『八月の狂詩曲(ラプソディー)』:1991、日本
夏休み、音のズレたオルガンを大学生の縦男が弾いている。従妹・たみが「諦めなさい、縦男さんが直すと、ますます変な音になるわ」と 笑うと、彼は「直してみせるよ、絶対に」と口を尖らせ、「大学へは入った。受験勉強からやっと脱出したんだ。この夏休みは勉強しない と決めて来たんだ。時間ならたっぷりある」と述べた。たみは「ハワイから手紙。みんな集まってるわ」と彼に告げた。
縦男、たみが縁側に行くと、祖母の鉦、縦男の妹・みな子、たみの弟・信次郎が集まっていた。そこは長崎の人里離れた村にある鉦の家だ 。手紙を開封すると、写真が同封されている。手紙の差出人は、たみたちの父・忠雄だ。忠雄と、彼の妹で縦男たちの母・良江は、ハワイ へ行っていた。鉦の兄・錫二郎に会うためだ。手紙には、ホノルル空港で錫二郎の家族の出迎えを受けたことが綴られていた。
写真を見ると、キャデラックの前で錫二郎の家族が集まっていた。錫二郎の亡くなった妻はアメリカ人で、息子クラーク、その妻ナタリー 、息子マイケルと娘エミリーが写っている。みんなカタコトの日本語を話すという。手紙には、病床の錫二郎に会ったことが書かれていた 。鉦が来ないのを残念がっていたという。鉦が行くのを嫌がったので、名代として忠雄と妹の良江が会いに行ったのだ。
錫二郎が「お婆ちゃんは孫たちと共に来ればいい」と言っていたことが記されており、浮かれた縦男たちは鉦に「みんなで行こうよ」と 持ち掛けた。良江の手紙には、錫二郎の豪邸に宿泊させてもらっていることが記されていた。邸宅の写真を見た子供たちは、「ホテル みたいだ」と驚いた。クラークがカタカナと漢字で綴った手紙もあった。そこには、「父は1920年にハワイへ来てパイナップルと一緒に 生きて農園を残し、アメリカ人としてもうすぐ死ぬでしょう」と書かれていた。
クラークの手紙には、父が妹に会って死にたいと言っているので、会いに来て欲しいという旨が綴られていた。そんな手紙を読んでも、鉦 は「なんかの間違いや」と漏らす。彼女は、錫二郎が本物の兄かどうか疑っていた。兄弟が十数名もいたが、そんな名前の兄がいた記憶が 無いのだ。夕食の時、子供たちの箸が進まなかった。信次郎は「明日から、食事は姉さんに作らせてよ。その方がいいと思うんだ」と言い 、縦男は「ハッキリ言うと、おばあちゃんの料理は不味すぎるんだ」と明かした。
翌日、縦男は鉦にハワイ行きを決めさせるための説得交渉を担当し、残る3人は食材の買い出しに出掛けた。たみは長崎の街を眺めながら 、「このきれいな長崎の町の下には、一発の原爆爆弾に消えてしまった、もう1つの長崎があるの」と語る。鉦の夫も原爆で死んでいた。 鉦は夫を捜すため、彼が務めていた学校へ来た。「お爺ちゃんは見つかったの?」と信次郎が尋ねると、たみは「学校は潰れて燃えて、 焼けただれた死体が一杯で、どれがお爺ちゃんだか分からなかったの」と答えた。
たみが「行ってみる、その学校?」と持ち掛けると、みな子と信次郎は喜んだ。中学校へ移動した後、たみは鉦も結婚するまで教師だった ことを話す。それから彼女は、ある方向を指差した。そこには原爆で焼け、ひしゃげたジャングルジムがあった。それを見た信次郎は、 「お爺ちゃんは見つかんなくても、ここにいるよ、きっと」と口にした。3人は帽子を取り、そこに向かって黙祷した。
3人は原爆のことを知るため、長崎の街を歩き回った。平和公園には世界各国から慰霊碑が送られていたが、アメリカの物は無い。それを 信次郎が指摘すると、たみは「当たり前じゃない、原爆を落としたのはアメリカよ」と言う。3人が戻ると、鉦は日傘を差して迎えに来た 。彼女は子供たちの暗い表情に気付き、「どぎゃんしたとね?」と問い掛けた。みんなは、たみが作ったカレーを食べた。
夕食の後、縦男はたみたちに、ハワイ行きを説得しようとしたら鉦が兄弟の名前を思い出してくれたことを言う。黒板には兄弟の名前が 列挙されていた。全員が金へんの名前だ。合計11人だが、まだ数名はいたはずだという。信次郎は「思い出しても、お婆ちゃん、ハワイ へは行かないよ。アメリカが嫌いなんだ。原子爆弾でお爺ちゃんを殺されたんだ、当然だよ」と言うみな子は「私もそう思う。私たちも、 私たちの親も戦争を知らないし、原子爆弾のことだって、少し怖いお伽噺という程度だった」と語った。
