『福沢諭吉』:1991、日本

1835年、福沢諭吉は豊前中津藩の下級武士の家に生まれた。9歳の頃、諭吉はお稲荷さんの御神体である石を、勝手に道端の石ころと入れ替えた。14歳の頃、諭吉は同年に生まれた家老の息子・奥平外記と共に剣術の修行をした。21際の頃、諭吉は外記の所有する蘭学の本を彼の就寝中に拝借し、書き写して勉強した。
1858年、25歳の諭吉は、緒方洪庵の適塾で共に学んだ後輩・岡本周吉を連れて、江戸へやって来た。彼は江戸家老となった外記から、蘭学塾の塾長になるよう依頼された。諭吉は塾生の松倉玄斎や黒沢竹之介に、オランダ語を教え始めた。
横浜に出掛けた諭吉は、一等国だと思っていたオランダが小国に過ぎないことを知らされる。英語に興味を抱いた諭吉は、外記の口添えを得て1860年に咸臨丸で渡米した。帰国後、諭吉は塾を福沢塾と改名し、幕府では禁じられている英語を教え始めた。
諭吉は中屋敷の使用を禁じられそうになるが、後見役の土岐太郎八が娘・お錦の婿になる男だと進言したことで、塾を続けていけることになった。その土岐が亡くなった後、諭吉はお錦と結婚した。諭吉は塾生と共に、英語の勉強を進めた。
塾生の篠原小十郎は、ノブという娘と親しくなった。中条貢は、渡米することが決まった。諭吉は直参旗本・古川家の養子になる話を外記から持ち掛けられた。旗本になる意志の無い諭吉の代わりに、岡本が塾を辞めて古川家の養子に入った。
やがて幕府が長州藩追討を開始し、中津藩にも出兵の命令が下った。塾生5名にも国許へ帰って出陣する命令が下るが、諭吉は激しく抗議して自分が代わりに出陣すると言い出した。中津藩の重職らは諭吉を非難するが、外記が何とか場を収めた。
1866年に『西洋事情』を出版した諭吉は、翌年には再渡米した。倒幕の動きが激しくなる中、幕府の命で中屋敷が外国人居留地として没収されることになった。諭吉は塾を芝・新銭座に移転することを決めるが、そんな中で戊辰戦争が勃発する…。

監督は澤井信一郎、脚本は笠原和夫&桂千穂、製作は佐藤正忠&高岩淡、企画は岡田裕介&佐藤雅夫&岡田裕、プロデューサーは豊島泉&成田尚哉、撮影は仙元誠三、編集は市田勇、録音は堀池美夫、照明は渡辺三雄、美術は井川徳道、音楽は久石譲、音楽プロデューサーは高桑忠男、ナレーターは田口計。
出演は柴田恭兵、榎木孝明、仲村トオル、南野陽子、若村麻由美、哀川翔、勝野洋、火野正平、野村宏伸、鈴木瑞穂、芦川よしみ、草薙幸二郎、寺杣昌紀、円谷浩、村田雄浩、富士原恭平、小林秀樹、中村久光、波方清、浜田晃、野口貴史、広瀬義宣、今井久、麻生八咫、伊庭剛、武井三二、砂川真吾、柴田善行、竜川真、中島俊一、山田良隆、馬渕英明、野土晴久、吉川英資、ギアンナ・カラパイン、エイドリアン・レスリー、木谷邦臣、藤沢徹夫、細川淳一ら。


慶應義塾を開校した啓蒙思想家・福沢諭吉の半生を綴った作品。
諭吉を柴田恭兵、外記を榎木孝明、篠原を仲村トオル、ノブを南野陽子、お錦を若村麻由美、中条を哀川翔、岡本を勝野洋、松倉を火野正平、黒沢を野村宏伸、土岐を鈴木瑞穂が演じている。

とにかく展開が慌ただしい。最初に9歳の頃の諭吉、14歳の諭吉、21歳の諭吉がパパッと示され、あっという間に塾長になるところまで話が進む。そこまでで分かることは、諭吉が勝手に本を拝借したのに気付いても許す外記の優しさぐらいだ。主人公である諭吉については、「信心が無くて勝手に御神体を入れ替える男」という程度の印象だ。
塾長になるまでの物語、つまり「貧乏な下級武士が、恵まれない環境の中で懸命に勉強してオランダ語をマスターした」という部分は、バッサリとカットされている。だから、「オランダが一等国だと思っていたのに違っていた」というシーンが生きない。「誇りが失われた」という大きなショックが、こちら側に伝わって来ないのである。

