがある」という問題が生じるのだ。だから周囲のキャラとのバランスも取れなくなり、夫役の俳優や子供役の俳優との年齢差も引っ掛かることが多くなる。
この映画の場合、どうやら吉永小百合が演じるヒロインは40代ぐらいの設定のようだが、実際は当時70歳。ものすごい年齢差だ。
吉永小百合は同年代の女性に比べれば遥かに若々しいけど、さすがに40代には見えないぞ。

ただ、今回の作品では、「サユリ様が年齢を超越した絶対的な存在になっている」とか「周囲の面々とサユリ様のバランスが合わない」ということではなく、全く必要の無い部分でも年齢ギャップ問題が起きている。
それは、二宮和也が大学生を演じているってことだ。
この映画を撮影した当時、彼は32歳だった。そんな彼に大学生の役を演じさせる必要って、何も無いでしょ。
大学生役が欲しければ、それに合った年齢の役者を使えばいい。どうしても二宮和也を使いたければ、彼に合わせた役を用意すればいい。「最初は大学生だけど、そこから成長していく」というキャラでもないんだからさ。
実年齢に合わないキャラを演じさせたことが、芝居に不自然さを感じる原因の一端にもなっているんじゃないか。

この映画でダントツに心を揺り動かすのは、民子のシーンだ。
彼女は父親が戦死していることを聞いても気丈に振る舞い、祖父に頼まれた仕事を済ませる。町子が同情して抱き締めると、必死で涙を堪える。祖父から絶対に泣いてはいけないと言われたこと、母が死んで妹が2人いるので自分はしっかりしないといけないと思っていることを、けなげに話す。
そこがお涙頂戴のシーンなのは紛れも無い事実だが、泣かそうとしているのが分かっていても泣ける。
っていうか、この映画で感涙する唯一のシーンが、そこだ。伸子と浩二のシーンでは、ピクリとも涙腺が刺激されない。2人とも饒舌に喋るが、会話シーンが長くなればなるほど、気持ちは冷めていく。
台詞の分量の多さ、会話劇の多さが、必ずしもマイナスに作用するわけではない。でも、この映画では明らかにマイナスに作用している。もうちょっと黙ったり、間を取ったりしてもいいんじゃないかと感じる。まるで引き付けられないし、陳腐にさえ感じるんだよね。

ただ、会話劇以外の部分の演出も、首をかしげたくなる箇所が多いんだよね。
例えば、伸子がレコードを掛けようとして、浩二が出現するシーン。
彼は会釈して背中を向け、指揮棒を振り上げるような動きを見せる。曲が流れると彼は指揮者のように振る舞い、影絵の楽団を指揮する。
この演出は、どういうつもりなんだろうか。
ファンタジー色を濃くしたかったのかもしれないが、ただ陳腐になっているだけだ。そこで急に指揮者の真似をするという、浩二の行動も含めてね。

伸子が「長男が会いに来た」と話した時や、浩二が「憲兵にスパイ容疑で捕まって、中華街で母とちゃんぽんを食べた」と話した時には、それに関連する回想シーンが挿入される。
でも、これって全く要らないのよね。
前者に関しては、ちょっとホラーっぽい演出になっている。コケ脅しのつもりなのかもしれないけど、だとしても効果は乏しい。
後者に関しては、「憲兵が浩二を家から連行する」というだけで回想が終わり、「伸子の抗議で釈放される」という経緯は全て会話劇で処理される。
そこを回想にするなら、「釈放されて、ちゃんぽんを食べて」というトコまで描くべきでしょ。その後、ちゃんぽんを食べる様子は再び回想シーンが挿入されるが、ここだけセピア色にしている意味も分からないし。

終盤、伸子が病気で寝込むと、浩二が「もう二度と来られなくなるかもしれんよ」と言う。
伸子が「そげんことダメよ。アンタが死んでしもて、どんなことも幸せと思わなくなってしまったとよ」と告げると、彼は「僕がこの家に来られんようになっても、母さんは僕と一緒だよ」と語る。
伸子は既に自分が浩二と同じ幽霊になってしまったことを知らされ、「アンタと一緒におられるの?」と喜ぶ。
これを幸せな結末として描いているんだけど、かなりの薄気味悪さを感じてしまうぞ。

ラストに向けての描写って、死を推奨するようなことになってないか。
「息子が死んでから幸せを感じられなくなった」と言っていた伸子が、自分が死んだことで「これからはずっと息子と一緒にいられる」と嬉しがるわけで。それって「死んだ方が幸せ」ってことになっているでしょ。
これが「死を恐れていた人が、死ぬことは怖くないのだと感じて、安らかな死を迎える」という流れだったら、それは別にいいのよ。
だけど本作品の場合、「生きていても幸せなんて無いから、死んで喜ぶ」ってのは違うんじゃないかと。

(観賞日:2020年9月6日)

 

*ポンコツ映画愛護協会