たみとみな子が自分たちの親を批判していると、そこへ鉦がスイカを持って来た。彼女は「アメリカを恨んどったのは昔のことでな、今は アメリカは別に好きでも嫌いでもなか。みんな戦争が悪かとやけん。戦争で日本人もたくさん死んだけど、アメリカ人もたくさん死んだ」 と述べた。それから鉦は、鉈吉という兄のことを話す。彼は靴屋で修業していたが、女将さんと店を逃げ出した。2人は村の山奥に小屋を 建てて暮らしていた。それは、雷が落ちた2本の杉の木の近くで、女将さんは「心中した杉」と称したらい。
翌日、縦男はたみを誘い、その心中した2本の杉を見に行く。その木を眺めていた縦男は、たみにキスを迫り、激しく拒絶された。2人が 戻ると、みな子と信次郎が外に出て来た。2人は、どこかの老婆が鉦を訪ねて来たことを言う。2人とも向かい合ったまま、何も言わずに 1時間も座っているという。夜、縦男はハワイに送る手紙を書き、鉦に確認を取る。鉦が錫二郎のことを思い出せないので、若い頃の写真 を送ってほしい、兄弟の名前を思い出してほしいという内容だ。
信次郎は鉦に、訪問した老婆のことを尋ねた。すると鉦は「話をしていた。喋らなくても分かる」と言う。食事の後、鉦は一番下の弟・ 鈴吉のことを話す。原爆投下で髪の毛が抜けた後は、閉じこもって目の絵ばかり描いていたという。鈴吉に瓜二つと言われた信次郎は、 寝る時に怖がって電気を付けたままにした。翌日、子供たちは鈴吉が泳ぎに行ったという滝を見に出掛ける。水蛇が泳ぐのを目撃した4人 は怯えた。信次郎は、鈴吉の描いた目は水蛇のものではないかと考えた。
滝を去った後、4人は村の老人たちが集まって亡くなった人々を供養している様子を目にした。夕方、戻った信次郎の質問を受けた鉦は、 「鈴吉の絵はピカの目じゃ」と言う。8月9日、鉦と鈴吉が庭に立って長崎の方を見ていると、空の裂け目から大きな目が覗いた。それに 睨まれたという。「その時からピカの目に取り憑かれた。ウチも、あれば忘れられん。あげん怖か目は無か」と彼女は告げた。その夜、鉦 は縁側に座り、溺れた鈴吉を河童が運んで来てくれた出来事を子供たちに語った。
ハワイの忠雄から手紙が来た。兄弟の名前が確認できたという。夫の命日が近いので、供養が終わってからハワイに行くことを鉦は決めた 。縦男は電報を送るが、入れ違いで忠雄と良江が帰って来た。たみが「原爆で亡くなったお爺ちゃんの供養を終えてから行きます」という 電報を打ったことを告げると、2人は「クラークさんはアメリカ人よ。お婆ちゃんの連れ合いが原爆で死んだと分かれば気まずいことに なる」と渋い顔になった。
そこに良江の夫・登と忠雄の妻・町子がやって来た。2人とも「お婆ちゃんに会いに来た」と言うが、実際には錫二郎の豪華な暮らしぶり を知りたがった。夜、たみは縦男たちの前で、親がクラークにお爺ちゃんのことを隠したがることへの疑問を口にした。縦男は「外交的 駆け引きと打算。せっかく掴んだ大金持ちとの関係に水を差したくないのさ」と答える。一方、大人たちは会食しながら、パイナップル 農園のことを語る。そこで働こうかと話す忠雄たちを見て、「あさましか、まるで乞食じゃ」と鉦は侮蔑的な態度を示した。
錫二郎から、クラークが日本へ向かう電報が届いた。大人たちは、今回の一件を無かったことにするためにクラークが来るのだと確信した 。金持ちとの繋がりが無くなると考え、大人たちは落胆した。すると鉦は「本当のことば書いて、何が悪か。ピカはまだ戦争ばやめとらん 。まだ人殺しば続けよる」と怒りを込めた口調で言う。クラークが到着する日、忠雄と良江は暗い気持ちで空港へ迎えに行く。しかし、 クラークは「お爺さんのことを知って、みんな泣きました」と述べた。
こっそり空港から去った縦男、たみ、みな子、信次郎は、中学校へ行くことにした。クラークは忠雄と良江に、ホテルではなく鉦の家に 泊まる意思を告げ、お爺さんが無くなった所へ行きたいと言い出した。縦男たちとクラークは、中学校で顔を合わせた。忠雄はクラークに 、ジャングルジムが原爆で死んだ子供たちのモニュメントになっていること、父の死んだ場所が分からないことを教えた。
