『夫婦フーフー日記』:2015、日本

浩太と優子は共通の友人を介して知り合い、大勢のグループで行動するようになった。みんなで飲みに出掛けた時、作家を目指していた浩太は編集プロダクションに就職し、本が大好きな優子は書店で働き始めた。浩太は文学賞に応募するが、第一次選考で落選した。それを知った優子は彼を飲みに誘い、「とにかく書け。書かなきゃ作家になんかなれねえよ」と荒っぽい口調で告げた。何でも話せる一番の友人として、浩太は優子と付き合い続けた。
仲間たちが結婚や就職で飲み会から離脱するようになっても、2人の交流は続いた。優子が故郷の福島に帰っても、浩太は何度も電話を掛け、文学賞で落選する度に励まされた。優子から「お見合いするかもしれない」と言われた浩太は、彼女と出会ってから17年目にしてプロポーズしようと決めた。それから1年9ヶ月が過ぎた。1ヶ月前に、浩太の妻となっていた優子は産まれて間もない一人息子を直腸癌で亡くなった。しかし浩太が優子の実家へ戻った時、彼女はハンバーガーを食べていた。
浩太は「がんフーフー日記」というブログを書いており、出版の話が持ち込まれていた。優子と2人きりになった浩太は、「死んだはずだよな」と改めて驚く。原稿を読んだ優子は、「売れねえな」と鼻で笑う。浩太は「ホントに怒涛の日々だっただろ」と声を荒らげ、自分の文章を読み上げた。2人は1月20日に川崎のアパートで同居開始し、3月3日に入籍した。4月15日に優子の妊娠が発覚。8月22日、優子の体調が良くないが、浩太は妊娠のせいだと考えていた。
8月30日の検査で、浩太と優子は腸に腫瘍があると医者から言われる。たが、まだ2人とも、本気では考えていなかった。しかし9月4日、優子は医者から直腸癌と宣告された。浩太は「みんなに知らせる」という目的で、優子の癌に関するブログを書き始めた。9月9日、優子は大きな病院へ転院し、リンパ節にも転移してステージ3と告知された。9月28日、優子は帝王切開で男児を出産した。そこまで原稿を読んだところで、浩太は寝ることにした。
翌朝、浩太が起きると、優子の友人であるエリが昨日の後片付けをしていた。浩太はエリに感謝の言葉を述べるが、急に優子が現れたので慌てる。エリの様子を観察した彼は、自分にしか優子が見えないのだと気付いた。四十九日法要が執り行われている間、優子は「12月24日に手術を受けた」という浩太の原稿を読む。話し掛けられた浩太が小声で相手をするので、出席していた友人のKZOたちは怪訝な表情を浮かべた。10年前に妻を亡くしたKZOは、「49日じゃ、まだ実感が湧かないよな」と浩太に告げた。
法要の後、浩太は編集者の山下と電話で話し、出版が決まりそうだと聞かされた。大喜びした彼は原稿を仕上げるため、両親に1週間だけ息子を預かってほしいと頼んだ。優子は浩太と公園を散歩しながら、原稿の続きを読んだ。4月6日、優子はKZOたちに協力してもらい、サプライズで結婚式を開こうとする。しかし優子の弟の不用意な言葉で、浩太にバレてしまった。浩太と優子は大勢の人々に祝福され、公園で結婚式を挙げた。
浩太は思い出の公園を去り、出版の話をKZOとエリ、義弟に明かした。しかし3人とも好意的な態度を示さず、エリは「こういうの商売にするってのは、ちょっと」と口にした。KZOのバーを出た浩太は優子から出版に対する考えを訊かれ、「考えてる」と答える。すると優子は、「ちょっとみんなに反対されたら諦めるんだ。その程度なのか、浩ちゃんの作家根性は。その程度の覚悟でやってっから、いい小説も書けねえし、作家にもなれねえんだよ」と口にした。
しばらく口論した後、浩太は「お前にずっと書き続けろと言われて、やっと本になるってのに、お前、もういないんだよな。分かってるよ。こんなもん、お前がいなかったら何の意味も無いんだ」と吐き捨てた。すると優子は、彼の前から姿を消した。フリーの編集者として働くことにした浩太は友人の佐藤に頼み、インタビュー記事の仕事を貰った。しかし仕事に全く身が入らない上、山下から出版の話が頓挫したことを聞かされた。
浩太は原稿を複数の出版社に持ち込むが、色好い返事は貰えなかった。彼が部屋に戻ると、留守電にエリと義弟のメッセージが入っていた。エリは「優子は本が好きだったし、何とか本にしたいっていう気持ち、分かります。浩太の気持ちに気付かなかった」と語り、義弟は「この前は済みませんでした」と詫びていた。浩太が本棚を荒らして喚いていると、父から電話が入る。浩太は「今から行くけ」と言って高速バスに乗り、原稿を読んだ。
12月6日、息子が初めて浩太の家に来た。息子の面倒を見るため、会社では大きな仕事を後輩に譲った。KZOとエリは義弟は、手伝いに来てくれた。入院中の優子は人工肛門を付け、口から物が食べられるようになった。しかし浩太は主治医から、症状が悪化していることを聞かされる。そこまでの原稿を読んだところで、優子の幽霊が再び浩太の前に現れた。「消えるのも現れるのも浩ちゃん次第だよ」と言い、「これ、嘘のオンパレードじゃん」と告げて原稿の続きを読み始める。
1月15日に優子は退院し、以降の治療は3週間ごとのサイクルで実施されることになった。4月10日、優子の容体が急変するが、明け方になって震えは収まった。しかし優子が自ら体調の悪さを口にしたので、浩太は会社を休んで大学病院へ連れて行き、再入院が決定した。4月17日、優子は新しく試した抗癌剤の反発が強すぎることに呆然とする。家族と両親が見舞いに来る中、「やっぱり、死ぬなら福島がいい」と彼女は口にした。そこで浩太は仕事を辞め、福島へ引っ越すことにした…。

