『裸の大将放浪記 山下清物語』:1981、日本

1934年、12歳の山下清は父親を亡くし、母・ふじに育てられていた。知恵遅れの彼、小学校ではイジメに遭っていた。ふじから「もっと強くなってくれ」と言われた清は同級生に暴力を振るい、不良児童と認定されてしまった。ふじは担任の大野先生と相談し、清を教護施設の八幡学園に入れることを承諾した。
清は八幡学園で渡辺実先生の指導を受け、貼絵の才能を披露した。芸術家の式馬隆三郎にも才能を認められた清だったが、他の仕事をしてみたいと考えて八幡学園から逃げ出した。1940年、18歳の時だった。彼はウソをついて湯川静香の家の下働きになるが、子供達にはバカにされた。1年後に湯川家を出た清は、植田浩太郎の弁当屋で働き始めた。
やがて戦争が始まるが、清は徴兵試験を不合格になった。渡辺の出迎えを受けて、清は八幡学園に戻った。だが、しばらくすると、清は再び植田の弁当屋に戻った。戦争は終結するが、そんなことには何の関係も無く、清の放浪の旅は続いた。そんな中、新聞が清のことを記事に書き、記者の矢田喜美雄らが彼を探し始めた。鹿児島で発見された清は八幡学園に戻り、放浪の旅に終わりを告げる…。

監督&脚本&製作は山田典吾、原作は山下清、プロデューサーは山田火砂子&宮川孝至、監修は式場俊二、撮影は原一民、編集は沼崎梅子&吉田栄子、録音は飛田喜美雄、照明は高島利雄、美術は木村威夫&丸山裕司、音楽は渋谷毅、主題歌は作詞は山田典吾、作曲は渋谷毅、歌は小坂忠。
出演は芦屋雁之助、中村玉緒、根上淳、山口崇、牟田悌三、江戸家猫八、磯村みどり、小松政夫、なべおさみ、塩沢とき、根岸明美、古今亭志ん馬、セント、ルイス、草薙幸二郎、芦屋小雁、矢野宣、梅津栄、夏川かほる、大泉滉、横山あきお、内海桂子、内海好江ら。


放浪の天才画家と呼ばれた山下清の生涯を描いた作品。
山下清を芦屋雁之助、ふじを中村玉緒、式場隆三郎を根上淳、渡辺実を山口崇、清の弟・辰造を雁之助の実弟である芦屋小雁が演じている。
国際障害者年記念作品。

この映画の前年、つまり1980年にテレビドラマ『裸の大将放浪記』が始まっており、そこでも山下清を芦屋雁之助が演じている。しかし、この映画は、そのドラマの劇場版というわけではなく、全く別物として作られている。
テレビ版は山下清が放浪先で人々と触れ合う人情ドラマとして作られていたが、この映画は「山下清の生涯を描く」というのがテーマになっている。

テレビ版と同じ役者を起用したのは、あまりにも山下清イコール芦屋雁之助というイメージが強かったかもしれない。しかし、同じ役者を起用して、しかもTVシリーズと同じタイトルを付ければ、似た内容になると思ってしまうのが普通だろう。
だが、実際には別物なのだ。
むしろ、入り口で同じだという印象を与えた分、違和感が大きくなるように思う。
そこでの混同を意図的に狙ったのだとすれば、戦略としては上手いのかもしれないが、誠実さは全く無いということになるし。

原作が山下清の『裸の大将放浪記』なのに彼の死までが描かれるというのは、冷静に考えると妙な話ではある。
それに放浪ではなく生涯を描く作品なのだから、『裸の大将放浪記』というタイトルは内容と合っていないのではないか(原作と同名ではあるのだ)。
そりゃあ、こじつけとして「人生を放浪していたのだ」と言うことも出来なくはないが、ちょっと無理があるし。

冒頭、少年時代の清がイジメを受けるシーンからして、いきなり安っぽい。
イジメている少年達の台詞回しは棒読みで、清を蹴り飛ばす様子も全く力が入っておらず、「蹴っているフリ」がバレバレだ。
序盤の数十分によって、「学校の体育館や行動で教師が生徒達に見せたがる教育的映画(そして生徒達は退屈しか感じないチープな映画)の類だな」という印象を受ける。

少年時代の清を描くのだから、彼の絵画の才能が発揮される経緯を見せるのかと思ったら、どうもファジーだ。画家・山下清、もしくは放浪者・山下清が形成されていく経緯は、何となくボンヤリしている(というか、そんな経緯は無い)。
少年時代は序盤で終了するが、ただ時系列に沿って駆け足でなぞっただけ。
成長した山下清の人間形成に少年時代の出来事が大きく関わっているという描かれ方をしているわけでもないので、だったら最初に放浪している頃から始めてもいいんじゃないかと思ってしまう。

放浪を始めてからは、前述した「チープな教育映画」という印象は完全に消える。
基本的には、テレビ版と同じようなテイストになっている。
ただし、「テレビドラマから人情劇を削除して超薄味にしたモノ」という感じだ。
限られた時間で各地を放浪するのだから、人々との触れ合いも、おのずと1つ1つは薄くなってしまうのだ。

テレビ版なら、山下清が旅先で出会った人々と触れ合い、彼らに影響を与え、そこで変化が生じるというドラマがある。
しかし、この映画版では、そういったドラマは皆無だ。放浪先で出会った人々は、基本的に「出会いました、しばらくして消えました」というだけ。
清が彼らに影響されることも、清が彼らに影響を与えることも無い。
やがて放浪は終了するが、それで何かが変わるのかというと、相変わらず淡々と、ダラダラと、ボンヤリと時間が過ぎていくだけ。
山下の生き方を深く掘り下げようという意識が見られるわけでもない。
生涯に負けずに頑張る姿を描くという方向性も感じない。
安っぽくて説教臭い啓蒙映画にさえなっていない。
何を描きたかったのか、何を伝えたかったのか、まるで分からない。

 

*ポンコツ映画愛護協会