死んだ子供たちの友人が中学校へ来て、ジャングルジムに祈りを捧げて花を手向けた。その様子を、クラークはじっと見つめた。クラーク は鉦の家へ行き、2人で縁側に出た。「お爺さんのこと、知らなくて、ホントにすみませんでした。お婆さん、長崎の人。それなのに、 私たち、気が付かなくて悪かった」と彼は謝罪した。クラークは、錫二郎が「日本へ行って鉦のために出来る限りのことをしなさい」と 言ったことを明かした。それを聞いた鉦は「これで良か。センキューベリマッチ」と告げ、クラークと握手を交わした…。脚本・監督は黒澤明、原作は村田喜代子 「鍋の中」(文藝春秋社版)より、ゼネラルプロデューサーは奥山融、プロデューサーは 黒澤久雄、演出補佐は本多猪四郎、アソシエートプロデューサーは井上芳男&飯泉征吉、撮影は斎藤孝雄&上田正治、録音は紅谷愃一、 照明は佐野武治、美術は村木与四郎、衣裳は黒澤和子、プロダクションマネージャーは野上照代、助監督は小泉尭史、音楽は池辺晋一郎。
出演は村瀬幸子、リチャード・ギア、吉岡秀隆、大寶智子、鈴木美恵、伊崎充則、井川比佐志、根岸季衣、河原崎長一郎、茅島成美、 小野松枝、松本克平、牧よし子、本間文子、川上夏代、音羽久米子、木田三千雄、東静子、堺左千夫、記平佳枝、夏木順平、川口節子、 加藤茂雄、槇ひろ子、永谷悟一、鳥木絢人、泉ワ輔、歌澤寅右衛門、小池榮、志村幸江、門脇三郎、 岩沢トミ、上杉春子、大木てる、岡雅子、尾形エイ、小野キヌ、苅谷ムラ、杉崎幸枝、土志田キミ、中山チヨノ、丸山イセ、山口タイ他。
芥川賞を受賞した村田喜代子の小説『鍋の中』を基にした作品。
鉦を村瀬幸子、クラークをリチャード・ギア 縦男を吉岡秀隆、たみを 大寶智子、みな子を鈴木美恵、信次郎を伊崎充則、忠雄を井川比佐志、良江を根岸季衣、登を河原崎長一郎、町子を茅島成美が演じている 。
リチャード・ギアは、ハリウッドのスップスターとしては格安のギャラで出演を承諾したらしい。
ちなみに、クラークと信次郎が蟻の行列を眺める有名なシーンでは、京都工芸繊維大学応用生物学科の山岡亮平氏が蟻指導を担当して いる。実は、原作の『鍋の中』には、原爆の問題が全く登場しない。
原作は17歳の女子高生・たみが主役で、パイナップル畑で金持ちになった祖母の弟の元へ親たちが出掛けている間、4人の子供たちが祖母 の家に預けられ、そこで過ごした夏休みの経験が綴られる。
原作にあった要素を用いて大幅に脚色するならともかく、全く無かった要素を盛り込んで、それをメインに据えるってのは、どういう つもりなんだろう。
原爆のことを描きたいのなら、なぜ全く無関係な『鍋の中』を原作として使ったんだろう。
村田喜代子は映画の仕上がりに不満を持ったらしいが、それも当然のことだろう。冒頭、縦男が「大学へは入った。受験勉強からやっと脱出したんだ。この夏休みは勉強しないと決めて来たんだ」と言うが、このセリフは 変だ。
そういうのは春休みに言うようなセリフだろう。
もう大学に入って夏休みになっているのに、「受験勉強から脱出した」というのは遅すぎるでしょ。いつまで引きずってんだよ。
これは原作にもある言葉なのかな。原作を読んでいないから分からないけど。縦男たちは鉦の料理が不味すぎると不満を漏らすが、だったら、その料理をアップで捉えるべきじゃないのか。
鉦が用意したメニューは「いんげん豆とかぼちゃと鶏肉の煮付け」で、「どれがどれだか見分けが付かないぐらい真っ黒で」らしいん だけど、食卓に並んでいる料理が全く見えないのよね、
あと、その場面、たみが弟の信次郎を「しんじ」と呼ぶのは、ちと不可解。
ずっと省略するならともかく、その場面だけなんだよな、そんな呼び方をするのは。いきなり鉦の家に孫たちがいるところから始めている段階で、それは端折りすぎだろうと感じる。
手紙の朗読によって、何となく人間関係は掴めるけど、それでも子供たちと忠雄&良江の関係性は、ちょっと分かりにくいし。
なぜ孫たちが鉦の家に来ているのかも分からない。
だって、忠雄&良江の配偶者は日本に残っているはずなんだから。
どうやら縦男たちは田舎の生活をそれほど喜んでいない様子なので、だったら、なぜ来たのか気になる。それと、縦男たちが田舎の暮らしに不便を感じており、あまり喜んでいないことも、まあ何となくは伝わるけど、それもやはり都会で生活 しているシーンから始めた方が伝わりやすいはずだ。