アメリカへの旅は危険なものらしいが、その道中はカットされている。渡米してからの物語も、ナレーションだけで処理される。だから映画の中では、諭吉は簡単に渡米し、簡単にアメリカでの生活を終え、何の努力も苦労も見せずに英語を学んで帰国している。
映画を見ていても、なぜ禁じられているにも関わらず英語を学ばねばならないのか、なぜ御法度を破ってまでも英語を教えることに固執せねばならないのか、それを納得させるだけの答えが無い。問答無用で、「英語は大事」ということになっている。

どうやら話を追い掛けるのに精一杯で、人間関係のドラマを膨らませる余裕なんて無かったようだ。例えば、お錦との関係は全く描かれない内に結婚が決まる。土岐は、ようやく意味のある仕事をしたかと思ったら、直後にウソみたいに倒れて死ぬ。
とりあえず人物を登場させるだけさせて、後は話を進めるために必要なときだけ利用して、それ以外は放置する。そうでもしないと、時間がどれだけあっても足りないからだ。数年間だけに描く期間を絞るとか、大きなエピソードだけ抽出するとか、そういうことをせずに、とにかく詰め込むだけ詰め込んでいるので、説明だけで手一杯なのだ。

しかし、なぜかは知らないが、中条がドルを弗に決めるとか、篠原とノブの恋愛とか、そういうところには時間を割いている。諭吉&お錦の恋愛をカットして篠原&ノブの恋愛を描く意味が分からないが、そうなっているのだから仕方が無い。
で、そんなことまで描くものだから、諭吉という人間の内面に迫ったり、考え方や生き方を深く掘り下げたりする余裕なんて残っていない。ホントは、そこが最も大事なはずなんだけどね。何かを追い求める熱い気持ちとか、夫婦愛とか、師弟の絆とか、そういうのもナッシング。いや、もちろん学問への熱い想いはあるんだろうけど、伝わって来ない。

長州藩追討で塾生が出兵を命じられた時、「無益な戦いよりも学問を学ばせることに意味がある」と諭吉が訴える場面は、持って行きたい方向は分かる。だが、見ている側からすると「ムチャを言う諭吉と器の大きい外記」という印象しか受けない。
前述したように、外記は優しい男である。諭吉を大事に思っているので、死の危険が伴なう渡米には反対する。しかし彼の熱い思いを受け入れて口添えしてやり、大切な刀を餞別にプレゼントする。諭吉が塾生の出兵に抗議した時も、上手く取り計らって塾生が行かなくて済むようにしてやる。ホント、面倒見が良くて心の広い男だ。

終盤には、家名に縛られて思うような生き方が出来なかったことへの苦悩や悔しさを吐露するという見せ場も与えられている。外記の方が、諭吉より遥かに厚みのあるキャラクターだ。というか、あまりにも諭吉が薄っぺらすぎるのだが。
諭吉の何を描きたいのか、どういう人物として諭吉を描きたいのか、それが全く分からない。大体、彼は「学問によって政治を変えて、新しい日本を作りたい」と言うが、外記が言うように、学問なんぞで政治は変わらないのよね。

終盤、篠原が「仲間のために学問を辞めて戦いに行く。友を切り捨てる学問など、ただの理屈だ」と主張し、それに諭吉が反論するシーンがある。しかし、「友を切り捨てるのか」という疑問に対する諭吉の反論は、「殺し合いなんて愚かだ」というもの。完全にピントがズレている。だから、篠原の言葉の方が圧倒的に説得力がある。
諭吉は「塾生に死ねと教えることは出来ない」と言うのだが、では自分が戦わないのは何故なのか。たぶん、彼には友達がいないのだろう。そこに苦悩や葛藤があれば、まだ救いになるのだが、それは全く無い。それにしても、目の前で戦争が勃発しているのに、「戦争より学問を選ぶ」というのは、武士としてどうなのよ。

クライマックスとしては、上野戦争と慶應義塾の最初の授業を並行して描いている。
でも、どうしても戦いの方が動きや迫力があってメインになってしまうという問題が生じており、それを解決できていない。
戦争の現場の方では、篠原とノブのドラマまで用意しちゃってるし。
そんで肝心の諭吉は、ただ淡々と教科書を読むだけだし。

 

*ポンコツ映画愛護協会