監督は前田弘二、原作は川崎フーフ『がんフーフー日記』(小学館刊)、脚本は林民夫&前田弘二、製作は百武弘二&堯部雅夫&寺島ヨシキ&都築伸一郎&相馬信之&矢内廣&鈴木聡&風間建治&宮本直人&佐竹一美、企画・プロデュースは松本整&宇田川寧、プロデューサーは大畑利久&森川健一&田中洋行、撮影は伊藤寛、照明は山本浩資、録音は西條博介、美術は林千奈、編集は佐藤崇、音楽は きだしゅんすけ。
主題歌『ボイド』LAMP IN TERREN 作詞・作曲:松本大。
出演は佐々木蔵之介、永作博美、佐藤仁美、高橋周平、杉本哲太、小市慢太郎、並樹史朗、梅沢昌代、大石吾朗、吉本選江、宇野祥平、吉岡睦雄、SU、河野智典、ボブスズキ、今本洋子、三浦景虎、柳英里紗、高瀬アラタ、吉村界人、坂本慶介、永島和樹、[示申]田裕司、川屋せっちん、松浦知子、磯村将友、土屋裕樹、藤澤志帆、平井美遥、柴原結人、飯塚颯埜、桑高音殊、八木結音、谷口翔太、浪川大輝、工藤トシキ、細井ゆめの、梅原文香、宮島三郎、吉岡あや、斉藤祐太、舞木ひと美、河合恭嗣、藤沢美里、岩尾隆明、谷野まりえ、武隈史子、大野弘憲、福島茂雄、藤森真衣奈ら。


闘病ブログを書籍化した『がんフーフー日記』を基にした作品。
原作者の「川崎フーフ」はライターの清水浩司と元書店員の妻によるペンネーム。
監督は『婚前特急』『わたしのハワイの歩きかた』の前田弘二。
脚本は『藁の楯 わらのたて』『永遠の0』の林民夫と前田監督による共同。
浩太を佐々木蔵之介、優子を永作博美、エリを佐藤仁美、優子の弟を高橋周平、KZOを杉本哲太、山下を小市慢太郎、優子の父を並樹史朗、優子の母を梅沢昌代、浩太の父を大石吾朗、浩太の母を吉本選江が演じている。出版社の編集担当者役で、リップスライムのSUが出演している。

優子が生意気な口調で喋るのは、たぶん「豪快な性格」ってのを表現したいんだろう。
それに関しては伝わって来るので、ある程度は演出が成功していると言えるのかもしれない。
ただし、ちっとも魅力的に見えないというデメリットの方が、遥かに大きい。
本来ならば、そこは「がさつに見えるけど実は繊細な性格」とか、「生意気な口調だけど優しい」とか、そういうトコで彼女の魅力が見える形になっているべきだと思うのだ。しかし、最後まで彼女が魅力的な女性には見えない。