どうしてプロローグとなる部分をザックリと省略したんだろう。それによるメリットは、時間短縮ぐらいしか見当たらない。
そして、そんなに無理をして時間短縮をする必要性も疑問。
大体、黒澤監督って、そんなに尺を短く収めようと考えるような人じゃなかったはず。
だから、そういう意味で省いたんじゃないだろうし。で、そこを省略している一方で、無駄としか思えないような事柄に時間を費やしているんだよな。
それは具体的に言うと、「子供たちの田舎での様々な体験」だ。
それは、たぶん原作であれば「一夏の経験」がテーマだから、意味のある要素になっているんだろう。
ところが本作品では原爆や戦争をテーマに掲げているため、心中杉を見に出掛けた縦男がたみにキスを迫るとか、河童の話を聞いた信次郎 が河童のコスプレで縦男たちを驚かせるとか、そういう「何気無い風景」が、無駄な道草になってしまうのだ。前日の夜には「お婆ちゃんの不味い食事を食べなくて済むようになってラッキー」と喜んだり、「ハワイへ行くために一致団結しよう」と 浮かれたりしていた子供たちが、買い出しに行くとガラリと変わる。
たみは「このきれいな長崎の町の下には、一発の原爆爆弾に消えてしまった、もう1つの長崎があるの」と、急に生真面目なことを言い 出す。
みな子と信次郎も軽く受け流したりせず、真面目に聞いたり質問したりしている。
なんだよ、その急激な変化は。
あと、たみが原爆や戦争について詳しいのも違和感が強いし。たみは、なぜかお爺ちゃんの死んだ中学校へ行ってみようと持ち掛け、みな子と信次郎は前向きな態度を示す。そして3人は、焼けた ジャングルジムに向かって黙祷する。
急に品行方正になってるのね。
原爆のことを知りかくて長崎の町を歩き回るとか、なんでそんな気持ちになったのかサッパリ分からない。
これが例えば、誰かに原爆に関する話を聞いて真摯な気持ちになり、もっと知りたいと思ったという流れなら、まだ百歩譲って受け入れる としよう。
だけど、テメエたちで原爆の話を始めているんだよな。その買い出しのシーンになると、急に学校の体育館で上映されるような教育映画、啓蒙映画になってしまう。
どストレートに、愚直に、核批判や戦争批判のメッセージを主張する。
なんて青臭い映画なんだろうか。
だけどねえ、ここまで真っ直ぐに戦争批判のメッセージを主張すると、それって伝わらないんだよなあ。逆に、心に響かないのよ。
押し付けがましいし。
そして、つまんないし。「しかし今、多くの人たちにとって、原爆は遠い昔の出来事にすぎません、どんな恐ろしいことも、時と共に忘れられていくのです」と、 たみは仰々しい口調で語る。
だけど、それを若いアンタが言ってどうすんのよ。
その「多くの人たち」の中に含まれるはずの若者なのに。
それ以降も、縦男を含めた子供たちは真剣に戦争や原爆のことを考え、「絶対に忘れない」と心に誓っている。
やれやれ。見事なぐらいのステレオタイプなキャラ設定で、「子供はキレイ」「大人は汚れている」という分類になっている。
子供たちは純粋で真っ直ぐな性格で、最初はハワイの金持ちに会いたいという浮かれた気持ちだったが、すぐに原爆のことを真摯に受け 止め、戦争のことを真面目に考えるようになるという、とても正義感に溢れた面々だ。
一方、大人たちは金持ちの親戚と繋がりを持ちたいという意識に溢れており、だから戦争や原爆のことに触れようとしない。
そして、この映画は、それを醜悪な行為として断罪している。
黒澤監督は、まるで穢れを知らない子供か、あるいは時代遅れの熱血教師のような真っ直ぐな感覚で、戦争批判のメッセージを訴え掛ける 。
そして、そのメッセージは伝わらず、ただの陳腐な作品に仕上がっている。陳腐と言えば、終盤、ボケちゃったお婆ちゃんが雨の中を走り出し、それを必死で子供たちが追い掛けるシーンで、ひばり児童合唱団に よるシューベルトの『野ばら』を流すという演出には度肝を抜かれた。
いや、何となく狙いは分かるのよ。
シリアスな場面で、あえて陽気な音楽を流して、そのギャップでインパクトを与えようってことなんだろうと思う。
だけど、完全に外している。
そこで醸し出される牧歌的なムードには、苦笑しか出て来ない。(観賞日:2011年5月12日)