ナレーションの中で、浩太は優子を「ヨメ」と呼んでいる。それは「原稿を読んでいる」ってことだから、一向に構わない。しかし、優子の弟に至っては、ナレーションではなく会話の中でも「ギテー」と呼んでいる。
ブログの場合、他人に読ませる文章だから、「ダンナ」や「ヨメ」という呼称でも良かったのだ。しかし、普通に生活している中で妻の弟を「ギテー」と呼ぶのは変だろ。
この映画が寓話を狙っているなら、それでも構わないかもしれない。しかし、「優子が幽霊になって浩太の前に現れる」という部分にファンタジーの要素があるものの、基本的には「観客の身近にある物語」としての手触りによって、感情を揺り動すべき話のはずなのだ。
そういうことを考えれば、呼称の部分で「御伽噺」としての境界線を設けてしまうのは、どう考えても得策ではない。
本人ではなくエリの前での呼び方だが、それでも「ギテー」は違和感が強いぞ。

「優子が幽霊になって浩太の前に現れる」という部分にファンタジーの要素があると前述したが、そもそも、そういう仕掛け自体が邪魔でしかない。
わざわざ原作に無い要素を入れたのは、もちろん「映画として面白くするための仕掛け」を意識していたんだろう。しかし残念ながら、まるで有効に機能していない。
悲しい物語をユーモラスな雰囲気で包むための細工だったのかもしれないが、それは幽霊なんて使わなくても可能だし。
っていうか、そんなのを使わずに、妻が死ぬまでの物語にしておけばいいわけで。妻が死んだ後の様子を描くにしても、エピローグとして軽く触れる程度にしておけばいいわけで。

この夫婦の場合、結婚から病気が発覚するまでの間隔が、かなり短い。優子を幽霊として登場させ、彼女が死んだ後の物語にも長い時間を使うのは、「結婚生活だけだと長編として厳しい」ということだったのかもしれない。
ただ、「そうでもないよね」ってのが正直なトコで。
っていうかさ、仮に結婚生活だけでは厳しいという判断だったとしても、「だったら友人関係から結婚するまでの経緯に時間を使えばいいよね」ってことになるわけで。
なので、どういう理由であろうと、優子を幽霊として登場させて、彼女が死んだ後の物語に時間を使う構成をプラスに査定することは出来ない。
そもそも、結婚生活が長いか短いかってのは、上映時間と直接的な関係があるわけではない。例え短い結婚生活でも、そこを丁寧に描写すれば、それだけで1本の長編映画に出来るはずで。

時系列を組み替える手法を持ち込んでいるが、これまた機能不全に陥っている。無駄にゴチャゴチャさせて話を分かりにくくしているだけ。観客を感動させようという狙いを持った映画のはずなのに、それを自ら邪魔している状態だ。
どれだけ頑張って考えてみても、時系列を組み替えたことのメリットが分からない。普通に順番通り、話を進めた方が絶対にいいと断言できる。
ただし、大学時代とか、働き始めた直後とか、そんなのは全く要らない。この映画だと大学時代からスタートしているけど、何の必要性も感じない。
結婚する直前辺りから始めれば、充分に事足りる。っていうか、そっちの方が構成としてスッキリするはず。

浩太が優子と大学時代に知り合ったり、就職してからも友人関係が続いたり、他の仲間が離れる中でも交流が続いたりする経緯は、全て彼のナレーションによって説明される。そして映画が始まって5分ほど経過した辺りで優子が見合いをすると言い出し、浩太がプロポーズに向かうという展開になる。
そこまでの経緯を、10分にも満たない態度の尺で、ナレーションベースで処理しているわけだ。
17年という長い歳月を、そんな雑な形で消化するぐらいなら、そんなのは全てカットでいい。そこを短い尺で説明したからって、後の展開には何の影響も与えない。前述したように、結婚直前から話を始めればいい。
そこで「長く友人として付き合って来た」「何度も落選している浩太は、優子に励まされてきた」ということを示して、そこから「友情じゃなくて恋心だった」と気付いた浩太が求婚する手順に移ればいいのだ。
極端なことを言ってしまえば、映画のスタートを「結婚」というイベントにしてもいいぐらいなのだ。

細かいことだけど、浩太が優子からお見合いの話を聞かされた時、「出会ってから17年、30代後半になった時、私は決断をしたのです。そして私は福島行きの高速バスに乗り込んだのです。プロポーズするために」というナレーションを語るのは、かなり不恰好だぞ。
なんで実際にプロポーズする前に、「プロポーズするために福島へ向かった」ってことをナレーションで説明しちゃうかね。
そりゃあ、浩太の様子を見ているだけで、そういう決意なんだろうってのは分かるよ。
分かるけど、それでもナレーションで説明せず、予定調和でいいからプロポーズするシーンを描くべきだろうに。

浩太が福島行きのバスで文章を書いているシーンの後、カットが切り替わると優子が実家でハンバーガーを食べている。彼女の家族とエリがビールを飲んでいる。
そこに浩太が加わって会話が始まるが、どうも様子がおかしい。
で、しばらくして広い絵になると、優子の姿が見えない。そして浩太のナレーションによって、その1ヶ月前に優子が直腸癌で亡くなっていることが明らかになる。
つまり、そこで時系列の組み換えが実行されているわけだ。
しかし、ただ余計な引っ掛かりを生じさせているだけであり、「疎ましいわあ」と声に出しそうになったわ。

この映画を見る人の大半は、最初から「優子が癌で死ぬ」ってことを知った上で鑑賞しているはずだ。
だから、序盤で彼女が死ぬことを明かしても、ネタバレとしてのマイナスに繋がるわけではない。
しかし時系列を組み替えたことの問題点は、そこではない。
実は時系列を組み替えたことがイコール「絶対にアウト」というわけではない。ひょっとすると、上手くシナリオを構築していれば、ちゃんと感動のドラマになった可能性もある。
ようするに、やり方の問題である。

この映画の問題点は、時系列を組み替えた結果、「結婚して、ラブラブな生活がスタートする」「妊娠が発覚し、さらに幸せな気持ちになる」というトコから「優子の腫瘍が発覚」というショックへの落差、そこから始まる闘病の日々という、浩太が言うトコロの「怒涛の日々」が、ダイジェスト的な片付けられ方になってしまうってことにある。
浩太のナレーションによって、箇条書きのような形でサクサクと進められるのだ。だから、ちっとも「怒涛の日々」という印象を受けない。
なんで大事なトコを雑に片付け、「優子の幽霊が出て来る」という余計なトコに力を入れているのかと。
回想として結婚生活スタートからの様子を描き、「それを今の浩太と優子が見ている」という『野いちご』的な演出も、まるで効果的ではない。「だから何なのか」と言いたくなるだけだ。

そもそも、優子の幽霊を登場させるのなら、例えば「妻の死で浩太の心にポッカリと穴が開くが、幽霊の励ましを受け、前を向いて元気に生きて行こうという気持ちになる」とか、ともかく「幽霊によって浩太の生き方や考え方が変化する」というドラマを描くべきだろう。
しかし、いきなり「浩太が優子の幽霊を見る」という手順を入れることもあって、「浩太が妻の死でショックを受けている」という様子が見えない。
なので、幽霊の力が必要だとは思えないのだ。
実際、まるで役に立っていない。

優子が死んだ後の物語では、「浩太がブログを書籍化しようとする」というネタがある。その中では「周囲から反対の声もあるが、最終的には賛成してくれる」という展開が用意されている。
ようするに、「妻の死を商売するのは、いかがなものか」という批判に対し、「妻の身近にいた人々が賛成してくれたのだから」という言い訳をする内容になっているのだ。
でも、そういうのって、この映画で描くべきことじゃないでしょ。なんで映画を使って、作者の言い訳みたいなことを聞かされなきゃならんのかと。
もしも原作者の意志は無視して、映画の作り手側が勝手に用意しただけだとしたら、ただの意味不明な要素だし。

浩太はフリーの編集者として、友人に頼んでインタビュー記事の仕事を貰う。幼い子供を育てるためにも、仕事を選んでいられない状況にあるわけだ。
ところが彼は取材を終えたものの、まるで記事を書こうとせず、すぐに投げ出してしまう。
しかも、幼い息子を両親に預けたまま、1週間も連絡を取らない。それだけでなく、1週間の約束が過ぎた後も息子を預けたままで、両親からの留守電も無視している。
いやいや、テメエの息子だろ。しかも産まれて間も無いんだろ。
なんで1週間も連絡せずに、平気でいられるんだよ。可愛くないのか。心配にならないのか。

浩太は法要の前に、義理の両親に男児を預けたまま福島へ1週間も帰っていたらしい。そこだけでなく、周囲に色々と迷惑を掛けているんだけど、そのことに対する申し訳なさが薄いのよね。
出版が云々という以前に、まずは息子のことを考えろよ。テメエにとって大事なのは作家デビューと優子だけで、息子はどうでもいいのかよ。
ラスト直前、息子が高熱で病院に運ばれたと知らされた浩太は急いで駆け付けているが、全くリカバリーできていないわ。
っていうか、そこまで完全に無視しておきながら、最後の最後で急に「息子のために生き続けよう」みたいな形で着地されても、ちっとも腑に落ちないし。

(観賞日:2016年11月4日)

 

*ポンコツ映画愛護協会